天使と狼

トウリン

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第三章:ほんとうの、はじまり

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「岩崎先生が、意外にアレだったし。あんたには、あのくらいの方がいいのかもねって、思うようになったわ。岩崎先生が相手でも、牛の歩みだし。他の男だったら、どうにかなる前に共白髪になっちゃいそうだしね。だいたい、先生より、あんたの方が上手《うわて》だわ」
「上手?」
「そう。だって、あんたの方が先生を振り回してるでしょ?」
「そんなこと、ないですよ」
 自分の方が、一美の言動にオタオタしてばかりだ。一方、彼はといえば常に泰然自若としているようにしか見えない。
 けれど、リコは肩をすくめる。

「はたから見てると、そんなことあるわよ。大いに。すごく変わったもの、岩崎先生」
「そう、でしょうか」
「気付いてあげなさいよ」
 珍しく一美に同情的な声音で、リコがそう言った。そして、ガラリと口調を変える。

「あんたがここでタソガレてるのって、先生のことなんでしょ?」
「え?」
「あんたが落ち込んだり考え込んだりするのって、彼のことくらいじゃない。他の事ではケロッとしてるくせに、岩崎先生のことになるとグラグラ。私にだって判るくらいにね」
 そう言うと、リコは萌の隣に立って柵に両肘を載せる。しばらく、二人は並んで同じ空を見つめていた。
 さっきまであれほどよく喋っていたリコは、ピタリと口を噤んでいる。

 萌は、自分の中でも整理がつかないまま、言葉を紡ごうとしてみた。
「わたし……このまま岩崎先生と一緒にいても、いいんでしょうか」
 リコからの答えはない。萌は独りつように続けた。
「わたし、自分で自分がよく解かりません。どんなふうに先生のことが好きなのか――自分がこれからどうしたらいいのか。色々なことを、考えれば考えるほど、解からなくなって」
 萌がこぼした台詞に、リコがクスリと笑った。横を見ると、彼女の目元は柔らかく綻んでいる。

「変わったのは岩崎先生だけじゃないようね。あんたも確かに変わったわ」
「?」
 萌はどういう意味かと首をかしげた。
「私に対してそんなふうにこぼすだなんて、今までなかったじゃない」
「こぼす?」
「そう。私にそんな弱音吐くなんて、初めてだわ」
「でも、リコさんには色々してもらいました」
「勝手に深読みして先読みして、殆ど空回りしてたけどね」
「そんなこと、ないです」
 そのお陰で見えたことや動いたこともたくさんある。感謝の色を目に浮かべた萌に、リコは苦笑を返した。
「だったら、いいんだけど。じゃあ、愚痴ってくれたあんたに返事。そんなこと、考えるだけ無駄」
「え」

 スッパリと袈裟懸けに切り伏せられ、萌はポカンとする。

「あのね、どんなふうに好きか、なんてどうでもいいでしょ。『こういうのが正しい好きの気持ち』なんてのが決まっているわけじゃないんだから。一緒にいて嬉しい、心地良い、それでオーケー、それが全て、よ」
「でも、そんなの……」
「ほんわかする好きでも、ドキドキする好きでも、イライラする好きでも、一緒にいたいと思うなら、それでいいじゃない。ドキドキハラハラで付き合いだした二人でも、五十年も夫婦をしてりゃ、まったりするわよ。でも、ずっと一緒にいたいままでいるのは同じでしょ? 感情を理屈で説明しようなんて、無理な話よ。あんた、そんなふわふわした見た目の割に、意外に理屈っぽいわよね」
 ポカンと呆気に取られたままの萌に、リコは更に続ける。

「これからどうしたいのか、なんてのも無意味よね。『今』、一緒にいたいんでしょ? じゃあ、十年後、二十年後は? 逆に、岩崎先生がいない三十年後とか考えると、どうよ。嬉しい? 寂しい?」

 そう言われて、気付く。
 一緒にいてもいいのだろうか、というのは考えても、傍にいなくなったらどうなのか、は想像したことがなかった。

 一美がいない、未来。それは……

「ね? 簡単でしょ? あんたって、器用そうなのに結構色々抜けてるわよね。あのさ、『わたしさえ我慢すれば……』とかいう自己犠牲っての? そういうの、ウツクシイかもしれないけど、あんたと真面目に向き合おうとしている相手からすれば、寂しいものよ? もっと、我を張ったらいいじゃない。それで離れていくなら、それだけの相手なのよ。多少のわがまま言ってくれた方が嬉しい相手ってのも、いるもんなんだから」

 そう言って、リコは萌の背中をバシンと叩く。痛いほどに。

(わがままを、言う?)
 そうしても、いいのだろうか。赦されるのだろうか。

 リコのその言葉と背中の痛みに、萌は何だか微睡から叩き起こされたような心持ちになった。

 思わず、しばしばと瞬きをする。そんな萌に、リコはカラリと笑った。
「さ、雑談終わり。仕事に戻ろう」
 そう言って、さっさと先に立って歩き出す。

 彼女に続こうとして、萌はふと立ち止まった。

 入り口のドアに手を掛けて、もう一度空を振り仰ぐ。それはさっきと同じものなのに、少し、色が違って見えるような気がする。

 リコは、萌が変わったと言った。
 確かに、悩むようになった。今までは揺らがなかったことに、迷うようになった。
 それは、自分が本当の意味で人と関わろうしていなかったということに気付き始めていたからかもしれない。
 ちゃんと、人と、本当に向き合おうとするようになったからなのかもしれない。
 まだまだ、うまくできていない。迷うことすらうまくできず、安易な方へ向かいそうになる。簡単で、平和な、『独り』という道へ。
 今まで、独りでやれると思っていた。自分は独りなのだから、独りでやれるようにならなければ――強くならなければ、と。
 けれど、人に頼ろうとしなかったのは、強さじゃない。人に頼れない、弱さだ。
 優子やリコの言うとおり、手を差し伸べてくれた人がいるのに、それを取ろうとしなかった。

 ふと、健人けんとの母親、幸子への自分の言葉を思い出す。あの時、周りの手に気付けと言ったのだ――その手を取れ、と。

 一美に、謝らなければ。

(ううん、謝りたい)

 謝って、そして――

(なんて言ったらいいんだろう)

 彼に伝えたいことが多すぎる。

『一美の為に』と言って、逃げようとして、本気で彼と向き合おうとしていなかった。ようやく、解かった。彼が悲しんだのは、彼が伸ばした手を萌が振り払ったからだ。プロポーズを断ったからとか、同情だと言ったからとか、そんなことではなく。

 彼が「信じてくれ」と念を押したのも、当然だ。

 不意に、もう一人の、彼と同じ目を向けた人が誰なのかが判った。

 優子だ。

『クスノキの家』で過ごしていた時、母親代わりだった彼女も同じ目を時々萌に向けていた。一美と優子が萌の中で被ったのも、当たり前だ。
 二人とも、萌に手を伸ばしてくれていた。いつでもそれを取れるように。それは、彼女のことを好きでいてくれるから。

 一美にも優子にも、ありがとうと言わなければ。
 自分の中の弱さと、ちゃんと向き合おう。無視して、見ない振りをするのはやめて。
 そして、わたしはどうしたらいいのか、ではなくて、わたしがどうしたいのか、それを考えよう。

 一美の顔が脳裏に浮かぶ。萌の頭の中の彼だけれども、笑って頷いてくれたような気が、した。
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