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一章
雪路
しおりを挟むしんしんと、積もる雪の音が聞こえるようなタ刻であった。
もう何日も降り続く白い雪で、視界はすこぶる悪い。空気も冷え切って、そこに居るだけで容赦なく体温を奪っていく。風がないのだけが幸いだった。
足元では一歩一歩たどるように雪のきしむ昔がして、雪靴を履いていてもじんわりと足袋を濡らす。足先は冷たすぎて感覚もなくなっていた。
それでも、一人の僧は微かに経を口にしながら、ぽつぽつと歩く。
何もこんな日に歩く必要はないはずだった。彼の旅に目標や期限があるわけでもない。修行でさえないこの行に、彼自身名をつけることもしていなかった。
彼、僧名を蓮暁という。まだ若い長身の僧である。
ふと、笠をかしげて空を見上げる。灰色の雲が重なり、そこから降りかかってくる雪の白が、彼の頬に降りては溶けてわずかに肌を濡らした。
そろそろ今夜体を休める場所を見つけなければならなかった。しかしここら辺に頼れる寺などはない。どこか……崖の洞穴か、そうでなければ大きな木の根元か。とても暖をとれるとは思えない場所しかないのだろうけれども。
もうこのまま歩いていようかなどと、途方もないことを考えたその時に、足元を横切る微かな人の足跡を見つけた。
こんな日にこんな道もわからない場所を歩いた者がいる。しかも、雪に完全には埋もれていないところを見ると、まだ比較的新しい足跡だ。興味がわいたというよりは、休息の場所が近くにあることを期待してのことだ。蓮暁はその足跡を追いかけた。
実のところ、気は進まない。こんな状況でなければできるだけ人には会いたくない。その先に、なにか良からぬものが待ち受けている可能性だって十分にあった。
ただ、この足跡の主がどういう状況なのかも気になった。
無事なのか。
山賊だってこんな雪の日に物取りに出てはこないだろう。蓮暁くらいの酔狂な旅人か、あるいはこんなところを歩かねばならない何かにとらわれた者か。
現に、足跡はよく見ると、かすかに引きずったような痕跡があった。しかしそれも、新しく降る雪に今にも隠されようとしている。たどるのなら急がなければならないようだ。
それは、少し離れた低木の傍まで続いていた。途切れたところに、わずかに血痕。嫌な方の予感が当たったらしい。のぞき込むと、案の定半分雪に埋もれた状態で、人が倒れていた。
「もし、生きておられるか」
しゃがみ込み、蓮暁は声をかけた。関わりたくない思い半分、捨て置けない思い半分である。
「……っ」
意識がはっきりしないようだが、反応はあった。独特のいでたちは忍び装束。頭巾で隠している顔は、若い青年のものだった。体つきも小柄だ。
追われた忍びか。その雰囲気から蓮暁は悟った。
長い旅の途中では、そんなものに出くわすことがある。訳ありと言えば蓮暁も例外ではなかったが、それにしても世にはまっとうに生きることのできない人の、なんと多いことか。
……いや、「まっとう」とは何かを、世が見失っているともいえる。
そこに、遠く離れたところで何かの音がした。
とっさに、蓮暁は近くにあった枯れ枝を少年の上に何重にもかぶせた。その行動の理由は、純粋な勘が働いただけであった。
嫌な気配がする。そう思って気配のした方を見た。人が近づいてくる。その者は雪の日のためか、薄い灰色の忍び装束を身に着けていて、倒れている忍びよりは多少賢いようだ。
「おい、そこの坊主。ここらで忍びを見なかったか。草色の装束だ」
その灰色の忍びは殺気を隠しもせず、僧侶に研ぎ澄まされた刀を突き付けてくる。
罰当たり極まりないが、嘘をつけば殺すとそういうことだ。人を手にかけることにためらう人種ではない。まして、斬られてどうなる身分でもない。
「生憎。この雪では視界もままならぬゆえ、確証はございませんが」
そう、蓮暁は低い声で淡々と返す。世捨て人を決め込むつもりはなく、それが彼の地であった。
「うむ。それは?」
その忍びはすぐに、蓮暁がかぶせた枯れ枝を見とがめた。それもわかっていたことだ。
「凍死者の躯でございます。野犬にでもやられたか、無残に過ぎますゆえ、こうしてせめて経を上げております。お疑いなら見ますか」
「い、いやよい。急いでおる」
無残という言葉に抵抗を覚えたか、あるいは僧の言葉を信用したらしく、相手はすこし顔をしかめてから、もう周りに目を向けていた。逃げた忍びの痕跡を他に探しているのだろう。
「では、経を続けても?」
「ああ」
蓮暁が経を再開すると、灰色の忍びはまた雪道を歩いて行った。走らないところを見ると、この雪にそろそろ追跡を諦めつつあるようだ。
忍びのくせに彼が単純でよかった。そう思いながら、蓮暁は形ばかりの経を唱える。
こうしている間にも、倒れたままの忍びが息を引き取る可能性はあった。しかし、今の追手に捕まれば確実に死ぬ。ならば少しの可能性にかけてみたのだ。目の前で自分より年若い少年が弄り殺される光景は、あまり見たくはない。
追手の気配が完全に消えたところで、蓮暁は枝をはらい、下の人物を診た。手の甲を口元にあててみる。……息をしている。そのことにいったん安堵したものの、まだ油断はできない。
「もし、わかるか」
「う。ん?」
冷えた体をゆすると、その少年はゆっくりと身じろぎをした。目を合わせると、しっかりと焦点をあわせてくる。
はあ、と大きく白い息を吐いた。肺の中の空気を全て出し切ったように。そして思い切り吸い込んで、
「あんた、誰」
「旅の僧侶だ。そなた、怪我は」
「ああ、腕やられただけ。それより腹減って死ぬ」
開いた眼はこの状況に似つかわしくないくらいに澄んでいて、その言い分とあいまって、蓮暁を沈黙させた。
「死んでおけ」
「うそ。坊主がそれ言う?」
反応もいい。案ずるほどでもなかったらしい。
しかし、自分がこの忍びの命を助けることになったのは確かである。元気そうではあるが体に力が入らないらしく、起き上がってくる様子はない。
「忍びなら兵糧くらい持っておろう」
「食い切ったんだよ」
「阿呆か」
言ったが、それもあり得ることだった。いい季節なら自然のもので食いしのぐものだ が、この季節では期待できない。自分の用意できた食料が尽きるほど長引いた任務なら、それが理由で失敗ということもある。
まだ経験の少ない者ならなおのこと、少しの油断が致命的な結果を呼ぶのがこの世界である。
「いや、本気でもう駄目だと思った。なんとか逃げ切れたんだ。よかった」
からりと笑うこの少年に、自分が助けたとは、少し言いにくくなった。だから、余計なことは言わない。
「傷の手当てをしよう。この辺に休めるところはないか」
「ん、あった。向こうに崖の影になって雪がかからないとこが」
さすがは忍びである。状況把握はしているらし。たぶん、ここがどこであるかもだいたいは掴めているのだろう。
「案内してくれるか。私も、もうこれ以上歩く気はない」
「じゃ、一緒に一晩すごすか。火種も持ってるし天幕も張れる」
「ありがたい」
「ついてきて」
「そうさせてもらう」
蓮暁が返事をすると、忍びはにかっと笑った。
「ありがとう」
「?」
「坊さんが助けてくれたんだろ、追手から」
かちりと視線を合わせ、そう言った目は真摯であった。
「どうしてわかる?」
「足跡。もう一人分の足跡があって俺が生きてるって、そういうことだろ。しかも、俺の足跡消してくれてた」
「……まあ、な」
「だから、ありがとうだ」
「礼には及ばん。見殺しにできぬ生業だからだ」
「ま、そうだよな」
少年は明るさを増した笑みで言った。やはり忍びらしからぬ、朗らかな笑顔だった。
それなりに傷むであろう腕の傷を、ものともしていない。まだ若いし未熟ではあるのだろうが、下手な忍びでもないらしい。関わりたくなかったなと、ため息交じりに蓮暁は思った。
雪をしのいで怪我を手当てしたあとは、忍びは活発に動いた。動く前に少し、蓮暁が待っていた干し芋と水を分けてやったからだ。
彼は手早く自分の頭巾を脱ぎ、崖下の窪地を利用して風から守るように天幕を張った。忍びの頭巾はいろいろな用途に使えるようになっている。
それから彼は、懐の中から携帯用の火種を用意し、手早く火を起こした。淀みなくやるべきをやるその手つきは慣れたもので、これ以上世話を焼いてやる必要はなさそうだ。
「さすがだな」
「ま、忍びのはしくれだからね。これぐらいできなくちゃ生きてけない」
「僧侶も多少は心得はあるが」
「坊さんに負けてたら忍びつとまんないし」
あくまでも、口調は軽い。
火起こしが成功したので、彼は竹筒で息を吹きながら火の勢いを助ける。蓮暁はその傍らで雪に濡れていない枯れ木の枝をかき集め、火が一晩持つように備えた。
そうしながら、なんとなしに会話は続いていく。
「悪いが、食べ物はもうない。この雪ではとても調達できないな」
「いや、大丈夫。さっき食わしてもらったから。それよりあんたの食い物ないだろ。悪いことしたな。腹へってるよな」
「断食には慣れている」
「俺も慣れてはいるんだけど。明日の朝には、猪肉食わしてやるよ。お礼だ」
「……。破戒しろと?」
「そっか。坊さんだもんな。鳥ならいいか。捕ってくるよ」
「無理はするな。まだ追手が近くにいるかもしれんぞ」
「でもさあ」
すこし唇を尖らせて、忍びはプイとすねた。なんとも生命力のある人物である。そういえばこうも長時間同じ人物と関わるのも久しぶりな蓮晩にとっては、かなり圧倒される勢いである。死にかけていたくせに、蓮暁よりも明らかに元気だ。
「気持ちは、頂いておこう」
もともと、各地の寺に身を寄せたり、施しを受けたりの生活だ。野山のものを糧にすることも多いが、一日食べなくて倒れる体力でもない。
「せっかく生き延びたのだから、無駄にはなさるな」
「うん。……」
そこで忍びが口をつぐんだ理由を、蓮暁は理解していた。
何らかの理由で追われていた忍びである。見つからなかった時点で、存在を抹消されている恐れがある。少なくとも、元居た場所には帰れないのだろう。忍びにとって失敗とはそういうことだ。
この先の彼の身の振りに蓮暁が関わることはないが、こうしてわずかにでもかかわりを持ってしまった相手がこの後違う理由で命を危険にさらすのは、多少なり惜しい。
そんなことに思いをはせて言葉を途切れさせた蓮暁に、忍びは言った。
「なあ、俺、もう死んだことになってると思うんだ」
やはり、懸念した通りである。しかし蓮暁にできることはないと言っていい。
「かもしれんな」
「しばらく、あんたと旅しちゃ駄目か」
その提案に、少なからず衝撃はあった。今、自分にできることはないと悟ったばかりなのだが。
「断る」
「即答?」
「承諾すると思うのか」
いやに調子のいい忍びである。自分が死んだことになっているなども、なんてこともないように言う。あまり生に執着がないようにも見えないのだが、この不思議なほどの気楽さは何だろう。
「まあね。でも、ちょっと、今後の生き方考えなくちゃなんなくて」
「ひとりで考えればよかろう」
「まあそうなんだけど。ついでっていうか」
「私についではない」
「ひとりで寂しくないの?」
「寂しいなどと言って修行に出る僧はおらん」
「まあそうだけど。ってことは修行中なの?、坊さん。っていうか名前教えて。坊さん坊さんてのも罰当たりだよな」
次々と出てくる問いかけや言葉に、ただ圧倒される。もうそろそろ、抵抗するのも疲れてきた。
「蓮暁。法名だ。ハスに、暁で、蓮暁」
十年前に得度を得てから自分のものになった名だ。はじめは借り物のようだったが、修行中に何度も名乗っているうちになじんだ。この僧職という肩書も、そのころにはやっと自分のものになってきたように思う。
「ほへ~、かっこいい名前。俺は、飛天」
「ひてん?」
「……じゃない。それは忍名だった。真名は、八雲」
言い繕うように名乗って、へへっと笑う。なるほど、確かに忍びとして生きてきた人物であるようだ。それも、通り名を持つというのだからそれなりに認められていたということだ。
「八雲立つ、の八雲か」
古の神話によると、スサノオノミコトが詠んだといわれる、日本最古の歌からのものだろう。ずいぶん壮大な名だが、この自由な少年には似合いな気がした。
「うん。飛天は死んだから、八雲でいい」
「いい名だ」
天に向かって飛躍しそうな名もいいが、この少年には、幾重にも重なる雲海を思わせるその名がしっくりくる。親が付けたであろう本来の名なのだから当たり前なのだが。
「蓮暁さん、本名は?」
納得していたら、もう次の質問である。しかも、このどんどん距離を詰めるような遠慮のなさはなんだ。
「教える義理はない」
そう、蓮暁は言い放つ。
今会ったばかりの相手に、そこまで自分を晒す必要はない。晒したところで何の支障もないこととは、問題が違う。
「あるんでしょ、やっぱり。坊さんにはないの、名前」
「幼名からいきなり出家すれば法名を名乗るが、元服してから僧になると両方を待つことになるな」
「で、なに」
「言わない」
「え、けち。減るもんじゃないしいいじゃん。れんぎょうって、いい名だけど言いにくいし」
「知るか。ゆきずりの同行人にそこまで教えてどうする」
「同行人て認めてくれんの」
「どうせついてくるんだろう。拒む手間が無駄だ」
「あははは。おもしろい坊さんだなあ。じゃあ、蓮」
その響きに、一瞬思考が止まる。もう勢いのような軽さで呼ばれたその名が、蓮暁の胸に深く刺さる。
「蓮て呼ぶ。だめ? やっぱ罰当たり?」
それは、蓮暁を絶句させるに余りある呼び名だった。できるだけ触れずにしまってある苦い思いが蘇り、息がつまる。
しかしそれも、目の前の明るい笑いにかき消された。
「蓮。いいじゃん。かたっ苦しい名前より、あんたには似合ってる」
「……勝手な」
なぜ、それを許してしまったのか。蓮暁には自らが理解できなかった。ただ、拒む心にならないまま、押されるように受け入れてしまったのだった。
「うん、よろしく、命の恩人さん」
許可を平然と喜び、八雲は言う。
その言葉を次に思い出すとき、蓮暁にはそれが全く別の意味を持つことを、この時には知るはずもなかった。
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