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フラウの居場所
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(そういえば、ここに来てからもう十年になるんだな)
ルイ村に行くための身支度をしながら、フラウはふと思った。
ここに来て、アストールを主としてから、もう十年。
フラウたちが住む塔は、セイラム王国の東にある――らしい。
そう言われても、フラウが知っているのは孤児院とこの塔だけで、王国の東にあると言われてもあまりピンとこない。以前にゼスが地図を広げて説明してくれたけれども、やっぱり良く判らなかった。孤児院にいた頃は幼過ぎて自分がどこにいるのかなんて考えたこともなかったから、実質、彼女が知っている『世界』はこの塔と最寄りのルイ村くらいのものだ。
セイラム王国と東の隣国との境には、黒の森と呼ばれる森がある。昼でも陽が遮られるほどうっそうと木々が茂っていることからつけられた呼び名だ。アストールが住む塔はここから一番近いところにあるルイ村とその黒の森との間にあって、元々は森を――隣国からの侵入を監視するための望楼として建てられたものなのだとか。塔が見張り台としての役割を終えたのは、およそ五十年前、セイラム王国が隣国と同盟を結んだときだ。
一番近くにあるルイ村でさえも簡単に赴くことができないような辺鄙なところにアストールが住んでいる理由を、フラウは知らない。
アストールは十歳そこそこでここに来たらしいが、彼の両親は存命で、遠く離れた王都にいるのだとか。
それをフラウが知ったのは五年ほど前のことだっただろうか。どういう流れだったかは覚えていないけれども、何かの話の流れで、さらりと知らされた。
フラウは、親を知らない。だから、親を恋しがる気持ちを実感として持っているわけではないけれども、普通、子どもは親を求めるものらしい。
だから、その時アストールに訊いたのだ。
「ご両親のところに帰りたくはないのですか?」
と。
フラウのその問いに、けれど、アストールは素っ気なく肩をすくめて返しただけだった。
「僕にはお前がいるからね」
そう言って膝の上の本に目を戻してしまったアストールは、それ以上の追及を拒んでいるように見えて、フラウは、それきり彼の家族のことを訊くことはしなかった。なので、彼がここに来た理由は、今も知らないままだ。
(でも、別にどうでもいいことだもの)
フラウにとってはアストールとゼスの傍にいられることが全てだったから、それらを知る必要は感じられず、知りたいとも思わなかった。
それは、今でも変わらない。
何年経っても、フラウにとって、アストールといることだけが大事なのだ。
(一緒にいられるなら、それでいいの)
自分は幾つまで両親と一緒にいたのかも、どうして別れることになったのかも、フラウは知らない。
孤児院に入るまでのことで薄っすらと記憶に残っているのは、少しでも雨や風をしのぐため、狭い路地裏で縮こまっていたことくらいだ。
孤児院に入れられてからは、寒さに震えることはなくなった。あの頃は、それで充分だと思っていた。
眠るときに雨に打たれることもなく、飢えながらさまようこともなく。
物置小屋でただ独り、誰とも言葉を交わすこともなく、誰とも触れ合うこともなく一日を終えたとしても、凍えることがなく、飢えることもない日々を送れるなら、それで充分幸せなのだと思っていた。
(でも、そうじゃなかった)
今、フラウは幸せだ。
アストールと、ゼスがいて。
孤児院での生活は、手放すことに何のためらいも感じなかった。失っても、惜しいとは思わなかった。
けれど。
もしも、ここでの日々を諦めろと言われたら、自分はどうするだろう。もうフラウのことは要らなくなったからよそへ行けと言われたら。
すんなりと頷くことができるだろうか。
判らない――そうできる自信がない。
キュッとフラウが唇を噛み締めたとき。
「フラウ!」
その声に、彼女はピクンと肩をはねさせる。
呼んだのは、アストールだ。
彼に呼ばれるのは、孤児院で呼ばれていた時とは、何かが違う。あの頃は、ただ名前を呼ばれるだけで、こんなふうに胸が温かくなることはなかった。名前は、ただのフラウを他の子どもと識別するための呼称に過ぎなくて。
けれど、彼やゼスの声で呼ばれると、それが自分の名前だと、ただの『フラウ』という音ではなく、特別な意味を持つ何かだと、感じさせる。
屋根があるだけではなくて。
食事が出るだけではなくて。
名前を呼ばれるだけではなくて。
そこにはアストールがいなければいけない。
アストールがいて初めて、ここはフラウの居場所になるのだ。
「フラウ? まだか? 時間が無くなるぞ?」
部屋の入り口から、焦れた表情を浮かべたアストールが覗きこんでくる。自分が寝起きにぐずぐずしていたことなど、すっかり棚に上げて。
アストールは、わがままだ。
いつだって自分の思う通りにしないと気が済まない、わがままな、けれども何より大切なフラウの主。
「もう行けます」
答えながら巾着の物入れを取って小走りで向かうと、彼は当然のようにフラウに手を差し伸べてきた。そこにのせた彼女の手が、すっぽりと包み込まれる。
自ずと浮かんだフラウの微笑みに、アストールが眉を上げた。
「何だ?」
「なんでも、ないです」
小さくかぶりを振ったフラウを怪訝そうに見返してから、彼は歩き出した。
ルイ村に行くための身支度をしながら、フラウはふと思った。
ここに来て、アストールを主としてから、もう十年。
フラウたちが住む塔は、セイラム王国の東にある――らしい。
そう言われても、フラウが知っているのは孤児院とこの塔だけで、王国の東にあると言われてもあまりピンとこない。以前にゼスが地図を広げて説明してくれたけれども、やっぱり良く判らなかった。孤児院にいた頃は幼過ぎて自分がどこにいるのかなんて考えたこともなかったから、実質、彼女が知っている『世界』はこの塔と最寄りのルイ村くらいのものだ。
セイラム王国と東の隣国との境には、黒の森と呼ばれる森がある。昼でも陽が遮られるほどうっそうと木々が茂っていることからつけられた呼び名だ。アストールが住む塔はここから一番近いところにあるルイ村とその黒の森との間にあって、元々は森を――隣国からの侵入を監視するための望楼として建てられたものなのだとか。塔が見張り台としての役割を終えたのは、およそ五十年前、セイラム王国が隣国と同盟を結んだときだ。
一番近くにあるルイ村でさえも簡単に赴くことができないような辺鄙なところにアストールが住んでいる理由を、フラウは知らない。
アストールは十歳そこそこでここに来たらしいが、彼の両親は存命で、遠く離れた王都にいるのだとか。
それをフラウが知ったのは五年ほど前のことだっただろうか。どういう流れだったかは覚えていないけれども、何かの話の流れで、さらりと知らされた。
フラウは、親を知らない。だから、親を恋しがる気持ちを実感として持っているわけではないけれども、普通、子どもは親を求めるものらしい。
だから、その時アストールに訊いたのだ。
「ご両親のところに帰りたくはないのですか?」
と。
フラウのその問いに、けれど、アストールは素っ気なく肩をすくめて返しただけだった。
「僕にはお前がいるからね」
そう言って膝の上の本に目を戻してしまったアストールは、それ以上の追及を拒んでいるように見えて、フラウは、それきり彼の家族のことを訊くことはしなかった。なので、彼がここに来た理由は、今も知らないままだ。
(でも、別にどうでもいいことだもの)
フラウにとってはアストールとゼスの傍にいられることが全てだったから、それらを知る必要は感じられず、知りたいとも思わなかった。
それは、今でも変わらない。
何年経っても、フラウにとって、アストールといることだけが大事なのだ。
(一緒にいられるなら、それでいいの)
自分は幾つまで両親と一緒にいたのかも、どうして別れることになったのかも、フラウは知らない。
孤児院に入るまでのことで薄っすらと記憶に残っているのは、少しでも雨や風をしのぐため、狭い路地裏で縮こまっていたことくらいだ。
孤児院に入れられてからは、寒さに震えることはなくなった。あの頃は、それで充分だと思っていた。
眠るときに雨に打たれることもなく、飢えながらさまようこともなく。
物置小屋でただ独り、誰とも言葉を交わすこともなく、誰とも触れ合うこともなく一日を終えたとしても、凍えることがなく、飢えることもない日々を送れるなら、それで充分幸せなのだと思っていた。
(でも、そうじゃなかった)
今、フラウは幸せだ。
アストールと、ゼスがいて。
孤児院での生活は、手放すことに何のためらいも感じなかった。失っても、惜しいとは思わなかった。
けれど。
もしも、ここでの日々を諦めろと言われたら、自分はどうするだろう。もうフラウのことは要らなくなったからよそへ行けと言われたら。
すんなりと頷くことができるだろうか。
判らない――そうできる自信がない。
キュッとフラウが唇を噛み締めたとき。
「フラウ!」
その声に、彼女はピクンと肩をはねさせる。
呼んだのは、アストールだ。
彼に呼ばれるのは、孤児院で呼ばれていた時とは、何かが違う。あの頃は、ただ名前を呼ばれるだけで、こんなふうに胸が温かくなることはなかった。名前は、ただのフラウを他の子どもと識別するための呼称に過ぎなくて。
けれど、彼やゼスの声で呼ばれると、それが自分の名前だと、ただの『フラウ』という音ではなく、特別な意味を持つ何かだと、感じさせる。
屋根があるだけではなくて。
食事が出るだけではなくて。
名前を呼ばれるだけではなくて。
そこにはアストールがいなければいけない。
アストールがいて初めて、ここはフラウの居場所になるのだ。
「フラウ? まだか? 時間が無くなるぞ?」
部屋の入り口から、焦れた表情を浮かべたアストールが覗きこんでくる。自分が寝起きにぐずぐずしていたことなど、すっかり棚に上げて。
アストールは、わがままだ。
いつだって自分の思う通りにしないと気が済まない、わがままな、けれども何より大切なフラウの主。
「もう行けます」
答えながら巾着の物入れを取って小走りで向かうと、彼は当然のようにフラウに手を差し伸べてきた。そこにのせた彼女の手が、すっぽりと包み込まれる。
自ずと浮かんだフラウの微笑みに、アストールが眉を上げた。
「何だ?」
「なんでも、ないです」
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