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春章
消えない過去
しおりを挟む──病院は、独特の匂いがする。私はそれがこの上なく嫌いだ。ただ単純に、薬品の匂いが嫌だというのもあるが、それを差し置いて嫌いなのは、人の匂いだった。
ただの迷信かもしれないが、病人の匂いというか、そういう生々しい匂いがする。お年寄りとか、風邪を引いているような人とか……
……いや、きっと若さのせいだ。まだ、他人を認めきれていない。どこか見下して、忌避しているからだ。それがきっと自分を劣化させている。
「のーどーかーわーいーたぁぁーー」
……いや、コイツだけは例外だ。コイツは見下してないと相手が出来ない。少しでも持ち上げると暴走する。別に自意識過剰ではないが、リミッターは必要だと想う。
「湊、奢って」
「オラ」
「ひゃん!つめたーい」
「少し黙ってろっつーの」
湊がお人好しを発動させる前に手を打つ。だがそれが九絵の策略であることは明白だった。何せ私が自販機で飲み物を三つ買った途端に湊に集ろうとしたからだ。
せっかくの良心が台無しである。
「ほれ、湊。受け取れよー」
物凄く遠慮しそうな湊には、否応なく受け取るように投げてやる。すると湊は眉尻を下げて申し訳なさそうにお礼を言う。
私も偉くなったものだ。……いや、逆だろうか。どちらかと言えば、以前の私の方が『偉そう』だった。
「ねぇねぇかしちゃん」
「何だよ」
「自販機の飲み物、安くなったら嬉しい?」
「そりゃ嬉しいだろ」
「んじゃあ、一〇八円とかになったら?」
「全っ然、嬉しくねぇ」
自販機でお釣りが二円とかめんどくせぇよ。一円玉と五円玉とか自販機でも使うようになったらかなり面倒くさくなると思う。そう考えると、自販機のきっちりした価格はある意味ありがたいと思える。一円単位の細かい値段なんて考えたくもない。
そんな馬鹿らしい話を、今度は湊に振る。湊は「業者さんの手間が増えるね」と、どこかズレたことを言っている。それには流石の九絵も「お、おう」とお手上げらしかった。
私達は今、九絵の母親の入院している病院へと向かっている。ショッピングモールで花束を買い、そこからバスで病院まで一直線だ。
「そういや湊って部活は何部なんだっけ?」
ふとそんな疑問が浮かぶ。
「一応、文芸部に」
「へぇ」
「実は私、美術部なの」
「お前のは別に知らなくていい」
「ひどいよぅ。湊、この人ヒドイ」
「あはは……」
サボってばっかりの幽霊部員なんぞ知らん。
幽霊の方は放っておくとして、湊は今日、部活動を休んで来たのだろうか。だとしたら少し申し訳ないことをしたかもしれない。そのことを湊に言うと、湊は何ともないふうに言った。
「ううん、大丈夫。特に主要なメンバーってわけでもないから。いてもいなくても一緒だし」
「そこまで謙遜する必要はないんじゃないかなぁ」
珍しく九絵がまともなことを言う。私もそれには同意した。けれど湊はどこまでも謙虚なだけで、「そんなことないよ」とだけ返された。
……その謙虚さが羨ましい。私も湊くらい……とまでは言わずとも、少しでも謙虚であれば、私の過去は変わっていたかもしれない。
「いやぁ、湊は謙虚だなぁ。どうしてそう、謙虚なんだい?お姉さんが聞いてあげよう。ほれ、じゃんじゃんお喋りしなさい」
ふざけて言う九絵に、お前も同年代だろうにとツッコミを入れてから、私も湊が話すのを待つ。本気で喋らされると悟った湊は、どうするか迷う素振りを見せた後、ポツリポツリと語り出した。
「……その、私、実を言うとイジメに遭ったことが……」
──ビクリ。
通知の整理のために、スマホの画面を見た私の肩が跳ねる。
慌てて湊の方を見るが、幸いにも俯いていて、私の異変に気付いてはいない。九絵も私から顔を背ける形になっていて気付かない。
だが、安心などとは言えなかった。
「私も、小学生の時までは活発で人懐っこい子だって言われてたけど、中学生になったら、それが災いしたっていうか……」
「……」
私は平常を装いながら、湊の話に耳を傾ける。九絵も静かに聞き入っていた。
「初めは、新しいクラスメイトとも仲良くやれるって思ってた。実際にそうだった。みんな礼儀正しくて、優しかった。けど、人は慣れると、ものの扱いが雑になるの。」
そう。慣れは人の心境を変化させる。良くも悪くも、慣れるのだ。
「段々、私は都合のいいオモチャになってた。どんなことをされても、笑って受け流してたから。」
「友達を大切にしてたんだね」
「良く言えばそうだって、私も思ってた。そうやって耳を塞いで、目を閉じてた。」
でも、それもいつかは限界を迎える。
「自分で言うのもあれだけどね、ある時期、おかしくなっちゃって。」
ある日を境に、直前まで自分が何をしていたのか覚えていないということが起こり始めたらしい。というのも、たとえば、家を出てから学校に着くまでの道のりのことを何も覚えていないということがあったりしたという。ひどい時には半日もの間、何をして過ごしていたのか覚えていないこともあった、と。
「そ、それはちょっとヤバイんじゃない……?」
流石の九絵も心配そうに言う。だが、対する湊は「最近は少ないから大丈夫」と、あまり大丈夫そうには思えない返しをして、更に九絵を唖然とさせる。
「かしちゃん、これどう思うよ」
「うーん、こういうのは、あまり掘り返すと良くないからな。そっとしておくのが一番だろ。過去は過去なんだ」
「……かしちゃん?」
「なんだよ……」
訝しげにこちらを覗き込む九絵に、ドキリとして思わず顔を逸らす。
「おう、何で目ぇ逸らすんだよぅ」
「別に」
素っ気なく返すが、逆に怪しまれる。
過去は過去だ。いつまでも引きずるわけにもいかない。だが、完全に捨て去ることなど許されない。
分かってはいる。だが、どうにもできない。過去は変えられないのだから。
そう考える間にも、バスは目的地へと近づく。まるで、後戻りできない『未来』へと突き進むかのように。
☆ ☆ ☆
病室はには、本があった。ジャンルは様々だが、料理本が大半を占めている。そんな病室の白いベッドの上には、一人の女性が横になっていた。その人──九絵の母親、篝門美代子さんはこちらに気付くと、さっとその身を起こす。
「あら、いらっしゃい」
「ういーっす」
「こんにちは。」
「こんにちはー。」
私と湊が丁寧に挨拶しているうちに、九絵はずかずかと歩みを進める。私達は九絵にワンテンポ遅れる形で美代子さんの前に立った。
「柏島狩奈ちゃんと、洲城湊ちゃんね。お話は聞いているわ。今日はわざわざありがとうね」
「いえ、その、気にしないで下さい。うちらが勝手に押し掛けただけですから。」
「あの、これ、もしよろしければ、受け取って下さい。」
そう言って湊が差し出した花束を見て、美代子さんは顔をほころばせる。
「わあ、ありがとう!えっと……花瓶、花瓶は……ああ、あの薔薇が入ってるのに水を入れて挿してもらえる?造花だから心配しないで」
私は美代子さんの言う通りに、造花の薔薇が挿してある花瓶を手に取る。横から九絵が造花をひょいと盗って行ったが、今度はそれをどこに置くか迷っていたのは目に見えていたので、よしとした。
水を入れたそれに、今度は湊が花を挿す。
「ローズマリー、スズラン、マーガレット……までは分かるけど、後のはあまり分からないわねぇ。」
「スノーフレークとラナンキュラスです。あと、マーガレットでなく、ジャーマンカモミールですよ」
「あ、カモミール?だからこんなにいい香りなわけだぁ」
鼻をスンスンと鳴らす美代子さんに、そんなことよりも、と九絵が詰め寄る。
そんなこととは何事だ。後でシメるわ。絶対。
「今日はお母さんに見せたいものがあってね。」
「うん?」
「これよ」
九絵の手渡した真っ白な箱を、美代子さんは不思議そうに見詰める。
「ほら、開けた開けた」
「ええ。それじゃあ……」
蓋を開けた直後、美代子さんがハッと息を呑む。箱の中には、美代子さんの左手の薬指にあるものと似た指輪が鎮座している。しばらくの間それを眺めていたが、ふと我に戻ったように指輪を手にした。
「これは、どこで……」
呟くような声で言う美代子さんに、九絵が答える。
「いやぁ、本物じゃないよ。臣守のおっちゃんに頼んで造らせた。」
「……そう。ありがとう」
それだけ言って、美代子さんは指輪をギュッと握り締め、その手を大切そうに胸に当てる。
これで、美代子さんは、背負っているものが少しだけ軽くなったかもしれなかった。
☆ ☆ ☆
……過去。過ぎ去った時間。決して消えることのない、自分の歩んだ道。
私も、それに取り憑かれている。
だが悪いのは私だ。私が私自身を制御できなかったための、結果だ。
「過去は変えられない……かぁ」
誰に言うでもなく、呟く。
誰もいない家の玄関を潜る。一軒家は一人で住むには大きすぎた。一部の部屋以外、あまり使うことはない。だというのに埃は積もるので掃除が大変だった。
親は、父親が一人だけ。母親は私が中学の時に亡くなった。乳ガン、だそうだ。
それから、父親も小さい頃、どこかに行ったきりだ。母親曰く、とても大事な仕事に行っている、だそうで。
ただ毎月のように、父の名義で金が送られてくる。一応はまだ、父親としての感覚はあった。本当に父親かは、知らないが。
……それはいい。私の境遇がどうであれ、過ぎ行く時間はどうにもならない。
私の過去は、どう足掻いても私のものなのだ。
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