おなじはちすに

桂葉

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終章

終章

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 ただ、恋しい。それだけの想いを抱えて、走った。
 ひたすらに、風を切って走った。闇の中に見える光を求めるように、迷いなくその道のりを駆け抜けた。
 たぶん、憎らしいほど、彼は歩くんだろう。あの少し早い足取りで、いま八雲がたどっている道の、その先を。
 どれくらいで追いつくだろう。出立時間の差は何刻にもなる。しかし迷うべくもない一本道だ。それぞれに、よく見知っている。 
 丸一日掛けたが出会えなかった。しかし、八雲は夜を徹することをしなかった。同じように、蓮暁も同じ夜を急ぐことなく休んでいると思ったからだ。
 会える。それはもう確信であった。向こうだってきっと、追われていることはわかっているはずだ。本気で逃げるつもりならば、この先で出会うことはないだろう。だが、絶対に会えると思えた。
 次の日は、八雲は走らなかった。もうすぐ目的地にたどり着こうとしているからだ。急がずともそこで会える。
 甲賀は、伊賀と一山を隔てて位置する山奥である。この土地そのものが砦のようで、ゆえに大名の支配が届かず、自治体としての機能が発達している。惣という組織の合議制で捷や自治が運営される。そのぶん結束も固く、閉鎖的だ。そんな空気を、里に入って久しぶりに感じた。
 小さい。そのぶん濃い。かつて、それが息苦しくもあった。
 かなりの早朝である。さすがに里人の姿はほとんどない。しんと静まった里の風景は依然と変わらず、冷たかった。
 ひんやりと立ち込める朝霧の中、生家のあった場所をただ懐かしい思いで通り過ぎ、これが最後と心にとどめた。八雲が出たときのまま、そのままの姿で家はあったが、もう自分のいるべき場所とは思えなかった。
 そして足を向けたのは、里の外れにある墓地。この地から出ることなく死んでいった者も、出先で命を落とし、仲間の手によって連れ帰られた者も同じように埋葬される場所だ。そこに、父と母が眠る。ここで手を合わせるのもこれが最後かもしれない。そう思うと自分の不孝を悔いないわけではなかったが。
 見ると、咲きかけの野の花が一束手向けられているのが、名も刻まぬ父の墓石であることに気がついた。
 とくんと心臓が鳴る。
 思えば、父の亡骸を運んでくれた若者は、母と八雲が涙に暮れている間に姿を消していて、名前どころか顔さえ明らかでなかった。それが、蓮暁のその人だったのかもしれない。その後も何度か、墓に花が添えられていた。てっきりかつての部下かと思っていたが。                                                                               
 しゃがみ込むと、花は露に濡れしっとりと艶を帯びていた。その傍らに、古びた矢立が供えられていた。それが全てを語っていた。
 一度手を合わせると、急かされるように、八雲は立ち上がる。
 もう、いいのか。形見がなくても。
 八雲は再び走った。近い。もうすぐ、手の届くところに辿り着ける。
 その人がどちらに向かって行ったかは、わかるような気がした。
 西に向かうならあの道だ。いつか言っていたことを思い出す。
「出雲へ、行こうか」
 近江を横切り逢坂を越えてその向こう、出雲に続く道があると。


     ●


 その背は、やはり美しかった。
 旅を続けながら追いながら、いつも思っていた。綺麗な背だと。すっとのびた背筋に、凛とした潔さを感じた。その胸には癒えない痛みと、報われなかった恋心の骸を抱えているというのに、なぜこんなに美しい後ろ姿なのだろうと。
 触れたいと思うようになった。
 抱きしめたいと思うようになった。
 振り向いてくれることがなくても、背にそう請うくらいはと。
 確かに、何かは繋がった。山城での夜は、二人の何かを繋いではいた。けれども、根本が、まだ重なっていない。
 このままなかったことになど、できるはずがないじゃないか。こんなに恋しい。
 この人の抱える弱さを、引き受けたいと思う。力の限り抱きしめて、もう離さないと言ってやりたい。
 逃げたって無駄だ。どこまでも追いかけてやる。しつこいと、あの形のいい眉を寄せられてもいい。冷たく「要らない」と言われてもいい。それが本心でないならば。
 八雲にできることが、癒せる手がここにあるなら。そう思ってやっとたどり若いた。
 あと十歩、というところで、八雲はわざと、消していた足音を立ててみせた。
 もうとっくに気がついていたんだろうに、それでも、その微かな音にあわせて、僧侶は足を止めた。シャン…と、錫杖が涼しい昔を奏でる。
 時が止まったように、その手が届くかどうかの距離で、立ち止まる。
 そして時を再開させたのは、八雲だった。
「坊主のくせに、足、はやいよ」
「知っているだろう」
 ゆっくりと、振り返る。日に焼けた菅笠の下には、少し困ったようにも、諦めたようにも見える苦笑があった。
「一人で行くなんて、薄情だなあ。俺いなきゃ、出雲行く意味がないんじゃねえの?」
 向かうのは、西への道だ。二人でたどるはずだった、長い道のりのうちの、ほんのかかり。
「やはり来たのか」
「わかってた?」
「こうならないことを願ってたんだがな」
「生憎だったな。俺はめげないのだけが取り柄でね」
 一歩、足を進める。蓮暁は、もう逃げはしない。
 苦笑が少し深くなったように見えた。出会ってからずっと、一番よく見た表情だ。だがこの苦笑には、色んな感情が隠れていることを、八雲はもう知っている。
「いいのか、私で」
「愚問だろ。俺があんたと離れたくない」
 八雲の言葉を、受け止めて、少し目を閉じ、そして蓮暁は 「そうか」と言った。
 その想いをかみしめるような。短いがいろんなものを混ぜ込んだつぶやきだった。
「蓮。あんたは? 俺に惚れてないとは言わせないからな。あんな…」
 あんな優しく何度も抱いておいて。
 愛しいと伝えてくる抱き方だった。手を握って、背を抱いて、熱い肌を寄せた。夢のように心地よく酔わせて。体を気遣う声さえ穏やかだった。それが、恋心でなくて何だというのだ。
「惚れたさ。だから置いてきたのに」
「ひでえ男。天邪鬼。それ親父の意趣返し?」
「悪かったな。芸がなくて」
「でも、それくらいではめげないから」
「どこまでも阿呆だな」
「ついていくぞ」
「好きにしろ」
「する」
 言って、もう一歩近づく。そのまま腕を引き寄せ、八雲は蓮晩に口づけをした。
 通りに人はいない。深くロづけながら抱きしめた。
 ふたりの足元に、蓮暁の錫杖が倒れて転がる。
 八雲の背に、蓮暁の腕がまわされた。強く、固く。法衣の白檀が甘く香る。
 しばらくそうしたままで動けなかった。頭上を鳥が飛び去り、風が髪を乱しても。
「やっぱり俺、出家しようかな」
「ははっ。やめとけ。似合わん」
「そうかなあ」
「そのままでいろ。そのままのお前が好きだ」
 言って笑い、そしてまたロづける。こんどは甘く、とろけそうだ。
  その言葉さえ、ふだん口の悪い蓮暁が囁くにはあまりにも…、そのまますぎて、胸に痛いほどに響いて、やはり甘すぎる。
「今好きとかは、反則!」
「なら何て言われたい?」
 蓮暁の目が、すっと細められた。その色香にまた、胸が熱くなる。       
「そばにいてくれたらそれでいい。お前は私のものだ。仏には渡さん。…まだ足りないか?」
「いい、もういいからっ。恥ずかしい。朝っぽらからいろいろ、熱すぎるって」
 八雲の反応を楽しむように、蓮暁は笑う。その満足げなことといったら。
「も~」
「わかったら、出家なんて言うな」
「はい。」
「…行くぞ」
「うん」
 そしてまた、蓮暁の半歩後ろに着く。潔く伸ばされた背筋をほれぼれと眺め、ほっと息をついた。
 もう、大丈夫だ。
「後ろめたいなら、わたしが還俗しよう」
「え。やだよ」
「なんで。今となっては僧侶でいる必要もあまりないぞ」
「不真面目な坊主だなあ。罰が当たるぞ」
「まじめに生きればいいだろう。もう、俗世を憂うこともないだろうし。もともと悟りを開こうとして仏門に入ったんじゃなし。得度に興味もない」
 そういうことを、さらりと言ってのけるのか。堅物な顔をして。
 いや、そういえばこの杖に刀を仕込んだままというところから、既に全然、悟ってない。
「それこそ、あんたはそのままがいい。俺が惚れたのは忍びじゃなくて坊主のあんただ」
「わかった。どうせはじめから生臭坊主だからな。色欲に溺れるのも仕方ない」                                                                                              
「…したたかだな」
「元忍びだからな」
「もうちょっと修行したら?」 
「そんなもんしてたらお前といられないだろう?」
「…もう好きにしてくれ」
 これまでで一番おかしそうに、蓮暁は笑った。その貌は悔しいくらいに綺麗で。八雲は自分の勝ちだなと勝手に思った。
 そして一度目をあわせてからまた、二人は同じ足取りで西に向かって歩き出した。
 行き先は決まっている。


                                         完
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