天使と狼

トウリン

文字の大きさ
上 下
49 / 92
第二章:すれちがい

13-1

しおりを挟む
 子どもたちの歓声が、庭中に響き渡る。
 彼らは弾む鞠のようで、そこそこの広さがある敷地中を、縦横無尽に駆け回っていた。下は三歳、上は六歳で、全部で十二人いる。

 もえはベンチに座って、一時もジッとしていない弟妹たちをグルリと見渡した。彼らを眺めているだけで、自然と笑みが漏れてしまう。
 久し振りの光景だけれども、数時間のうちに、まるでずっとここにいたかのように溶け込むことができた。
 病院からここまでは電車で二時間もあれば着けるのに、仕事をしていると、どうしても足が遠くなってしまう。

 萌が帰ってきたのは一年ぶりで、その一年の間に、何人かの子どもたちが旅立って、同じくらいの子どもたちがまた加わっていた。
 彼女がここにいた頃も、子どもたちはせいぜい二年、長くても三年で通り過ぎていった。クルクルクルクル、入れ替わる。

 いったい、何人、何十人、何百人、見送ったことだろう。

 懐いた子たちに去られてしまうのは寂しいけれど、萌はそれを悲しいと思ったことはなかった。だって、みんな、幸せになる為に出て行くのだから。
 ここで得られた大切なものは胸の奥にしまいこんで、新しい生活に進んでくれればいいのだ。

 愛おしくて大事な子どもたち。
 萌の、かけがえのない『家族』――たとえ、一緒に過ごすのは短い間でしかないとしても。

 子どもたちの様子をぼんやりと眺めていた萌に、不意に声がかけられる。
「萌? どう、変わってないでしょう?」
「おかあさん」
 振り返った先にいたのは、『母』の優子ゆうこだ。もうじき六十歳になる彼女は、ふくよかな頬に名前の通りの笑みを浮かべている。

「はい、そうですね。半分くらいは初めて会う子ですけど、みんな元気いっぱいで」
「そうなのよ。今はちょっとやんちゃな子が多いかしら。もう、皆毎日へとへとよ」
「ふふ。そうみたいですね。でも、可愛い子ばっかです」
「そうでしょう?」
 萌と優子は顔を見合わせて微笑み合う。
 昨晩突然帰ってきた萌を、優子はごくごく自然に迎え入れた。理由も訊かず、目を見張ることもせず、まるで、学校から帰ってきた子どもを出迎えるかのように。

 優子は萌の隣に腰を下ろす。
 しばらく、二人は並んで子どもたちを眺めていた。言葉はないけれど、互いにどんな想いでいるかは判る。
 穏やかで心地良いその時間に、萌の心はやんわりと凪いでいた。
 と、不意に、ポツリと優子が言葉をこぼす。
「一度でもここに来た子は、みんな私たちの大事な『わが子』なのよ」
 それは独り言のようで、萌はただ聴くだけにとどめる。優子もまた萌の言葉を待つことなく、前を向いたまま、続けた。
「あなたもね、私の子、私の娘なんだからね」
 そう言うと、優子は手を伸ばして萌の頭をスルリと撫でる。
 その仕草は、萌が小さなころから何度も繰り返されてきたものだ。
 彼女が寂しい時も、嬉しい時も、悲しい時も、楽しい時も。
 いつも、優子はその温かな手で触れてくれた。そうされると、萌の心の中はいつも満たされた。
 萌はその温もりに、懐かしさを覚える。
 けれど、その感触から与えられる何かは、昔とはどこかが違っていた。
 優子の温かさは、かつてのようには萌を満たしてくれない。
 いつの間にか、萌が望む温もりは、彼女を満たしてくれる温もりは、別の誰かから与えられるものになってしまっていたのだ。

 ――そう、今、萌が求めているのは、一番触れて欲しいと、触れたいと願っている人は、ここにはいない。

(もう、失くしてしまった)
 萌は胸の中で呟く。
(先生は、もうわたしのことはいらないの)
 一美かずよしは、もう彼女のことを求めていない。
(それは、わたしのせい)
 誰に何を言われたわけでもないけれど、明確な事実として、自分には何かが欠けているのだということを、萌は知っていた。

 小宮山萌という人間を欲してもらえないのは――たとえ一度は欲しいと思ってもらえても、結局最後には突き放されてしまうのは、多分、そのせいなのだ。

 萌はキュッと唇を噛み締める。
 そうしないと、熱くなった目の奥から、何かがこぼれ出してしまいそうだった。

 優子は、じっと前を見つめたままの萌の頭をポンポンと、優しく叩く。
 そして、立ち上がった。

「さ、ご飯の支度の時間だわ。あなたはこの子たちを見張っておいてね。油断をすると、とんでもないことしでかしてくれるから」
 いたずらめかしてそう言い残すと、優子は屋内へと入っていく。その背を見送る萌の中には、じわりと彼女の言葉が染み込んでいく。
 優子に『娘』と言ってもらえるのは、とても嬉しい。
 けれど、彼女は萌一人のものではないことも、よく判っている。

 優子は『みんなの』おかあさんだから、自分のことで気を煩《わずら》わせるわけにはいかない。

(少し休んだら、また、出て行かないと)
 元々、ここにいられるのは十八歳までなのだから、本当は、戻ってきてはいけない。卒業したからには、あとは自分の問題は自分で解決しなければ。

 そう、自分独りで。

 優子は優しいからいつでも帰っておいでと言ってくれるけれども、その言葉に甘えていてはいけない。
 ここのみんなは自分の大事な家族で、萌の支えだ。でも、それは心の中に持っておくだけのもの。心の中に置いておいて、時々手に取ってその温もりを懐かしむ為のものだった。
 いつまでもすがっていていいものではないことを、ちゃんと頭の中に刻んでおかなければ。

 そんな萌の物思いを唐突に破ったのは、屈託のない弾む声だった。
「萌ちゃん! だっこぉ!」
 子どもなりに空気を読んでいたのか、優子が去るのを待っていたかのように、中でも一際幼い男の子が駆け寄ってくる。殆ど体当たりのようにして抱き付いてきたその子を、萌は立ち上がって受け止めた。
「あ、ずるい! あたしも!」
「ぼくもぉ!」
 一人が飛びついてくると、我も我もと集まってきて、あっという間に萌はまるで子どもの生る木のようになる。三人まではこらえたけれど、四人目でペシャリと座り込んだ。
 初夏の気温はそれだけでも暑いのに、体温の高い子どもたちに何重にも抱き付かれ、萌も子どもたちも汗だくになった。
 芝生の上に寝転んで、みんなして、キャーッと笑い声を上げる。

 とても、幸せだった。
 涙が出そうになるほどに。

(これで充分、でしょう?)
 そう思うのに、思うべきなのに、萌はいつも何かが足りない気がする。
 身に余るほどの幸せを手に入れているというのに、これ以上、何を望めるというのだろう。

 満面の笑みの下で、萌はそんなことを考えていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

伯爵閣下の褒賞品

夏菜しの
恋愛
 長い戦争を終わらせた英雄は、新たな爵位と領地そして金銭に家畜と様々な褒賞品を手に入れた。  しかしその褒賞品の一つ。〝妻〟の存在が英雄を悩ませる。  巨漢で強面、戦ばかりで女性の扱いは分からない。元来口下手で気の利いた話も出来そうにない。いくら国王陛下の命令とは言え、そんな自分に嫁いでくるのは酷だろう。  互いの体裁を取り繕うために一年。 「この離縁届を預けておく、一年後ならば自由にしてくれて構わない」  これが英雄の考えた譲歩だった。  しかし英雄は知らなかった。  選ばれたはずの妻が唯一希少な好みの持ち主で、彼女は選ばれたのではなく自ら志願して妻になったことを……  別れたい英雄と、別れたくない褒賞品のお話です。 ※設定違いの姉妹作品「伯爵閣下の褒章品(あ)」を公開中。  よろしければ合わせて読んでみてください。

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

極上の一夜で懐妊したらエリートパイロットの溺愛新婚生活がはじまりました

白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
恋愛
早瀬 果歩はごく普通のOL。 あるとき、元カレに酷く振られて、1人でハワイへ傷心旅行をすることに。 そこで逢見 翔というパイロットと知り合った。 翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。 しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。 ********** ●早瀬 果歩(はやせ かほ) 25歳、OL 元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。 ●逢見 翔(おうみ しょう) 28歳、パイロット 世界を飛び回るエリートパイロット。 ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。 翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……? ●航(わたる) 1歳半 果歩と翔の息子。飛行機が好き。 ※表記年齢は初登場です ********** webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です! 完結しました!

【完結】身を引いたつもりが逆効果でした

風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。 一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。 平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません! というか、婚約者にされそうです!

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

ただいま冷徹上司を調・教・中!

伊吹美香
恋愛
同期から男を寝取られ棄てられた崖っぷちOL 久瀬千尋(くぜちひろ)28歳    × 容姿端麗で仕事もでき一目置かれる恋愛下手課長 平嶋凱莉(ひらしまかいり)35歳 二人はひょんなことから(仮)恋人になることに。 今まで知らなかった素顔を知るたびに、二人の関係は近くなる。 意地と恥から始まった(仮)恋人は(本)恋人になれるのか?

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

処理中です...