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魔王の掌中の珠

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「ちょっと試してみたいことがあるのです」
 カイのその言い方は、母の身体を癒すことではなく、その行為そのものにより大きな関心を抱いているように聞こえたが、あながち間違いではないだろう。
 カイの言葉で一層怪訝な面持ちになったエマに、アストールが告げる。
「その脚を、治せるんだ」
「え?」
「フラウには、その力がある。だが、誰にも知られたくない」
 言外に気が進まないことをアストールがにおわせると、隣でフラウが身を乗り出した。
「わたし、やってみたいのです。エマさん、やらせて下さい」
「でも、癒しの魔術は存在していないでしょう? それに、あなた、魔力を持っていないのではないの?」
 フラウの白銀の髪に目を遣って眉をひそめたエマに答えたのはカイだ。
「魔力はアストール様のものを使わせていただくのですよ。魔術は必要とせず、正直、僕にもさっぱり解らないのですが、確かに、フラウには傷を癒せるのです」
 息子の声と表情から何かを読み取ったらしく、エマが呆れ顔になる。
「お前、八割方好奇心で言っているのね」

 そう呟いてから、フラウを見つめた。次いで、アストールを。
 ――エマが答えを出すまで、そう時間はかからなかった。

「いいわ、やってみて」
 頷いたエマに、フラウがパッと顔を輝かせる。
「アストールさま、お願いします」
 期待に満ち満ちた眼差しを向けられれば、もう、拒むことなどできやしない。
 アストールはフラウの手を取ったまま立ち上がり、エマに歩み寄った。そうしてフラウを彼女の隣に座らせ、華奢な肩に手をのせる。
「やってみろ」
 促すとフラウは小さく頷き、あの事故以来動かすことができなくなっているエマの足に手を伸ばした。
 フラウが目を閉じると同時に、アストールは自分の中から魔力が引き出され始めるのを感じる。
 カイの前で、意図せず力を使ってしまった時とは違う。あの時ほど強引ではないが、費やされる量はあの時以上だった。

 どれほどそうしていたことだろう。
 ふと、アストールはエマに生じ始めた変化に気付く。そして、それが示すフラウの力の本質に。

(これは……)
 カイに目を向けると、アストールよりも先に悟っていたらしい彼が小さく頷きを返してきた。
 ここに来て判明した新たな真実に、アストールは天を仰ぎたくなる。また、事態が難しくなった。
 やはり許すべきではなかったかと後悔の念が脳裏をよぎったが、始めてしまったものは仕方がない。こうなったら、腹をくくるまでだ。

 ややして。

「……動くわ」
 ポツリとこぼされた、エマの声。そして、フラウの手の下でひょいと脚が持ち上げられる。
「すげぇな――って、えぇ!?」
 呟いたゼスが、母を見て素っ頓狂な声を上げた。
「うるさい」
「でも、アストール様、これ……」
 ゼスはパクパクと口を開閉しながらエマを指さす。
「ゼス、何ですか。身内とはいえ、人を指さすものではありません――?」
 息子の無礼を咎めたエマだったが、彼女もまた、怪訝そうな面持ちになる。そうして己の両手を上げてしげしげと見つめ、次いで、その手で顔を撫でた。
「これは、いったい……」
 滑らかな動きで杖を持たずに立ち上がったエマは、そのまま部屋の飾り棚に置かれた鏡に走る。それを覗き込んで、叫んだ。
「若くなってるわ!」
 振り返ったエマは、確かに、十二年前、アストールが最後に目にしたときの彼女の姿をしていた。

 皆がエマに注目する中、したり顔で呟いたのはカイだ。
「どうやら、フラウの力は『修繕』ではなく『巻き戻し』のようですね」
「って、どういうことだ?」
 まだ信じられないという顔をしているゼスに、カイが答える。
「つまり、フラウが持つのは物にでももちろん精神に作用するものでもなく、時に作用する力だということですよ。母さんを、怪我がなかった頃に『戻した』のです」
「そんなのあり得るのか?」
「今までは存在していませんでしたが、実際に目の前で起こりましたから。……こんな世界の理を捻じ曲げるような術、アストール様ほどの魔力がないと発動しないわけだ」
 呟いたカイが、初めて見せる真剣な眼差しをアストールに向けた。
「これはちょっとシャレにならない事態ですよ」
 カイに言われるまでもない。
 癒しの力でさえも、フラウが狙われるのに充分な理由だった。だが、時を操る力となれば、降りかかる危険はその比ではない。

(まったく、どうしてフラウにそんなものがあるんだ?)
 胸の内で罵りながら、アストールはフラウに眼を向ける。彼女は何故皆が騒いでいるのかは解らなくても自分が騒ぎの中心だということは判っているらしく、不安げな眼差しで見返してきた。
「わたし、何かいけないことをしてしまいましたか……?」
 微かに震える声に、アストールのみぞおちが痛む。彼はフラウを抱き締めた。
「いや、お前には何も問題はない」
 腕の中にフラウを閉じ込め、アストールは含めるように告げた。
「でも……」
 さらに言い募ろうとするフラウに被せるようにして、アストールは言う。
「エマを歩けるようにしてくれてありがとう。僕は、それがとても嬉しい」
 その言葉は、彼の心の底からのものだ。
 副次的にもたらされてしまったものは新たに解決すべき大きな問題であることは確かだが、先ほど立ち上がり走り出したエマの姿を目にしたときにアストールの胸中に込み上げたのは、そんな問題などどうでもいいと思えるほどの喜びだった。
「お前は、エマだけでなく僕のことも救ってくれたんだ」
 アストールの言葉で、フラウが彼の胸元をキュッと握り締めたのが判った。
 そんなふうに、意識の全てがフラウに注がれていたから。

「なので、私と母もアストール様のところに参ろうと思います」
 シレッと告げられたカイの台詞をアストールの頭が消化するまでに、しばしの間を要した。
「――――何?」
「私と母もアストール様のもとに参ります」
 律儀に繰り返してから、カイはエマを手で示した。
「ただ怪我が癒えただけならどうとでもごまかせましょうが、このような姿になってしまったら無理でしょう。ルイ村であればまず顔見知りはおりませんし」
「母さんがここを離れるのは判るが、それでどうしてお前も来る話になるんだ?」
 アストールの疑問を代弁してくれたのはゼスだ。カイはクルリと兄に向き直る。
「それはもちろん傍にいないとフラウをしらべ――守れませんから」
「お前、今、『調べる』と言おうとしただろう」
「気のせいですよ、兄さん。アストール様、何かの時に私の力は役に立ちますよ?」
「お前は王と『黒檀の塔』の許しを得なければ力を振るわないのではなかったか?」
「ああ、それは『黒檀の塔』から抜ければ解決です。アストール様はこの国の第一位王位継承者なわけですから、何ら問題はありません。今後はアストール様が指示をお出しください」
 カイは真顔でそう言った。
「……確かに、一番それが良い手かもしれませんね」
 ポツリと呟いたのは、置き去りになっていたエマだ。息子二人とアストールの視線を身に受けて、彼女はにこりと笑う。
「ここでの引退生活も飽きていたし、またアストール様のお世話をできるのであれば何よりですわ。それに、フラウもいることですし、女手があった方が良いでしょう? カイのことはアストール様の目が届くところに置いておいた方が良いのではありませんか? フラウに接近禁止とすると、欲求不満で何をしでかすか判りませんよ?」
 実の息子に対してひどい言い様だが、エマの言うことは、きっと、正しい。

(まあ、いいか)
 腕の中のこの少女さえ守り通すことができるのなら、何でも。
 アストールはふうと一つ息をつく。
 その吐息と共に、彼の中に長い間わだかまっていた何かも吐き出され、空気に溶けて消え去ったような気がした。

「アストールさま?」
 呼ばれて見下ろせば、そこには彼の宝物がいる。
「何でもない。これから先も、お前は僕のものだ」

 そう告げれば。

「もちろんです」
 打てば響くように返る声がある。

 アストールは微笑み、愛しい少女を胸の深くに引き入れた。
 このかけがえのない宝が、誰にも奪われることのないように。
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