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カラス
出逢い
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主を喪ったばかりの屋敷の中はシンと静まり返っていた。
丑三つ時、カラスはコソリとも音を立てず、指示された部屋を目指す。
無駄なほどだだっ広い屋敷の割には、やけに人気がない。探った気配はせいぜい五人か、六人。
この家も、かつては勇猛さでその名を馳せた有数の武家の筈だった。だが、今の平和ボケしたこの世では、何と無防備なことか。
カラスは夜目が利く方だが、庭に面した廊下は満月の明かりで照らされていて、さほど労せず、獲物の眠る部屋へと辿り着くことができた。滑りの良い障子は、わずかな軋みもたてることなく動く。
部屋の真ん中に敷かれた一組の布団の盛り上がりは、薄い。獲物の年齢を考えれば、それも当然か。
小早川巴。
それが、今からカラスが命の芽を摘み取ろうとしている者の名だ。
年は十と二つ。
幼い少女が何故狙われるのかは、教えられていない。それは、カラスにはどうでも良いことだ。彼はただ、指示を受け、それを実行するだけなのだから。
カラスは音もなくそれに忍び寄り、彼の半分もないような膨らみにまたがる。獲物がパッとその目を見開くのと彼の手がその口を覆うのとは、ほぼ同時のことだった。息を呑む気配の後、布団の下で仔猫が暴れるほどの動きを感じたが、両脚で挟み込んでしまえばそれもすぐに封じ込めることができた。
カラスは少し身体を傾けて、廊下から射し込む月光が獲物の顔に当たるようにする。そうして、その目にどんな色を浮かべているのだろうかと、しげしげと覗き込んだ。
怯えか、怒りか、戸惑いか。
だが。
「――?」
カラスは、眉をひそめる。
片手で簡単に覆い尽くせそうな小さな顔の中で彼を真っ直ぐに見返してきたのは、飴を溶かしたような濃い琥珀色の眼差しだった。光源は月明かりしかないというのに、それは、不思議なほどの輝きを帯びている。
絡んだ視線を逸らそうともせず、獲物はただ静かに彼を見上げるばかりだ。
その目を見つめ、やがてその中に現れる筈の生への渇望を探りつつ、カラスは、もう片方の手を彼女の首に這わせる――彼の手首ほどしかないようなその細首は、ほんのわずか力を込めるだけで枯れ木のように折れるだろう。
カラスは、クッと、親指に力を入れる。
顎の下に食い込んだ彼の指に微かに顔を顰めたが、獲物は――少女は、身じろぎ一つしなかった。
恐怖のあまり、身を竦ませているのか。
いいや、違う。
怯えの色は、これまでに腐るほど見てきた。少女のその眼差しにあるものは、カラスが今まで獲物の目の中に見てきたどの色とも違っていた。
静謐で、全てを受容する眼差し。
起きていることが理解できないような幼子ではない。その目に溢れる理知的な光は、彼女が何もかもを解かった上でおとなしくされるがままになっているのだということをカラスに知らせる。
――何故だ? 何故、足掻かない……?
思わず、カラスの口からは疑問の声がこぼれていた。
「俺はお前を殺しに来たんだぜ?」
その問いとも宣言とも取れる台詞に、少女はゆっくりと瞬きをする。そこでハタとカラスは気が付いた――このままでは、彼女が何かを返そうとしても返せないことに。
彼はわずかな間、目を細めて少女を見下ろした。そして、彼女の顔半分を覆っている手をどける。
いくらでも悲鳴を上げられるであろうに、やはり少女は口を開かない。相変わらず、ジッとカラスを見つめるだけだ。
「殺すぞ?」
もう一度、念を押してみる。
と、ようやく、幼さを残すふっくらとしたその唇が、動いた――が。
「命じたのは、分家の者ですか」
「は?」
断じるように言われても、カラスは答えを持っていない。だが、少女もそれを求めていたわけではないらしい。
彼女は、淡々とした口調で、続ける。
「わたくしのような若輩がこの家を継ごうとしていることに皆が不安を覚えるのは、当然のこと。小早川の家が立ち行くのにこの命が必要だというならば、持っていけばいい」
「殺されたら、死ぬんだぞ?」
「? ええ」
カラスの言葉に、少女は怪訝そうな顔をして、頷いた。
「生きてぇとは思わねぇのかよ」
「わたくしは、虚しい生は望んでおりません」
本気で、カラスは訳が解からなかった。この小娘は、いったいどこの国の言葉をしゃべっているのだろうかと、心底から思った。こんなヤツを殺しても、自分は何も得られない。
カラスはむっつりとした顔で立ち上がる。そして、少女を見下ろした。
重石が無くなった少女も、寝巻の襟元を整えながら、身を起こす。そして、座したままカラスを見上げた。今さらのように、その目に怪訝そうな色を浮かべて。
殺されるよりも、殺されない方が何かを感じるというのか。
「つまらねぇな」
「え?」
ボソリと呟かれたカラスのその一言に、少女が目を瞬かせる。
「殺る気も失せる」
今度は、少女が戸惑いの色を浮かべる番だった。一瞬だけ年相応の表情を見せた彼女に、身を屈めてその小さな頤に手をかけると、カラスはしげしげと飴色の目を覗き込む。
「お前、名前は何だっけ?」
獲物の名前など、今まで気にしたことも無かった。
「……巴と申します」
「ふうん。巴、ね」
鼻を鳴らして、カラスはその名を口の中で繰り返す。そうしてパッと手を放して立ち上がった。
「また来るわ」
短く残して、彼は身を翻した。
丑三つ時、カラスはコソリとも音を立てず、指示された部屋を目指す。
無駄なほどだだっ広い屋敷の割には、やけに人気がない。探った気配はせいぜい五人か、六人。
この家も、かつては勇猛さでその名を馳せた有数の武家の筈だった。だが、今の平和ボケしたこの世では、何と無防備なことか。
カラスは夜目が利く方だが、庭に面した廊下は満月の明かりで照らされていて、さほど労せず、獲物の眠る部屋へと辿り着くことができた。滑りの良い障子は、わずかな軋みもたてることなく動く。
部屋の真ん中に敷かれた一組の布団の盛り上がりは、薄い。獲物の年齢を考えれば、それも当然か。
小早川巴。
それが、今からカラスが命の芽を摘み取ろうとしている者の名だ。
年は十と二つ。
幼い少女が何故狙われるのかは、教えられていない。それは、カラスにはどうでも良いことだ。彼はただ、指示を受け、それを実行するだけなのだから。
カラスは音もなくそれに忍び寄り、彼の半分もないような膨らみにまたがる。獲物がパッとその目を見開くのと彼の手がその口を覆うのとは、ほぼ同時のことだった。息を呑む気配の後、布団の下で仔猫が暴れるほどの動きを感じたが、両脚で挟み込んでしまえばそれもすぐに封じ込めることができた。
カラスは少し身体を傾けて、廊下から射し込む月光が獲物の顔に当たるようにする。そうして、その目にどんな色を浮かべているのだろうかと、しげしげと覗き込んだ。
怯えか、怒りか、戸惑いか。
だが。
「――?」
カラスは、眉をひそめる。
片手で簡単に覆い尽くせそうな小さな顔の中で彼を真っ直ぐに見返してきたのは、飴を溶かしたような濃い琥珀色の眼差しだった。光源は月明かりしかないというのに、それは、不思議なほどの輝きを帯びている。
絡んだ視線を逸らそうともせず、獲物はただ静かに彼を見上げるばかりだ。
その目を見つめ、やがてその中に現れる筈の生への渇望を探りつつ、カラスは、もう片方の手を彼女の首に這わせる――彼の手首ほどしかないようなその細首は、ほんのわずか力を込めるだけで枯れ木のように折れるだろう。
カラスは、クッと、親指に力を入れる。
顎の下に食い込んだ彼の指に微かに顔を顰めたが、獲物は――少女は、身じろぎ一つしなかった。
恐怖のあまり、身を竦ませているのか。
いいや、違う。
怯えの色は、これまでに腐るほど見てきた。少女のその眼差しにあるものは、カラスが今まで獲物の目の中に見てきたどの色とも違っていた。
静謐で、全てを受容する眼差し。
起きていることが理解できないような幼子ではない。その目に溢れる理知的な光は、彼女が何もかもを解かった上でおとなしくされるがままになっているのだということをカラスに知らせる。
――何故だ? 何故、足掻かない……?
思わず、カラスの口からは疑問の声がこぼれていた。
「俺はお前を殺しに来たんだぜ?」
その問いとも宣言とも取れる台詞に、少女はゆっくりと瞬きをする。そこでハタとカラスは気が付いた――このままでは、彼女が何かを返そうとしても返せないことに。
彼はわずかな間、目を細めて少女を見下ろした。そして、彼女の顔半分を覆っている手をどける。
いくらでも悲鳴を上げられるであろうに、やはり少女は口を開かない。相変わらず、ジッとカラスを見つめるだけだ。
「殺すぞ?」
もう一度、念を押してみる。
と、ようやく、幼さを残すふっくらとしたその唇が、動いた――が。
「命じたのは、分家の者ですか」
「は?」
断じるように言われても、カラスは答えを持っていない。だが、少女もそれを求めていたわけではないらしい。
彼女は、淡々とした口調で、続ける。
「わたくしのような若輩がこの家を継ごうとしていることに皆が不安を覚えるのは、当然のこと。小早川の家が立ち行くのにこの命が必要だというならば、持っていけばいい」
「殺されたら、死ぬんだぞ?」
「? ええ」
カラスの言葉に、少女は怪訝そうな顔をして、頷いた。
「生きてぇとは思わねぇのかよ」
「わたくしは、虚しい生は望んでおりません」
本気で、カラスは訳が解からなかった。この小娘は、いったいどこの国の言葉をしゃべっているのだろうかと、心底から思った。こんなヤツを殺しても、自分は何も得られない。
カラスはむっつりとした顔で立ち上がる。そして、少女を見下ろした。
重石が無くなった少女も、寝巻の襟元を整えながら、身を起こす。そして、座したままカラスを見上げた。今さらのように、その目に怪訝そうな色を浮かべて。
殺されるよりも、殺されない方が何かを感じるというのか。
「つまらねぇな」
「え?」
ボソリと呟かれたカラスのその一言に、少女が目を瞬かせる。
「殺る気も失せる」
今度は、少女が戸惑いの色を浮かべる番だった。一瞬だけ年相応の表情を見せた彼女に、身を屈めてその小さな頤に手をかけると、カラスはしげしげと飴色の目を覗き込む。
「お前、名前は何だっけ?」
獲物の名前など、今まで気にしたことも無かった。
「……巴と申します」
「ふうん。巴、ね」
鼻を鳴らして、カラスはその名を口の中で繰り返す。そうしてパッと手を放して立ち上がった。
「また来るわ」
短く残して、彼は身を翻した。
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