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再会③

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「その人に話しかけても無駄だよ」

 パッと振り返ったクリスティーナの目は、マクシミリアンとモニクの後方、ちょうど家の角の辺りにいる老婆を捉えた。

「どうして、ですか? いったい、何が、お母さまに何が……」
 クリスティーナの視線が老婆と母の間を何度も行き来する。

 逢ったら、母は喜ぶだろうか、不快に思うだろうか、驚くだろうか――ここに着くまでの間に、クリスティーナは色々考えた。
 けれど、こんな反応は、全然予想していなかった。

 狼狽しているクリスティーナにマクシミリアンが歩み寄り、腕を伸ばしてくる。力強いそれが優しく彼女を引き寄せ、その中に包みこんだ。大きな手が頭の後ろにあてがわれ、ゆったりとした鼓動が響く広い胸に押し付けられた。
 クリスティーナはそれに耳を傾けながら、途方に暮れて目を母に向ける。

 穏やかで、満ち足りた表情。
 温かな視線は人形に向けられているけれど――茫洋としたそれは人形を通り抜けてその先にあるものを求めているようだった。この世には存在していない、何かを。

 マクシミリアンの鼓動に宥められながら安らいだ母の顔を見つめていると、次第にクリスティーナの中の混乱が鎮まってくる。

(話を、聴かなければ)
 母に何が起きているのか。

 クリスティーナはマクシミリアンの胸に両手を当てて、そっと力を入れる。その合図に彼はすぐに気付いて、腕の力を緩めてくれた。
 目を上げると、この上なく心配そうな顔が見返してくる。
 自分よりもよほど大きな打撃を受けているように見えるマクシミリアンに、クリスティーナは思わず笑みを浮かべてしまった。

「わたくしは、大丈夫です。ありがとうございました」
 クリスティーナのその言葉が効いたのか、それとも微笑みが効いたのか、いずれであるにしても、マクシミリアンの顔から険しさが和らぐ。
 もう少し手に力を入れると、背中に回されていた彼の手が離れていった。

 クリスティーナは一歩横に動いて、マクシミリアンの陰から出る。そうして、モニク、次いで老婆に目を向けた。
「母は、いつからこのような様子なのですか? モニクが最後にお母さまにお会いしたのは、わたくしが生まれてすぐ――二十年ほど前ですね?」
 訊ねた彼女に、モニクは血の気の失せた顔で頷いた。
「はい。あの頃もとてもお気持ちが沈まれていましたけれど、まだ、こんなふうでは……少なくとも、お話はできていました。お屋敷を出られるというお話は、とにかく急に決まって……私はエリーゼ様にご一緒するつもりだったのですが、エリーゼ様は私にティナ様の世話をするように言いつけられました。私にティナ様を見守って欲しい、と――」
「お母さま、が」
「はい。申し上げましたでしょう? エリーゼ様は、お腹の中におられる時からティナ様のことをこの上なく慈しんでおられたと。エリーゼ様にとって、ティナ様はご自身よりも遥かに大事な存在ですもの」

 クリスティーナの胸の中に、温かなものがジワリと湧いてくる。

 母の愛は、確かにあったのだ。
 母にとってきっと誰よりも近しい存在であろうモニクを、ティナの為に手放しても良いと思うほどに。

「……嬉しく思ったら、罰が当たるでしょうか」
 ポツリと呟くと、憮然とした声が降って来た。
「何故」
 顔を上げると、マクシミリアンがクリスティーナを見て、エリーゼを見て、またクリスティーナに戻って来た。
「貴女が嬉しいなら母上も嬉しいだろう」
 至極当然、何の疑問の余地もない、という口調で断言されて、思わずクリスティーナは笑ってしまった。
「そうでしょうか?」
「そうだ」
 また、即答。きっぱりと。
 マクシミリアンが言うなら、きっとそうなのだ。

 クリスティーナはエリーゼに目を遣り、別世界にいるような彼女に胸に痛みを覚えながらも、そっと微笑んだ。
「わかりました。お母さまがわたくしを想ってくださっていて、嬉しいです。とても、とても嬉しいです」
 クリスティーナが声に出して認めると、マクシミリアンはしばし彼女の微笑みを見つめてから、手を上げた。
 大きな掌がクリスティーナの頬をすっぽりと包み込む。気持ち頭を傾け、彼女は目を閉じその手のひらに頭を預ける。
 マクシミリアンに触れられるのは、ただこれだけでも、心地良い。頬から伝わる彼の熱が、全身を温める。

 彼の温もりに浸っていたクリスティーナだったけれども、静かに近づいた声にパッと目を開ける。
「――ここに来てひと月くらいは、一日中泣いてばっかだったよ。あんたを恋しがって」
『あんた』でクリスティーナに向けて顎をしゃくりながら、老婆が言った。
「あの子が、世話をしてくれって手紙と一緒にその人送り付けてきてさ。まあ、手はかからん人だし、世話賃もたっぷりもらってるからいいんだけど。日がな一日泣き暮らされるのは気が滅入ったけどね」

『あの子』とは誰だろう。
 ここにエリーゼを連れてきたのは、父のはず。

 その疑問を、クリスティーナはそのまま口にした。
「あの子、とは、どなたですか?」

「ああ、あんたの父親だよ。コディ――コデルロスだ」
 ずいぶんと親し気な老婆の言い方に、クリスティーナは目をしばたたかせた。
「あの、父とはどういうご関係でしょう」

 今初めて、そこに思い至る。
 考えてみたら、縁もゆかりもない人のところにポイと投げるように妻を任せるのもおかしな話だ。父に親戚がいるという話は、ついぞ聞いたことがないけれども。

 眉をひそめているクリスティーナに、老婆は肩を竦めた。
「コディはこの村にいたんだよ、子どもの頃」
「ここに、ですか?」
「ああ。母親に連れられてフラッとやって来たのが三つかそこらの頃かいな。それから一年か二年かして母親の方はまた姿を消してね。あの子だけ残ったんだ。放っておくわけにもいかないからうちの母親が引き取って、村の雑用させて食い扶持稼がせてたんじゃないかな。あたしもまだ子どもだったからあんまり覚えてないけどね、遊んでるところは見たことがなかった気がするよ。いつも何かしら仕事して」

 コデルロスの生い立ちを知らなかったクリスティーナは、言葉を失った。彼女にとって父は父として存在していて、どうやってあの父になったかなど、頭の片隅でも考えたことがなかった。
 思わぬ父の身の上話に呆然としていたクリスティーナは先を促す言葉もかけられずにいたけれど、反応のない彼女に構わず老婆は淡々と続ける。

「十をいくつか過ぎたくらいでこの村から出て行ってね、それから十年かもう少しくらいしてからかな、急にやってきて、あたしの母さんにこの家を建ててくれたんだ。昔あの子の世話をしてた時にかかった分の支払いだとかなんとか言って。母さんが死んでからはあたし一人で暮らしてたんだけど、そうしたら、あの人を寄越したんだよ」
 そこで彼女はハア、と息をついた。
「来た時から『はい』くらいしか言わない人だったけど、だんだん、それすらなくなってね。今じゃ、食べて寝てしかしないよ。それ以外は、ずっとああやって人形抱いて歌うたってる」

「医者には診せたのか?」
 低い声で尋ねたマクシミリアンに、老婆はまた肩を竦めた。
「別に、身体にゃ悪いとこないんだし。医者がどうこうできるもんでもないだろ。なんか、こうなってからの方が結構幸せそうだしね。少なくとも、泣き暮らすことはなくなったよ」

 ――『幸せ』そう。
 老婆のその言葉に、クリスティーナは唇を噛み締めた。マクシミリアンから離れ、エリーゼの前にしゃがみ込む。そうして、下からすくうように母の顔を覗き込む。
 そうやっても、やっぱり彼女の視線も表情も、動かなかった。

(今、本当に、お母さまはお幸せなのですか?)

 確かに、穏やかな顔だ。
 彼女がこれで幸せだというのなら、このまま、そっとしておくのがいいのかもしれない。

 けれども。

「わたくしは、お母さまに見ていただきたい」
 ポロリと、クリスティーナの口からこぼれた。
 見て欲しい。ここにいる、幸せでいる自分の姿を。
 目を合わせて、今現実に存在している『クリスティーナ』がいることを、知って欲しい。

 せっかく母が築いた安寧の小部屋から彼女を引きずり出したいと願うことは、間違っているだろうか。

 クリスティーナは手を伸ばし、人形を抱くエリーゼの手の甲にそっと触れた。

 何も、反応はない。
 この手に、触れて欲しい。
 触れたら応えて、手を握り返して欲しい。
 目を合わせて、微笑んで、声を聴かせてほしい。

(そう願うのは、いけないこと?)
 そのクリスティーナの心の中での問いに、マクシミリアンが答える。

「連れて帰ろう」
「え」
 振り仰ぐと、彼は数歩近付き、彼女の前にひざまずいた。
「母上はストレイフの屋敷に連れて帰る」
「マクシミリアンさま……」
「この人は貴女の母上だ。それに、貴女に逢いたがっていてこんなふうになったのなら、一緒にいた方がまだ回復する見込みがあるだろう」
「でも、一緒に暮らしたとしても、お母さまには、きっとわたくしのことがお判りになりません。お別れしたのが赤ちゃんの頃ですから」
「そのうち解かるようになる」
 迷いなく、彼は言いきった。

 その揺るぎない自信はいったいどこから湧いてくるのだろうと思いながらも、クリスティーナの胸が熱くなった。視界が滲んで、溢れた涙がコロリと頬を伝い落ちる。

「……ありがとうございます」
 すん、とクリスティーナが小さく鼻をすすると、マクシミリアンが眉間にしわを刻んだ。
「礼はいらない。だが――」

 彼が口ごもる。
 微かに目を泳がせたマクシミリアンに、クリスティーナは首をかしげる。

「『だが』?」
 いつもよりも高さの差がない真っ直ぐな目線でクリスティーナに凝視され、彼は気まずげにギュッと唇を引き結んでから、またそれを開いた。

「泣き止んでくれ。貴女が泣くのを見るのは嫌いだ」

 本当に不本意気にムスッと言うから、思わずクリスティーナは瞬きをして、その拍子にまた涙が転げ落ちた。

「これは、悲しいとかではないですよ?」
「それでも、泣いて欲しくない。貴女には笑っていて欲しい」

 子どものように要求を突きつける。
 そんなマクシミリアンに、クリスティーナの顔には自然と笑顔が広がっていく。月下で優しく咲く大輪の花がほころぶのにも似た彼女の微笑みを、マクシミリアンは束の間凝視した。彼はそうしなければ彼女の笑顔を壊してしまうとでも思っているかのように息を詰め、そして、そろそろと吐息をこぼす。

「それがいい」

 彼は囁き、穏やかだけれども確かな微笑みを、返してくれた。
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