あなたの心に触れたくて

トウリン

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壁の崩壊②

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「お兄さま――いつ……おいでに……」

 訪問者があれば、必ず先に会うかどうかの打診があるはずなのに。

 戸惑いながらもクリスティーナは立ち上がり、アランに向き直った。
 彼女の問いに答えることなく歩み寄ってきた彼の足取りは、あの晩と同じように危なっかしくふらついている。多分、また、酔っているのだ。

「のんびりお茶か。イイご身分だなぁ」
 少しも愉快そうではない嗤いを浮かべたアランはテーブルの上に置かれたカップに目をやり、クリスティーナの飲みさしに手を伸ばす。それをグイと呷って、顔をしかめた。
「酒はないのかよ」
 不満そうに呟いて、ふと気付いたようにその場にいるもう一人に目を留める。
「あれ、そいつ……我らが母上じゃないか。連れてきたのか」
 アランのその声に、再会の喜びも母に対する尊敬の念も感じられない。

 アランがエリーゼに注ぐ眼差しはとても嫌な印象を受けるもので、クリスティーナはさりげなく横に動いて彼の視線を遮る位置に立った。
「お母さまのことはお構いなく。それよりも、ご用は何でしょうか?」
 もちろん、この異母兄がただクリスティーナに会うためだけに訪れるわけがない。きっと何か目的があるはず。
 背筋をただしてアランを見上げると、彼の薄ら笑いが消えた。
「何だよ、お兄さまに会えて嬉しくないのかよ」
「……」

 彼とは、ヴィヴィエの家にいた頃でも、一年を通して顔を合わせることすらほとんどなかった。稀に会うことがあっても父に従順なだけのクリスティーナを馬鹿にし、嗤うだけだった。
 コデルロスと話をして、彼の人となりを思い知って、ただただ理解できなかっただけの異母兄に同情する気持ちは生まれた。でも、だからと言って、今さら仲の良い兄妹になれるとも思えない。

 唇を引き結んでアランを見据えるクリスティーナに、彼の目がいやな光を帯び始める。
「ずいぶん生意気になったもんだ。前は目を合わせるのがやっとってとこだったのにな」
 アランの手が伸び、クリスティーナの顎を掴んだ。酔っているのにその力は強く、指先がきつく食い込んでくる。
「放して、ください」
「ああ?」
「手を、放してください」
 抗議は無視され、ギリ、とアランの指に一層力が籠められた。締め付けは痛みを覚えるほどのものになっていたけれど、クリスティーナは異母兄から目を逸らさず、見返し続ける。
 彼の顎に筋が立ち、固く食い締められたことが見て取れた。

「気に入らねぇなぁ」
 喉の奥で唸るような声。言葉以上にその声音から、彼の苛立ちが伝わってくる。

 不意に、ポツリと彼が呟く。

「だからなのか」

 意味がつながらないアランの一言に、クリスティーナは眉根を寄せた。
「え?」
 彼女の問い返しに答えるふうでもなく、彼は続けて独り言つ。
「だから、親父はあんなことを言い出したのか」
「お父さまが、何を?」
 訊ねたクリスティーナに、ぼんやりと焦点が定まらない眼差しでアランが答える。
「オレを勘当しやがった。家を出て行け、借金も自分で何とかしろってさ」
「まさか、そんな」
「おまけに自分が死んだらお前とあの男の子どもに全部継がせるんだとよ」

 クリスティーナは息を呑み、そして唇を噛み締めた。
 そんなバカなと言いたかったけれども、あの父であればするだろう。自分の役に立たないとなれば、簡単に切り捨てる。父の本当の姿を知った今では、むしろ、これまでそうしなかったことの方が、不思議なくらいだ。多分クリスティーナにも期待していなかったから、アランを跡取りにしておくのも仕方がないと思っていたのだろう。
「お父さまと、お話を――」
「できるわけがないだろう。あいつが人の言い分なんか聞くもんか」
 拗ねた子どものような言い方。
 マクシミリアンとそう年が違わないはずなのに、アランは幼かった。まるで、十歳かそこらで成長をやめてしまったかのように。
 そう思ったとき、クリスティーナの顔には同情の念が表れてしまったのかもしれない。

 ギラリとアランの表情が変わる。
「何だよ、オレをバカにしてるのか?」
「違います、バカになんて――」
「してるだろう! あれだけ親父に気に入られたがってたんだからな、ようやく望みが叶って、愛想尽かされたオレのことはバカにしてやがるんだ!」
 ギラギラと異様に目を光らせて、彼は喚き立てた。
 突然、噴き出すように激高したアランに、クリスティーナの声は届きそうになかった。声をかければかけるほど、むしろ悪い方向に進んでしまいそうだ。

 今は、これ以上事を荒立てないことに専念して、モニクが戻るのを待つしかない。
 そう思って口をつぐんだクリスティーナに、アランの目がまた嫌な光を帯びる。
「何だよ、今度は無視か? ああ? 何とか言えよ。はっきり言ったらどうだ、ろくでなしとでも役立たずとでも。ああ、オレはダメな奴だよな。解ってるよ」
 もう、彼はクリスティーナの返事など求めていない。一方的にがなり立てているだけだ。

(モニク……誰か……)
 エリーゼの為に人払いをしていることが、仇になった。普段なら、大声を上げれば庭師が来てくれるだろうに。
(でも、わたくしに注意が向いていてくだされば、お母さまには目がいかないで済む)
 クリスティーナは、アランの矛先がエリーゼに向かないことだけを祈った。父によく似た彼に掴みかかられでもしたら、せっかく落ち着きつつある彼女の容体がまた後退してしまう。それだけは、何としても避けたかった。

 息をひそめて見守るクリスティーナの上で、アランは、何か意味の解からないことをブツブツと呟いていた。
 と、茫洋としていた彼の視線がクリスティーナに注がれ、焦点が合う。

「……オレはお前の旦那とは違うんだとさ。オレは出来損ないで、あいつとは違うと――クソ。ああそうだよ、オレは何もできない……」
 声は段々尻すぼみとなり、アランはうつむいた。クリスティーナの顎を掴んでいた彼の手から力が抜けて、だらりと下りる。

「お兄さま」
 父に報われない辛さを知るクリスティーナは、どうしても、彼に憐れみを覚えてしまう。
 それに、同じように父から無視され、否定され続けても、女のクリスティーナと男の彼とでは、感じるものが大きく違うのだろう。
 離れていったアランの手と入れ替わりで、クリスティーナは彼に手を伸ばした。身体の両脇に垂らされた彼の腕に、そっと触れる。

「お兄さま……」
 どんよりと曇った彼の目が腕に触れているクリスティーナの手に向けられ、次いで彼女の顔に向く。視線はまた下に向かい、彼女の下腹あたりに注がれた。

「――その腹じゃ、まだ孕んでいないんだろう?」
「え、……」
 クリスティーナの耳は、あまりに不躾なアランの言葉を受け入れなかった。いや、耳には入ったけれども、頭がその意味を理解しなかった。

「お兄さま、何を――キャ!?」
 唐突に、アランがクリスティーナの腕を掴んで引っ張った。ふら付いた彼女に足を引っかけるようにして、そのまま押し倒す。
「!」
 背中を硬い地面で強かに打って、クリスティーナは息を詰まらせた。

 顔をしかめる彼女にのしかかるようにして、淡々とした感情を含まない声で、アランが告げる。
「お前の旦那より先にオレの子を産ませてやるよ」
 言うなりアランはクリスティーナの抵抗などものともせずに、彼女の両手を一まとめにして頭の上で押さえ付けた。
「お兄さま! 放して、放してください!」
 クリスティーナは懸命に声を上げる。けれども、彼女のその制止の声は、衝動に駆られたアランの耳には全く届いていないようだった。

 叫んでも、マクシミリアンがいる屋敷の書斎までは声が届かない。それでも、大声を張り上げれば誰かが聞きつけてくれるかもしれない。
 クリスティーナは息を吸い込み――声を上げようとしたところで不意に捉えられていた手が解放された。起き上がろうとする間もなく今度は彼女の口を彼の手が覆い、地面に縫い留める。
「んぅッ!」

 力では敵わない。
 助けを呼ぶための声も出せない。
 アランを見上げれば、うつろな眼差しがクリスティーナを素通りしていた。

 彼が報復したいのは、クリスティーナではない――彼が認めさせたいと思っているのは、目を向けさせたいと思っているのは、父であるコデルロスなのだ。絶対に、これは異母兄の本意ではない。

 それが判っていても間近に迫るアランの血走った眼差しが耐え難くて、クリスティーナは固く目を閉じる。

(誰か――マクシミリアンさま!)

 心の中で彼を呼んだ、その時。

「いやぁあああ! やめてやめてやめて! 放して! 放して! 放して!」

 ――絹を引き裂くような声が響き渡ると同時に、クリスティーナを押さえ付けるアランの力が、わずかに、揺らいだ。
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