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九章
罰
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天帝直々に呼び出しがあったのは、どれほど経った頃だったろうか。
そこで聞かされた苦言はあまりにも思いがけなく、受けた清江は言葉を失いしばらく天帝の前で立ち尽くしたほどだった。
「至急、参上するように」と、念で呼びかけられたたったそれだけの指示に、清江はいまだかつてない胸騒ぎに襲われた。
もしや。いや、しかし。そんな意味のない自問自答を、謁見の間にたどり着くまでに何度繰り返したことだろう。後ろめたさがないとは言えぬ身。今回の用件が何にせよ、お咎めを全く受けずにいられるとは、さすがの清江も思っていなかった。
「水神清江、参上いたしました」
戸口でそう声をかけたのは、いつもなら解放されているはずの扉が閉ざされていたからだ。つまり、すでに天帝はここにおでましになり、清江を待っているということに他ならない。
中から門番がゆっくりと扉を開けた。やはり、中には天帝の姿がある。清江は一度深く息を吸ってから、中に入った。すると、なんと人払いをされてしまった。
広すぎる謁見の間に、天帝と清江の二人きりである。いよいよ不穏な予感が頭を占領しはじめる。何を言われるかは予想ができているはずで、それもある程度覚悟の上だったはずが、潔く腹をくくることができぬほど胸中はざわめいていた。
「久しいな」
静かな声が、清江を震えさせた。もう長く仕えている天帝の、声色の変化くらいは聞き分けることができる。相当に、お怒りだ。
「何なりと、お言葉を頂戴いたします」
そう、頭を下げた。何を言われても受け入れるしかない。どのような沙汰であろうとも、目の前の相手に逆らえる者は、天上天下一人たりともいないのだ。もっとも、清江にそのようなつもりは初めからない。やはり懸念は杞憂には終わらなかった、そう覚悟を決めたまでだ。
そして、苦汁をにじませた天帝の言葉が、降ってくる。
「監督不行き届きだな。知っておるか。あの者がもう何度も、責務を果たさずにいることを」
「なんですって?」
意外な方向での指摘に、つい声を荒げてしまった。てっきり、彼との関係そのものを咎められると思っていたからだ。
「やはり知らなんだか。かといって、それでは致し方ないとも言えぬのでな。そなたを呼び出すしかなかった」
「……玉風は、それでは、私には隠しながら命に背いていたのですか」
始終共に過ごしているわけでもない相手の行動を、完全に把握できないのは仕方のないことだ。しかし、彼はこれまでに何度か、「お務めに行ってくる」といって寝所を出たことがあったはず。それは嘘だったのか。では、なぜそのような嘘をつく必要があったのか。そうまでして命を無視する理由が、あったのか。
「ほう。どういうことか、言いなさい」
天帝に促され、清江は一度言葉をのんだ。しかしここにきて、隠し事は無用だ。清江と玉風の関係くらい、大前提として話しているはずなのだ。こちらから申告せずとも、その気になれば全神の様子を天宮にいながらにして把握することができる方だ。
「ご存じのとおりです。私は禁を犯し、……玉風と、深い仲にあります。共に過ごすことも多く、その際に何度か、務めに出ると言っていたことを思い出しました。つい先日もそうであったはず。それが、私を謀っていたということなのだと。そうする理由に思い当たらず、思案しております」
「そうか。そなたにはわからぬか。しかし、朕には思い当たる節がある」
「それは! ご教授くださいますか」
天帝からの言葉は意外なものばかりだ。理解はできるが情緒が追い付かない。取り乱さぬように自分を抑え込まねば、とんだ醜態をさらしてしまいそうになる。
「おそらくは、玉風は神気を乱す、もしくは損なっているのだろう。そのため、神気を必要とする命に従えぬ。しかし、そなたにはそれを言えぬまま、命を放棄し続けておったのだろう」
「どういう、ことでしょう。なぜ彼がそのようなことに……」
「心当たりがあるのではないのか?」
「……と、申されましても。至らぬばかりに……」
清江はここで言い淀んだのではなかった。本当に知らぬがゆえに、口をつぐむしかできなかった。一体何がそうさせたのか、教えを乞うほかに知るすべがない。それはあまりにも情けのないことだった。
「交わったことで、そなたの神気であれの神気が傷ついたのだろう。天界で神同士の色事を禁じているのは、このせいだ。そなた、知らずにおったのか。だから、あれと契ることもしたのだな」
「……そんな……」
頭を鈍器で打ち付けられたような衝撃だった。そんなことが起こるとは、ついぞ考えたことがなかった。知ることもなくここまで過ごしていたことが、あまりにも悔やまれた。
「ほんに、そなたはいい歳をして初心なことよな。それが災いしたのは確かだが、そもそもそなたらが心通わさねば起こらなかったことだ」
「……」
天帝の言葉が深く胸に刺さり、何かが抉られていく。
天帝の言葉通りなのだろう。疑うところは何もない。すべては自分の無知と浅はかさが呼んだ結果。このような形にたどり着くなど思いもしなかった。知っていれば何があっても彼を受け入れることはしなかったはずだ。
たとえ恋い焦がれていても、彼の想いを受け止めていたとしても、体をつなげようとは思わなかったと断言できる。彼が求めても、それだけはと言い含めることはしたはずだ。
それが、知らなかったばっかりに。
「申し訳ございません! お咎めは、いかようにも」
天鳴はその場にひれ伏し、床に額をつけて頭を下げた。今は自分の後悔などにかまっていてはいけない。自分がここにいる意味は、悔いるためではないのだ。
「当然、無罪とはいかぬ。しかしその前に、玉風の処遇を考えねばな。本人も罪を犯しながら、身の振りを決めかねておるはずだ。そなたに任せるが、よいか? ここへ連れてきなさい。それが、まずはそなたにとっての罪滅ぼしとなろう」
「御意に」
「うむ。」
誰か他の者によって引っ立ててくることもできたところ、天帝は清江を信用して、玉風を連れてこさせるという。これができねば天帝への反逆とみなされるということでもある。
謹んで拝命いたしますと重ねて返答し、清江は己を奮い立たせた。落ち込んでいる場合ではない。これは自分が責任をもってなさねばならぬこと。そのほうがきっと、玉風にとってもいいのだろうと思った。
「一つ、お許しいただけるのならば、お教えください。玉風は、……どうなるのでしょうか。彼の神気は、また蘇りますか」
これは、事の次第によっては玉風に聞かせたくないと思い、己が胸にとどめるつもりで懸念を口にした。
「わからぬ。そなたの神気が強すぎるのでな。どの程度の状態かは、あやつを連れてこねばわからぬよ。下手をすれば、天界にはおられぬようになる」
「そんな……」
一度や二度ではない彼との契りを思い、また胸が暗くなった。自分のほうがどんな咎を受けるとも構いはしないが、神としてこれからの玉風にはあまりにも酷なことだ。彼が初めからそれを知っていたらどうだっただろう。それでも清江に抱かれたいと言っただろうか。今更そんなことを思うのも馬鹿馬鹿しいことなのかもしれないが。
「その上での、沙汰となろう。まずはそなたが、責任をもってあやつをここに。良いか」
「必ずや。すぐに連れて参ります」
「あの者を導いてやれと言ったはずが、ずいぶんと道を外したな、清江」
「面目ございません」
ともすれば頽れそうになる身を奮い立たせ、清江は足早に天帝の前を辞した。胸には、どくどくと疼く重苦しいものを抱えたままで。
目の前が昏い。
とんでもないことをしてしまっていた。自分などは悔い改めればよいことだ。しかし彼に起こっている事態は罪だけの話ではない。彼の神としての資格にもかかわる重大な……、過ちだ。
しかし、なぜ。
言えなかった彼の気持ちがわからないことはない。しかし、ならばどうして、身に起こっている大事をわかりながらも清江との閨事を続けていたのだろうか。
彼に触れ、神気がなくなっていればさすがにこちらも気が付く。そのような感覚はなかったはずだ。また途絶えてはいないのならば、どうなっているのか。
とにかく彼に会って話をせねば始まらない。こんなことになってしまったのは、彼の想いに自分が応えてしまったから。自分さえあのような行為に至らなければ、こんな事態を迎えることはなかった。心だけの繋がりにとどめられなかったのは、自分の禁忌への認識が甘すぎたからだ。溺れすぎた。愚かに過ぎて、自責以外の何も浮かんでは来ない。
こんな終わり方をするなんて。あまりにも……。
自分さえうまく立ち回ればいいと思っていた浅はかさに吐き気がする。その考えそのものが傲慢ゆえの間違いだったのだ。
私は彼の何を見てきた。どこをどう、御していたというのだ。御されていたのは自分の方だった。なにも、わからずに。
「務めをすっぽかしていたのか!」
会って開口一番、清江は玉風に詰め寄った。一度身を震わせてギクリとしてから、玉風はふっと笑った。
「ばれちゃったか」
どうにも真剣みのないところは玉風の性格ではあるのだが、そこが今は素直に腹立たしかった。冗談にでも笑っていい話題ではないはずだ。
「君は、務めだと言って出かけていた。あれは嘘だったのか!」
「……」
語気を荒げ、ともすれば掴みかかりそうな清江に、玉風は妙に落ち着いた沈黙で肯定を示した。
「どうしてだ。神としての務めを果たさねば、神ではいられぬのだぞ」
「仕方ないじゃないか。力が、うまく使えないんだよ!」
「やはり、そうなのか……」
深くため息をつく清江を見、聞いてきたんだねと、諦めたように玉風は言った。
「なくなったんじゃない。だったらあなたにもすぐにわかるよね。僕のこの体に確かにあるのに、制御がうまく行かないんだ。あんなに自由自在だった風が、起こせなくなる。時には止められなくなる。怖いんだよ、自分がどうなっちゃうのか。こんなのは初めてだ。自分に何が起こってるのかわからない。風神の端くれとして、せめて害にはなりたくなかったんだ」
神は見守るだけではいられない。時にその力を利用して、地上の秩序を保つ必要がある。それができないのでは、神としての存在意義はないといっていい。もうそのことは、玉風にも自覚されているから、だからなのだと彼は言う。
「なぜ黙っていた。この、私に」
「言えないでしょ」
「何故だ」
「あなたとは、別れたくなかったんだよ! ほかに理由なんかない!」
玉風は叫ぶように言った。一度昂った口調は、堰を切るように激しさを増す。
「だって、あなたに抱かれるようになってこうなったんだ。言えるわけないじゃないか。言ったらあなたは僕と別れるでしょう? 言えるはずがない!」
「だからといって!」
「あなたが好きなんだよ。あなたといることと、神でいることなら、あなたのほうを選ぶ! あなたがこれを愚かだって言うの?」
胸の真ん中を刺し込んでくるような言葉に、それ以上責めることはできなかった。
そうでなければと思う節がいくつもある中で、清江が気づいていさえすれば変えられたものが確かにある。そうだとしても、玉風の心を変えることができぬ限り、彼がつらい思いをすることに違いはない。
あまりにも、ままならない。
「すまなかった」
なにもできなくて。ただ応えるだけしかできなくて。このような結果を生んでしまって。せめて、契らぬ仲のままでいればこのようなことにはならなかったのに。
全ての悔いは自分に迫る。せめて自分がと、何度も、何度もだ。
しかし、今日事実を知らされた清江とは違い、すでに自身の身に起きていることを感じている玉風は落ち着いたものだ。いずれこういう日が来ることは、もうとっくにわかっていたのだろう。
「仕方ないよ。全部僕のせいだから、あなたが気に病むことじゃない」
清江を誘い込んだのは自分のほうだと玉風は言う。つまり、自業自得なのだと。
「いや。そうじゃない、玉風」
玉風自身の責任だなどと言い逃れができるはずがない。なぜ清江が応えたか、そこには確かな情が芽生えていたからだ。恋を形作るのは、抱き合いながらだったかもしれないが、そうなることを止められないほどに、情は深まる一方だった。熱すぎる求めが歓喜を呼び、感情に火をつけられた。
でなくてどうしてここまで……、愚かになれた?
「でも、さすがに潮時だね。これ以上恥を晒したくないし、天帝を怒らせちゃった。僕はどうするべきなのかな」
強気だった玉風の声に、諦めとも覚悟とも言えそうな、静けさが添えられた。
そもそも抵抗する気はなかった様子だ。天帝が言ったように、成り行きを待っていたのかもしれない。
「まずは天帝に謝罪する。二人でだ。その後の君に関しては、私から掛け合ってみる」
「もう一緒には……いられなくなるね」
「それは免れんだろう」
それでも、まだどちらも別れの言葉を口にしなかった。
天帝への謁見は、謝罪のためにまずは二人が、しかしその後は玉風の同席は許されなかった。事のきっかけはどうであれ、やはり年嵩の清江のほうに重い責があり、その元に罰は玉風が受けるという体裁がとられたようだ。
玉風は、彼の自邸で十年間の謹慎。その間天官による監視下に置かれることとなった。天帝の力により清江の与えた神気は祓われ、彼が本来持つ風の力を蓄え直すことができるまでは自由に地上へ降りることは許されず、天上にて自身の力を整えるようにとのことだ。幸い取り返しのつかない事態にまではならずに済んだことを、一番喜んだのは清江だった。
清江もまた、三年の自粛を言い渡された。こちらもその間地上への行き来は禁じられた。ただ、監視はつかない。重鎮としての席は一時預かられたが、清江のこれまでの功績を買われ、変わらぬ忠誠を誓うならばそれ以上の罰は必要ないとのことだった。
かくして互いは引き離された。行き来ができぬよう呪をかけられ、互いの居場所を感じ取ることもできなくなった。
もちろん、時を経て禁が解かれたとしても、縁を戻すことはない。これ以上罪を重ねるわけにはいかないことに加え、関わらぬほうが互いのためだということくらいはわかっていた。ただ、玉風がどういう心境でいるのかは、気にならないはずもなく。あれだけ焦がれて求めてきた彼が、罪のためにその想いを捨てることができるものなのかと、捨てられぬことで辛さを抱えてはいないだろうかと、そんなことを思いながら清江は、彼の使っていた部屋を片付けることもできず、一人きりになった邸で、ただそれを眺める日々を過ごすことになった。
「水に流す」という言葉があるが、心はそう簡単には変わらない。胸を激しく揺さぶった感情は、すぐにはなかったことにはならない。長い長い神としての生の中で、彼との時間ほど生々しく、強く、生きていることを感じるものはなかった。理性ではどうにも抑えられない衝動があることも、求められたことで初めて得られる幸いがあることも、懐深くに隠して他の誰にも扱えないように包んでしまいたい欲が芽生えることも。それらはまだ清江の中で、今も息づく感情だ。そんなものに支配されていては神として正しくあれないのだとしても、知ってしまったものを忘れることはできない。時間をかけて眠らせるしかないのだと思っていた。
◇◇◇
更なる絶望は、すべてが終わってから訪れた。
自分がそれを知らなかったという事実は、清江の心をあっさりと壊した。
「なんですって……?」
声さえも凍った。しかしそのあとは、砕けた。
玉風は、二年前に消滅した。と。そう、天帝は清江に告げた。清江にかけられた禁呪が解かれた時だった。
三年の自粛の間、清江は玉風についての何を知らされることもなく、彼自身の消息さえも感じることを許されず過ごしていた。
その日、三年が経ったと天宮に呼び出され、罪が許されたと当時に禁が解かれた。もう会うこともないにしても、彼が息災であるならばそれを見守って過ごしていこうと、清江の中では納得ができていた。なのに。自分にかけられていた呪が取り払われた瞬間に、しかし彼の気配を感じ取ることができなかった。
おかしい、彼の気ならばたとえ地上に降りているものでも感じられたはずだった自分に、なぜそれがわからないのかと、戸惑った。
しかし、それを天帝に相談することはできず、精神を集中させて探っていたところだった。
「かの者を探しても、無駄だ」
至極淡々と、天帝が言った。どういうことかと問う言葉より先に、玉風の消滅を知らされたのだった。
「そなたがそうなると思い、伏せておった。すべては玉風がしたことだ。そなたにはもう、一切の咎もない」
「どういうことでしょう! なぜ!」
天帝の語った顛末は、こうであった。
謹慎に耐えきれず、玉風は天界を飛び出し地上へ逃げた。取り上げられた恋への悲しみがそうさせたのか、あるいは縛られ閉じ込められることを嫌ってのことだったかはわからない。謹慎中の身勝手な行動に、天帝はたちまち怒り、天界への出入りを永久に禁じた。彼は天上する前にそうであったように、地上の神として過ごそうとした。しかし、力を弱らせたままだったせいか、かつてのように人々の信仰を集めることができなかった。そしてそっと、誰にも知られることなく朽ちるように、風神玉風の存在は、消滅したということだ。
その場に頽れた清江は、天帝の御前にもかかわらず、泣き叫んだ。そのときばかりは天帝を恨む言葉も吐き散らかした。自分も天界を出ると言った清江を、天帝は止め、再び清江を謹慎させた。清江は心を閉ざし、息さえ忘れたように、悲しみとだけ過ごすようになった。もちろん、天命を果たすこともしない、地上を見ることもしない。ゆえに神気も弱まる一方となった。地上に満々と水をたたえていた河が枯れはじめ、周囲の田畑が瞬く間に荒れた。疫病が発生し、どうにもならず人は龍神廟に祈ったが、神は答えない。このままでは清江が玉風と同じ末路をたどることになると、天帝も心を痛めたようだった。
そしてまた、新しい呪をかけられた。新たに三年間、玉風にかかわる記憶を封じられたのである。
その呪を解くときに、天帝は清江に頭を下げた。許せ、そうするしかなかったのだと。
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