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ただ、それだけで
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ラミアからシィンの散歩の許可が出されたのは、彼女を連れてきてからひと月近くが経った頃だった。薬の影響が消えたあたりから家の中を歩くことは許されるようになっていたが、外を歩くのはまだ早いと言われ続けていたのだ。
確かに痩せぎすだった身体はだいぶ肉が付き、見た目は段違いに健康そうになったとカイネも思う。
夜の啜り泣きはまだ続いてはいたものの、ここのところ連夜ではなくなっていたし、泣き方もずいぶん軽いものになっていた。シィン自身は自分が夜に泣きながら眠っていることに気付いていないようだったから、結局そのことは彼女には言わずじまいだ。まあ、実際、寝ている間に男に抱き締められているなんて、教えられても困るだろう。
昼間動いて少し疲れれば、夜の眠りも深くなるに違いない。
そうすれば、もっと泣かずに眠れるようになるはずだ。
シィンが泣かずに眠ってくれるようになれば夜ごとに抱き締める必要はなくなるから、カイネもキリキリと締め付けてくる胸の痛みを感じなくて済むようになるだろう。腕の中の彼女の震えを思い出すだけで蘇るその痛みに、カイネは無意識のうちに胸を撫でる。
そんな彼の胸中などつゆ知らず、朝食の席で外に行けると聞かされたシィンは、一つ二つ瞬きをし、それからパッと顔を輝かせた。
「いいの?」
どんなご褒美をもらったんだという勢いでそう訊いてきた彼女に、カイネは釘を刺す。
「少しの間だけだけどな」
「うん!」
返ってきたのは、満面の笑みを浮かべての頷きだ。たかが散歩がそんなに嬉しいものなのかと、カイネは若干気圧される。
「じゃあ、朝飯食ったら行くか。今日はよく晴れてるし、散歩にはちょうどいいだろう」
本当は、明日からにしようかと思っていたが、これだけ喜ばれるとそうは言いにくくなる。窓から外に眼をやりながらのカイネの言葉に、また、深々とした頷きが返ってきた。
それから普段の倍の勢いで皿の中身を平らげたシィンにカイネの服を羽織らせて、取り敢えず家を出てみたのだが。
「無理はするなよ? 疲れたらちゃんと言えよ?」
薬の影響もあるのかもしれないが、そもそもの体力がかなり落ちていたと見え、カイネとローグに挟まれて歩くシィンの足取りは、甚だ心許ないものだった。家の中をうろつく程度ではあまり気にならなかったが、掴まるもののない開けた場所だと、見ていてどうにもヒヤヒヤする。
ついつい口うるさくなってしまうカイネの声が、その耳に届いているのかいないのか。
シィンは頭を真後ろに倒して晴れ渡った空を見上げている。
今にも後ろに倒れてしまいそうな彼女の背に手を添えて支えながら、カイネは眉をひそめた。小さな口をポカンと開けているその様は、まるで空というものを初めて見るかのようだ。
「……歩かないのか?」
カイネに言われてシィンは我に返ったというように目をしばたたかせる。
「え、うん、歩く。歩くよ」
そう答えた彼女は、家に戻されてはたまらないと言わんばかりに足を踏み出した。歩きながら、やっぱり目に入る全てが物珍しいという風情でキョロキョロと辺りを見回している。
そんなシィンを連れてカイネが目指したのは、畑だ。そこにはこの隠れ里の住人を養うための野菜や穀物、薬草が植えられている。
ゆっくりと足を運ぶシィンに合わせながら進むうち、まず見えてきたのは薬草園だ。丈の高くない草が所狭しと植えられている中で動いているのは一人きり、ラミアだ。彼女は里一番の年寄りらしからぬ軽い動きで、薬草の手入れをしている。
「ラミア!」
カイネが呼ばわると、彼女は屈めていた腰を伸ばして振り返った。
「おや、坊主ども――と、シィンか。ずいぶん元気そうになったね」
「はい」
シィンの頭の天辺からつま先までを見下ろしたラミアに、彼女は嬉しそうに頷いた。そんなシィンに、ラミアは目を細める。そしてその眼をカイネに向けた。
「あんたたちも頑張ったね。正直、ダメかと思ってたよ」
カカと笑いながら言われても、返す言葉に困る。だが、カイネが眉間にしわを刻んでいるうちに彼女はクルリとまた向きを変え、シィンに顎をしゃくってみせた。
「あたしの薬草園を見てくかい?」
「薬草?」
「ああ。なかなかのもんなんだよ」
得意げなラミアに、シィンは首をかしげる。
「じゃあ、ラミアさんは神官なのですか?」
「え?」
シィンの台詞に、老練な薬師が眉を上げた。そんな彼女に、シィンは言葉を加える。
「薬草は、神官が祈りを込めながら育てるものなのでしょう? だから、癒しの力が宿るのです」
至極真面目な顔で言ったシィンに、ラミアは肩をすくめて返す。
「薬の効果は、元々草が持っているものだよ。それをイイ感じに効かせられるかどうかは匙加減にかかってる。いかにその患者に適切な量を処方できるか、だ。祈りは関係ない」
「でも、薬を与えられた者の信心が強ければ強いほどそれに応えて神官が込めた祈りの力も強まるから、癒しの効果が高まる……そうでしょう?」
シィンは窺うように首をかしげたが、老薬師は鼻を鳴らして嗤った。
「奴らが言う『信心』は寄進のことさ。貢ぐものが多ければそれなりの量を、少なければ薬も減らす。だから、『信心』が弱い者は薬の効果も弱まるのさ」
シィンの胸中など斟酌することなくそう切り捨てたラミアは、カイネに向けて顎をしゃくる。
「まだ歩けそうなら、あっちの畑も見せてやるといい。いい機会だ。神殿の外の世界を、ちゃんと教えておやり」
「ああ……」
カイネは心許なげな顔をしているシィンに目を走らせて頷いた。だが、ラミアにはそう答えながらも、そんなに一気に色々暴露しなくてもいいのではないかと内心眉根を寄せる。
「シィン、どうする? 疲れたならいったん家に戻るか?」
その誘いかけに、シィンは頷くだろうとカイネは思っていた。だが、彼女は軽く唇を噛み、そして顔を上げる。
「ううん。行く。他のことも見てみたい」
わずかに揺れながらも真っ直ぐカイネに向けられているその瞳は、陽の下ではいつもよりも明るい色をしていて、中にはいくつもの銀色の光が瞬いていた。それは満天の星空を思わせて、彼は思わず見入ってしまう。
馬鹿みたいに突っ立っていたカイネは、横からローグにツイツイと袖を引かれて我に返った。
「……判った。じゃあ、あっちだ。ラミア、またな」
ラミアにそう残し、カイネはシィンの背に手を添え歩き出す。彼女の足取りからは家を出た時の弾むような動きは失せていて、その丸い頭の中で何かを考えていることが伝わってきた。
やがて到着した小麦畑は丁度収穫の時期で、ローグよりも幼い子どもから老人までがいかにも忙しそうに立ち働いていた。
「ここは?」
「小麦畑だ」
「小麦?」
「知らないのか? パンの材料だ」
「パンの?」
シィンには、目の前の光景と食卓の上に出てくるものとが、全くつながらないらしい。カイネは近場の穂から実を一つむしり取り、彼女に差し出した。
「収穫したこれを粉にして、使う。冬に蒔いた種を収穫するまで、半年かかる」
「半年?」
「ああ。その間に天候が悪かったり病気が流行ったりすると、うまく育たない時もある」
「アーシャル様に祈れば……」
シィンの言葉を、カイネは半ばで遮る。
「祈っても、何も起きない。祈りは、何ももたらさない」
きっぱりと断言したカイネに、シィンが身をすくませた。言い方がきつかったかもしれないと思ったし、ローグも責めるような眼差しを向けてきたが、敢えてそのまま表情を変えずに彼女を見つめる。
「いいか、シィン。祈るだけでは何も変わらないし、何も起きない。問題を解決するのは、神じゃない。ヒト自身なんだ」
カイネはシィンの肩を掴んだ。そして身を屈め、彼女の目を覗き込む。
「神殿は何でもかんでも神のご加護だと言って、オレたちが身を粉にして手に入れたものを吸い上げていく。だけどな、神の力が何かの足しになることなんかないんだ」
「でも、わたしは、儀式で……」
「お前に妙な薬を使っての、アレか?」
「妙な、薬?」
「そうだ。自分でも判っているだろう? 少し前の自分と、今の自分が違うことは。お前は薬でおかしくさせられて、『神の娘』とやらに祭り上げられていただけだ。でも、お前はただの女の子なんだ。特別な力なんか、本当はないんだ」
カイネのその台詞に、シィンの唇が微かに震える。
「だけど、わたしは神の娘だって、皆が」
「いいや。神はいない。だから、お前も神の娘なんかじゃない」
噛んで含めるようにカイネが繰り返すと、シィンは一度唇をきつく噛み締め、顔を伏せた。そしてうつむいたまま、ポツリとこぼす。
「じゃあ、わたしがいる意味は、ないの……?」
「え?」
カイネが眉をひそめると、シィンの面《おもて》が上がった。血の気の引いた頬を見ると、夜に眠りながら泣く彼女を抱き締めた時と同じ痛みが、胸に走る。
怯んだ彼に、シィンが続けた。
「わたしは、わたしがいる意味は、『神の娘』だから……『神の娘』だから、わたしは必要とされているんだよ? じゃあ、そうじゃないなら、わたしがいる意味は、何なの?」
すがるような眼差しで答えを求められて、カイネはグッと奥歯を食いしばった。
「意味とか必要とか、そんなの別に要らないだろ。そんなもの……」
無くたって、カイネはシィンにいて欲しいと思う。
それはまごうことなき彼の本心だ。
彼女が泣いていればその涙を止めたいと思うし、笑ってくれると、嬉しそうにしてくれると、ただそれだけでカイネも嬉しくなる。
彼女が何の役に立たなくても、ここに留まって欲しいと思うのだ。
それをどう言葉で表していいのか判らず唇を引き結んでいるカイネの気持ちを代弁するかのように、ローグがギュッとシィンにしがみつく。
「ローグ」
シィンがその名を呼ぶと、彼は二ッと笑顔を返した。そしてまた、彼女を抱き締める。
ローグの腕の中で強張っていたシィンの顔が和らいでいく。やがて、ほ、と小さく息をついた彼女は、彼の柔らかなくせ毛に頬をすり寄せた。
顔色を取り戻したシィンに、カイネは詰めていた息を解く。お互いを温め合っているかのような二人をしばらく見つめ、そして声をかけた。
「そろそろ、戻るぞ」
カイネは顔を上げたローグの額を指で小突く。不満そうな弟分を引きはがしてから、シィンの背と膝裏に腕を回してヒョイと抱き上げた。
「カイネ!?」
「ここに来るまで、歩き過ぎた。あまり疲れると良くない」
そう答え、有無を言わさず歩き出すと、ローグも仔犬よろしくついてくる。
じきに突っ張っていたシィンの背から力が抜けて、カイネの腕に身を委ねてきたのが伝わってきた。連れて来た時よりも少しばかり肉はついたが、まだまだ軽い。
(何が、『神の娘』だ)
そんなもの、くそくらえ。
カイネは、シィンにそんな枷をはめた奴らのことを、胸の中で罵った。
「シィンはシィンだ。特別な力なんかなくてもいい。オレたちには、そんな力、必要ない」
真っ直ぐ前を見据えながらボソリとそう言い、気持ち、彼女を抱える腕に力を籠める。そうすることで、『ただのシィン』でいいのだという思いが伝わればいいと思いながら。
ややして。
目で見たわけではないけれど、カイネは、腕の中、シィンが小さく頷いたような、気がした。
確かに痩せぎすだった身体はだいぶ肉が付き、見た目は段違いに健康そうになったとカイネも思う。
夜の啜り泣きはまだ続いてはいたものの、ここのところ連夜ではなくなっていたし、泣き方もずいぶん軽いものになっていた。シィン自身は自分が夜に泣きながら眠っていることに気付いていないようだったから、結局そのことは彼女には言わずじまいだ。まあ、実際、寝ている間に男に抱き締められているなんて、教えられても困るだろう。
昼間動いて少し疲れれば、夜の眠りも深くなるに違いない。
そうすれば、もっと泣かずに眠れるようになるはずだ。
シィンが泣かずに眠ってくれるようになれば夜ごとに抱き締める必要はなくなるから、カイネもキリキリと締め付けてくる胸の痛みを感じなくて済むようになるだろう。腕の中の彼女の震えを思い出すだけで蘇るその痛みに、カイネは無意識のうちに胸を撫でる。
そんな彼の胸中などつゆ知らず、朝食の席で外に行けると聞かされたシィンは、一つ二つ瞬きをし、それからパッと顔を輝かせた。
「いいの?」
どんなご褒美をもらったんだという勢いでそう訊いてきた彼女に、カイネは釘を刺す。
「少しの間だけだけどな」
「うん!」
返ってきたのは、満面の笑みを浮かべての頷きだ。たかが散歩がそんなに嬉しいものなのかと、カイネは若干気圧される。
「じゃあ、朝飯食ったら行くか。今日はよく晴れてるし、散歩にはちょうどいいだろう」
本当は、明日からにしようかと思っていたが、これだけ喜ばれるとそうは言いにくくなる。窓から外に眼をやりながらのカイネの言葉に、また、深々とした頷きが返ってきた。
それから普段の倍の勢いで皿の中身を平らげたシィンにカイネの服を羽織らせて、取り敢えず家を出てみたのだが。
「無理はするなよ? 疲れたらちゃんと言えよ?」
薬の影響もあるのかもしれないが、そもそもの体力がかなり落ちていたと見え、カイネとローグに挟まれて歩くシィンの足取りは、甚だ心許ないものだった。家の中をうろつく程度ではあまり気にならなかったが、掴まるもののない開けた場所だと、見ていてどうにもヒヤヒヤする。
ついつい口うるさくなってしまうカイネの声が、その耳に届いているのかいないのか。
シィンは頭を真後ろに倒して晴れ渡った空を見上げている。
今にも後ろに倒れてしまいそうな彼女の背に手を添えて支えながら、カイネは眉をひそめた。小さな口をポカンと開けているその様は、まるで空というものを初めて見るかのようだ。
「……歩かないのか?」
カイネに言われてシィンは我に返ったというように目をしばたたかせる。
「え、うん、歩く。歩くよ」
そう答えた彼女は、家に戻されてはたまらないと言わんばかりに足を踏み出した。歩きながら、やっぱり目に入る全てが物珍しいという風情でキョロキョロと辺りを見回している。
そんなシィンを連れてカイネが目指したのは、畑だ。そこにはこの隠れ里の住人を養うための野菜や穀物、薬草が植えられている。
ゆっくりと足を運ぶシィンに合わせながら進むうち、まず見えてきたのは薬草園だ。丈の高くない草が所狭しと植えられている中で動いているのは一人きり、ラミアだ。彼女は里一番の年寄りらしからぬ軽い動きで、薬草の手入れをしている。
「ラミア!」
カイネが呼ばわると、彼女は屈めていた腰を伸ばして振り返った。
「おや、坊主ども――と、シィンか。ずいぶん元気そうになったね」
「はい」
シィンの頭の天辺からつま先までを見下ろしたラミアに、彼女は嬉しそうに頷いた。そんなシィンに、ラミアは目を細める。そしてその眼をカイネに向けた。
「あんたたちも頑張ったね。正直、ダメかと思ってたよ」
カカと笑いながら言われても、返す言葉に困る。だが、カイネが眉間にしわを刻んでいるうちに彼女はクルリとまた向きを変え、シィンに顎をしゃくってみせた。
「あたしの薬草園を見てくかい?」
「薬草?」
「ああ。なかなかのもんなんだよ」
得意げなラミアに、シィンは首をかしげる。
「じゃあ、ラミアさんは神官なのですか?」
「え?」
シィンの台詞に、老練な薬師が眉を上げた。そんな彼女に、シィンは言葉を加える。
「薬草は、神官が祈りを込めながら育てるものなのでしょう? だから、癒しの力が宿るのです」
至極真面目な顔で言ったシィンに、ラミアは肩をすくめて返す。
「薬の効果は、元々草が持っているものだよ。それをイイ感じに効かせられるかどうかは匙加減にかかってる。いかにその患者に適切な量を処方できるか、だ。祈りは関係ない」
「でも、薬を与えられた者の信心が強ければ強いほどそれに応えて神官が込めた祈りの力も強まるから、癒しの効果が高まる……そうでしょう?」
シィンは窺うように首をかしげたが、老薬師は鼻を鳴らして嗤った。
「奴らが言う『信心』は寄進のことさ。貢ぐものが多ければそれなりの量を、少なければ薬も減らす。だから、『信心』が弱い者は薬の効果も弱まるのさ」
シィンの胸中など斟酌することなくそう切り捨てたラミアは、カイネに向けて顎をしゃくる。
「まだ歩けそうなら、あっちの畑も見せてやるといい。いい機会だ。神殿の外の世界を、ちゃんと教えておやり」
「ああ……」
カイネは心許なげな顔をしているシィンに目を走らせて頷いた。だが、ラミアにはそう答えながらも、そんなに一気に色々暴露しなくてもいいのではないかと内心眉根を寄せる。
「シィン、どうする? 疲れたならいったん家に戻るか?」
その誘いかけに、シィンは頷くだろうとカイネは思っていた。だが、彼女は軽く唇を噛み、そして顔を上げる。
「ううん。行く。他のことも見てみたい」
わずかに揺れながらも真っ直ぐカイネに向けられているその瞳は、陽の下ではいつもよりも明るい色をしていて、中にはいくつもの銀色の光が瞬いていた。それは満天の星空を思わせて、彼は思わず見入ってしまう。
馬鹿みたいに突っ立っていたカイネは、横からローグにツイツイと袖を引かれて我に返った。
「……判った。じゃあ、あっちだ。ラミア、またな」
ラミアにそう残し、カイネはシィンの背に手を添え歩き出す。彼女の足取りからは家を出た時の弾むような動きは失せていて、その丸い頭の中で何かを考えていることが伝わってきた。
やがて到着した小麦畑は丁度収穫の時期で、ローグよりも幼い子どもから老人までがいかにも忙しそうに立ち働いていた。
「ここは?」
「小麦畑だ」
「小麦?」
「知らないのか? パンの材料だ」
「パンの?」
シィンには、目の前の光景と食卓の上に出てくるものとが、全くつながらないらしい。カイネは近場の穂から実を一つむしり取り、彼女に差し出した。
「収穫したこれを粉にして、使う。冬に蒔いた種を収穫するまで、半年かかる」
「半年?」
「ああ。その間に天候が悪かったり病気が流行ったりすると、うまく育たない時もある」
「アーシャル様に祈れば……」
シィンの言葉を、カイネは半ばで遮る。
「祈っても、何も起きない。祈りは、何ももたらさない」
きっぱりと断言したカイネに、シィンが身をすくませた。言い方がきつかったかもしれないと思ったし、ローグも責めるような眼差しを向けてきたが、敢えてそのまま表情を変えずに彼女を見つめる。
「いいか、シィン。祈るだけでは何も変わらないし、何も起きない。問題を解決するのは、神じゃない。ヒト自身なんだ」
カイネはシィンの肩を掴んだ。そして身を屈め、彼女の目を覗き込む。
「神殿は何でもかんでも神のご加護だと言って、オレたちが身を粉にして手に入れたものを吸い上げていく。だけどな、神の力が何かの足しになることなんかないんだ」
「でも、わたしは、儀式で……」
「お前に妙な薬を使っての、アレか?」
「妙な、薬?」
「そうだ。自分でも判っているだろう? 少し前の自分と、今の自分が違うことは。お前は薬でおかしくさせられて、『神の娘』とやらに祭り上げられていただけだ。でも、お前はただの女の子なんだ。特別な力なんか、本当はないんだ」
カイネのその台詞に、シィンの唇が微かに震える。
「だけど、わたしは神の娘だって、皆が」
「いいや。神はいない。だから、お前も神の娘なんかじゃない」
噛んで含めるようにカイネが繰り返すと、シィンは一度唇をきつく噛み締め、顔を伏せた。そしてうつむいたまま、ポツリとこぼす。
「じゃあ、わたしがいる意味は、ないの……?」
「え?」
カイネが眉をひそめると、シィンの面《おもて》が上がった。血の気の引いた頬を見ると、夜に眠りながら泣く彼女を抱き締めた時と同じ痛みが、胸に走る。
怯んだ彼に、シィンが続けた。
「わたしは、わたしがいる意味は、『神の娘』だから……『神の娘』だから、わたしは必要とされているんだよ? じゃあ、そうじゃないなら、わたしがいる意味は、何なの?」
すがるような眼差しで答えを求められて、カイネはグッと奥歯を食いしばった。
「意味とか必要とか、そんなの別に要らないだろ。そんなもの……」
無くたって、カイネはシィンにいて欲しいと思う。
それはまごうことなき彼の本心だ。
彼女が泣いていればその涙を止めたいと思うし、笑ってくれると、嬉しそうにしてくれると、ただそれだけでカイネも嬉しくなる。
彼女が何の役に立たなくても、ここに留まって欲しいと思うのだ。
それをどう言葉で表していいのか判らず唇を引き結んでいるカイネの気持ちを代弁するかのように、ローグがギュッとシィンにしがみつく。
「ローグ」
シィンがその名を呼ぶと、彼は二ッと笑顔を返した。そしてまた、彼女を抱き締める。
ローグの腕の中で強張っていたシィンの顔が和らいでいく。やがて、ほ、と小さく息をついた彼女は、彼の柔らかなくせ毛に頬をすり寄せた。
顔色を取り戻したシィンに、カイネは詰めていた息を解く。お互いを温め合っているかのような二人をしばらく見つめ、そして声をかけた。
「そろそろ、戻るぞ」
カイネは顔を上げたローグの額を指で小突く。不満そうな弟分を引きはがしてから、シィンの背と膝裏に腕を回してヒョイと抱き上げた。
「カイネ!?」
「ここに来るまで、歩き過ぎた。あまり疲れると良くない」
そう答え、有無を言わさず歩き出すと、ローグも仔犬よろしくついてくる。
じきに突っ張っていたシィンの背から力が抜けて、カイネの腕に身を委ねてきたのが伝わってきた。連れて来た時よりも少しばかり肉はついたが、まだまだ軽い。
(何が、『神の娘』だ)
そんなもの、くそくらえ。
カイネは、シィンにそんな枷をはめた奴らのことを、胸の中で罵った。
「シィンはシィンだ。特別な力なんかなくてもいい。オレたちには、そんな力、必要ない」
真っ直ぐ前を見据えながらボソリとそう言い、気持ち、彼女を抱える腕に力を籠める。そうすることで、『ただのシィン』でいいのだという思いが伝わればいいと思いながら。
ややして。
目で見たわけではないけれど、カイネは、腕の中、シィンが小さく頷いたような、気がした。
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