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第二部:天上を舞う天使は雲の中を惑いそして墜ちる。
あやふやな記憶②
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アンジェリカたち一行はあれからもう少し進み、行き着いた小川のほとりで夜を明かすことになった。まだ、日は高い。
「私は薪を拾いに行ってくる」
何となく気まずさが残っていて、気持ちの整理がつくまで少しの間だけでもブライアンと兄から離れたかったアンジェリカは、荷物を下ろすと同時にそう告げて二人のもとから去ろうと図った。けれどそこにすかさずそこに声がかかる。
「あ、じゃあ、僕も行くよ」
もちろん、声の主はブライアンだ。
「要らな――判った」
アンジェリカは反射的に拒否しようとして、それでは意味がない、と言い切る前に思いとどまった。
ブライアンには何も落ち度などないのに、いつまでも理不尽な苛立ちを彼にぶつけているわけにはいかない。第一、勝手に気まずくなっているのはアンジェリカなのだ。ブライアンもガブリエルも何一つ気にしていない――少なくとも、そう装ってくれている。
(それに、一緒に行けば、さっきのことも謝れる)
兄がいたら余計な横やりが入りそうだけれども、ブライアンと二人きりなら、この曖昧模糊とした気持ちの揺れを制御しながらゆっくりと謝罪ができるかもしれない。
「では、行こう」
ブライアンにそう告げて、アンジェリカは踵を返して歩き出した。数歩離れてついてくる彼女のものよりも重くてゆったりとした足音に、意識のほとんどが奪われる。
岩ばかりが目立つノールス地方の山を下りてからは、一転、樹が生い茂る森の中に入ったから、枯れ枝を探すのもそう難しいことではない。しばらくうろついていると、すぐに両腕一杯に枝を抱えることになった。ボチボチ「もう持てない」というところまできていて、アンジェリカは焦る。
何か言わなければと思いつつ、結局、何も言えていない。
礼や謝罪どころか、最初の誘いのひと言からこっち、ちょっとした言葉一つ、交わしていなかった。
常なら放っておいても何かとブライアンの方から話しかけてくるのに、二人きりになってから、それもない。
鷹揚な彼も、流石にアンジェリカの意固地で不快な態度にうんざりしているのではないだろうか。
――ブライアンの背中を見つめていると、どんどん後ろ向きな気分になってきた。
(せめて、気遣ってくれた礼だけでも……)
アンジェリカが息を吸い込み声を出す準備をした――ところで。
「じゃあ、そろそろ戻ろうか?」
アンジェリカに負けず劣らず黙々と作業をしていたブライアンが、不意にそんなことを言って彼女に向き直った。
「!」
彼とまともに目が合って、暴走する馬車の前に飛び出した鹿さながらに息を詰めて固まったアンジェリカの手から、バラバラと枯れ枝が落ちた。
「アンジェリカ!?」
呼ばれてハタと我に返ったアンジェリカは、すぐさましゃがみ込んで枝を拾い直す。
こんな失敗、みっともなくて、恥ずかしい。
枝拾いにかこつけてうつむいていたアンジェリカの顔を、駆け寄ってきたブライアンが身を屈めて覗き込んできた。
「大丈夫かい? やっぱりまだ調子が悪いんだろう? あとは僕がやるから、先に戻って休んでいてよ」
ブライアンのその顔いっぱいに、『心配だ』と書かれている。
さっきあれほどにべもなく突っぱねられたというのに、やっぱり少しもこたえていないのだ、この人は。どんなに追い払っても、いつの間にかそっと傍に寄り添っている。
どうしてそんなふうにあれるのだろうとマジマジと見つめていると、ブライアンの眉根が寄った。
「えっと……アンジェリカ? 本当に、大丈夫かい?」
重ねた労りは、ごく自然に贈られた。ブライアンの言い方があまりに自然だったせいか、それとも、アンジェリカの方にも準備ができつつあったせいか、さっきまでは喉が詰まったようだったのに、驚くほどするりと、彼女の口から言葉が滑り出る。
「さっきはありがとう」
「……え?」
ひとたび声を出した後は、その先を続けることは難しいことではなくなった。
「私の身体を気遣ってくれて。本当は、とても頭が痛かった」
それだけ言ってしまえば、驚くほど気が楽になる。
アンジェリカの短い礼にブライアンは束の間目をしばたたかせ、次いで、パアッと笑顔になった。まるで一瞬にして辺りが花畑にでもなったかのような、笑顔に。
何がそんなに嬉しいのかと尋ねたくなるような彼の反応に、ここまで出し渋ってきたアンジェリカは妙に申し訳ないような気分になった。
「すまなかった……」
つい謝罪が口を突いて出る。と、ブライアンが眉根を寄せた。
「どうして謝るんだい? アンジェリカは悪いことは何もしていないのだから、謝る必要はないよ」
「けれど、旅に出てからというもの、あなたには嫌な態度を取っていた――ここ数日は、特に」
「いやまぁ、あれはあれでごちそうさまというか……」
そこで彼は、ふと笑う。
「僕は色々なアンジェリカが見られて、嬉しかったよ」
やっぱり、ブライアンはまったく気にしていない。
彼女の方は、あれほど気に病んでいたのに。
今度はアンジェリカの眉間にしわが寄って、彼が小首をかしげる。
「どうかした?」
何だろう、無性に、その端正な頬を引っ張ってやりたくなった。
「……あなたは、怒りを覚えることがあるのか?」
「怒り?」
「あるいは、不満とか」
アンジェリカがむっつり付け足すと、ブライアンは真剣に考えこみ始めた。
「怒る、ねぇ」
――どうやら、そこまで考え込まなければ出てこないようだ。
芯の芯まで柔軟だと評価するべきか、能天気が過ぎると呆れるべきか。
呆れ半分、感心半分の吐息をこぼしたアンジェリカに、ブライアンが顔を上げる。
「アンジェリカ?」
翳りの欠片もないその緑の瞳を見ていると、虚栄や保身が削げ落ちた素直な気持ちが声になった。
「私はあなたがうらやましいのかもしれない」
「え?」
ブライアンがキョトンとした。アンジェリカは小さく肩をすくめて、少し言葉を変えて繰り返す。
「時々、ブライアンのようになれたらいいのに、と思うことがある気がする」
「はぁ? 僕かい? どうして、またそんなことを考えたりするんだい?」
心底意外そうな顔で問われたアンジェリカは、しばし考える。
どうしてか。
「……あなたは、ひとを和ませられるからかな」
「え」
「ブライアンは、安定剤みたいだ。傍にいると、やはり落ち着く」
沈黙。
何故か彼は気持ちうつむき加減で固まっている。
「ブライアン?」
呼びかけると、小さくハハッと笑い声が聞こえた。
「落ち着く、ね。そっか、やっぱりね。確かにそれって大事な要素だよね」
そしてまた、虚ろな笑いが。
アンジェリカとしては最上級に近い誉め言葉だったのだが、どうやらブライアンにはそう受け取られなかったらしい。そう言えば、前にも似たようなことがあっただろうか。
「私の言葉は気に障った?」
もしもそうなら、自分が感じているものをどう伝えたら良いのか判らない。
困惑と共にそう尋ねると、ブライアンは少し困ったような顔でアンジェリカを見てから、かぶりを振った。
「いや、気に障ったわけではないよ。ただ、そうだな、ある種の関係を望んでいるときには、あまり耳にしたくない言葉というか……まあ、これは僕の中での問題だから、アンジェリカは気にしないでいいんだよ。そうだな、あと一年後くらいには、解かるようになっているかもしれないよ」
そう言ってから、彼はブツブツと「そうなってくれないと困る」とかなんとか呟いている。
どういうことだろうとアンジェリカが見つめていると、彼女の視線に気付いたブライアンは口をつぐみ、ヘラッと笑った。
「何でもないよ。ここは、僕が頑張るところだからね」
彼は、そんな良く解らないことを言う。
けれど、ブライアンがもっと頑張らなければというならば、アンジェリカも――彼女の方こそ、そうすべきなのだ。
アンジェリカは少し考え、自分の中にわだかまっている問題を口に出す。
「私には、まだ欠けた記憶があるらしい。何か、一番大事な欠片が足りないような気がする。それもあって、苛ついているのかもしれない」
実際、こんなふうに気持ちが乱れるようになったのは、記憶が戻ってからだ。まだ一部が足りない、記憶が。
全てを取り戻せたら、元のように揺らぎのない自分に戻れるに違いない。
――これは、そうであって欲しいという、アンジェリカの願望でもあった。こんな不安定な自分は、嫌だったから。
唇を噛んだアンジェリカをブライアンは静かに見つめ、そして、そっと問うてくる。
「それは……崖から落ちる前のこと? そのことも頭に引っかかっているんだろう?」
彼女は目をしばたたかせてブライアンを見返す。彼はまるで、アンジェリカ自身よりも彼女のことを知っているかのような顔をしていた。
「どうしてそれを」
記憶の欠落のことは、初めて口にしたはずだ。ましてや、どの記憶かなど、兄にも絶対に言っていない。
ブライアンがさらに何かを言いかけた時、微かな女性の悲鳴がどこからか聞こえてきた。
「私は薪を拾いに行ってくる」
何となく気まずさが残っていて、気持ちの整理がつくまで少しの間だけでもブライアンと兄から離れたかったアンジェリカは、荷物を下ろすと同時にそう告げて二人のもとから去ろうと図った。けれどそこにすかさずそこに声がかかる。
「あ、じゃあ、僕も行くよ」
もちろん、声の主はブライアンだ。
「要らな――判った」
アンジェリカは反射的に拒否しようとして、それでは意味がない、と言い切る前に思いとどまった。
ブライアンには何も落ち度などないのに、いつまでも理不尽な苛立ちを彼にぶつけているわけにはいかない。第一、勝手に気まずくなっているのはアンジェリカなのだ。ブライアンもガブリエルも何一つ気にしていない――少なくとも、そう装ってくれている。
(それに、一緒に行けば、さっきのことも謝れる)
兄がいたら余計な横やりが入りそうだけれども、ブライアンと二人きりなら、この曖昧模糊とした気持ちの揺れを制御しながらゆっくりと謝罪ができるかもしれない。
「では、行こう」
ブライアンにそう告げて、アンジェリカは踵を返して歩き出した。数歩離れてついてくる彼女のものよりも重くてゆったりとした足音に、意識のほとんどが奪われる。
岩ばかりが目立つノールス地方の山を下りてからは、一転、樹が生い茂る森の中に入ったから、枯れ枝を探すのもそう難しいことではない。しばらくうろついていると、すぐに両腕一杯に枝を抱えることになった。ボチボチ「もう持てない」というところまできていて、アンジェリカは焦る。
何か言わなければと思いつつ、結局、何も言えていない。
礼や謝罪どころか、最初の誘いのひと言からこっち、ちょっとした言葉一つ、交わしていなかった。
常なら放っておいても何かとブライアンの方から話しかけてくるのに、二人きりになってから、それもない。
鷹揚な彼も、流石にアンジェリカの意固地で不快な態度にうんざりしているのではないだろうか。
――ブライアンの背中を見つめていると、どんどん後ろ向きな気分になってきた。
(せめて、気遣ってくれた礼だけでも……)
アンジェリカが息を吸い込み声を出す準備をした――ところで。
「じゃあ、そろそろ戻ろうか?」
アンジェリカに負けず劣らず黙々と作業をしていたブライアンが、不意にそんなことを言って彼女に向き直った。
「!」
彼とまともに目が合って、暴走する馬車の前に飛び出した鹿さながらに息を詰めて固まったアンジェリカの手から、バラバラと枯れ枝が落ちた。
「アンジェリカ!?」
呼ばれてハタと我に返ったアンジェリカは、すぐさましゃがみ込んで枝を拾い直す。
こんな失敗、みっともなくて、恥ずかしい。
枝拾いにかこつけてうつむいていたアンジェリカの顔を、駆け寄ってきたブライアンが身を屈めて覗き込んできた。
「大丈夫かい? やっぱりまだ調子が悪いんだろう? あとは僕がやるから、先に戻って休んでいてよ」
ブライアンのその顔いっぱいに、『心配だ』と書かれている。
さっきあれほどにべもなく突っぱねられたというのに、やっぱり少しもこたえていないのだ、この人は。どんなに追い払っても、いつの間にかそっと傍に寄り添っている。
どうしてそんなふうにあれるのだろうとマジマジと見つめていると、ブライアンの眉根が寄った。
「えっと……アンジェリカ? 本当に、大丈夫かい?」
重ねた労りは、ごく自然に贈られた。ブライアンの言い方があまりに自然だったせいか、それとも、アンジェリカの方にも準備ができつつあったせいか、さっきまでは喉が詰まったようだったのに、驚くほどするりと、彼女の口から言葉が滑り出る。
「さっきはありがとう」
「……え?」
ひとたび声を出した後は、その先を続けることは難しいことではなくなった。
「私の身体を気遣ってくれて。本当は、とても頭が痛かった」
それだけ言ってしまえば、驚くほど気が楽になる。
アンジェリカの短い礼にブライアンは束の間目をしばたたかせ、次いで、パアッと笑顔になった。まるで一瞬にして辺りが花畑にでもなったかのような、笑顔に。
何がそんなに嬉しいのかと尋ねたくなるような彼の反応に、ここまで出し渋ってきたアンジェリカは妙に申し訳ないような気分になった。
「すまなかった……」
つい謝罪が口を突いて出る。と、ブライアンが眉根を寄せた。
「どうして謝るんだい? アンジェリカは悪いことは何もしていないのだから、謝る必要はないよ」
「けれど、旅に出てからというもの、あなたには嫌な態度を取っていた――ここ数日は、特に」
「いやまぁ、あれはあれでごちそうさまというか……」
そこで彼は、ふと笑う。
「僕は色々なアンジェリカが見られて、嬉しかったよ」
やっぱり、ブライアンはまったく気にしていない。
彼女の方は、あれほど気に病んでいたのに。
今度はアンジェリカの眉間にしわが寄って、彼が小首をかしげる。
「どうかした?」
何だろう、無性に、その端正な頬を引っ張ってやりたくなった。
「……あなたは、怒りを覚えることがあるのか?」
「怒り?」
「あるいは、不満とか」
アンジェリカがむっつり付け足すと、ブライアンは真剣に考えこみ始めた。
「怒る、ねぇ」
――どうやら、そこまで考え込まなければ出てこないようだ。
芯の芯まで柔軟だと評価するべきか、能天気が過ぎると呆れるべきか。
呆れ半分、感心半分の吐息をこぼしたアンジェリカに、ブライアンが顔を上げる。
「アンジェリカ?」
翳りの欠片もないその緑の瞳を見ていると、虚栄や保身が削げ落ちた素直な気持ちが声になった。
「私はあなたがうらやましいのかもしれない」
「え?」
ブライアンがキョトンとした。アンジェリカは小さく肩をすくめて、少し言葉を変えて繰り返す。
「時々、ブライアンのようになれたらいいのに、と思うことがある気がする」
「はぁ? 僕かい? どうして、またそんなことを考えたりするんだい?」
心底意外そうな顔で問われたアンジェリカは、しばし考える。
どうしてか。
「……あなたは、ひとを和ませられるからかな」
「え」
「ブライアンは、安定剤みたいだ。傍にいると、やはり落ち着く」
沈黙。
何故か彼は気持ちうつむき加減で固まっている。
「ブライアン?」
呼びかけると、小さくハハッと笑い声が聞こえた。
「落ち着く、ね。そっか、やっぱりね。確かにそれって大事な要素だよね」
そしてまた、虚ろな笑いが。
アンジェリカとしては最上級に近い誉め言葉だったのだが、どうやらブライアンにはそう受け取られなかったらしい。そう言えば、前にも似たようなことがあっただろうか。
「私の言葉は気に障った?」
もしもそうなら、自分が感じているものをどう伝えたら良いのか判らない。
困惑と共にそう尋ねると、ブライアンは少し困ったような顔でアンジェリカを見てから、かぶりを振った。
「いや、気に障ったわけではないよ。ただ、そうだな、ある種の関係を望んでいるときには、あまり耳にしたくない言葉というか……まあ、これは僕の中での問題だから、アンジェリカは気にしないでいいんだよ。そうだな、あと一年後くらいには、解かるようになっているかもしれないよ」
そう言ってから、彼はブツブツと「そうなってくれないと困る」とかなんとか呟いている。
どういうことだろうとアンジェリカが見つめていると、彼女の視線に気付いたブライアンは口をつぐみ、ヘラッと笑った。
「何でもないよ。ここは、僕が頑張るところだからね」
彼は、そんな良く解らないことを言う。
けれど、ブライアンがもっと頑張らなければというならば、アンジェリカも――彼女の方こそ、そうすべきなのだ。
アンジェリカは少し考え、自分の中にわだかまっている問題を口に出す。
「私には、まだ欠けた記憶があるらしい。何か、一番大事な欠片が足りないような気がする。それもあって、苛ついているのかもしれない」
実際、こんなふうに気持ちが乱れるようになったのは、記憶が戻ってからだ。まだ一部が足りない、記憶が。
全てを取り戻せたら、元のように揺らぎのない自分に戻れるに違いない。
――これは、そうであって欲しいという、アンジェリカの願望でもあった。こんな不安定な自分は、嫌だったから。
唇を噛んだアンジェリカをブライアンは静かに見つめ、そして、そっと問うてくる。
「それは……崖から落ちる前のこと? そのことも頭に引っかかっているんだろう?」
彼女は目をしばたたかせてブライアンを見返す。彼はまるで、アンジェリカ自身よりも彼女のことを知っているかのような顔をしていた。
「どうしてそれを」
記憶の欠落のことは、初めて口にしたはずだ。ましてや、どの記憶かなど、兄にも絶対に言っていない。
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