潤 閉ざされた楽園

リリーブルー

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第一章 学校と洋講堂にて

クピド

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 聖セバスチアヌスの潤は、僕を目で差し招いた。僕は、潤のそばに寄った。
 潤の顔は、人形の頬のように薄紅色に美しく上気していた。僕の顔にかかる息は春の宵の庭に吹く熱風のように熱かった。僕は、気恥ずかしさに、まともに潤の表情を見ることができなかった。僕の心臓は、さっきから破れそうに高鳴っていた。僕が、何も言えずにいたので、潤は、架空の戒められた腕を降ろして、僕の肩に手を置き、「どう?」と言うように、首をかしげた。
 潤は、僕を魔術にかけるように、ゆっくりと、その長い睫毛を瞬かせた。潤の魔力に捕らえられた僕は、鏡を見つめた。鏡を見つめる僕の肩に手をかけて、潤も鏡を覗いた。僕は、恍惚とした表情の、鏡の中の潤を見た。鏡の中の潤と、目が合った。
 射抜かれるような視線に、僕の心臓は、釘付けにされた。痛い……胸が、痛い……。僕は、焼け焦げるような、切ない胸の痛みを感じた。
「どうしたの?」
潤の甘い声が、異空間に響くようだった。
「胸の真ん中が、痛い」
僕は自分の胸腺のあたりに手を当てて、痛みを訴えた。潤の手が、優しく僕の手を覆った。その感触に、僕は溜息を吐いた。鏡の中の僕は、苦痛に眉根を寄せていたが、潤に手を触れられると、僕の表情は、やわらいだ。潤の手は、優しく僕の手を胸腺からのかせた。
「ここが、痛むの?」
潤の手が、僕の胸腺のあたりに触れた。
「そう」
潤の身体が近かった。僕の唇は、鏡の中で、わなないた。
「傷口に触れられる、痛みと喜び」
潤が言った。
「え?」
「そんな表情だ」
潤が妖艶な笑顔を鏡に映した。
「ほら、こんなに血濡れて」
潤が、僕の目の前に、潤の手の内側を見せた。かざされた手に、僕は、血の一滴も見出せなかったけれど、僕は、潤の云わんとするところを、なんとなく、感じ取った。僕の感覚を、潤が感じ取ったことを、僕は感じ取った。そもそもこれは、僕の感覚ではなく、潤の感覚を、僕が鏡のように、映しているのでは? とも思えた。潤は、僕を通して、初めて、自分の感覚を、感じ取っているのでは? それは、ぼんやりした、推測にすぎなかったけれど。
「なぜ、潤の手は、そんなに血濡れているの?」
僕が尋ねると、僕の肩にかけていた潤の左手に、ぐっと力が入った。肩の骨が、砕けそうなほどに。
「俺が、やったんじゃない」
「え?」
潤の言葉は、まるで、被疑者の釈明のようだった。
「俺は、ただ、言われるままに」
鏡に映る潤は、先ほどの妖艶な様子とは、打って変わって、刑事ものの犯人のように、灰色になっていた。
「潤?」
僕は、心配して、潤を、夢から覚ますように呼んだ。潤は、我にかえったように、はっとなった。
「あ、ごめん」
「大丈夫?」
「うん、ちょっと、言葉に、反応してしまっただけ」
潤は弁解した。
「そうか」
僕は、何を言ったんだっけ? と思い返した。「なぜ、潤の手は、そんなに血濡れているの?」か。確かに、それじゃあ潤が殺人者みたいだな。なんで、自分は、そんなことを言ったんだろう。ああ、そうか、こう言えばよかったんだ。
「ええと、僕の胸は、なぜこんなに痛むのかな?」
潤は、深い過去の記憶の淵から引き上げられて岸辺に横たえられた死体状態から復活したように、笑った。
「クピドの恋の矢に当たった者の苦悶」
そういう潤は、いつものコケティッシュな潤だった。潤は、いたずらっぽく笑いながら、僕の肩に置いていた手を、腰にまわしてきた。
「彼らは、目隠しされているからね」
と潤は言って、僕の目の前に潤の手をかざした。潤の手が、僕の瞼を閉じさせた。
「しかも、弓矢の腕前が下手だったんだな。そんなに出血するなんて」
潤の温かな指の感触が、僕の胸をときめかせた。潤は、戯れで、空想にはまっているのだろうと僕は思った。
「違うよ、そんな甘い痛みじゃなくて、もっと、傷ついた悲しみの」
目を閉じた僕は平衡感覚を失い、ふらっとなって潤に支えられた。僕は目を開けた。潤の身体がそこにあった。僕は潤の耳元に早まった息遣いが聞こえないように顔をそらした。潤はそんな僕を両腕で抱き寄せた。
「なんだって、いいじゃないか? 痛みは、時に、甘いんだから」
  潤は、僕の髪をかきあげてから、僕の顔を自分の方に向けさせた。僕は、口づけの予感におびえた。口づけされたら、どうかなってしまいそうだったから。正面をさけた僕の唇は、潤の髪と首筋に埋もれた。僕は、それでも胸の鼓動がせまって苦しかったので、息をしようと唇を開いた拍子に、舌先が少し潤の肌に触れた。潤は、一瞬ぴくっと身体をかたくして、それから、息を吐いた。
「瑶、それいい。もう一回して」
潤の甘えたような声がすぐそこで聞こえた。僕が、もう一度舌先で触れると、潤の僕を抱く腕に力が入った。潤は、ふう、と息を吐くと、
「いいね。瑶って、やっぱり可愛い。瑤のこと好きかもしれない」
くすっと笑って言った。それは潤の媚態かもしれなかった。潤は人たらしだから。
「どうしよう? 瑶も反応しているね」
潤は、僕の下半身のことを言っているらしかった。僕は羞恥を覚えた。身を引こうとしたが、潤が僕の腰を強く抱いて、離してくれなかった。互いに下半身が触れ合って潤の性器の反応も僕に伝わってきた。僕は、どうしたらいいかわからず、泣きそうな気持ちになった。潤は、二人の腰を強くすり合わせながら、うわごとのように、
「どうしよう?」
と繰り返した。潤は、どうしようと言いつつも、僕を離そうとは、しなかった。精神的な戸惑いと、身体的な快感に引き裂かれて、僕は惑った。潤の胸を押して遠ざけようとするが、意外に潤の力は強くて、押しのけられなかった。僕は上半身をのけぞらせたが、逆に、下半身を押し付けるような格好になってしまった。僕は、ついに、誘惑に捕らわれて、逃れられない事態になってしまったと、恐ろしいような、泣きたいような、気持ちになった。
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