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Ⅲ:捨てられ王子の綺羅星
決断の時:対峙
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執務室を飛び出したアレッサンドロは廊下を駆け抜ける。すれ違う使用人たちが目を丸くして振り返るのも無視して、走った。
ステラの前に立って何を言うのかも決まっていない。何をどこまで伝えたらいいのか、さっぱり判らない。
それでも、今、彼女の元へ行かなければ死ぬまで後悔する――それだけは判っていた。
庭に面した廊下まできて、扉があるところまで行くのがもどかしくて窓枠を飛び越える。庭に出て、いっそう速度を上げた。
散策用に右に左に曲がりくねった小道を走り、茂みを回る。そこで、アレッサンドロは足を止めた。
目に飛び込んできたのは、ステラを隠す、大きな背中。
そして。
「ありがとう、レイ」
そんな声が聴こえてきて。
小さな手がレイの背中にスルリと伸びてきたのが、見えた。
遅かった。
その一言と共に、強烈な後悔が込み上げてくる。
遅かった。
ステラはレイのものになってしまった。
そんな台詞が脳裏をよぎり、アレッサンドロはひっそりと嗤う。苦い思いで。
(いいや、最初から、あいつのものだったのかもしれない)
そもそも、ステラがここまで来てくれたのは、ジーノが呼んだからだ。彼女の意思でそうしたわけではない。手紙は欠かさず届いても、その中にアレッサンドロを恋しがる言葉は出てこなかった。ジーノが招かなければ、アレッサンドロが再びステラと会えるなど、起こり得なかったのだ。
だから、これは、あるべき形に納まっただけのこと。
レイとならば、ステラはアレッサンドロが思い描く理想の幸福を、彼女に相応しい幸福を、得ることができるはずだ。
しかし、一番良い結果となった筈だというのに、どうしようもなく、胸が痛む。目の前の光景を、アレッサンドロの全身全霊が拒んでいた。
ジリ、と、アレッサンドロが後ずさった時、その気配に気付いたようにレイが振り返る。そして、彼の向こうからステラが顔を覗かせた。
「アレックス?」
彼女を目にした瞬間、足元まで下がりきっていた血が一気に頭に昇り詰める。顔色を変えたアレッサンドロにステラは目を瞬かせたが、レイは小馬鹿にしたように鼻を鳴らしただけだった。
(くそ)
声に出さずに罵って、アレッサンドロは大股に二人に歩み寄り、レイからステラを引き離す。
「え、えと、アレックス?」
戸惑う彼女を見下ろし、アレッサンドロは歯を食いしばった。
ステラの頬を濡らしているものは、涙以外の何ものでもないはずだ。つまり、彼女が泣いたということなのだ。
ステラが泣くことなど赦せなかった。それを放っておくことなどできなかった。
アレッサンドロは焼けるような怒りに駆られ、そして、同時に、それとは違う何かで胸が搾り上げられた。そうすべきかどうかを考える余裕もなく彼女を腕の中に引き寄せる。
ほんの一瞬、やめろと囁く声が頭の中をよぎった。
だが、よぎっただけだった。
抱き締めてしまった彼女の温もりと柔らかさ。自分の腕の中に彼女がいるということがもたらすこれ以上はないほどの充足感に、束の間アレッサンドロは全てを忘れる。羽虫が灯りに引き寄せられるようにふらりと柔らかな髪に顔を埋めてしまいそうになったが、それは寸でのところで我に返ることができた。
アレッサンドロは一度深く息をつき、そして、頭半分高いところにあるレイの目を見据える。
「どうして彼女は泣いているんだ? お前は、何をした!?」
華奢な身体を胸の中深くに引き込んで、レイから隠しながら問い詰めた。叶うことならステラの髪の一筋でさえも彼の目に触れさせたくなかった。
「え、やだ、そうじゃないの。アレックス、ちょっと待って――」
もがくステラをアレッサンドロはいっそう強く抱き竦める。みぞおちの辺りでモゴモゴ言う彼女の声は聞き取れなくなった。
きっとレイのことを庇うつもりなのだろうが、この男にそんな価値などない。
ステラはいつだって笑っていたのだ。共に過ごせた四年間で、泣いているところなど、見たことがなかったのだ。
そんな彼女が泣くなど、レイは余程のことをしたに違いない。
睨むアレッサンドロを、レイは顎を上げ、細めた目で鼻の先から見下ろしている。その態度に悪びれたところはまるでない。むしろ、どこかアレッサンドロを責めているような眼差しだ。
ステラを彼の腕の中から奪ったからだろうか。だが、泣かすような輩に彼女を委ねておくわけにはいかない。
「この人を泣かせるのは、赦さない」
威嚇を込めたアレッサンドロにレイが返したのは、心底嫌そうな顔だ。
「お前にだけは言われたくないな」
「どういう意味だ?」
「さぁな。少なくとも、今ステラを泣かせたのはオレじゃねぇよ」
「だが、現に泣いていたじゃないか」
低い声での追及に、彼は肩を竦めた。その態度にアレッサンドロの頭に血が昇る。
「お前にこの人は渡せない」
「……はぁ?」
「この人を迎えに来たのだろう?」
「だったらどうする?」
問いに問いを返したレイが、スッと目を眇めた。不穏な気配を察知したのかステラが身じろぎをしたが、アレッサンドロは腕の力を緩めるつもりはなかった。彼女の後頭部を包む手に力を込めて、自分の胸に押し付ける。くぐもった声で何か言っているのは耳に届いたが、アレッサンドロはレイを見据え続けた。
「そうすることがこの人の幸せにつながるなら、それでいい。だが、そうは思えない」
「思えないならどうすんだ? オレがダメだってんなら、お前がするってぇのか?」
「俺には……」
「できねぇならステラを返せよ」
そう言うなり、レイがズイと手を伸ばしてきた。アレッサンドロは殆ど反射のようにステラを抱き締めたまま後ずさる。その反応に、レイは鼻を鳴らした。
「てめぇじゃ何もしねぇのに、ヒトに渡すのも嫌だってか? いったい、どうしたいんだよ?」
レイの揶揄に、アレッサンドロは奥歯を食いしばる。
そんなこと、むしろ彼の方が教えて欲しかった。
「話がずれている。俺は、この人を泣かせる者には渡せないと言っているだけだ。相応しい者がいれば……」
「相応しいってのは、何だ?」
「それは、だから、幸せにできる――ッ」
男だと続けようとしたところで、グイとみぞおちを突かれてアレッサンドロは息を詰めた。ステラの拳など仔猫が突いたようなものだったが、いかんせん、場所が悪かった。力が抜けた彼の腕を、彼女が振りほどく。
「ステラ、何を」
顔をしかめて見下ろすと、怒っているのだろうかと思わせるステラの眼差しが返ってきた。
ステラの前に立って何を言うのかも決まっていない。何をどこまで伝えたらいいのか、さっぱり判らない。
それでも、今、彼女の元へ行かなければ死ぬまで後悔する――それだけは判っていた。
庭に面した廊下まできて、扉があるところまで行くのがもどかしくて窓枠を飛び越える。庭に出て、いっそう速度を上げた。
散策用に右に左に曲がりくねった小道を走り、茂みを回る。そこで、アレッサンドロは足を止めた。
目に飛び込んできたのは、ステラを隠す、大きな背中。
そして。
「ありがとう、レイ」
そんな声が聴こえてきて。
小さな手がレイの背中にスルリと伸びてきたのが、見えた。
遅かった。
その一言と共に、強烈な後悔が込み上げてくる。
遅かった。
ステラはレイのものになってしまった。
そんな台詞が脳裏をよぎり、アレッサンドロはひっそりと嗤う。苦い思いで。
(いいや、最初から、あいつのものだったのかもしれない)
そもそも、ステラがここまで来てくれたのは、ジーノが呼んだからだ。彼女の意思でそうしたわけではない。手紙は欠かさず届いても、その中にアレッサンドロを恋しがる言葉は出てこなかった。ジーノが招かなければ、アレッサンドロが再びステラと会えるなど、起こり得なかったのだ。
だから、これは、あるべき形に納まっただけのこと。
レイとならば、ステラはアレッサンドロが思い描く理想の幸福を、彼女に相応しい幸福を、得ることができるはずだ。
しかし、一番良い結果となった筈だというのに、どうしようもなく、胸が痛む。目の前の光景を、アレッサンドロの全身全霊が拒んでいた。
ジリ、と、アレッサンドロが後ずさった時、その気配に気付いたようにレイが振り返る。そして、彼の向こうからステラが顔を覗かせた。
「アレックス?」
彼女を目にした瞬間、足元まで下がりきっていた血が一気に頭に昇り詰める。顔色を変えたアレッサンドロにステラは目を瞬かせたが、レイは小馬鹿にしたように鼻を鳴らしただけだった。
(くそ)
声に出さずに罵って、アレッサンドロは大股に二人に歩み寄り、レイからステラを引き離す。
「え、えと、アレックス?」
戸惑う彼女を見下ろし、アレッサンドロは歯を食いしばった。
ステラの頬を濡らしているものは、涙以外の何ものでもないはずだ。つまり、彼女が泣いたということなのだ。
ステラが泣くことなど赦せなかった。それを放っておくことなどできなかった。
アレッサンドロは焼けるような怒りに駆られ、そして、同時に、それとは違う何かで胸が搾り上げられた。そうすべきかどうかを考える余裕もなく彼女を腕の中に引き寄せる。
ほんの一瞬、やめろと囁く声が頭の中をよぎった。
だが、よぎっただけだった。
抱き締めてしまった彼女の温もりと柔らかさ。自分の腕の中に彼女がいるということがもたらすこれ以上はないほどの充足感に、束の間アレッサンドロは全てを忘れる。羽虫が灯りに引き寄せられるようにふらりと柔らかな髪に顔を埋めてしまいそうになったが、それは寸でのところで我に返ることができた。
アレッサンドロは一度深く息をつき、そして、頭半分高いところにあるレイの目を見据える。
「どうして彼女は泣いているんだ? お前は、何をした!?」
華奢な身体を胸の中深くに引き込んで、レイから隠しながら問い詰めた。叶うことならステラの髪の一筋でさえも彼の目に触れさせたくなかった。
「え、やだ、そうじゃないの。アレックス、ちょっと待って――」
もがくステラをアレッサンドロはいっそう強く抱き竦める。みぞおちの辺りでモゴモゴ言う彼女の声は聞き取れなくなった。
きっとレイのことを庇うつもりなのだろうが、この男にそんな価値などない。
ステラはいつだって笑っていたのだ。共に過ごせた四年間で、泣いているところなど、見たことがなかったのだ。
そんな彼女が泣くなど、レイは余程のことをしたに違いない。
睨むアレッサンドロを、レイは顎を上げ、細めた目で鼻の先から見下ろしている。その態度に悪びれたところはまるでない。むしろ、どこかアレッサンドロを責めているような眼差しだ。
ステラを彼の腕の中から奪ったからだろうか。だが、泣かすような輩に彼女を委ねておくわけにはいかない。
「この人を泣かせるのは、赦さない」
威嚇を込めたアレッサンドロにレイが返したのは、心底嫌そうな顔だ。
「お前にだけは言われたくないな」
「どういう意味だ?」
「さぁな。少なくとも、今ステラを泣かせたのはオレじゃねぇよ」
「だが、現に泣いていたじゃないか」
低い声での追及に、彼は肩を竦めた。その態度にアレッサンドロの頭に血が昇る。
「お前にこの人は渡せない」
「……はぁ?」
「この人を迎えに来たのだろう?」
「だったらどうする?」
問いに問いを返したレイが、スッと目を眇めた。不穏な気配を察知したのかステラが身じろぎをしたが、アレッサンドロは腕の力を緩めるつもりはなかった。彼女の後頭部を包む手に力を込めて、自分の胸に押し付ける。くぐもった声で何か言っているのは耳に届いたが、アレッサンドロはレイを見据え続けた。
「そうすることがこの人の幸せにつながるなら、それでいい。だが、そうは思えない」
「思えないならどうすんだ? オレがダメだってんなら、お前がするってぇのか?」
「俺には……」
「できねぇならステラを返せよ」
そう言うなり、レイがズイと手を伸ばしてきた。アレッサンドロは殆ど反射のようにステラを抱き締めたまま後ずさる。その反応に、レイは鼻を鳴らした。
「てめぇじゃ何もしねぇのに、ヒトに渡すのも嫌だってか? いったい、どうしたいんだよ?」
レイの揶揄に、アレッサンドロは奥歯を食いしばる。
そんなこと、むしろ彼の方が教えて欲しかった。
「話がずれている。俺は、この人を泣かせる者には渡せないと言っているだけだ。相応しい者がいれば……」
「相応しいってのは、何だ?」
「それは、だから、幸せにできる――ッ」
男だと続けようとしたところで、グイとみぞおちを突かれてアレッサンドロは息を詰めた。ステラの拳など仔猫が突いたようなものだったが、いかんせん、場所が悪かった。力が抜けた彼の腕を、彼女が振りほどく。
「ステラ、何を」
顔をしかめて見下ろすと、怒っているのだろうかと思わせるステラの眼差しが返ってきた。
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