天使と狼

トウリン

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第三章:ほんとうの、はじまり

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 入院するということはあまり良くないことではあるけれど、親子の関係が一番近くなる時でもあるのではないかな、と萌は思う。普段はついつい怒ってしまってばかりのお母さんも心配する気持ちで一杯だし、いつもは生意気盛りで反抗してばかりの子ども達もしおらしくしている。心配で心配でこの子が良くなってくれるなら何でもいいと案じるばかりの親達と、ここぞとばかりに甘える子ども達。

 この病院で働くようになって、たくさんの親子を、家族を、見てきた。
 そうして、萌の中の憧れはいや増していく――目の当たりにする、その関係の、濃厚さに。

 萌は、家族が、欲しかった。自分の、自分だけのものだと言っても赦される家族が。家族であれば、強い想いを繋げて、その絆が永遠に続くのだと信じても赦されるような気がする。
 萌にとって、家族とはそういうものだった。

 では、なぜ、一美のプロポーズに返事ができないのだろう。

 そう、自問する。
 彼の申し出を受ければ、望んでいたものが手に入るのに。なんで、「はい」と、「嬉しいです」と言えないのだろう。
 萌には、自分でも何故なのかよく判らない。
 一美のことは好きだ。ずっと一緒にいたいと思う。彼からあの言葉をもらえた時、心臓が止まるかと思うほど、嬉しかった。

 それなのに、なんで答えが出せないのか。

 早く返事をしなくちゃいけないと焦れば焦るほど、色々なことが解からなくなってきてしまうのだ。
 そもそも、自分の中の一美に対する気持ちは、好きという想いは、どういう『好き』なんだろう。本当に恋愛感情なのだろうか。
 一美と付き合い始める前に、彼が自分に向けてくるものは妹や、下手をすると娘とかに対するようなものではないのかと、落ち込んだことがあった。でも、こうやって改めて考えてみると、もしかしたら、萌の中にある彼に対する気持ちは、兄とか父親とか、そういう存在に向けるものだったりはしないだろうかという気がしてくる。

 一美と一緒にいて、キスをされたり抱き締められたりすると、確かにドキドキする。けれど、それ以上に、安心してしまうのだ。特に、彼の大きな身体に包み込まれていると、何も考えずにその中に閉じ籠っていたくなる。
 それは、恋とは違うのかもしれない。子どもが大人に甘えているようなもので、『男の人』を好きになるのとは、違うのかもしれない。

 だったら、プロポーズを受けてはいけない気がする。
 そんな対等ではない気持ちで結婚したら、きっと、いつか愛想をつかされてしまう。今の一美の想いは信じているけれど、自分がこんなでは、この先どうなるか判らない。
 それに、一美は萌のことを好きだとはっきりと伝えてくれるけれど、こんな自分のどこを見て、そんなふうに思ったのだろう。話に聞く限り、彼がこれまで付き合ってきた女性と萌とは、大きく違っている。

 何故、一美は、彼女たちのうちの誰かではなく、この自分を選んだのだろう。自分に、選ばれるだけのものがあるだろうか。
 考え始めれば、次から次へといろいろなことを思ってしまう。

 ――主には、マイナスの方向に。

『結婚』――それは、ずっと一緒にいるという『約束』だ。その『約束』をもらって、『家族』になって。

 ――でも、それは、本当に変わらないものなの……? 

 そんな囁きが萌の心の中に忍び込む。
 一美のことは信じている。信じているけれども、怖い。自分がこの先も彼のことをつなぎとめておけるだなんて、とてもではないけれども思えない。
 今の彼との関係はぬるま湯のように心地良くて、これがずっと続いてくれることを願ってしまう。『今』が変わらず続けばいいと、祈ってしまう。自分が欲しいものが何なのか、それすらも、時々判らなくなりつつある。

 一美からプロポーズをされてから、萌の中の何かがおかしくなっているような気がした。最初は「プロポーズの返事をどうしよう?」から始まったのに、その答えが出ないままに次の疑問が湧いてきて、それが解決しないうちにまた次が生まれてくる。自分の中を掘り下げるほどに、わけが解からなくなってくる。
 グルグルグルグル思考は螺旋を描くように回っていって、次第にそれは避けようのない一点を目指していくような気がした。

 萌は息を一つついて、次の病室に足を運ぶ。
「失礼します。検温ですよ」
 そう声をかけながら、カーテンを開けた。
 そのベッドにいるのは、発熱が続いているという訴えで入院してきた、生後八か月の男の子だ。入院して三日目で、熱は下がってずいぶん元気になっている。来た時は水分も取ろうとしなかったけれど、今はミルクもぐいぐいと飲むようになっていた。もうじき、退院になるだろう。

「お加減いかがですか?」
 ニッコリ笑ってそう声をかける。
「あ、お陰様で、ずいぶん元気になりました。ミルクも普段通りに飲んでますよ。離乳食も食べ始めました。機嫌もいいです」
 母親も嬉しそうに、いつも萌が訊いている項目を先回りしてスラスラと答える。
「そうですか。良かったですねぇ。あ、ホントだ、ご機嫌さんだ」
 体温計を脇の下に挟みながら萌が笑顔を向けると、その子もニコッと笑い返してきた。じきに、ピピッピピッと電子音が響く。
「はい、今日もお熱はありません」
「ねえ、元気になって、良かったよねぇ。ほら、ゆうちゃん、ミルク飲もうか」
 そう言って、母親が用意してあった哺乳瓶を子どもの口元にあてがう。
「はい、ゆうちゃん、いただきまぁす」
 優しそうな、母親の声。そして、ふわりと漂ったミルクの香り。

 不意に、萌の胸の底がズクンと痛みを訴えた。チラリと脳裏に閃いた、既視感。

 ――何だろう?

 一瞬、足元の床が消え失せたような、奇妙な感覚に襲われる。けれど、それは本当にわずかな間のことで、萌は小さく頭を振って気を取り直す。寝不足気味だから、立ちくらみをしたのかもしれない。
 萌はもう一度笑顔を浮かべて、母親に声をかける。
「じゃあ、飲んだミルクの量を、また忘れずに書いておいてくださいね」
「あ、はい」
 子どもに意識を注いでいる彼女の返事は、気もそぞろだった。

 ――赤ちゃんのお世話をしているお母さんって、そういうものよね。

 そう、周りのことなど、全然気にも留めなくなるものだ――他の子どものことなど。
 そんな考えが頭をよぎって、萌は首をひねる。何故、そんなふうに思ったのだろう、と。いくら世話に集中していても、周りを無視してしまうほどではないというのに。

 ――まあ、いいか。

 変なふうに考えてしまったことを怪訝に思いながらも、萌はそれ以上追求しようとはしなかった。大したことではない。深く考える必要のないことだと、自分に言い聞かせて。

 それは、あまり追い掛けてはいけないことのような、気がした。
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