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第二章:すれちがい
14-2
しおりを挟む「お付き合いなさっていたなら、気付かれたでしょう? あの子には、『我』がなさ過ぎるんです。自分の為に何かを要求することがなくて、常に相手のことしか考えない」
「だが、それは長所の筈では?」
「ええ、そうですね。でも、いかがでした? あなたはそれで満足できましたか?」
そう問われて、一美は返事に詰まる。彼が言葉を見つけるより先に、優子が小さく首を振った。
「私は、できません。もっと我がままを言って欲しいし、弱音だって吐いて欲しい。何も要求されないなら、私のことを必要とされていない気がしてくる」
そう言って、彼女は、一美に「どう?」という目を向ける。
確かにそれは、彼も何度も感じてきたことだった。優子は彼の目の中に同意を見つけたらしく、小さく頷いた。
「人はね、大事に思っている相手ほど、その人から必要とされたいと思うものじゃないかしら。そうして、満足感を得る。大事な人から何かをしてもらったら、それはそれで嬉しいけれども、充足感は、何かをしてあげて、それで相手が喜んでくれた時の方が大きいのじゃないかしら?」
優子は、苦笑する。寂しそうに。
「あの子は、それをくれないの。何かをしてあげたら、『嬉しい』『ありがとう』と言うわ。でも、いつも変わらない笑顔でいるから、それがどれくらい嬉しいのかが判らない。もしかしたら、私を喜ばせる為にそう言っているのではないかと、勘繰ってしまうのよね」
一美には、優子の言葉にいくつも思い当たる節があった。
萌が何を望んでいるのかが解からないままに日々を重ね、そして、彼女が心に秘めていたものをポロリとこぼした時に、その肝心な時に、しくじった。
強く奥歯を噛み締めた一美の耳に、悲しげな声。
顔を上げると、温かく、そしてその声通りの色を含んだ眼差しが彼に注がれていた。
「あの子はね、生まれてすぐに、母親に逃げられてしまったの。出産したその日に、母親が病院から逃げてしまって。母親は未成年で、駆け込み出産だったそうよ。そんなだから、身元で判るのは母親の名前だけで、これも本名かどうかは判らないのだけど。慌ただしく分娩になって、落ち着いた後に話を聞こうとしたら、もう姿が消えていたらしいわ。その後あの子は乳児院に入れられて、生後六か月で里親の元に行ったのだけど」
優子がふと視線を落とす。
「子どもができない身体と言われたから、将来的には養子にしたいと言っていた夫婦だったのよ。でも、萌が二歳になった頃に実子が生まれてね。まあ、色々あって四歳の時にここに来たの。もう、とても聞き分けのいい『良い子』だったわ」
優子が発した『良い子』という言葉には、複雑な響きが含まされていた。
哀しみ、苛立ち、そんな響きが。
一美は口を挟むことなく、彼女が語るに任せる。何となく、求めていたものに指先が触れそうな気がしてきていた。
「私は、あの子が自分の事で泣いたり、怒ったり、駄々をこねたり、そんな『困った』ことをするところを見たことがないの。いつも聞き分けが良くて、ニコニコしてて。……岩崎先生は、週末里親って、知ってらっしゃる?」
「時々、数日だけ里親のところに行って過ごすやつですよね? 盆やら正月やら、そういう時に」
「そう。ここから里親のところに行く時とか、逆に里親のところからここに帰ってくる時とか、泣いたりする子は結構いるのよ。でも、萌はそれもなかったわ。里親のもとで過ごした時間がどんなに楽しくても、時間になれば、すっぱりと別れられるの。だから、里親も、あの子のことを可愛いと思いながらも、強い愛着は作れない。ここの子どもたちともそうね。本当に、目の中に入れても痛くない、というほどに可愛がっている子でも、親元に帰ったり、里親が決まってここを出て行ったりする時に、晴れやかな笑顔で見送るのよ」
その時一美は、ふと健人のことを思い出した。確かに、あの時も萌は笑って送り出していた。彼はそのことに微かな不満、あるいは不安を覚えた筈だ。
「あの子は強いでしょう? ちゃんと与えられた愛情を受け取ってくれたから。でも、一番の芯のところは弱いのよ。無条件に愛してくれる筈の人に、見放されてしまったから。あれは、土台がない強さなの。あの子の心の底には、いつも不安があるんだわ。愛してくれてありがとう、嬉しいよ、と言いつつ、いつその愛情を失ってもいいように、身構えている。それは永久に続くものではないと、最初から諦めてしまってる。わたしのことを放さないでと、しがみついてはこないの」
優子の口から吐き出される小さなため息と、悲嘆。
「あの子は、最初から全部諦めているような気がするわ。自分の手の中に残るものは何もないんだって。だから、欲しがらないの」
目を光らせて、優子は一美に問うてくる。
「あなたは、萌にご自分を欲しがらせることができて? 手放したくないと、しがみつかせることができる? ……私には、できなかったわ。あの子にとって、私は『みんなの』お母さんだったから」
一美は、彼女のその台詞に、即座に頷きを返したかった。
だが、自信が、ない。
萌が彼を求めてくれたら、自分はその手を放しはしないだろう。それは彼自身の気持ちだから、確約できる。
しかし、萌がどう考えるかは、強制できるものではない。
萌が求めるものは、何なのだろうか。
庇護者?
愛情?
温かな家庭?
一美は自問して、否定した。
いや、違う。おそらく彼女が一番欲しいものは、『失われないもの』なのではないかと、思った。愛情も、家庭も、それがあってこそ、なのだろう。
一美は、真っ直ぐに優子の目を捉えて、答える。
自分にできる、精一杯の事を。
「萌が私をどう思うかは、判りません。しかし、私は彼女を求めます。しつこくね。彼女の中の『欲しい』という気持ちが空っぽでも、私が倍注いでやったらいい。そうしたら、両方に満ちるじゃないですか」
そうして、ニヤリと笑って立ち上がる。
「萌はどこですか? 連れて帰りますので」
その問いに、優子は一つ二つ、瞬きをした。呆気に取られたその目の中に、次いで、笑みが広がっていく。
「庭にいますよ。玄関を出て右手の方です。この時間は、外で星を見ている筈」
それは、一美が萌を連れて行くことに対する承諾に等しかった。彼は優子に深く頭を下げる。
「ありがとうございます。また、後日挨拶には伺います」
踵を返して理事長室を、そして事務所を出る。満月が照らす屋外は、灯りらしい灯りがなくても、充分に周囲の様子を見て取ることができた。
速足で萌を探しながら、一美は過去を振り返る。
これまでの男女関係とは、まさに真逆だった。
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その時の彼は、彼女たちの事をうっとうしいと思ったものだ。
ならば、萌にその気持ちを味あわせてやろう。
諦めから逃げられるよりも、うっとうしがって逃げられる方が、遥かにマシというものだ。せめて、同じ土俵の上に立たせたい。
拓けた場所に出てグルリと視線を巡らせると、一人でベンチに腰かけた萌の姿が飛び込んでくる。夜空に向けられたその目には、今、いったい何が映っているのか。
一美は速度を緩めて、慎重に足を進める。
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一瞬、ほんの一瞬、白く浮かぶ萌の顔に喜びの色が浮かんだのは、けっして一美の見間違いではないだろう。
その時、一美は思った。
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