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対価 (完)
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瞼の裏に強い光を感じ、起き上がった。
葛西はアパートのベッドの上にいた。
クロとユイトはいない。
「夢?」
呟き、額に手を当てる。
掌はひやりと冷たかった。
午前六時半。
やけに体が軽い。
疲れがどこかへ行ったようだった。
テレビをつけ、ニュースを読むアナウンサーの声を背に、トイレへ向かった。
内容はわからないが、アナウンサーの女は重々しくニュースを伝え続けている。
トイレから出た葛西はテレビに映される古びたアパートを、他人事のようにとらえた。
この建物で何かがあった。
最近は暗いニュースが多い。
ニュースは暗いものだと定義づけられそうなくらい。
顔を洗いに行こうとし、アナウンサーが口にした猫という単語に呼吸を止めた。
「容疑者は公園で毒の入った餌を与えていたとのことです」
振り返る。
画面では見慣れた公園の映像が流されていた。
「クロ……」
その響きを聴き入れた瞬間、洋風な喫茶店の透明なドアや動かないビー玉、神だと名乗ったユイトやあどけなく笑うクロが脳を駆け抜けた。
今日も出勤しなくてはいけない。
わかっている。
面倒事を背負い込みたくないなら、せめて上司に休暇の電話をしろ。
わかっている。
葛西は上着を羽織り、鍵と財布とスマホを握りしめてスニーカーを履き、部屋を飛び出した。
冷気が肌を刺す。
息が切れる。
それでも、葛西は全力で走った。
こんなに走ったのは義務教育時代に強制された徒競走以来だ。
だが、あの時とは違う。
今、葛西は誰からも走れと命令されていない。
足を前へと繰り出させるのは、葛西の意思だ。
公園には数台の報道陣と業者がいた。
業者の男は黒いゴミ袋を持っており、その袋が膨れていることに葛西は震撼した。
「すみません……。すみません!」
乱れた呼吸に耐えきれず、咳き込んだ。
男は葛西に気づき、立ち止まった。
「クロが。……猫が」
「飼い主さんですか?」
飼い主。
葛西はその言葉に抵抗を感じた。
飼い主じゃない。
一緒に料理を食べ、話をした。
「友達です」
男は頬を引きつらせたが、どんな猫なのかと尋ねてきた。
「黒猫です。オッドアイの」
「ああ……。どうぞ」
男が袋を開ける。
葛西は立ち眩みを覚えながら袋を覗き込んだ。
白猫。
灰色の猫。
茶色の猫。
「いない……?」
「そんなはずは」
男が袋を漁る。
「どうしてだ? 消えてる」
男が静止する。
「本当に黒猫はいたんですか? 見間違えたんじゃないですか?」
男は何も言わない。
同じ格好で固まっている。
報道陣も同様にピクリとも動かない。
鳩は羽を広げたまま、噴水は水を放出した状態でとまっている。
音もなく喉元に鋭い銀色を当てられ、葛西は肝を冷やした。
弧を描いた形状。
鎌だ。
「クロ君ならいませんよ」
背後で、例の喫茶店の店員がフッと笑う。
「汗だくになって走るような人だとは思いませんでした」
「クロは?」
「死にましたよ。昨日、あなたが僕の喫茶店を去るのと同時に」
「嘘です。死体がない。クロは生きている」
「……確かに、僕が見つけたとき、クロ君は瀕死でしたが息はありました。もしかすると、あなたのような親切な人が病院へ運び、生き延びていたかもしれません。でも、僕も命を刈るのが仕事なので、判断をクロ君に委ねたんです。生きる可能性を残すか、それとも、僕と取引をするか。彼は迷わず僕と取引をしました。そして、あなたが喫茶店へ来た。彼は思いを遂げたんです」
たった数時間だったかもしれない。
だけど、クロは葛西を真っ向から慕ってくれた。
「予約させてください」
涙が頬を流れ落ちていく。
「クロと話がしたい」
「僕の喫茶店の通貨は紙でも金属でもないですよ」
鎌が首を裂き、うっすらと血が滲んだ。
「主に命です」
「待ってください。俺は生きています。昨日の代金はどうなったんですか?」
「主に命と言ったでしょう? それ以外でいただくこともあります。ちなみに、一度で寿命のすべてを奪うわけではありません。昨日のあなたのお代、あなたが何も失うことのないようにと、クロ君から頼まれていましたので、全額、クロ君からいただきました。結果、元々死にかけていたうえ、喫茶店での対価も支払い、彼の命を絶やすことになりました」
「せめて、喫茶店の代金の折半できませんか?」
鎌が僅かに下がる。
「俺の分は俺が払います! だから、クロを死なせないでください!」
「人は」
鎌が空間に吸い込まれる。
振り返ったそこに、黒いローブ姿のユイトがいた。
「面白いですね」
ユイトが右腕をあげる。
太陽が出ているはずなのに、辺りが闇に包まれる。
ユイトがいなくなり、代わりに透明なドアが現れる。
喫茶店に入り、ビー玉の細工を横目にカウンターへと向かう。
クロは葛西を見て驚き、涙を浮かべた。
葛西はアパートのベッドの上にいた。
クロとユイトはいない。
「夢?」
呟き、額に手を当てる。
掌はひやりと冷たかった。
午前六時半。
やけに体が軽い。
疲れがどこかへ行ったようだった。
テレビをつけ、ニュースを読むアナウンサーの声を背に、トイレへ向かった。
内容はわからないが、アナウンサーの女は重々しくニュースを伝え続けている。
トイレから出た葛西はテレビに映される古びたアパートを、他人事のようにとらえた。
この建物で何かがあった。
最近は暗いニュースが多い。
ニュースは暗いものだと定義づけられそうなくらい。
顔を洗いに行こうとし、アナウンサーが口にした猫という単語に呼吸を止めた。
「容疑者は公園で毒の入った餌を与えていたとのことです」
振り返る。
画面では見慣れた公園の映像が流されていた。
「クロ……」
その響きを聴き入れた瞬間、洋風な喫茶店の透明なドアや動かないビー玉、神だと名乗ったユイトやあどけなく笑うクロが脳を駆け抜けた。
今日も出勤しなくてはいけない。
わかっている。
面倒事を背負い込みたくないなら、せめて上司に休暇の電話をしろ。
わかっている。
葛西は上着を羽織り、鍵と財布とスマホを握りしめてスニーカーを履き、部屋を飛び出した。
冷気が肌を刺す。
息が切れる。
それでも、葛西は全力で走った。
こんなに走ったのは義務教育時代に強制された徒競走以来だ。
だが、あの時とは違う。
今、葛西は誰からも走れと命令されていない。
足を前へと繰り出させるのは、葛西の意思だ。
公園には数台の報道陣と業者がいた。
業者の男は黒いゴミ袋を持っており、その袋が膨れていることに葛西は震撼した。
「すみません……。すみません!」
乱れた呼吸に耐えきれず、咳き込んだ。
男は葛西に気づき、立ち止まった。
「クロが。……猫が」
「飼い主さんですか?」
飼い主。
葛西はその言葉に抵抗を感じた。
飼い主じゃない。
一緒に料理を食べ、話をした。
「友達です」
男は頬を引きつらせたが、どんな猫なのかと尋ねてきた。
「黒猫です。オッドアイの」
「ああ……。どうぞ」
男が袋を開ける。
葛西は立ち眩みを覚えながら袋を覗き込んだ。
白猫。
灰色の猫。
茶色の猫。
「いない……?」
「そんなはずは」
男が袋を漁る。
「どうしてだ? 消えてる」
男が静止する。
「本当に黒猫はいたんですか? 見間違えたんじゃないですか?」
男は何も言わない。
同じ格好で固まっている。
報道陣も同様にピクリとも動かない。
鳩は羽を広げたまま、噴水は水を放出した状態でとまっている。
音もなく喉元に鋭い銀色を当てられ、葛西は肝を冷やした。
弧を描いた形状。
鎌だ。
「クロ君ならいませんよ」
背後で、例の喫茶店の店員がフッと笑う。
「汗だくになって走るような人だとは思いませんでした」
「クロは?」
「死にましたよ。昨日、あなたが僕の喫茶店を去るのと同時に」
「嘘です。死体がない。クロは生きている」
「……確かに、僕が見つけたとき、クロ君は瀕死でしたが息はありました。もしかすると、あなたのような親切な人が病院へ運び、生き延びていたかもしれません。でも、僕も命を刈るのが仕事なので、判断をクロ君に委ねたんです。生きる可能性を残すか、それとも、僕と取引をするか。彼は迷わず僕と取引をしました。そして、あなたが喫茶店へ来た。彼は思いを遂げたんです」
たった数時間だったかもしれない。
だけど、クロは葛西を真っ向から慕ってくれた。
「予約させてください」
涙が頬を流れ落ちていく。
「クロと話がしたい」
「僕の喫茶店の通貨は紙でも金属でもないですよ」
鎌が首を裂き、うっすらと血が滲んだ。
「主に命です」
「待ってください。俺は生きています。昨日の代金はどうなったんですか?」
「主に命と言ったでしょう? それ以外でいただくこともあります。ちなみに、一度で寿命のすべてを奪うわけではありません。昨日のあなたのお代、あなたが何も失うことのないようにと、クロ君から頼まれていましたので、全額、クロ君からいただきました。結果、元々死にかけていたうえ、喫茶店での対価も支払い、彼の命を絶やすことになりました」
「せめて、喫茶店の代金の折半できませんか?」
鎌が僅かに下がる。
「俺の分は俺が払います! だから、クロを死なせないでください!」
「人は」
鎌が空間に吸い込まれる。
振り返ったそこに、黒いローブ姿のユイトがいた。
「面白いですね」
ユイトが右腕をあげる。
太陽が出ているはずなのに、辺りが闇に包まれる。
ユイトがいなくなり、代わりに透明なドアが現れる。
喫茶店に入り、ビー玉の細工を横目にカウンターへと向かう。
クロは葛西を見て驚き、涙を浮かべた。
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