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6月の憂鬱
6月‐2
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窓から見えた場所に恭介が着いた時、静香はまだそこにいた。一歩たりとも動いた様子はない。
彼女がどこかに行くつもりでそこに立っているわけではなく、何らかの意図を持って留まっているのだということは、たいして頭を働かせなくても判った。
「ちょっと、お嬢サマ、こんなとこで何やってるんですか」
「まあ、武藤」
恭介の呼びかけに静香はゆっくりと振り返り、彼の姿を認めて花開くように微笑んだ。曇天でくすんだ庭が、一瞬、明るくなったように感じられて、思わず彼は目を瞬かせる。
髪の先から雫を滴らせているというのに、静香はまるで気にしていない。爽やかな晴天の下で、心地よい日差しを楽しんでいるかのようだ。
「まあ、じゃないですよ。びしょ濡れじゃないですか。ほら、屋敷に戻りますよ。六月ったってこんな天気じゃ気温は低いんですから」
ふと触れた静香の頬は、すっかり熱を失っている。
「……冷えきってんじゃないですか。風呂の用意をしますから、入っちゃってくださいよ」
傘の柄を顎に挟んだ恭介はバスタオルを彼女の頭に被せ、屋敷へ促しながらぶつぶつとそう言い聞かせる。
さしたるこだわりはなかったのか、彼女は特に拒むことなく、素直に恭介に従った。だが、常と変らぬおっとりした歩みはカタツムリのようで、彼はいっそ肩に担ぎ上げてしまいたくなる。が、流石にそれはできないので、ジリジリしながら精一杯の速度で急き立てた。
屋内に戻った恭介は、風呂が沸きあがるまでの間、取り敢えず大判のタオルで丁寧に静香の髪を乾かし始めた。
彼女の髪はストレートだが細いので、うっかりすると絡まってしまう。
ここで働き始めた頃、つい自分の髪と同じように扱ってしまってえらく難儀したのは、色褪せない記憶だ。
――今では、もう、すっかり手馴れたものだが。
「まったく……何考えてんですか」
小言を口にしながらも、丁寧に、だが手早く髪の水気を取る恭介の耳に、タオルの下から小さな笑い声が届く。
「ふふ。雨が、懐かしくて」
「え?」
「しばらく雨に濡れるというものを経験していなかったから、思い出したくなってしまったの」
「そんな経験、しないに越したことはないでしょう」
呆れながらそう答え、恭介はその言葉の裏にあるものに気付く。
しばらく、ということは、以前に濡れたことがあるということか。
だが、彼が来てから、そんな目に遭わせた記憶はない。となると、自分が居付く前のことだ。
――こんなお嬢が、雨に濡れることなんてあるのか……?
いったい、何をしでかしたのだろうかと首を捻りながら、タオルの隙間から見え隠れする彼女を見下ろす。少し髪が乱れた彼女の顔は、いつもよりも幼く見えた。
その顔に、ふっと恭介の脳裏に何かがよぎる。だが、陽炎のように不確かなそれは、ほんの一瞬で消え失せた。
「どうかして?」
彼の手が止まったことに気付いた静香が、そっとタオルを掻き分けて見上げてくる。髪が濡れているせいかいつもよりも目が大きく見えて、仔猫のようだと思いながら、恭介はバスタオルを取り去ると肩を竦めた。
「いや……何でも……そろそろ風呂が準備できた頃ですよ。バスルームに行ってください」
「――そうさせていただきますわ。あなたも随分濡れてらっしゃること。早くお着替えになってね?」
そう答えた静香はスルリと恭介の手の中から抜け出すと、彼の横をすり抜けて浴室へと脚を向ける。その背中を見送って、彼は手の中に残ったタオルを何となく弄んだ。
彼女がどこかに行くつもりでそこに立っているわけではなく、何らかの意図を持って留まっているのだということは、たいして頭を働かせなくても判った。
「ちょっと、お嬢サマ、こんなとこで何やってるんですか」
「まあ、武藤」
恭介の呼びかけに静香はゆっくりと振り返り、彼の姿を認めて花開くように微笑んだ。曇天でくすんだ庭が、一瞬、明るくなったように感じられて、思わず彼は目を瞬かせる。
髪の先から雫を滴らせているというのに、静香はまるで気にしていない。爽やかな晴天の下で、心地よい日差しを楽しんでいるかのようだ。
「まあ、じゃないですよ。びしょ濡れじゃないですか。ほら、屋敷に戻りますよ。六月ったってこんな天気じゃ気温は低いんですから」
ふと触れた静香の頬は、すっかり熱を失っている。
「……冷えきってんじゃないですか。風呂の用意をしますから、入っちゃってくださいよ」
傘の柄を顎に挟んだ恭介はバスタオルを彼女の頭に被せ、屋敷へ促しながらぶつぶつとそう言い聞かせる。
さしたるこだわりはなかったのか、彼女は特に拒むことなく、素直に恭介に従った。だが、常と変らぬおっとりした歩みはカタツムリのようで、彼はいっそ肩に担ぎ上げてしまいたくなる。が、流石にそれはできないので、ジリジリしながら精一杯の速度で急き立てた。
屋内に戻った恭介は、風呂が沸きあがるまでの間、取り敢えず大判のタオルで丁寧に静香の髪を乾かし始めた。
彼女の髪はストレートだが細いので、うっかりすると絡まってしまう。
ここで働き始めた頃、つい自分の髪と同じように扱ってしまってえらく難儀したのは、色褪せない記憶だ。
――今では、もう、すっかり手馴れたものだが。
「まったく……何考えてんですか」
小言を口にしながらも、丁寧に、だが手早く髪の水気を取る恭介の耳に、タオルの下から小さな笑い声が届く。
「ふふ。雨が、懐かしくて」
「え?」
「しばらく雨に濡れるというものを経験していなかったから、思い出したくなってしまったの」
「そんな経験、しないに越したことはないでしょう」
呆れながらそう答え、恭介はその言葉の裏にあるものに気付く。
しばらく、ということは、以前に濡れたことがあるということか。
だが、彼が来てから、そんな目に遭わせた記憶はない。となると、自分が居付く前のことだ。
――こんなお嬢が、雨に濡れることなんてあるのか……?
いったい、何をしでかしたのだろうかと首を捻りながら、タオルの隙間から見え隠れする彼女を見下ろす。少し髪が乱れた彼女の顔は、いつもよりも幼く見えた。
その顔に、ふっと恭介の脳裏に何かがよぎる。だが、陽炎のように不確かなそれは、ほんの一瞬で消え失せた。
「どうかして?」
彼の手が止まったことに気付いた静香が、そっとタオルを掻き分けて見上げてくる。髪が濡れているせいかいつもよりも目が大きく見えて、仔猫のようだと思いながら、恭介はバスタオルを取り去ると肩を竦めた。
「いや……何でも……そろそろ風呂が準備できた頃ですよ。バスルームに行ってください」
「――そうさせていただきますわ。あなたも随分濡れてらっしゃること。早くお着替えになってね?」
そう答えた静香はスルリと恭介の手の中から抜け出すと、彼の横をすり抜けて浴室へと脚を向ける。その背中を見送って、彼は手の中に残ったタオルを何となく弄んだ。
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