おなじはちすに

桂葉

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二章

草枕

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 翌日、蓮暁はうたたねから目覚めて、重いため息をついた。 
 そうだった。思い出すだに重ねてため息がでる。
 外は眩しいくらいの銀世界。なのに妙な寝心地の良さは、火があったことと、ひと気があったことによる。
 さすが人の気配には敏いらしく、蓮暁が身じろぎをしただけで、肩に寄り掛かって寝ていた人物も目を覚ましたらしい。
「おはよ、蓮」
 ごく普通に、既知にするような自然な挨拶だ。もう、自分はこの少年の領域に入ってしまったのだなと思う。
 少しの煩わしさを禁じ得ないが、それを言うのはいくらなんでもかわいそうだから、ただため息にその気持ちを交えるしかない。生来、人とのかかわりが好きなほうではないのだ。
「ああ、おはよう。怪我はどうだ」
「なんてことないよ。手当てしてくれたおかげ」
「なら、いい」
 気になっていたことが解決すると、蓮暁からは会話が続かない。その代わりにというように、八雲が沈黙を拾い上げてまた言葉を発する。
「ああ、ほんと腹減った。ここ、町まで遠いよ、どうする?」
「私は町の手前に寺があるからそこまで歩く」
「ついてく」
「……本気か」
「うん。」
「その格好でか」
 忍びと僧侶の道行き。どう見ても不自然だ。だいたい、忍びはその独自の装束で昼間に行動することはない。こんなものと歩いていたら、こちらが偽だと思われそうだ。
「ああ、大丈夫。変わり衣になってるから」
 あっさりとそう言って、八雲は手早く忍び装束を脱ぐと、裏返してもう一度着なおした。それは淡い若草色に波紋のついた、どこにでもある普通の小袖になった。頭巾をはずし、着ている物が一般人になれば、どこから見てもただの少年である。
「忍者服はたいてい裏表になってんの。袴はこのままでもいいだろ」
「……それなら、目立たんか」
「だろ。なあ、ついてくよ、俺。邪魔にはなんないようにするから」
 その存在自体が邪魔だとかには、考えが及ばないらしい。その何とも言えない楽天的な発想には、唖然とするしかない。
「……苦行だな」
 人を助けてこの煩わしさが付いてきたのだから、たまらない。これくらいの愚痴は声に出させてもらおうと思った。
「なんか言った?」
「いや、なにも。なら、八雲」
「あ、はい」
「支度したら出よう」
「わかった」
 八雲の顔が嬉しそうに煌めき、先に立ち上がった蓮暁を見上げてくる。そしてすっくと立ちあがると、まっすぐに外を見やった。ここから始まる新たな旅路に眩しさを感じるように。
 ずいぶんかさの高い拾い物をしたものだ。しばらくは観念しているしかなさそうだ。その体温の高さに、そういえば自分も人だったな……などと、蓮暁は途方もないことを思う。
 外はもう、雪は降っていなかった。朝日に輝く白い世界は冴え冴えと美しく、木々の枝から落ちる雪の音以外なにも聞こえない。本来ならば、自分もその自然に溶け込んだように黙々と歩くのだが、今日からしばらくは、そうはいかないらしい。
 八雲は若い忍びだけあって、雪道にしては速足で歩く蓮暁の速さにも、息を切らすこともなくついてきた。
 彼日く、用心棒なのだそうだ。蓮暁はまだ若く、しかも容貌が秀麗なので、道中ならず者に襲われるかもしれない。そのときには守ってやる、とのこと。
「このなりでもう二年流浪しているが、そんな目に遭ったことはない」
 そう言うと、油断するなという。有難迷惑の大きなお世話なのだが、本人は感じていない。
 確かに、襲われることがないわけではなかった。ただ、自分で追い払ってきたのだ。武術の心得はある。しかしそれを言うとまた面倒なことになりそうで、八雲のいる間はか弱い僧侶でいることにした。
 道中飽きない程度に、八雲は話しかけてきた。どこから来たとか、何処へ向かっているのかとか。まだ知り合ったばかりで、そういった話題には事欠かないとういのもあった。他に話すほどの話題は、ただただ続く白い世界からは見いだせないようだ。
 ここは、近江国の中ほど。いまは北國街道に沿って琵琶湖周辺を遍路しているが、あてはない。このあたりは寺も多いので、そこここで足を止めることができる、それだけの理由で気の向くまま旅を続けている。南下して、この先はとりあえず、山城国に入ろうと思ってはいる。 
 出家は、この山城の国にある小さな山寺で果たした。拠点もその寺ではあるが、もう一年以上戻ってはいないし、今回も少し立ち寄るくらいでまた旅立つつもりだ。
 そんな蓮焼を、八雲は「変なの」と言った。なぜかと聞くと、わざわざ帰る場所があるのに行脚する意味が分からないのだそうだ。
 確かに、蓮晩にもその意味をはっきりとは言えない。ただ、どこにも居場所を見いだせないだけなのだ。だから、修行の旅とはそれ自体が目的なのだとか、もっともらしいことを言っておいた。    
 そんな調子でほぼ休むこともなく数刻歩き、日が高くなってやっと足を止めた。  
 もう少しで、人里に出る。そのしるしに、ひとりの物売りに出会った。そこで売れ残りの干し柿を買い求めることができて、二人は取り急ぎそこで休息をとることにしたのである。 
 道中雪解け水の流れる沢で水を補給していた。それで水分をとりながら、たった二つぶずつの柿を食べる。その糖分が、体にいきわたるようだった。   
「たりねえ……」 
 案の定ぼやいたのは八雲である。育ち盛りの真っただ中である彼が、柿二つで満足できるはずもない。しかし、目的の町でもう少し食べ物も補充するつもりだったので、いまは我慢である。路銀だって限りがある。仕事をしようにも人がいないのではしたくてもできない。
 ぷ、と口から種を飛ばす。その幼い遊びを微笑ましく眺めた時、不意に風が強く吹いて、木々の枝端からさらわれた雪の粉とともに蓮暁の笠が飛ばされそうになった。
 手を伸ばして、八雲が笠を捕まえる。その反射神経も動きも感心するに能うものだった。                                                                             
「なあ、蓮」
「なんだ」
「なんで坊主なのに坊主頭じゃないの」
 笠の下の髪がすこし乱れて風に遊ばれたのを見てか、今度はそんなことを言ってきた。
 彼なりに遠慮はしているようだが、蓮晩にずいぶん興味を持ったらしい八雲が、予想どおりのことをきく。蓮暁の髪は今、肩にかかるくらいに伸びていた。それをただ粗末な麻紐で束ねているだけだ。
「……寺を出たときは剃ってたさ。のびただけだ」
「え、坊主頭だったの」
 剃髪していないことに疑問を抱いていたくせに、この反応である。ずいぶん思考が自由であるらしい。
「悪いか?」
「いやあ、なんてか、意外っていうか。この髪しか見てないと、想像しにくいっていうか。まあ、似合うんだろうけど」
「何が言いたい」
「そのままでいいよ。寒いしね」
「意味が分からん。暑くて剃髪するのではないのだから」                           
「また剃る?」
「面倒くさいからしばらくはこのままだろう」
「そっか」
 蓮晩にとってそれほど意味のないことも、八雲には興味深いらしい。
                                                                                  
                          
     ●


 その日のタ刻近くになって、二人はやっと何らしい町にたどり着いた。
 町の入り口近くにある、古いが多少門構えの立派な寺に、今日は世話になることにした。
「山城国法照寺僧都、蓮暁と申す者。一晩の宿を求めたいのだが」  
 門番である小僧にそう告げると、ほどなくしてそこの住職が直々に出迎えてくれた。
「修行の途中ですかな。どうぞ、ご遠慮なく」
 住職は言って、小坊主にその支度を言い渡した。白髭を長く伸ばした小柄な僧正は、目を糸のように細くして笑うひとだった。
 それに、八雲をただの同行人と紹介し、彼の分の衣食も依頼したが、嫌な顔はされなかった。なかには入山を拒まれる寺もあるから、今日は運がよかったほうだ。
 仏堂で経を収めた後、一室に通され、やっとひとどこちである。床の上で荷を下ろし、足を休めることができるだけでもありがたい。
「あんた、ほんとに坊主なんだな」
 休息にあやかれたとたん、これである。どうやらこの寺に迎えられるまでのやり取りから、そんなことを思ったようだ。
「失礼な。はじめからそう言っているだろう」
「だってさあ、忍びだって僧に化けることもあるし。偽坊主だっているだろ、いっぱい」
「そういうものと一緒にするな。ちゃんと出家して、僧位もある。れっきとした坊主だ」
「みたいだね」
 その一言は、蓮暁の耳に素直には届かなかった。
「なんだ」
 八雲の言いたいことはおおよそ想像はついたが、まずは知らぬふりだ。
「いや、なんか坊主らしくないっていうかさ」
「……そうか?」                                                                    
「出家する前はなんだったの。なんか、違うことしたんじゃない?」  
 図星だった。蓮暁は寺の生まれではない。むしろ、その真逆のような暮らしをしていた。
 見破られるとは思わなかった。八雲の勘には油断は禁物らしい。これは忍びであるゆえの鋭さなのか、八雲自身がもつ野生の勘なのかはわからないが。   
「たしかに。寺とは関係ない人生だったな」    
「そんな感じだよ。ま、きかないけど。俺も言えないしな、里のことは」 
「だろうよ」   
 こんなひとなつっこい八雲でも、いくら死んだものとされているとはいえ里のことや自分自身についてはおいそれと話さないようだ。  
 そうであってほしいと願う。まだ、二人は深い部分を明かすほどの仲でもない。世の中、知らないままでいた方がお互いのためということは多々ある。
 そうこうしているうちに静かな足音が近づいてきて、門で会った小坊主が部屋の外から声をかけてきた。   
 小坊主とはいえ蓮暁より少し年下くらいの青年僧である。艶のある声でゆったりとした話し方は、経のときもさぞ聞き映えすると思えた。  
「僧都、湯の準備が整いました。お二人で入られませんか」    
「俺もいいの?」
  蓮暁よりもはやく、八雲が反応した。
「それはそうだろうが……」
「ここの風呂は広いですから、どうぞ。お着替えも置いておりますゆえ、お召しになってください」
 小坊主は、言って是非にとすすめてきた。ありがたい申し入れではあるが、二人でというところに抵抗があった。一瞬躊躇いはあったが、あまり手間をかけさせるわけにもいかず、蓮暁は渋々承諾することにした。   
 二人は立ち上がり、湯殿へ案内される。     
 そこは、この手の人数にしては広すぎる風呂であった。昔はもっと僧をかかえていた寺だったのかもしれない。
 陽気のたちこめる風呂場は、ふっと体の力を奪っていく。冷え切った体の芯まで温まりそうだ。 
「お美しい方ですな」
 脱衣場を出るとき、小坊主がそっと、蓮晩に耳打ちしてきた。        
「は?」
 聞き返したのは蓮暁。それを聞きつけて、八雲は「ん?」と反応した。
「なんでもございません。どうぞごゆるりと」
 意味深な微笑みを残して、小坊主は戸を閉める。
 ああ面倒だと内心毒づいてから、振り返ると苦い顔をした八雲と目が合う。    
「なんかさっき、変じゃなかった?」 
「そうだな。お前、稚児だと思われたんじゃないか」  
 稚児にしてはとうが立ちすぎてはいるのだが、まあ、そう見えないこともないのだろう。八雲のもつ雰囲気は、どこか幼さを残している。 
「え?」   
「知らないか。僧職では稚児持ちは普通だ。男色も当然だからな」
 だから、同行人として疑われることがなかったというのが真相だろう。旅僧が稚児を連れていて、咎められる理由はない。
「俺たちができてる扱いってこと?」
「そうなる。それでよかったかもしれない。さっきの小坊主はどうも私を気に入ったようだったから」           
 こんなことも、初めてではない。もっと露骨に迫られることもあった。
「聞き違いじゃなかったんだ……」
  苦々しく眉をよせ、八雲が唸る。こちらにはそういった経験はないようだ。
「私一人なら口説かれたな。用心棒の役割が果たせたじゃないか。初成果だ」
「そんなつもりじゃない! あんた、そういう時はどうしてんの」
「適当にあしらうさ。そもそも、私は抱かれるほうじゃない」
 女顔だということは自覚していた。それが昔から嫌で、護身術は怠らずに身に着けていた。
  幸い背丈はあるし、身体も鍛えてはいるのでそう簡単に組み敷かれるようには見えないはずなのだが、どうも蓮暁はそっちの誘いをよく受ける。生来男色家ではないので、そのへんの傾向は知らないが、迷惑千万な話である。
「え」
  八雲が、蓮暁の話からまた衝撃を受けたらしく間の抜けた声を出すが、蓮暁は気にしない。                                                                                        
「さ、風呂に入るぞ。さっきのが覗いてるかもしれんがな」                                          
「ええええっ」
 八雲の声が、湯殿に響き渡った。



 町に近いとはいえ、寺の夜は特別静かだ。勤めを終えた僧たちは就寝も早いし、余計なことをする習慣もない。                                                                         
 風呂から上がるとすっかり日が暮れて月の刻になっており、食事を与えられてから借りている部屋に入ると、程なくして戸口から呼び掛けられた。声でも気配でもわかる、先ほどの小坊主である。
 ちなみにこの寺には、四人しか人はいないようだ。住職と、小坊主と、もっと幼い小僧がふたり。 
「何でしょう」
  やはり来たかと内心ため息をつきながらではあるが、声には出さずに返事をする。
「蓮暁僧都、よろしいですか」
 名指しされれば、出ていかないわけにもいかない。部屋の中では不服そうな八雲の顔が見えたが、大事ないと目くばせしておいた。     
「少し、旅の話でもお聞かせ願えませんか。なかなか、客の少ない寺ですから、珍しくて」                       
「お聞かせするほどの旅ではありませんが」
「夜は長うございます。そうおっしゃらず、少し私の僧坊へお運びくださいませんか」
  なるほど、二人になりたいということのようだ。実に面倒だが、一宿一飯の恩がある以上、無暗に礼を欠くこともできない。
「……私にその気はありませんよ」
「稚児連れでなにをおっしゃいます」
  ほのめかすこともせず断ったが、相手もひるまない。いよいよそのつもりであったらしい。ならば、理由をつけてお引き取りいただくしかないかと決心をつけた。
  今日は誂えたように、断る理由になる状況だ。
「残念ながら、私は彼に操立てしておりましてね」   
  ちらと、部屋へ視線を送る。が、目が合うまでにすかさずそらす。後始末が億劫だが、今は八雲に構っている暇はない。
「なんと」
 白々しく驚いて見せて、しかし小坊主はまだ引く気配はない。
「つまりは彼にしか反応しないのですよ」
「それは、また」  
「どうか、お控えいただけますか。ご満足いただけぬと思いますゆえ」
 歯に衣着せずそう言ってのけると、さすがの好色者も怯んだらしい。くっと喉元で笑い、「残念です」と引き下がった。
「若い僧のいない寺では、お寂しい気持ちは察します」   
  追い打ちで言ってやると、小坊主は苦笑いをして、踵を返した。来た時と同じ楚々とした足どりが、素直に遠ざかっていく。
  大胆に誘ってくる割に、品のある僧だった。いつもこういうものわかりの良い相手なら楽なのだが。蓮暁が若いことと容姿が良いこととで、厄介な相手にてこずることもある。あまり無体を働く者には、力でねじ伏せ拒むことだってあった。 
  こういうことが煩わしいので、寺には必要以上に頽らないことにしているのだ。しかし長雨や今回の雪などやむを得ないときは、こうやって一夜の宿りを求めることになる。
  戻ると、顔を赤くしてふくれっ面の八雲がにらみあげてきた。よく表情の表れる少年である。が、……ああ、これも面倒。
「おい、なんだ今の」
  睨む顔にあまり迫力はないが、声の刺々しさはなかなかのものだった。まあ、気持ちはわかる。
「聞いていたかな」
「忍びは耳がいいんだよ」
 とはいえ、わざと聞かせてはいた。自分と道中を共にするとはそういうことだと知らしめるためだ。
「すまない、少しお前を利用した」
「少しか! よくあんなことをしれっと言えるな」
 どうも、こういうことには初であるらしい。八雲は本気で膨れているようだ。その感情のままにころころ変わる表情が面白くて、蓮暁はつい意地悪なことを言いたくなる。
「はは。悪かったって。手出しもしないから、安心しなさい」
「な……!」
 どうやら自分が蓮暁に組み敷かれる図でも想像したらしく、目を見開いたその反応に思わず笑いを禁じ得なかった。
「……」   
「どうした?」    
「いや、あんた、笑うんだな」   
「え。」
 今の驚いた顔は、蓮暁想像したのとは意味を違えていたらしい。
「初めて見た。笑うの。けっこうかわいいんだな」  
 こんどはぽかんと、蓮暁の顔を眺めてくる。稚児にされたことは一瞬忘れたようだ。  
「……」
 そして蓮暁の方は、半分からかいだとわかる八雲の言葉に反応できないまま、固まるしかない。
 それを、お前が言うのか……と。
「照れたし」
 うまく返せないのをただの羞恥だと解釈してくれたことに救われ、蓮暁は素直に照れておくことにした。
「……つまらないことを」
 この想いを、八雲に伝えることはできないのだから。
「あはは。稚児扱いされた仕返しだ」        
「わかったよ。すまなかった。ただ、私といるとそう見られることもある。嫌ならそろそろ身の振りを決めるんだな」      
「まあ、そうなんだけどさ」    
 八雲は決まり悪げに言って、逃げるように布団にもぐりこんだ。  


     ●


 翌朝。久しぶりに心地よい目覚めだった。  
 朝の勤行を務めて、朝食をふるまわれてから寺を出た。お気をつけてと見送られるのは実に久しぶりで、悪くはない。
  八雲は小坊主に複雑な表情を向けていたが、それには気がつかないふりで、いざ出立である。
「蓮、今日はまた歩くのか」  
「あ、ああ。街で買い出しはするがな」  
 とりあえず、次の町にたどりつくまでの食糧だ。路銀は限られている。  
 小さい町でも、必要なものは手に入った。歩いていると、施しも受ける。そのたびに経を唱え、そうしてまたひとつの場所を通過するのである。
 病がちな年寄りを抱えた夫婦に懇願され、簡単な祈祷をすることもある。物の怪が出るという場所で経を上げることもある。ただそれは、できるだけ避けたい事であった。そうやって得を積むことより、ただ静かになにかを鎮魂するような旅をしていたかった。   
 自分の経が誰かのために役立つなど、おこがましい。そう思う。そんなことはもっと立派な高僧がやればいい。自分が唱えるのはたぶん、この胸にある重い悔恨を昇華させるための経だ。罪をすこしずつ洗い流すように。
「蓮、蓮?」
 ふと思考を止めていたらしく、八雲の声に反応するのが遅くなった。 
「ああ。なんだ」  
 八雲が、けげんな顔をする。そしてすこし考えて。  
「なあ、蓮て呼ばれるの、嫌だった?」      
 と、ふいに言った。もう何回となく呼ばれているのに、今更な質問である。       
「どうしてそう思う?」
「なんとなく、なんか微妙な顔するときあるから、かな」
 当てずっぽうのように言うが、案外鋭い。おおざっぱな性格の癖に、変なところにとても敏感に反応する。不思議な人間である。    
「いや……。ふと、昔そう呼ばれてたことを思い出すからだ」
 そう返していた自分も、思えば不思議であった。そんなこと、言うつもりなど微塵もなかったというのに。
「へえ。ってことは、蓮て、本名なの?」    
「違う。……名は、蓮に次で蓮次。蓮と呼んでいた人間がいたんだ。十年ほど前にな」
 まだ耳に、その人の声が残っている。それと八雲の声とでは全く違うし、呼びかけるときの調子や表情だって全然違うはずなのに、ふと、重なるときがある。 
 それはまだ、胸に残る痛みが過去のものになっていないことを示しているようで。自分の未熟さに呆れる。十年修行を積んでも、この程度か。ざまあない。
「彼女?」
「……」    
 軽く問われまた、八雲の声に反応できなかった。
 なんと言われたかと反芻しようとしたが、八雲が続けた言葉でかき消された。
「図星か。あ一あ、きくんじゃなかった。あんた綺麗だもんな、彼女なしってことないよな」    
 八雲はわざとらしく拗ねたふりをする。
  なるほど、蓮暁のその相手を恋仲と思い込んだようだ。そしてそういう反応なのか。とても俗人臭くて笑えた。
「確かに十年前は出家はしてなかったが、女ではない」
 あっさり言ってやると、八雲は今度は驚いた顔をする。単純だ。
「友人というか、恩人でもあり、親しい相手だった」 
「男?」  
「ああ」      
「だった?」      
「ああ。今は、いない」
 今はいない。その言葉の意味を、八雲は正しく理解したらしい。かるく後悔したようにきまり悪げに目をそらし、しかし口から出たものをどうしようもなくて、俯いて小さく「ごめん」といった。
 いい子だ。心底そう思った。素直で、わかりやすくて、とてもいい子だ。
「かまわない。お前さんが気に病むことじゃない」 
「そっか。でも俺やっぱ蓮暁って呼ぶ?」   
「いや、もはやそのほうが変だ。あの人とお前は全然ちがうから」   
「ふうん」    
 もう、塗り替えてもいい。八雲へ言葉を返しながらそう思った。
 自分は、あの人のいない現世を生きているのだから。もう十年も。
 この、今この時に自分をそう呼ぶ人物が現れたことは。偶然ではないのかもしれない。もし御仏の意思なのであるなら、もう充分なのかもしれない。過去にとらわれて生きることは。なら、この機会を節目としよう。たとえ痛みは消えなくとも、とらえ方を変えればいい。
 この、自分とは対極のような八雲を見ていて、そんな気分になった。
「なあなあ、蓮」
「だからって無暗に呼ぶんじゃない」        
「違うよ。元気出せ。な?」 
  その胸に蘇った苦い味をかみしめていることは、八雲にも感じられたようだ。だが、その励ましは実にわかりやすいものだった。
「単純でいいな、お前は」
「なんだよそれ!」
「なんでもない。ありがとう。もう平気だ」
「あ、ああ。それならいい」
 ほんとうにほっとしたように、八雲が笑った。
 抱きしめたいほどの、あたたかい笑みだった。
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