DEEP NECROMANCY

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Case:7 深遠なる屍術 Ⅱ

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ネイヴが自身の名とその身分を捨てて教会を脱してから、既に六年の歳月が流れていたが大司教レクスの築き上げた地位が揺らぐ事はなかった。
教会の定めた第一級禁戒呪術に関わった人間達を処刑する異端者狩りは未だに続いており、彼が敷いた体制はより盤石なものとなっていた。
「では、改めて君の口から直接報告を聞こうではないか」
聖堂内には二人の男の姿があった。大司教レクスが振り返ってみせると、黒染めの祭服をその身に纏った一人の男が、大理石の床に片膝をついて深々と頭を垂れている。
「はっ、事実を申し上げますと、屍術師のヴァレオンは我々の用意した舞台に立てる程の役者ではなかったようです」
役者とは実に的確な表現である。エリザベスに施された循環型術式の秘法を欲し、無数のアンデッドを使役してジャックの棲家を襲撃した屍術師ヴァレオン。事実を明かすと、彼はこの場に居る二人が用意したシナリオに沿って配置されただけの敵役に過ぎない。
ヴァレオンはジャックと対峙する以前に既に殺害されており、屍術によって術者の意のままに操られる傀儡と化していたのだ。
「所詮、野心を持たず領地に籠るだけが能の屍術師…初めから大きな期待など掛けてはおらぬ」
「はい。演目としては決して長続きするようなものではありませんでしたが、彼は我々に大きな貢献を果たしてくれました」
「…あの様な閉じた男にも使い途があったとは、この私も考えを改めなくてはならぬな」
「彼の五感と、彼が使役していたアンデッド達を通じて、従者エリザベスの構造を把握する事が出来ました」
屋敷内でのアンデッド達との戦闘。術者本体へと向けた回転式拳銃の発砲。そして彼女の骨格部分を用いた投擲によるヴァレオンに張り巡らせた術式の破断。
それら全ての情報が屍術師である彼の意識へと直接伝えられていた。
「レクス様、是非お目に掛けて頂きたいものがあるのですが」
「良かろう―」
「私の様な下賤の者が直に触れる事を御赦し下さい」
自身の掌を差し出して、目の前にある主人のものと重ね合わせると、彼の記憶は完全に共有されて、レクスの脳内には鮮明な映像が映し出された。
「ほう、これは…」
「良く見覚えのある事でしょう。彼女の体術と射撃術の型は貴方が異端者狩りの先導者であったあの男に教え込んだものと非常に酷似しています」
「ふむ、屍術だけでは飽き足らず、連中が得意気に振り回しているものはこの私から掠め取ったものばかり、という事か」
「はい。彼女はレクス様の考案した戦闘術に魔力を上乗せする事で、これまでに降りかかってきた困難を切り抜けていたようです」
データを基に推測していくと、エリザベスの肉体に施されている術式は両腕の掌と両足の裏側の計四ヵ所である事が判明した。
しかし、それらはあくまで彼女の体内を巡る魔力を放出して、身体能力を一時的に強化する為の仕掛けでしかない。
「ただ、従者エリザベスに関して一つ、解せぬ点がございます」
「何だ?申してみよ」
「彼女の義体には、それ以外の術式が見当たらないのです」
そう、肝心の彼女の蘇生を実現する為に用いられた屍術の痕跡は、目に見える様な形で残されてはいなかった。
「成程。となると…」
その話を聞くなり、大司教レクスは顔の皺をより一層深くして険しい表情を浮かべた。
彼の頭の中には幾つかの思い当たる節があるようだった。
「恐らく、大司教レクス様のお考えの通りかと思われます」
「一人目の、六年前に教会の地下室で処刑された屍術師ジャック。その知識を継承してリサの蘇生を行ったネイヴ。そして、もう一人の屍術師―」
レクスは暫しの間を置いて思考を巡らせた後、目の前の男に向けて言葉を下ろす。
「では、もう一度私の為に動いて貰おう」
「はっ、大司教レクス様の仰せのままに」
一切の迷いを感じさせない目の前に立つ男への絶対の忠誠を誓う言葉。
彼はその様に返した後、顔を上げて己が主人へと笑みを浮かべた。
「それでこそ、私の可愛い召使ネイヴだ―」


………


屍術師ジャックとその従者エリザベスの二人は大きな変化の無い日常を送っていた。
この数日の間、依頼人が訪ねて来るといった事もなかった為、彼はひたすら屍術の研究に打ち込み、彼女はその手助けをするだけで時間が過ぎていった。
ジャックはエリザベスの現状に関する研究資料を纏めていく中で、ふと壁に掛けた時計を一瞥すると、あと寸刻で夕食の時間である事に気が付いた。
羽筆を台座に挿し直し書斎から出て階段を下りると、ディナーの準備は既に済んでいたのでエリザベスと互いに向き合う様に座って食卓を囲んだ。
メインディッシュは彼女から今朝伝えられた通りの魚料理で、コッドフィッシュのマリネ。
ジャックも研究に行き詰まった時、気分転換にと夕食の準備を手伝う事もあったので調理方法に関しては良く理解している。
斜めにそぎ切りにした白身魚の切り身に塩と胡椒を軽く振った後、小麦粉を塗して油で揚げる。
それを予め細かく切っておいた玉葱、人参、ピーマン、輪切りにしたレモンと一緒に調味液に漬け込む。チェリートマトは丸のまま用いる為、ひと手間加えて十字の切れ目を入れてやる事で浸かりが良くなる。
具材を良く混ぜ合わせ半日ほどおいて味を馴染ませた後、器に盛りつけ直して最後にパセリの葉を添えて完成となる。爽やかな味わいも好みだが、カラフルな食材同士が互いの色を引き立たせる為に非常に見栄えの良いレシピだ。
「良く味が染みていて風味も豊かだ。こうでなくてはな」
「少し、漬け汁マリナードの、配合を、変えてみたの」
「エリザベス、知っているかね?マリネの語源は海を指す言葉に由来する事から…」
普段は皮肉めいた言葉を並べ立てるジャックも、好物である魚料理を前にすると食器を動かす手は自然と早まり、不意に蘊蓄も漏れる。
「元来、海水に、漬け込んでいた」
もっとも、彼が全てを言い切る前に彼女から素早く返答が返ってきてしまったが。
ジャックは気恥ずかしさを誤魔化す様にグラスの中身を大慌てで飲み干した。
「…先程の、前にも君に話した事があっただろうか?」
「……いえ、以前、街で手に入れた、レシピブックに」
「そうであったか。こうして屍術の研究にばかり明け暮れていると、いずれは君に物を教わるようになってしまうかもしれないな」
「……」
ジャックは食事を済ませるなり、再び二階の書斎へと戻って行った。
鴉の羽根に手を加えて作られた筆に沈む様な黒を滴らせ、紙の上を気の向くままに走らせると日録が綴られていった。
先程のやり取り、ただ主人の言葉を鵜呑みにするだけではなく彼女から指摘を受けた。
エリザベスに与えられた役割は確かに私の従者ではあるが、彼女は私の言葉に従うだけの人形ではない。
まだ表情や言葉選びに大きな変化は見られないが、彼女の意思は育まれている。
これは生前の状態へと向かっている傾向と見て良いだろう。
エリザベスの完全なる蘇生を果たすまでは、私の屍術の研究に終わりは無い。最後にそう記して日録を締め括る事とした。
開けた窓から入る夜風が一度閉じた日録のページを次々と捲り上げていく。彼が日々欠かす事なく書き綴っていたそれには同じ文字の羅列が何度もしきりに繰り返されていた。
屍術師ジャックとその従者エリザベスの二人は大きな変化の無い日常を送っていた。
書斎へと足を向けるジャックの背にエリザベスは聞き取れない程の微かな声で呟いていた。
このままでいい、と。


………


夜。ここらでは唯一の人家である屍術師ジャックの棲家の灯りが落ちると、周囲を照らす物は一切失われて、昏黒の森はその呼び名に相応しい様相を呈する。その中を生きる草木や動物達は暗闇に包まれて、まるでここら一帯が深い眠りに落ちてしまったかの様に静まり返る。
それは人里から遠く離れたこの辺境の地において何ら珍しくもない事であった。
しかし、今日に限ってはその静寂を力任せに引き裂こうとする轟音が鳴り響いた。
「…!?」
日常の中でまず耳にする事の無い大きさの爆発音。
エリザベスは直ぐ様に状況を把握しようと自室から飛び出した。
ヴァレオンとの一件以来、彼女は眠りに就く事を放棄し、ジャックに危害を加える存在に対して警戒を強め、常に臨戦態勢を取っていた。
それは生前の状態を再現した蘇生を理想とするジャックの主義に反する事であったが、エリザベスはあの様な事件はまた起こり得ると考えていたのだ。
煙の上がる方へと視線を向けると、戸口が何者かの手によって爆破された事が分かる。
どうやら彼女の予感は的中したようだった。
急いでジャックの寝室を目指そうと階段へと向かった所で、視界に入ったのは一つの大きな影。
暗闇に溶け込む様なそのシルエットは招かれざる客には相応しくない見慣れた形をしている。
それはまるで、普段の日常の中でいつも傍に立っていた彼の輪郭とそのまま重なる様な―
「貴方は…?」
「ほう…本命の、君の方からやって来てくれるとは実に好都合だ」
その言葉と共に、黒い影がゆっくりと伸びる。男が自身の掌を開いてエリザベスへと向けて突き出したようだった。
好都合。互いの狙いは違えど、エリザベスも彼と同じ事を考えていた。戦いをやるにしては男の動作はどうにも機敏さに欠けている。狙いをつけてくれと言わんばかりのスピードだ。
先程から繰り返されるのは単調な攻撃。それらを躱しながらエリザベスは体内を巡っている魔力を瞬時にコントロールして右の掌へと集中させていく。
拳に魔力を宿す事によって発動する掌の術式。高エネルギーを帯びた彼女の一撃が迫り来る男の魔手を真っ向から迎撃する形。
「…ッ!?」
しかし、エリザベスの打撃はそのまま殴り抜ける所か、男に容易く受け止められてしまった。
相応の手段を講じたにも拘らず、標的を仕留め切れなかったという違和感。
そして、相手を振り解こうにも力負けを起こし、完全にこちらの主導権を握られてしまっているという危機的な状況。
「ヴァレオンの使役するアンデッドとの戦闘を通じて、君の戦法は知り尽くしている」
エリザベスは見誤った。男はわざと彼女に狙いを付けさせる様に動いていたのだ。
男の手は黒革の手袋で覆われていたが、その下には特殊な術式が刻み込まれていた。
「この私の掌は君とは真逆の構造をしている。とすれば、これから何が起こるのか容易に想像出来るだろう?」
「…い、いや…!あッ、あああッ…!」
「この術式の性質は触れた者の魔力を吸収するというものだ。君の様に出入口を設けている相手ともなれば、内包された魔力を取り込むなど造作もない事なのだよ」
「エリザベスッ!!」
絶体絶命の窮地に陥った彼女を自らの手で救い出そうと、屍術師ジャックが回転式拳銃を構えながらその場に姿を現した。
「ジャック、騎士の登場にしては随分と出遅れたものだな。貴様が手塩にかけていたフレッシュゴーレムもこの私の手にかかれば…」
男が全てを言い切る前に銃声が響いた。目にも止まらぬ速さで駆け抜けていった一発の弾丸。
エリザベスを人非人と扱われた事が屍術師ジャックの逆鱗に触れたようだ。
「…彼女は人間だ。先程の言葉をもう一度口にしようものなら、次は当てる」
「やってみせろ。貴様が幾ら私に銃口を向けようが、そんなものは何の脅しにもならん」
射線上に立つ男はジャックの射撃の精度を良く理解していた。碌に狙いの付かない銃撃など交渉のカードには成り得ない。
「…貴様は一体、何者だ?」
「私の名はネイヴ、屍術師ネイヴと言えば理解出来るかね?」
ネイヴと名乗った男が深く被ったフードを捲り上げる。完全に露わになった彼の容貌は屍術師ジャックとまるで相違の無いものであった。
「ネイヴだと…?馬鹿なッ!?そんな事がある訳が…ぐあァッ!!」
自身が過去に捨て去った呼び名を名乗る男と相対し、事の全容を把握し切れないまま動揺しているジャックに容赦無く銃弾が撃ち込まれる。
ネイヴの手に握られているのは、たった今ジャックの掌から転がり落ちたものと同じ型式の回転式拳銃であった。
「銃はこう使う。大司教レクス様から直々に教わった筈だ。もっとも今の貴様に撃たせた所で昔の様に当たりはせんだろうがな」
右肩に負傷を受けたジャック。戦闘行動を続行出来ない程に魔力を失い、衰弱したエリザベス。
ネイヴは消耗した二人を見下ろして冷たい笑みを浮かべた後、この場に言葉を下ろした。
「さて、ここらで不出来な人形劇の幕を下ろそうではないか」


………


話は一年前に遡る。ジャックはエリザベスの蘇生にひとまずの成功を収めたが、彼はそれをより完全なものとする為に屍術の研究に打ち込む日々を送っていた。
しかし、大司教レクスを主導として行われている異端者狩りは依然として続いており、その手は日ごとに拡大していき、遂には潜伏先であるこの隠れ家にまで及んできていた。
「ひッ…!ひえェッ!!」
「次は当てる。直ぐにここから立ち去り給え。私は狭量な神の下に生きる君達と深く理解り合う心算は無い」
数日前、突然押し掛けて来た教会の者達に対して、数発ほど威嚇射撃を行う事でどうにか追い払う事は出来たものの、ジャックは次なる危機が訪れる事はそう遠くないと考えていた。
事態を重く見た彼はエリザベスにある話を持ち掛ける。
それは、この隠れ家を捨てて別の大陸へと移り住もうという提案だった。
「先代の、屍術師ジャックが残した隠れ家というものが幾つか残されていてね…」
「そこに辿り着けば、異端者狩りに悩まされる事は無いのですか?」
「教会の…いや、大司教レクスの手もそこまでは及ばない筈だ。港街ウィックエイユ行きの船に乗り、街から大きく外れた昏黒の森の深部を目指す。険しい道のりになるが…」
「構いません。急いで支度をして来ます」
「…すまない。君には、辛い思いをさせてばかりだ」
互いに必要最低限の荷物を纏めて、バロンには二人乗り用の鞍を取り付ける。準備を終えた所でジャックとエリザベスはこの隠れ家を発つ事とした。
「バロン、頼む」
エリザベスをサドルの前側に乗せて、ジャックがその後ろで手綱を握る形。二人を乗せた青毛の馬バロンは目的地を目指して走り始めた。
異端者狩りが終わらない限りは、再びこの地に足を踏み入れる事は許されないだろう。
二人はそんな思いを抱きながら、視界に映っては瞬く間に過ぎていく景色に別れを告げていた。
その間にもジャックは周囲への警戒を怠る事無く進路を取っていたが、目立って障害になる様なものは特に見当たらなかった。このまま順調に事が進めば、ウィックエイユ行きの船が出ている停泊所に問題無く辿り着く事が出来るだろう。
しかし、バロンを速歩で走らせてから丁度一時間が過ぎた所で突如、異変が起きた。
「…バロンッ!?」
バロンが一瞬、甲高く嘶いたかと思うと、頭部から鮮血を吹き出し始めた。
自身の体躯を支える力が徐々に抜け落ち、このままでは転倒してしまう事を察したジャックは瞬時にエリザベスに腕を回す。手綱を力強く握りしめたまま流れに身を委ねる事で、身体を投げ出される事無く着地する事は出来たが、ジャックが逃亡生活を始めてから共に過ごしてきた家族の命は一瞬にして失われてしまった。
「これは…?」
よく目を凝らしてバロンの亡骸を確認すると、彼を死に至らしめた魔力を凝縮した鋭利な矢が頭部に突き刺さっていた。
ジャックがそれを睨め付けていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「久し振りだな。ネイヴ―」
捨て去った筈の自身の名を呼ぶ声がする方へと振り向くと、その先にはかつて袂を分かった大司教レクスの姿があった。
彼の手に握られている司教杖の先からは黒い魔力が溢れ出ており、その痕跡からバロンを仕留めたのは禁戒呪術である事が分かる。
表向きには屍術を始めとする禁戒呪術を異端だと唱え、裏ではそれらを束ねて自身の力として行使する。司教杖の形だけを模したその魔杖は、まるでレクス自身のスタンスを体現しているかの様であった。
「貴方は、エリザベスだけでは飽き足らず、バロンまでも…」
「私の下を去り、命を思うままに操れるようになった貴様が今更獣の死を哀しむのか?怒りを覚えるのか?馬の一頭や二頭、あの男から受け継いだ屍術で蘇らせれば良かろう?」
「ぐおッ…!!」
「しかし、自身の命ともなればそうはいくまい?それは並み居る屍術師達が挑み、決して克服する事の出来なかった致命的な欠点だ」
「がはッ…!!ぐッ、ぐああッ…!!」
ジャックが銃を構えるよりも疾く、レクスの魔杖から次々と放たれていく無数の漆黒の矢。
それらはジャックの左前腕部と上腕部、左足の大腿と下腿部分、そして胸部と腰部の計六ケ所を瞬時に射抜いた。
「貴様がこの私に刃向かって、まさかこの様な形で奴の屍術を掠め取ろうとは思ってもいなかった…しかし、それもここまでだ」
「…ッ…!!」
身体を駆け巡る激痛に悶絶している彼の頭部に、最期の一撃を容赦無く撃ち込み止めを刺す。
ジャックとレクス。互いに関わり合っていた時間だけで言うのなら、二人は疑似的な父子関係であったと言ってもいい。
しかし、レクスのその所作は一切の躊躇いを感じさせないものであった。
「貴様も所詮、本来産まれる筈の無かった命だ。私の手を離れさえしなければ生を謳歌出来たものを―」
ネイヴはリサと同様に、戦火に巻き込まれて死亡した母体に屍術を掛けて産まれた命だ。
だがそれは、先代の屍術師ジャックの様な心持ちで執り行われた施術ではない。
死人の意思を蔑ろにした大司教レクスの興味本位によるものでしかなかった。
役割を果たせなくなった召使に情など介在しないと告げる様に彼はジャックを始末した。
「殺したての死体であれば、その記憶もさぞ瑞々しかろう…さあ、先代の屍術師ジャックから引き継いだ循環型術式の秘法を渡して貰おうか」
レクスがジャックの遺体に魔力を這わせて操り人形の様に身体を起こす。
彼がジャックの魂を強引にこじ開け、彼の持つ屍術の知識を己が手中へと収めようとした、その時であった―
木陰に姿を隠し、身を震わせているだけであったエリザベスが決死の行動を起こしたのだ。
一瞬の出来事である。レクスは残った女一人など自身の魔術でいつでも殺す事が出来ると見くびっていた。
しかし、彼女のやった事は彼の予測を大きく裏切るものであった為に阻む事が出来なかった。
エリザベスがレクスのやる屍術の最中に割って入り、ジャックの胸の中へ飛び込む。
彼女はその勢いを殺す事なく遺体を力強く抱き締めたまま、断崖から身を投げ出したのだ。
レクスは身を乗り出して崖下を見下したのだが、その様子を視認するなり思わず舌を打った。
激流に呑まれていった二人の姿を肉眼で捉える事が出来ず、完全に見失ってしまったからだ。
「…莫迦な女め」


………


「話は終わりだ」
「……」
ネイヴの口から語られた過去。これまで死者を生者の様に蘇らせてきた自分自身が既に没しているという事実。
まるで実感の湧かない真実を突き付けられたジャックは口を閉ざす事しか出来なかった。
「その表情から察するに、貴様の記憶は幾らか欠落してしまっているようだな。いや、こういった場合改竄されたと言った方が正しいか」
改竄。誰が何の為にこの事実を覆い隠そうとしたのか。そして、こうなると誰がジャックの蘇生を執り行ったのかという話になってくる。
「安心し給え。我々は既にその目星をつけている」
ネイヴはそう口にすると消耗し、項垂れているエリザベスへと近寄る。そして彼女の銀髪を力任せに掴み上げて強引にその身を起こした。
「さて、つまらぬ自慰行為は終わりだ。屍術師エリザベス」
「ジャ…ジャックは、殺させ、な、い―」
ネイヴの言葉などまるで意に介さず、エリザベスはこれまでに幾度となく繰り返してきたジャックを守るという意志を表明する。しかしそれは、彼女が真実を受け入れる事を恐れ、それから逃げ回っている様にも見えた。
「ふむ、義体に定着したこちらの魂はあくまで主人を守る事だけに特化しており、ジャックに掛けた屍術の事など知らない…という訳か」
「こちらの魂…?」
「…順を追っての説明が必要になるな。ジャック、私は大司教レクス様が途中まで引き摺り出した貴様の魂を定着させて生まれた存在だ。足りない部分はあの御方の施術によって補完して貰ったがね」
彼の語る真実。魂を分断するなど俄かには信じられない話だが、仮にそれが事実であるのならジャックの魂は既に欠落してしまっているという事になる。
「では、貴様の肉体に残された不完全な魂を補っているものは一体何だと考える?」
「ま、まさか…?」
「そのまさかだ。従者エリザベスの魂は自らの意思によって分断され、貴様の魂と混ざり合う事で生前の屍術師ジャックを象っていた、という事になる」
「……」
「貴様の研究が足踏みになるのは当然の事だ。半欠けのエリザベスの魂に如何なる策を巡らせようが、幾ら魔力を注ぎ込もうが、生前の記憶や感情を取り戻す事など出来る筈も無い」
ネイヴは以前の襲撃の際にヴァレオンのアンデッドを動かして、ジャックの日録と研究資料を全て盗み見ていた。それらの情報を元に推察すると、ジャックの蘇生を行うにあたって、生前の記憶の改竄と屍術の研究に関する認識を歪曲させる処理があったと思われる。
また、体力が著しく低下してしまっている事、問題無く使用出来ていた拳銃がまるで役に立たなくなってしまっている事。どれもジャックの身に憶えがあった事だが、不出来な施術が原因で生前のジャックのパフォーマンスを十分に発揮出来ていないのだと考えられる。
最後にネイヴは蘇生後のジャックの人格には、エリザベスの記憶による影響が色濃く出てしまっているとも付け加えた。
「亡骸に自らが思い描く理想の挙動を演じさせ、自身の性感帯をなぞらせる。これが自慰行為でなくて一体何だと言うのだ?」
ネイヴの並べ立てた言葉は聞くに堪えない下卑たものであったが的を射ていた。
「ジャック、良い表情だな。全ての真実に辿り着いて抵抗する気力も失せた事だろう?」
「……」
言葉を失う。エリザベスがジャックに掛けた屍術は彼の理想とその主義に反する事だ。
彼は屍術を用いる中で死人の意思を尊重する事を自身の信念としてきた。
しかし、ジャック自身が閉じた術式の中を揺蕩うだけの存在だったのだ。
「では、君達二人を大司教レクス様の下へと連行し、循環型術式の秘法を解明するとしよう―」
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