上 下
1 / 41

孤児院の少女

しおりを挟む
(今日は雪になるのかな)
 寝起きをしている物置小屋の扉を開けたフラウは、白く漂った吐息に空を見上げた。
 この時期、あまり青い空が見えることはなく、ここ数日そうであったように、重く垂れこめる灰色の雲が太陽の輝きを鈍らせている。あまり雪が降る地域ではないけれど、年に数回くらいはちらつくことがあるのだ。

(あんまり寒くなると、水が凍っちゃうな)
 ほ、と息をついてもう一度顔の前に白い雲を作ってから、フラウは獣が入り込まないようにきちんと扉を閉め、皆が暮らしている建物の裏手に回った。勝手口の扉の前に、朝食と、布の塊がこんもりと詰め込まれた籠が五つ置かれている。この孤児院でのフラウの役割は、それらを洗って干すことだ。寒いせいでおねしょをする子が多かったのか、いつもよりも一つ多い。

「セイルの神よ、この糧をお与えくださってありがとうございます」
 食事の前のお祈りの言葉は、フラウが孤児院に連れてこられたときに真っ先に教えられたことだ。いつものようにそれを呟いてから黒パンと温くなった牛乳を平らげると、フラウは両腕を精一杯伸ばして籠を抱え上げた。彼女はそれを、物置小屋の隣にある井戸へと運ぶ。四つ目を持ち上げるころには少し息が上がってきたけれど、いつもよりも多いのだから、急がなければ。

 籠を全部運び終えると、今度は水汲みだ。
 フラウは手押しポンプの取っ手にぶら下がるようにして、たらいの中に水を注ぎこんでいく。取っ手は彼女の胸の高さほどにあるから、ぶら下がるにはちょうど良い。けれど、体重の全てをかけてもたいして動かないから、水はなかなか溜まらない。
(明日起きたら大きくなれてたらいいのに)
 毎日毎日、神さまに早く身体を大きくしてくださいとお願いしながら眠りに就くのだけれど、どうやら、彼女の声は届いていないようだ。残念ながら、さっぱり大きくなった気がしない。
 フラウが身を置くこの孤児院はセイル教の修道院によって営まれていて、子どもたちの世話をしてくれている修道女たちは、何かにつけ、神さまに感謝をしなさいと言う。けれど、感謝というものは、何か良いことがあった時にするものなのではないだろうか。
 だから、フラウは、食事以外でいつそれをしたら良いものなのか、今一つ判らない。

「もういいかな」
 どうにかたらいの八分目ほどまで水を満たしたところで、フラウは呟いた。硝子よりも透き通ったそこへ手を差し入れると、たくさんの小さな針で刺されるようにピリピリする。洗い始めは痛い感じがするけれど、いつも、しばらくすれば何も感じなくなるのだ。敷布の一枚も洗い終わる頃にはジンジンと痺れた感じだけになってきて、もう痛みはない。
 夏の、温い水の方がキレイになるのにな、と思いながら、フラウは洗い物を片付けていく。

 しばらくして、朝食を終えた子どもたちが出てきたのか、遠くから歓声が響いてきた。孤児院の子どもたちはできることに応じて仕事が割り当てられたり、読み書きの勉強をしたりしているけれど、そのどちらもできない幼い子どもたちは自由に過ごしている。
 フラウも、洗濯が終われば修道女が時々食事と一緒に置いておいてくれる絵本を読んでいて、近頃、ようやく文字が判るようになってきた。独りで過ごす時間は長いから、新しいものが届くまで、何度も何度も繰り返して読む。最近は、書くことも練習し始めていた。

 黙々と手を動かしていた彼女に声が掛けられたのは、籠が三つ空になった時だった。

「フラウ」

 その声が耳には入ってきたけれど、呼ばれることが滅多にないせいか、それが自分に向けられたものだとは気付けなかった。

「フラウ!」

 強い声に、フラウはビクリと肩を跳ねさせる。
 声を掛けられるということそのものもだけれど、フラウという名前も拾われてから院長がつけてくれたもので、もらったはいいものの、滅多に呼ばれることがない。だからか、自分のものだという実感があまり持てていなかった。

 振り返ると、数歩離れた場所に修道女が立っていた。彼女たちは、それ以上近づいてくることはない。修道女だけでなく、ここに預けられている子どもたちもだ。

 フラウには、誰も近づかない。
 こうやって、裏で洗濯を任されているのも、それが独りでできる作業だからだ。物置で寝起きをしているのも、他の子や修道女と距離を置くため。
 フラウがこの孤児院に連れてこられてから三度ほど季節が廻ったけれども、誰かがこれほど近くに来たことは、数えるほどしかなかった。ここに来る前までは、人が近寄ってきたときにはあまり良いことがなかったので、まだ少し身構えてしまう。

 立ち上がったフラウに、修道女がその場に留まったまま告げる。
「あなたの引き取り手が決まりました」
「……え?」
 フラウは、目をしばたたかせた。
 修道女の言葉の意味が、一瞬解らなかったからだ。
 キョトンとしているフラウに、彼女が再び口を開く。
「三日後に、迎えが来ます」
「むか、え?」
 その一言を繰り返しながら思わず一歩を踏み出すと、修道女が顔を引きつらせてフラウの二歩分後ずさった。そうしてしまってから、取り繕うように微笑みを浮かべる。
「ええ。さるお方のところでお掃除や洗濯をさせていただくことになります。その方と料理人だけでお住まいとのことですから、きっと、あなたでも大丈夫よ。とても高貴なお方だもの……あなたとお会いになることなんてないわ」
 修道女の言葉の最後の方は呟くようで、あまり聞き取れなかったフラウは小さく首をかしげた。
「ああ、いえ、何でもないのよ」
 修道女は慌てた口調でそう言って、かぶりを振った。
「ここよりも人が少ないのだし、あなたにも良いことよ。良いご縁だと思うわ」
 まるでフラウがそこに行きたくないと言い出すことを恐れているかのように、修道女は深く頷きながらニッコリと笑う。

 掃除や、洗濯。

(でも、わたし、お洗濯しかしたことないけどな)
 それでもいいのだろうか。
 物置小屋の自分が寝起きするところは、キレイに片づけているつもりだけれど。
(それと同じ感じでやればいいのかな)
 だったら、大丈夫かも。

 フラウがコクリと頷いたのを同意と受け取ったのか、修道女が安堵に満ちた笑みを浮かべる。
「良かった。荷物をまとめておきなさいね。あちらに行っても、ここにいた時と同じように、人に触れないようにくれぐれもお気をつけなさい」
 それは物心ついたころからもう何度も重ねられている言葉で、フラウはもう一度、今度は修道女に向けて頷いた。
「じゃあ、荷物を入れる鞄は明日の朝に戸口に出しておくわね」
 そう告げて、修道女は足早に去って行く。その背中が建物の陰に消えるまで見送って、フラウは小さく息をついた。

(やっぱりここも、わたしがいていい場所じゃなかったんだ)

 確かに、寝る場所があって、食べるものがあって。
 生きていくことはできる場所。
 でも、それだけだった。
 風にのって、子どもたちの声がフラウに届く。
 弾けるような、笑い声。
 建物をグルッと回れば、彼女もその場所に行ける。けれども、フラウにそれは許されていない。フラウは、独りでいなければならないのだ。

「わたしにも、そばにいて良いよって言ってくれるひと、どこかにいるのかな」
 フラウは、乾いた地面にこぼすように、ポツリと呟いた。

 ――もしもそんなひとが現れてくれたなら。

 フラウはきっと、そのひとの為にどんなことでもできるだろう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

狂愛的ロマンス〜孤高の若頭の狂気めいた執着愛〜

羽村美海
恋愛
 古式ゆかしき華道の家元のお嬢様である美桜は、ある事情から、家をもりたてる駒となれるよう厳しく育てられてきた。  とうとうその日を迎え、見合いのため格式高い高級料亭の一室に赴いていた美桜は貞操の危機に見舞われる。  そこに現れた男により救われた美桜だったが、それがきっかけで思いがけない展開にーー  住む世界が違い、交わることのなかったはずの尊の不器用な優しさに触れ惹かれていく美桜の行き着く先は……? ✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦ ✧天澤美桜•20歳✧ 古式ゆかしき華道の家元の世間知らずな鳥籠のお嬢様 ✧九條 尊•30歳✧ 誰もが知るIT企業の経営者だが、実は裏社会の皇帝として畏れられている日本最大の極道組織泣く子も黙る極心会の若頭 ✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦ *西雲ササメ様より素敵な表紙をご提供頂きました✨ ※TL小説です。設定上強引な展開もあるので閲覧にはご注意ください。 ※設定や登場する人物、団体、グループの名称等全てフィクションです。 ※随時概要含め本文の改稿や修正等をしています。 ✧ ✧連載期間22.4.29〜22.7.7 ✧ ✧22.3.14 エブリスタ様にて先行公開✧ 【第15回らぶドロップス恋愛小説コンテスト一次選考通過作品です。コンテストの結果が出たので再公開しました。※エブリスタ様限定でヤス視点のSS公開中】

雨上がりに僕らは駆けていく Part1

平木明日香
恋愛
「隕石衝突の日(ジャイアント・インパクト)」 そう呼ばれた日から、世界は雲に覆われた。 明日は来る 誰もが、そう思っていた。 ごくありふれた日常の真後ろで、穏やかな陽に照らされた世界の輪郭を見るように。 風は時の流れに身を任せていた。 時は風の音の中に流れていた。 空は青く、どこまでも広かった。 それはまるで、雨の降る予感さえ、消し去るようで 世界が滅ぶのは、運命だった。 それは、偶然の産物に等しいものだったが、逃れられない「時間」でもあった。 未来。 ——数えきれないほどの膨大な「明日」が、世界にはあった。 けれども、その「時間」は来なかった。 秒速12kmという隕石の落下が、成層圏を越え、地上へと降ってきた。 明日へと流れる「空」を、越えて。 あの日から、決して止むことがない雨が降った。 隕石衝突で大気中に巻き上げられた塵や煤が、巨大な雲になったからだ。 その雲は空を覆い、世界を暗闇に包んだ。 明けることのない夜を、もたらしたのだ。 もう、空を飛ぶ鳥はいない。 翼を広げられる場所はない。 「未来」は、手の届かないところまで消え去った。 ずっと遠く、光さえも追いつけない、距離の果てに。 …けれども「今日」は、まだ残されていた。 それは「明日」に届き得るものではなかったが、“そうなれるかもしれない可能性“を秘めていた。 1995年、——1月。 世界の運命が揺らいだ、あの場所で。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

求職令嬢は恋愛禁止な竜騎士団に、子竜守メイドとして採用されました。

待鳥園子
恋愛
グレンジャー伯爵令嬢ウェンディは父が友人に裏切られ、社交界デビューを目前にして無一文になってしまった。 父は異国へと一人出稼ぎに行ってしまい、行く宛てのない姉を心配する弟を安心させるために、以前邸で働いていた竜騎士を頼ることに。 彼が働くアレイスター竜騎士団は『恋愛禁止』という厳格な規則があり、そのため若い女性は働いていない。しかし、ウェンディは竜力を持つ貴族の血を引く女性にしかなれないという『子竜守』として特別に採用されることになり……。 子竜守として働くことになった没落貴族令嬢が、不器用だけどとても優しい団長と恋愛禁止な竜騎士団で働くために秘密の契約結婚をすることなってしまう、ほのぼの子竜育てありな可愛い恋物語。 ※完結まで毎日更新です。

ふたりは片想い 〜騎士団長と司書の恋のゆくえ〜

長岡更紗
恋愛
王立図書館の司書として働いているミシェルが好きになったのは、騎士団長のスタンリー。 幼い頃に助けてもらった時から、スタンリーはミシェルのヒーローだった。 そんなずっと憧れていた人と、18歳で再会し、恋心を募らせながらミシェルはスタンリーと仲良くなっていく。 けれどお互いにお互いの気持ちを勘違いしまくりで……?! 元気いっぱいミシェルと、大人な魅力のスタンリー。そんな二人の恋の行方は。 他サイトにも投稿しています。

【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!

楠結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。 (リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……) 遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──! (かわいい、好きです、愛してます) (誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?) 二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない! ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。 (まさか。もしかして、心の声が聞こえている?) リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる? 二人の恋の結末はどうなっちゃうの?! 心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。 ✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。 ✳︎小説家になろうにも投稿しています♪

大好きだけど、結婚はできません!〜強面彼氏に強引に溺愛されて、困っています〜

楠結衣
恋愛
冷たい川に落ちてしまったリス獣人のミーナは、薄れゆく意識の中、水中を飛ぶような速さで泳いできた一人の青年に助け出される。 ミーナを助けてくれた鍛冶屋のリュークは、鋭く睨むワイルドな人で。思わず身をすくませたけど、見た目と違って優しいリュークに次第に心惹かれていく。 さらに結婚を前提の告白をされてしまうのだけど、リュークの夢は故郷で鍛冶屋をひらくことだと告げられて。 (リュークのことは好きだけど、彼が住むのは北にある氷の国。寒すぎると冬眠してしまう私には無理!) と断ったのに、なぜか諦めないリュークと期限付きでお試しの恋人に?! 「泊まっていい?」 「今日、泊まってけ」 「俺の故郷で結婚してほしい!」 あまく溺愛してくるリュークに、ミーナの好きの気持ちは加速していく。 やっぱり、氷の国に一緒に行きたい!寒さに慣れると決意したミーナはある行動に出る……。 ミーナの一途な想いの行方は?二人の恋の結末は?! 健気でかわいいリス獣人と、見た目が怖いのに甘々なペンギン獣人の恋物語。 一途で溺愛なハッピーエンドストーリーです。 *小説家になろう様でも掲載しています

幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。

秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚 13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。 歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。 そしてエリーゼは大人へと成長していく。 ※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。 小説家になろう様にも掲載しています。

処理中です...