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第二章:すれちがい
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小児科医局にいるのは、一美と祐里香の二人きりだった。彼女はパソコンで学会発表の為のスライドを作っていて、キーボードを叩く音が静かに響いている。
読んでいた学会雑誌を閉じると、一美は何気ない口調で切り出した。こんな女々しい真似はしたくないが、一晩考えてみてもさっぱり解答が見つからなかったのだから、仕方がない。
「ちょっと訊いてもいいか?」
「何ですか?」
手を止めて、祐里香はクルリと椅子を回転させる。一美を見た彼女は、怪訝そうに眉をひそめていた。それも当然のことで、彼が祐里香に『質問』だなんて、恐らく初めてのことだろう。
一美は言葉を選びつつ、問いを投げかけた。
「仮に……仮に、だな。別れ話を切り出して、それをすんなり『はい、そうですか』と受けたとしたら、その女性は何を考えていると思う?」
「小宮山さんと別れたんですか!?」
ズバリと切り替えしてきた祐里香に、一美もまた即答する。
「別れてない」
「じゃ、誰の話です?」
「だから、『仮に』と言っただろう」
小さく咳払いをしながらそう言った一美を、祐里香はどこか愉快そうに見やった。朗といい、彼女といい、何故こうも『お見通し』感があるのだろう。一美は眉間に皺を寄せたが、祐里香はどこ吹く風で答える。
「まあ、それなら『仮に』でいいですけど? ええと、『仮に』、別れ話を切り出したらあっさり『うん』と言われてしまったら?」
彼女はそこで口を閉じ、そして、ニッコリと笑った。
「そりゃ、気がないってことじゃないですか?」
ザックリと切り伏せられ、一美は言葉に詰まる。憮然とした彼を充分に眺めた後、祐里香は思い付いたように付け足した。
「あ、そうそう。私の友達には、別れるのがイヤだから最初から男と付き合わないって子もいましたよ? すっごいネガティブですよね」
『ネガティブ』
萌にはこの上なく似つかわしくない単語だ。
だが、一美は本当にそうだろうかと思い直す。彼女は一見明るく前向きで、この世にイヤなことなど何もない、と言わんばかりだ。にも拘らず、そこにはいつも微かな違和感が付いてまわった。
その違和感の正体を知ることができれば、萌を理解することができるのだろうか。
返事もせずに黙りこんだ一美に、祐里香はやれやれというように首を振りつつパソコンに向き直った。
参考になったような、なっていないような答えをもらって、一美はむっつりと考え込む。
頭を下げて謝れば、恐らく萌はすんなりと聞き入れるだろう。
そして、元通り。
それは本当に『元通り』であって、即ち、また同じことを繰り返すということだ。萌にまとわり付く違和感は消えず、彼女との間に感じる距離も消えない。
萌を理解したいと思う。
その奥にあるものを知って、すれ違うことなく彼女と向き合いたいと、一美は心の底から思う。
それには、恐らく、彼自身も変わらなければならないのだろう。
付き合っている相手のことを理解したいとか、自分を変えなければいけないとか。
そんな考えを持つようになるとは、一美は夢にも思っていなかった。
こんなふうに想う相手に出逢ったことが幸運なのか不運なのかは彼にも判らない。
それでも、萌を手放そうとは思えないのだ。
彼女を傍に置いておく為の方法はまだ手に入れていないままだったが、そう遠くならないうちに迎えに行くのは、彼の中での決定事項だった。
読んでいた学会雑誌を閉じると、一美は何気ない口調で切り出した。こんな女々しい真似はしたくないが、一晩考えてみてもさっぱり解答が見つからなかったのだから、仕方がない。
「ちょっと訊いてもいいか?」
「何ですか?」
手を止めて、祐里香はクルリと椅子を回転させる。一美を見た彼女は、怪訝そうに眉をひそめていた。それも当然のことで、彼が祐里香に『質問』だなんて、恐らく初めてのことだろう。
一美は言葉を選びつつ、問いを投げかけた。
「仮に……仮に、だな。別れ話を切り出して、それをすんなり『はい、そうですか』と受けたとしたら、その女性は何を考えていると思う?」
「小宮山さんと別れたんですか!?」
ズバリと切り替えしてきた祐里香に、一美もまた即答する。
「別れてない」
「じゃ、誰の話です?」
「だから、『仮に』と言っただろう」
小さく咳払いをしながらそう言った一美を、祐里香はどこか愉快そうに見やった。朗といい、彼女といい、何故こうも『お見通し』感があるのだろう。一美は眉間に皺を寄せたが、祐里香はどこ吹く風で答える。
「まあ、それなら『仮に』でいいですけど? ええと、『仮に』、別れ話を切り出したらあっさり『うん』と言われてしまったら?」
彼女はそこで口を閉じ、そして、ニッコリと笑った。
「そりゃ、気がないってことじゃないですか?」
ザックリと切り伏せられ、一美は言葉に詰まる。憮然とした彼を充分に眺めた後、祐里香は思い付いたように付け足した。
「あ、そうそう。私の友達には、別れるのがイヤだから最初から男と付き合わないって子もいましたよ? すっごいネガティブですよね」
『ネガティブ』
萌にはこの上なく似つかわしくない単語だ。
だが、一美は本当にそうだろうかと思い直す。彼女は一見明るく前向きで、この世にイヤなことなど何もない、と言わんばかりだ。にも拘らず、そこにはいつも微かな違和感が付いてまわった。
その違和感の正体を知ることができれば、萌を理解することができるのだろうか。
返事もせずに黙りこんだ一美に、祐里香はやれやれというように首を振りつつパソコンに向き直った。
参考になったような、なっていないような答えをもらって、一美はむっつりと考え込む。
頭を下げて謝れば、恐らく萌はすんなりと聞き入れるだろう。
そして、元通り。
それは本当に『元通り』であって、即ち、また同じことを繰り返すということだ。萌にまとわり付く違和感は消えず、彼女との間に感じる距離も消えない。
萌を理解したいと思う。
その奥にあるものを知って、すれ違うことなく彼女と向き合いたいと、一美は心の底から思う。
それには、恐らく、彼自身も変わらなければならないのだろう。
付き合っている相手のことを理解したいとか、自分を変えなければいけないとか。
そんな考えを持つようになるとは、一美は夢にも思っていなかった。
こんなふうに想う相手に出逢ったことが幸運なのか不運なのかは彼にも判らない。
それでも、萌を手放そうとは思えないのだ。
彼女を傍に置いておく為の方法はまだ手に入れていないままだったが、そう遠くならないうちに迎えに行くのは、彼の中での決定事項だった。
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