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迷子の仔犬の育て方
二
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「ええ! 差し押さえ!?」
弥生は父である大石達郎の口から出たその言葉に絶句する。
この不景気に、大石金型製作所のような町工場は、確かに厳しい状況にあることは弥生も判っている。けれど、製品の質の良さを買われて、一定の仕事は入っていた筈だ。
「何でそんなことになったの?」
弥生がグッと詰め寄ると、達郎は大きな身体を消し去ろうとするかのように縮こまった。
大石家は、父達郎と一人娘である高校一年生の弥生、小学校六年生の弟睦月と四歳の弟葉月の四人暮らしだ。
母は一番下の葉月を産む時に亡くなっていて、それ以来一家の主婦として弥生が不動の地位を占めている。
身長一四九・七センチで容姿も大抵二歳は若く見られる弥生は、普段は温厚かつほのぼのしている。けれど、上の弟の睦月に言わせると、一たび彼女が怒るとその迫力はゴジラ以上なのだそうだ。
その滅多に出現することのない怒りの弥生が、目の前で土下座している父を仁王立ちで見下ろす。
「それが、だな……ほら、伊藤さんのところ、知っているだろう?」
「伊藤さん?」
「あ、ああ……」
頷く父に、弥生は眉をひそめる。
父と彼女が共通で知っている伊藤さんと言えば、三軒向こうでゴム製品の下請けをしている、あの伊藤さんだろうか。そこそこ付き合いはあるけれど、特別に親しいわけではない。
「そういえば、最近シャッター閉まったまんまだね」
首を傾げる弥生の前で、達郎が続ける。
「伊藤さんのところがどうも思わしくなくってな、どうしても支払いに足りないから、金を借りるってことになったんだ……」
どうも達郎の歯切れが悪い。
弥生は何だか嫌な予感がしてきた。その先を聞きたくはないけれど、聞かなくてはならない。
「それで……?」
「それで、だな……金を借りるに当たって、連帯保証人になって欲しい、と……。ほら、苦しい時はお互い様、だろう……?」
「もしかして――」
「すまん!」
達郎が畳をえぐる勢いで額を擦り付ける。
「……くら……?」
「え?」
「いくら、なの?」
「う……サインをした時は、五百万とあった」
サインをした時は、ということは、今は違うということだ。
「で、今は、いくらなの?」
「……」
「お父さん!」
達郎は口にするのが恐ろしかったのか、額を畳に押し付けたまま、右手を上げる。そして、人差し指が伸ばされた。
「百万……?」
達郎の額が畳をこする。横の動きで。
「まさか……」
「実は、そのまさか、なんだ……」
「いっせんまん……?」
顔を上げた父親が、コクリと頷いた。
「ウソ……」
弥生の膝から力が抜け、その場にへなへなと崩れ落ちる。
父の人が良いところは長所だと思っている。困っている人を助けるのは、当然のことだ。
けれど。
「ここのところ伊藤さん家のシャッター閉まってるのって――?」
「夜逃げだ」
くらりと、本気で眩暈がした。
大石家は決して貧乏ではない。達郎の堅実な働きと、弥生の巧みな節約で、達郎が急に病気になったとか、ちょっと機械の一台が調子悪いとか、それくらいの事態になら、対処できるだけの蓄えはある。
それでも、一千万という大金をポンと払えるほどの余裕はなかった。
「弥生……?」
両手を畳につき、がっくりと頭を下げた愛娘に、達郎は恐る恐る声を掛ける。
「わたし……働くわ」
「え?」
「学校辞めて働くわ! 大丈夫、何よ、たかが一千万ぐらい。そんなの目じゃないわ!」
ガバリと顔を上げて、両拳を握り締めて弥生が宣言する。けれど、意気軒昂な娘を、達郎は申し訳なさそうな目で見上げた。
「だが、な……弥生。俺も考えたくはない――考えたくはないんだが、五百万が三ヶ月で一千万になるようなところが、そんな悠長に待ってくれる筈が……」
「……何ですって……?」
「だから、五百万が三ヶ月で一千万に――」
「そんなの、無茶苦茶怪しいじゃない! 絶対、真っ当なところじゃない――」
思わず弥生が叫んだタイミングを見計らったかのように、ガラガラと工場の引き戸が開けられる音が響いた。そして、その後にだみ声が続く。
「大石さあん、大石さん。お金いただきに参りましたよお」
謙譲語だが微かに巻き舌なその声は、どう頑張っても真面目な銀行員のものとは思えなかった。
やがて男が二人、工場の奥にある一家の居宅へと姿を現す――彼らは、見た目も予想を裏切らなかった。
チビガリと大男――一応は、二人ともスーツではある。けれど、めくられた袖から覗く肌には、なにやら素敵な模様が見え隠れしているし、髪型も、チビの方は昔懐かしいパンチパーマ、大男の方はスキンヘッドだ。アクセサリの多さも、銀行員として有り得ない。
「いらっしゃいましたねぇ。大石さん、借りたものは返しましょうよ」
ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら、やせて小柄な方が上がり框に腰を下ろす。もう一方の大柄で、見るからに『脅すためにいる』という風体の男は、土間に腕を組んで立っていた。
「すみません、できるだけ早く……」
「おやおや、先に延ばせば延ばすほど、増えてしまいますよぉ?」
「でも、借金のことを聞いたのは、今日なので――」
「この工場を売っ払ったらどうですか?」
「え、ええ」
人は良いが押しに弱い達郎では、下手をすると、今この場で権利譲渡の書類にサインでもさせられそうだ。
奥で聞いていた弥生は居ても立ってもいられず、つい顔を出してしまう。
「ちょっと、すみません。この借金なんですけど、利子が高すぎると思うんです!」
鼻息は荒くとも、見た目が中学生の弥生には迫力の欠片もない。
小男は弥生に目を向けるとニヤニヤ笑いを深くした。
「おやぁ? こんないい子がいるんじゃないですか。ウチが持っている店なら、年齢無制限で働けますよ。最近は色々な趣味の客がいますからねぇ。大丈夫、中学生でもよく稼げますって」
中学生という単語にピクリと反応しそうになるが、そこは堪えた。
「法律で金利の上限って、決められているんでしょう? 三ヶ月で倍になるなんて、計算がおかしいわ」
「あぁん? お嬢ちゃん、ウチのやり方に文句があるってぇの?」
「文句じゃなくて、正しくないって言っているんです!」
鼻面がくっつきそうなほどに顔を寄せられて、弥生は顎を引く。けれど、足は一歩も引かなかった。いくら男が小さくても、同じ場所に立つと、頭半分ほど弥生の背の方が低く、男が被さるようにねめつけてくる。
しかし、猫の睨み合いなら見下ろすほうが勝ちだが、気合でなら弥生は負けていない。
む、と息を詰める二人。
「弥生、お前は奥に――」
「お父さんは黙ってて」
ピシャリと達郎にそう言い放った時も、目は一ミリたりとも逸らさない。
皆がそのにらみ合いに集中していたから、そこにもう一人、人物が増えていたことに誰も気付いていなかった。
突然、渋い男性の声が割って入る。
「ちょっと、失礼」
短いけれど穏やかで丁寧な一声に、一同がほぼ同時に振り返る。
そこに立っているのは、年のころ三十歳ほどで、一分の隙もなくスーツを着こなした男性だった。
注目を集めた男性は、人差指で銀縁眼鏡を押し上げた。その奥で、切れ長の目が柔和に微笑みの形を作っている。
「ニコニコ金融の方もご同席とは好都合な。大石さんが肩代わりした借金に関しては、正しい利息を計算し直した上で、新藤商事がお支払いします。では、早々にお引き取りを」
笑顔での台詞に、ポカンとしていた小男は、ハッと我に返る。
「あぁん。急に出てきて何言ってやがんだぁ、オラ!」
品の欠片もない恫喝にも、男性は全く怯む様子がなかった。肩を軽くすくめていなす。
「申し遅れましたが、私、こういう者でございます」
彼は自然な動作で名刺を取り出すと、小男と達郎に差し出した。
そこには「新藤商事株式会社 総務部 橘 勇」と印字されている。
「ご意見がおありの様子ですね。それでは、後ほどうちの弁護団を行かせますので、そちらと話を詰めてください。私としましては、貴方がたの働き口がなくなるよりは良いかと思いましたが……」
そう言うと、橘という男は笑みを作る。優しげな表情だというのに、小男は一歩退いた。
彼は、そこに暗に込められた「文句があるなら潰すぞ」という脅しに気付かないほど愚かではなかったらしい。
「そ、れは、ちょっと……上のモンと話してからでないと……。おい、行くぞ」
急に勢いも言葉のキレもなくなった小男は、巨漢に顎をしゃくるとそそくさと出て行った。結局一言も発しなかった相方も、巨体に似合わずあたふたと小男の後を追っていく。
彼らの姿を見送って、残された三人は再び顔を合わせた。
「それで、あんた、いったい……」
怒涛の展開についていけない達郎が、口ごもる。
それは当然だろう。突然一千万円の借金を押し付けられたかと思えば、ろくに心構えをする間もなくやくざにしか見えない男たちに脅され、挙句に遥か雲の上の存在がその借金を肩代わりしてくれると申し出たのだ。
目を白黒させている達郎に、橘と名乗った男はニッコリと笑顔になる。
「驚かれていらっしゃいますね。いえ、大きな企業を支えるのは、何といっても、その土台となる貴方がたですから。私たちも普段から隅々まで目を配っておりまして、何か問題があれば、場合によってはこのように本社の方で対応させていただいているのです。大石さんの場合はご自身の借り入れではなかったことと、何より、こちらが倒産してしまうと他の部品製作所を探すほうが余程手間と時間とコストがかかると考えられたので、このような次第になったわけです」
立て板に水を流すような橘の滑らかな語りに、元々口の達者な方ではない達郎は、全く口を挟めない。
既にキャパシティを越えていた達郎は、考えることを放棄した。
「そりゃ、大変なことですな。俺らとしては助かります」
橘の台詞をそのまま受け入れ、深々と頭を下げる。
「先の先まで気を配るのは当然のことですから。では、後のことはこちらで処理をしますので、大石さんは普段と同じように操業してください」
そう言うと、橘は一礼して去って行く。
それまでポカンと成り行きを見守っていた弥生は、ハタと気付いて彼の後を追った。いくらなんでも、話がうますぎる。
「あの、ちょっと、橘、さん」
黒塗りのベンツに乗り込もうとしている彼を、後ろから呼び止める。振り返った橘は、「何か?」と問うように首をかしげた。
「えぇっと……、今回は、ありがとうございます。でも、あれって本当のことなんですか? 新藤商事みたいな大企業がこんな小さな町工場を気にかけているなんて……」
「信じられない、と?」
口ごもった弥生の後を、橘が笑顔で引き継ぐ。面白がるような響きを含んだ彼の言葉に、弥生はためらいながらも頷いた。
「まあ、普通はそうでしょうね。今時、名刺なんてパソコンで簡単に作れますしねぇ。いいでしょう、よろしければ私の主人のもとにお連れします。この車に乗るのが不安でしたら、新藤商事の本社でお待ちしておりますし」
弥生は、橘の『主人』という言い方に違和感を覚える――普通、こういう場合には『上司』とか言うのではないのだろうか。
迷う弥生を、橘は答えを急がせることなく、無言で待っていた。
――名刺をもらったことは、あまり当てにならない。では、車はどうだろう?
使った車のことがわかれば、その持ち主を見つけることも可能なはずだ。
「ちょっと待っててもらえますか」
弥生はそう言い残すと、踵を返して居宅に戻る。そして電話脇に置いてあるメモ帳を取ると、橘のもとに引き返した。
「ああ、ナンバープレートですか。なるほど」
車の前方に回ってなにやら書き付けている弥生に、橘が面白そうに呟く。
もしも家に帰れないような事態になった場合に、達郎が彼女を探すためのツールの一つとして、そしてまた、いつかは身元が知れるぞという橘への牽制として、有用だろう。おっとりとした中学生のような外観によらず、結構しっかりしているらしい、と彼は評価する。
橘に観察されているとは知らず、弥生はナンバープレートを丁寧に書き写した。そこに『七時までに帰らなかったら警察に連絡して』と付け加え、電話の脇に置く。彼女が帰らなければ友達のところに電話をかけるだろうから、一番適切なタイミングで見られる筈だ。今は午後の二時――五時間もあったら必要なことはわかるだろう。
そうしておいて、父には「ちょっと出かけてくる」とだけ伝え、携帶電話と財布を持って、橘のところに戻る。
大きな黒塗りの車に一瞬怯んだけれど、弥生は深呼吸を一つして後部座席に乗り込んだ。続いて、橘が人一人分のスペースをあけて隣に座る。
「そんなに緊張なさらなくても、捕って食いやしません」
広い後部座席の隅っこで見るからに身体を強張らせている弥生に、橘は苦笑しながらそう言った。
車が走り出してしばらくしてから、橘が口火を切る。
「実は、お父様にお話したことは、事実とは若干異なるんです」
その言葉にさっと弥生が蒼褪めると、彼は宥めるように微笑みかけた。
「私が新藤商事の者だということは偽りではありません。ただ、今回の救済措置に関しては、本社そのものの方針ではないのです」
「じゃあ、誰が?」
「私の主人、ですよ――新藤商事現総帥、新藤一智氏の孫にして唯一の後継者である、新藤一輝様です」
「総帥の、孫――?」
弥生は雲の上のことにはあまり詳しくないけれど、それでも、その『孫』はとても若いはずだということには思い至る。
彼女の戸惑いをよそに、橘はニッコリと笑顔になった。
とても誇らしげに。
「はい。一輝様が個人的に、末端の様子に気を配っているのです。あの方は現在十二歳なのですが、すでに総帥の後継者として経営の実務に携わっておられていまして――ええ、あくまでも、後学のためですが」
「十二歳で、働いているの……?」
「あくまでも、一輝様の勉強のために、ですよ。一輝様はすでに大学まで卒業されているので、後は実地で学んでいく方がよいと、一智様が命じられたのです。二年前にお父上が亡くなり、新藤商事の跡継ぎとして、一刻も早く実務能力を身につけなければならなくなりましたから」
十二歳と言えば、本来なら上の弟の睦月と同学年だろう。睦月はサッカーに夢中で、予習復習はおろか、宿題さえ、弥生が口を酸っぱくして尻を叩きまくっても終わらせないくらいだ。それはそれで困りものだが、十二歳で学校にも行かずに働かされているのもどうかと思う。子どもは『よく遊び、よく学べ』が一番だというのが、弥生のポリシーだった。
眉間に皺を刻んでいる彼女を横目で見ながら、橘が更に続ける。
「一輝様のお母様は、一輝様をお産みになった時に亡くなられました。三歳までは乳母がお育てしたのですが、それ以降は専門の家庭教師による英才教育を受けてこられまして、同年代の方と接したことが殆どありません。たまにそのような機会があっても、まるで子どもの世話をする大人のようで……」
そこで橘は深い溜息を吐く。心底から一輝のことを思っているに違いない橘の様子に、弥生の心も痛んだ。弟と似た境遇の少年を、何とかしてあげたい気持ちになる。
「少し年上の子どもを紹介したほうがいいんじゃないですか?」
何気ない自分の言葉に、橘の目がキラリと光ったことに、弥生は気づいていなかった。
「年上……でも、私には残念ながら伝手がなく……」
悩む橘の様子に、弥生の口から、ポロリと言葉が零れてしまう。
「わたし――わたしが、お相手してみましょうか?」
この時、すでに、弥生は何故この車に乗ったのかということを頭の奥へと追いやっていた。話を聞いただけで一輝への同情心でいっぱいになり、橘のことを怪しんでいたこともすっかり忘れ去っている。
結局のところ、あの親にしてこの子あり。
本来、弥生は人が好く、同級生からもよく頼られる性質なのだ。
そもそも、早いうちに母親を亡くし、弟二人と、下手をすると彼らよりも手のかかる父親の面倒をみてきた彼女だ。そんな境遇の少年の話を聞かされたら、放ってはおけない。
世話好きの血が騒ぐ。
「わたし、弟たちの面倒をみてきましたし、子どもの相手なら慣れてますから……」
「それは、お願いできるなら、是非。一輝様は人見知りをする方なので、まずは恩返しに身の回りの世話などを、ということにしたらいいと思います」
橘が体ごと弥生に向き直り、真摯な眼差しを注ぐ。彼女はそれを受け、力強く頷いた。
「力になれるかどうか判りませんけど、がんばります!」
――事の真偽を確かめに行くという話が、いつの間にか完全にすりかえられてしまっていたことに、弥生は全く気づいていなかった。
弥生は父である大石達郎の口から出たその言葉に絶句する。
この不景気に、大石金型製作所のような町工場は、確かに厳しい状況にあることは弥生も判っている。けれど、製品の質の良さを買われて、一定の仕事は入っていた筈だ。
「何でそんなことになったの?」
弥生がグッと詰め寄ると、達郎は大きな身体を消し去ろうとするかのように縮こまった。
大石家は、父達郎と一人娘である高校一年生の弥生、小学校六年生の弟睦月と四歳の弟葉月の四人暮らしだ。
母は一番下の葉月を産む時に亡くなっていて、それ以来一家の主婦として弥生が不動の地位を占めている。
身長一四九・七センチで容姿も大抵二歳は若く見られる弥生は、普段は温厚かつほのぼのしている。けれど、上の弟の睦月に言わせると、一たび彼女が怒るとその迫力はゴジラ以上なのだそうだ。
その滅多に出現することのない怒りの弥生が、目の前で土下座している父を仁王立ちで見下ろす。
「それが、だな……ほら、伊藤さんのところ、知っているだろう?」
「伊藤さん?」
「あ、ああ……」
頷く父に、弥生は眉をひそめる。
父と彼女が共通で知っている伊藤さんと言えば、三軒向こうでゴム製品の下請けをしている、あの伊藤さんだろうか。そこそこ付き合いはあるけれど、特別に親しいわけではない。
「そういえば、最近シャッター閉まったまんまだね」
首を傾げる弥生の前で、達郎が続ける。
「伊藤さんのところがどうも思わしくなくってな、どうしても支払いに足りないから、金を借りるってことになったんだ……」
どうも達郎の歯切れが悪い。
弥生は何だか嫌な予感がしてきた。その先を聞きたくはないけれど、聞かなくてはならない。
「それで……?」
「それで、だな……金を借りるに当たって、連帯保証人になって欲しい、と……。ほら、苦しい時はお互い様、だろう……?」
「もしかして――」
「すまん!」
達郎が畳をえぐる勢いで額を擦り付ける。
「……くら……?」
「え?」
「いくら、なの?」
「う……サインをした時は、五百万とあった」
サインをした時は、ということは、今は違うということだ。
「で、今は、いくらなの?」
「……」
「お父さん!」
達郎は口にするのが恐ろしかったのか、額を畳に押し付けたまま、右手を上げる。そして、人差し指が伸ばされた。
「百万……?」
達郎の額が畳をこする。横の動きで。
「まさか……」
「実は、そのまさか、なんだ……」
「いっせんまん……?」
顔を上げた父親が、コクリと頷いた。
「ウソ……」
弥生の膝から力が抜け、その場にへなへなと崩れ落ちる。
父の人が良いところは長所だと思っている。困っている人を助けるのは、当然のことだ。
けれど。
「ここのところ伊藤さん家のシャッター閉まってるのって――?」
「夜逃げだ」
くらりと、本気で眩暈がした。
大石家は決して貧乏ではない。達郎の堅実な働きと、弥生の巧みな節約で、達郎が急に病気になったとか、ちょっと機械の一台が調子悪いとか、それくらいの事態になら、対処できるだけの蓄えはある。
それでも、一千万という大金をポンと払えるほどの余裕はなかった。
「弥生……?」
両手を畳につき、がっくりと頭を下げた愛娘に、達郎は恐る恐る声を掛ける。
「わたし……働くわ」
「え?」
「学校辞めて働くわ! 大丈夫、何よ、たかが一千万ぐらい。そんなの目じゃないわ!」
ガバリと顔を上げて、両拳を握り締めて弥生が宣言する。けれど、意気軒昂な娘を、達郎は申し訳なさそうな目で見上げた。
「だが、な……弥生。俺も考えたくはない――考えたくはないんだが、五百万が三ヶ月で一千万になるようなところが、そんな悠長に待ってくれる筈が……」
「……何ですって……?」
「だから、五百万が三ヶ月で一千万に――」
「そんなの、無茶苦茶怪しいじゃない! 絶対、真っ当なところじゃない――」
思わず弥生が叫んだタイミングを見計らったかのように、ガラガラと工場の引き戸が開けられる音が響いた。そして、その後にだみ声が続く。
「大石さあん、大石さん。お金いただきに参りましたよお」
謙譲語だが微かに巻き舌なその声は、どう頑張っても真面目な銀行員のものとは思えなかった。
やがて男が二人、工場の奥にある一家の居宅へと姿を現す――彼らは、見た目も予想を裏切らなかった。
チビガリと大男――一応は、二人ともスーツではある。けれど、めくられた袖から覗く肌には、なにやら素敵な模様が見え隠れしているし、髪型も、チビの方は昔懐かしいパンチパーマ、大男の方はスキンヘッドだ。アクセサリの多さも、銀行員として有り得ない。
「いらっしゃいましたねぇ。大石さん、借りたものは返しましょうよ」
ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら、やせて小柄な方が上がり框に腰を下ろす。もう一方の大柄で、見るからに『脅すためにいる』という風体の男は、土間に腕を組んで立っていた。
「すみません、できるだけ早く……」
「おやおや、先に延ばせば延ばすほど、増えてしまいますよぉ?」
「でも、借金のことを聞いたのは、今日なので――」
「この工場を売っ払ったらどうですか?」
「え、ええ」
人は良いが押しに弱い達郎では、下手をすると、今この場で権利譲渡の書類にサインでもさせられそうだ。
奥で聞いていた弥生は居ても立ってもいられず、つい顔を出してしまう。
「ちょっと、すみません。この借金なんですけど、利子が高すぎると思うんです!」
鼻息は荒くとも、見た目が中学生の弥生には迫力の欠片もない。
小男は弥生に目を向けるとニヤニヤ笑いを深くした。
「おやぁ? こんないい子がいるんじゃないですか。ウチが持っている店なら、年齢無制限で働けますよ。最近は色々な趣味の客がいますからねぇ。大丈夫、中学生でもよく稼げますって」
中学生という単語にピクリと反応しそうになるが、そこは堪えた。
「法律で金利の上限って、決められているんでしょう? 三ヶ月で倍になるなんて、計算がおかしいわ」
「あぁん? お嬢ちゃん、ウチのやり方に文句があるってぇの?」
「文句じゃなくて、正しくないって言っているんです!」
鼻面がくっつきそうなほどに顔を寄せられて、弥生は顎を引く。けれど、足は一歩も引かなかった。いくら男が小さくても、同じ場所に立つと、頭半分ほど弥生の背の方が低く、男が被さるようにねめつけてくる。
しかし、猫の睨み合いなら見下ろすほうが勝ちだが、気合でなら弥生は負けていない。
む、と息を詰める二人。
「弥生、お前は奥に――」
「お父さんは黙ってて」
ピシャリと達郎にそう言い放った時も、目は一ミリたりとも逸らさない。
皆がそのにらみ合いに集中していたから、そこにもう一人、人物が増えていたことに誰も気付いていなかった。
突然、渋い男性の声が割って入る。
「ちょっと、失礼」
短いけれど穏やかで丁寧な一声に、一同がほぼ同時に振り返る。
そこに立っているのは、年のころ三十歳ほどで、一分の隙もなくスーツを着こなした男性だった。
注目を集めた男性は、人差指で銀縁眼鏡を押し上げた。その奥で、切れ長の目が柔和に微笑みの形を作っている。
「ニコニコ金融の方もご同席とは好都合な。大石さんが肩代わりした借金に関しては、正しい利息を計算し直した上で、新藤商事がお支払いします。では、早々にお引き取りを」
笑顔での台詞に、ポカンとしていた小男は、ハッと我に返る。
「あぁん。急に出てきて何言ってやがんだぁ、オラ!」
品の欠片もない恫喝にも、男性は全く怯む様子がなかった。肩を軽くすくめていなす。
「申し遅れましたが、私、こういう者でございます」
彼は自然な動作で名刺を取り出すと、小男と達郎に差し出した。
そこには「新藤商事株式会社 総務部 橘 勇」と印字されている。
「ご意見がおありの様子ですね。それでは、後ほどうちの弁護団を行かせますので、そちらと話を詰めてください。私としましては、貴方がたの働き口がなくなるよりは良いかと思いましたが……」
そう言うと、橘という男は笑みを作る。優しげな表情だというのに、小男は一歩退いた。
彼は、そこに暗に込められた「文句があるなら潰すぞ」という脅しに気付かないほど愚かではなかったらしい。
「そ、れは、ちょっと……上のモンと話してからでないと……。おい、行くぞ」
急に勢いも言葉のキレもなくなった小男は、巨漢に顎をしゃくるとそそくさと出て行った。結局一言も発しなかった相方も、巨体に似合わずあたふたと小男の後を追っていく。
彼らの姿を見送って、残された三人は再び顔を合わせた。
「それで、あんた、いったい……」
怒涛の展開についていけない達郎が、口ごもる。
それは当然だろう。突然一千万円の借金を押し付けられたかと思えば、ろくに心構えをする間もなくやくざにしか見えない男たちに脅され、挙句に遥か雲の上の存在がその借金を肩代わりしてくれると申し出たのだ。
目を白黒させている達郎に、橘と名乗った男はニッコリと笑顔になる。
「驚かれていらっしゃいますね。いえ、大きな企業を支えるのは、何といっても、その土台となる貴方がたですから。私たちも普段から隅々まで目を配っておりまして、何か問題があれば、場合によってはこのように本社の方で対応させていただいているのです。大石さんの場合はご自身の借り入れではなかったことと、何より、こちらが倒産してしまうと他の部品製作所を探すほうが余程手間と時間とコストがかかると考えられたので、このような次第になったわけです」
立て板に水を流すような橘の滑らかな語りに、元々口の達者な方ではない達郎は、全く口を挟めない。
既にキャパシティを越えていた達郎は、考えることを放棄した。
「そりゃ、大変なことですな。俺らとしては助かります」
橘の台詞をそのまま受け入れ、深々と頭を下げる。
「先の先まで気を配るのは当然のことですから。では、後のことはこちらで処理をしますので、大石さんは普段と同じように操業してください」
そう言うと、橘は一礼して去って行く。
それまでポカンと成り行きを見守っていた弥生は、ハタと気付いて彼の後を追った。いくらなんでも、話がうますぎる。
「あの、ちょっと、橘、さん」
黒塗りのベンツに乗り込もうとしている彼を、後ろから呼び止める。振り返った橘は、「何か?」と問うように首をかしげた。
「えぇっと……、今回は、ありがとうございます。でも、あれって本当のことなんですか? 新藤商事みたいな大企業がこんな小さな町工場を気にかけているなんて……」
「信じられない、と?」
口ごもった弥生の後を、橘が笑顔で引き継ぐ。面白がるような響きを含んだ彼の言葉に、弥生はためらいながらも頷いた。
「まあ、普通はそうでしょうね。今時、名刺なんてパソコンで簡単に作れますしねぇ。いいでしょう、よろしければ私の主人のもとにお連れします。この車に乗るのが不安でしたら、新藤商事の本社でお待ちしておりますし」
弥生は、橘の『主人』という言い方に違和感を覚える――普通、こういう場合には『上司』とか言うのではないのだろうか。
迷う弥生を、橘は答えを急がせることなく、無言で待っていた。
――名刺をもらったことは、あまり当てにならない。では、車はどうだろう?
使った車のことがわかれば、その持ち主を見つけることも可能なはずだ。
「ちょっと待っててもらえますか」
弥生はそう言い残すと、踵を返して居宅に戻る。そして電話脇に置いてあるメモ帳を取ると、橘のもとに引き返した。
「ああ、ナンバープレートですか。なるほど」
車の前方に回ってなにやら書き付けている弥生に、橘が面白そうに呟く。
もしも家に帰れないような事態になった場合に、達郎が彼女を探すためのツールの一つとして、そしてまた、いつかは身元が知れるぞという橘への牽制として、有用だろう。おっとりとした中学生のような外観によらず、結構しっかりしているらしい、と彼は評価する。
橘に観察されているとは知らず、弥生はナンバープレートを丁寧に書き写した。そこに『七時までに帰らなかったら警察に連絡して』と付け加え、電話の脇に置く。彼女が帰らなければ友達のところに電話をかけるだろうから、一番適切なタイミングで見られる筈だ。今は午後の二時――五時間もあったら必要なことはわかるだろう。
そうしておいて、父には「ちょっと出かけてくる」とだけ伝え、携帶電話と財布を持って、橘のところに戻る。
大きな黒塗りの車に一瞬怯んだけれど、弥生は深呼吸を一つして後部座席に乗り込んだ。続いて、橘が人一人分のスペースをあけて隣に座る。
「そんなに緊張なさらなくても、捕って食いやしません」
広い後部座席の隅っこで見るからに身体を強張らせている弥生に、橘は苦笑しながらそう言った。
車が走り出してしばらくしてから、橘が口火を切る。
「実は、お父様にお話したことは、事実とは若干異なるんです」
その言葉にさっと弥生が蒼褪めると、彼は宥めるように微笑みかけた。
「私が新藤商事の者だということは偽りではありません。ただ、今回の救済措置に関しては、本社そのものの方針ではないのです」
「じゃあ、誰が?」
「私の主人、ですよ――新藤商事現総帥、新藤一智氏の孫にして唯一の後継者である、新藤一輝様です」
「総帥の、孫――?」
弥生は雲の上のことにはあまり詳しくないけれど、それでも、その『孫』はとても若いはずだということには思い至る。
彼女の戸惑いをよそに、橘はニッコリと笑顔になった。
とても誇らしげに。
「はい。一輝様が個人的に、末端の様子に気を配っているのです。あの方は現在十二歳なのですが、すでに総帥の後継者として経営の実務に携わっておられていまして――ええ、あくまでも、後学のためですが」
「十二歳で、働いているの……?」
「あくまでも、一輝様の勉強のために、ですよ。一輝様はすでに大学まで卒業されているので、後は実地で学んでいく方がよいと、一智様が命じられたのです。二年前にお父上が亡くなり、新藤商事の跡継ぎとして、一刻も早く実務能力を身につけなければならなくなりましたから」
十二歳と言えば、本来なら上の弟の睦月と同学年だろう。睦月はサッカーに夢中で、予習復習はおろか、宿題さえ、弥生が口を酸っぱくして尻を叩きまくっても終わらせないくらいだ。それはそれで困りものだが、十二歳で学校にも行かずに働かされているのもどうかと思う。子どもは『よく遊び、よく学べ』が一番だというのが、弥生のポリシーだった。
眉間に皺を刻んでいる彼女を横目で見ながら、橘が更に続ける。
「一輝様のお母様は、一輝様をお産みになった時に亡くなられました。三歳までは乳母がお育てしたのですが、それ以降は専門の家庭教師による英才教育を受けてこられまして、同年代の方と接したことが殆どありません。たまにそのような機会があっても、まるで子どもの世話をする大人のようで……」
そこで橘は深い溜息を吐く。心底から一輝のことを思っているに違いない橘の様子に、弥生の心も痛んだ。弟と似た境遇の少年を、何とかしてあげたい気持ちになる。
「少し年上の子どもを紹介したほうがいいんじゃないですか?」
何気ない自分の言葉に、橘の目がキラリと光ったことに、弥生は気づいていなかった。
「年上……でも、私には残念ながら伝手がなく……」
悩む橘の様子に、弥生の口から、ポロリと言葉が零れてしまう。
「わたし――わたしが、お相手してみましょうか?」
この時、すでに、弥生は何故この車に乗ったのかということを頭の奥へと追いやっていた。話を聞いただけで一輝への同情心でいっぱいになり、橘のことを怪しんでいたこともすっかり忘れ去っている。
結局のところ、あの親にしてこの子あり。
本来、弥生は人が好く、同級生からもよく頼られる性質なのだ。
そもそも、早いうちに母親を亡くし、弟二人と、下手をすると彼らよりも手のかかる父親の面倒をみてきた彼女だ。そんな境遇の少年の話を聞かされたら、放ってはおけない。
世話好きの血が騒ぐ。
「わたし、弟たちの面倒をみてきましたし、子どもの相手なら慣れてますから……」
「それは、お願いできるなら、是非。一輝様は人見知りをする方なので、まずは恩返しに身の回りの世話などを、ということにしたらいいと思います」
橘が体ごと弥生に向き直り、真摯な眼差しを注ぐ。彼女はそれを受け、力強く頷いた。
「力になれるかどうか判りませんけど、がんばります!」
――事の真偽を確かめに行くという話が、いつの間にか完全にすりかえられてしまっていたことに、弥生は全く気づいていなかった。
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