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巫女

巫女<告げる者>

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 貴族としての爵位を持ち胸を張って天を見上げ続ける。

かのお方の手足となって艱難辛苦から身を助くこと。これぞ、代々受け継がれてきた誇りだ。しかし、人間とは尊いもので、忘れやすい生き物。長い長い月日が流れ、誰もが敬う祭祀の家も、もはや王侯貴族にさえ理解を示されなくなって疎まれた。

 「父上……無念です」

 俯き、淡く微笑む兄の姿が痛ましい。もはや召使いさえ逃げ出したお屋敷に、わたくしとお兄様の二人っきり。ロウソクの炎の頼りない灯。最後の晩餐は、わたくし手ずからの貧しい食材で作られたスープとパン。葡萄酒でさえ一杯のコップに注ぎ、二人で分け合う始末だ。 

 「……ミランダ。すまない。
  お前にばかり、苦労をかけて」

 (いいえ! お兄様……)
 せり上がる想いがわたくしの胸を刺し、言葉にならない。頭を横に振って意思表示を示すことしかできなかった。麻布の掛布程度のものでしか、テーブルにかけることができない質素なものだ。最期の晩餐だというのに……ぎゅっと歯噛みをする。何故、賄賂だなんて。そんなもの受け取った覚えがない、我が家は潔白なのは明白だ。それなのに。どうして。

 「可愛い妹。申し訳ない。
  ……すまない、ミランダ。
  すまない……」

 汚職の波は、我が家にもやってきた。それはあまりにも想像だにつかない出来事で、驚天動地であった。お父様がわざわざ潔白を表明しに王城へ向かったが、そこから何ら音沙汰がない。母はわたくしが生まれてすぐ天の星に帰ってしまわれたから、実質わたくしはこの家をたった一人で切り盛りしていた。

 「お前にすべてを任せることになってしまった。
  ミランダ……」

 そのまま出かける準備をして、がらんどうのお屋敷から出て行こうとするたった一人の肉親。わたくしの縋るような腕の先にある手が、お兄様の袖口を掴もうとした。

 けれど。
 儚く、淡い雪のようにお兄様の幻影は消えた。
 そうして、弱弱しくわたくしが触れたのは私の家を貶めた貴族の男だった。みなぎる顔はひどく矮小で、とてもじゃないが見るに耐えない。

 「い。ミランダ。
  もっと許しを乞え。
  といっても……、お前になんら罪はないが」

 そう言って、何度もわたくしを娼館の奥から呼び出しては金を払う。
次にやってきたのは、私の元婚約者。伯爵貴族の嫡男。将来を嘱望される、国家中枢の側近。

 「ミランダ……、哀れな」

 悲しげに、しかし、どこか蔑むような目をしている。
わたくしは奴隷として売り払われた身。客に指を這わせ、その憂いを喜びに変えねばならない。

 「噂通り、君は貶められた奴隷になってしまったんだな」

 頬に触れたわたくしを甚振る彼は、出世に響いたとぼやく。

 (いいえ、冤罪です! 潔白ですわ!)

 けれども、彼にはわたくしの言葉はちっとも通じていないようだった。
 あれほど親しかったはずの婚約者。幼い頃からの知己であったはずなのに一旦身を貶めた者を、まるでモノとして、ひどく扱う。なんて酷い。惨いこと。

 (いくら女娼婦が、替えがきく生きモノだとはいえ)

 あんまりだ。あんまりだわ。
 わたくしの手足は、商売として活用される。生まれ持ったそれはわたくしの商品価値。傷つけば傷つくほどに、わたくしは部屋の隅へ追いやられる。目立つ場所から、みすぼらしい所へ。

 (お父様……)

 部屋の隅を見上げながら、柔和な父の顔を思い出す。
裏切り者と蔑まされるたびに。父に似ているとその目を、母に似ている面差しだと客に言われるたびに。
わたくしは乱れたベッドから立ち上がり、素肌に上着をひっかけて窓から空を眺める。薄暗い朝焼け。その淵を。冷たいガラスの窓に指を吸いつかせる。

 「あぁ……この世界のどこかにいるのかしら。 
  わたくしが守り、仕えねばならないお方が」

 曰く、そのお方は寂しいお方。
必ず温もりでもって待ち構えねばならない。その腕でもって、抱きしめて差し上げなければ。
 曰く、ひとりぼっち。
世界でも稀なるお方だ。決して、粗相のないようにお迎えせねばならない。
 曰く、心の重石になれ。
あのお方には必ず側に控える者たちが現れる。王になれるほどの逸材ばかりが。我々も気を引き締めてかからねばならない。見捨てられてはならない。

 でなければ。

 「契約は、約束は終わる……」

 我々は、いわゆる先触れである。
我々は決して絶えてはならない――――この家は絶えてはならないと戒められていた。国が保護してきた貴族の家だったのだ、それが、なくなった。ということは、だ。

 「終わり……」

 そう。

 (終わりそうね)

 私わたしは、腹を撫で上げる。
そこはとても平べったくて滑らかな肌触り、だが、もはや私の身に赤ん坊が宿ることはない。

 (……先月の無茶が、良くなかったようね)

 元々、この娼館の仕事も私の身体に耐えられなくなってきたのだ。日々起き上がるのも億劫で、客を満足させることも出来なくなっていた。お得意様も別の娼婦に目移りしている。部屋の角で、ただ客を待ち構えるだけの奴隷娼婦だ。

 「でも……出迎えぐらい、してあげられる、わよね?」

 最後にお仕えする人間として。

 「もしそのような存在が居れば、だけれど」

 ぽつり、と口にしてみるとなんと寂しいことか、と悩ましい気持ちになる。
 立ち上がろうとして、がくりと膝が落ちる。
手を床において、また立ち上がろうと壁伝いに雇い主様のところへと向かう。ゆっくりと、階段を下りて、早朝の静けさにどこか爽やかさを感じながら。
 この娼館の雇い主様、奴隷の主は奴隷をモノとして扱うことに長けていた。
私が使いモノにならないと知ったら、どう出るか。私を売り払うのに躊躇しないであろう。
 いくらでも代わりがいる。
それが、奴隷。いつまでも同じことを繰り返す、醜い世界。

 「ふふ……」

 そうして、笑うと。
込み上げてくるもの、それはこれまでの人生のこと。そして、もはやどうにもならないというこれからの人生についてのこと。何が出迎えだ、とも思う。肝心のお出迎えすべき我々、家族がいないではないか。所詮、我が家の言い伝えも眉唾。あんなに誇りだなんだ言い張ったところで、誇りでご飯が食べられたら憂いがない。我が家の誇りは、すでに純白なほどの潔白ではなくなった。家もなく、後ろ盾もない女に成り下がってしまった。あれほど、祭祀の家だと子供の頃から教え込まれていたというのに。まるで焼け野が原。我が屋敷は燃やし尽くされた。私は奴隷として売られ、這い上がれないかと画策する日々。若かった頃の私の客は、上客が多かった。寝物語に零れる情報は有意義ではあったが。

 (処刑されたという、お父様……)
 (捕まったという、お兄様……)
 (人伝手の情報。だけれど……二人とも、私を迎えにこなかった)

 それが、答え。
 ふと真顔になり、両目を閉じ。
かつて、幸せだった風景を思い浮かべる。そこには、両親がいて、兄がいる。婚約者もいて。もしかしたら子供がいたかもしれない。兄の子だって。けれど、そんなうたかたの夢、もはや過ぎ去ったものでもある。私の手には届かない、偽りの夢。
 いや、あるいはもう。
私は終わるのかもしれない。この一歩、一歩が地獄への道へつながっているような気さえする。
 果たして、私はどこへ売り払われるのだろう。娼館の主様は、利用できない娼婦をそれなりの道へ売り払うという。泣き喚きながら連れ去られる娼婦たちを、私は何人も見送ってきた。
 さあ、行こう。
両目を開き、私はさらなる一歩を踏み出した。




 ……まさか、大人しく連行されていった先が男爵夫人の家だとは。
誰かの慰め者にしかならないと嵩を括っていたが、そうではなかった。私は洗濯メイドとして使役されるようだった。この家の唯一の奴隷として。

 「ミランダ、というのね」
 「はい」
 「そう。今日からよろしく」

 旦那様は滅多に、いえ、ほとんど帰ってこない。
明らかに政略結婚であると知れた。子供もいない夫婦。果たしてそれでいいんだろうか、と思わざるを得ないが、それでいいんだろう。互いに、互いの愛人に構うことで忙しいようだ。
 そんなことよりも、私は給与が下がってしまったことを気にした。
提示された金額は少ない。だが、これ以上をねだるのは野暮というものだ。藪蛇ともいう。どこへ私の所有印が刻まれるか分からない。胸元にある花の色が奴隷の証。到底人に見せられない、傷物だ。

 (嗚呼……だから私、壊れているのかもしれない)

 すべてを失い。手に入れたものは僅かだ。
懸命に働いておいてもらえるよう価値を示すしか、他に道はなかった。
 奴隷ではない者たちは、私を小馬鹿にした。表だって言われたこともある。
惨めな人生。長く洗濯メイドとして働いても届かない、自由になるためのお金。情けない老後に思いを馳せて、道端で捨てられるのも時間の問題かもと思い始めていた頃であった。 

 「ねぇ、失礼」

 呼びかける声がした。
ちょうど洗濯物を抱えているときだった。館の長い廊下の先、そこからひょっこりと姿を現した人間に私は驚いた。危うくせっかく取り込んだものを落として、怒られるところであった。

 (あ、)

 瞠目する。
まさしく。長年、我が家がずっと探していたお方だ。私には、すぐに分かった。
奔流のように流れる天啓が私の中を走り抜けたのだ。

 「今、忙しい?」

 間違いない。私には彼女の声は不思議な音韻を踏んでいるように聞こえた。
この世界の言語ではない、別の世界の言語だと感じる。でも、理解できる。
 心臓の高鳴る音が激しい。緊張で、いや、歓喜で心身が打ち震える。

 「い、いいえ、あ、なたはどこから……」

 どうにか息を整え、喉をごくりと鳴らして彼女を見つめた。
黒い髪に黒い瞳。身長は下手な子供よりは低いが、魔術書を抱えている。
顔立ちからして辛うじて大人だと見受けられるが、どこか達観した雰囲気があって。目を離すことができない。静けさに響く彼女の声は、彼女の性格が穏やかなのが分かるぐらい、凪いだものだ。

 (心地良い、人……)

 何故かはわからないが、爽やかな風が吹く草原の只中にいるような。囁く音は風。森林から葉が擦れ、羽ばたく鳥の羽に揺れる物音がした。あるいは、夕焼けに染まる棚引く黄金の小麦畑。暖かくて、いつまでも側にいたいと思わせる。

 「あ、ごめんなさい。
  玄関からちゃんと入りました。
  このお館の奥様の護衛として雇われたばかりで、
  その……、部屋に迷ってしまって。
  ここ、いっぱいあるんだね」

 きょろきょろと見回す彼女、心細げに立ち尽くしている。

 「あ、ええ、そうね。いっぱい、ですものね」
 「それで、奥様の部屋は?」
 「ご、ごめんなさい。
  あの階段を登った先よ」

 (お父様、お兄様、お母様!)

なんたることでしょう、私は、とうとう見つけてしまいました。
我らが家は先触れを出さねばなりません。ですが、私はこのように両手がふさがっていて、すぐに口火を切ることはできませんでした。

 (まさか。
  こんなにも、長い間旅をして。ひとりでいるなんて!)

 なんたる失態、なんたる暴挙!
沸き立つ歓喜は、わたくしを歓喜の渦に叩き落とします。さあ、迎えねば。約束を果たさねばなりません。

 (世界の終わりを告げなければ!)
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