密やかに、清らかに

野瀬 さと

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どこをどうやって帰ってきたのかわからない。

気がついたら、家に帰ってシャワーをしていた。

「だぁぁぁぁぁ~~~~~…」

ユニットバスの壁に頭を打ち付けて、後悔した。

「何をやってんだ俺はぁぁぁ~~~~…」

ガンゴンぶつけてみたところでなかったことにはできないが…


その週末は、思い出しては悶えていたから外に出ることもできず。

月曜日、恐る恐る出社して…
天野さんの顔を見るのが怖かった。

でも、拍子抜けするほどいつもどおりで。

穴があったら被っていたいほど恥ずかしかったが、救われた気分でなんとか仕事をこなすことができた。


それからひと月…

9月に入っても、まだ今年の夏は暑かった。
でも上旬に来た台風でだいぶ雨が降っていってからは、マシにはなった。

あれから俺のほうがギクシャクして…
でも、天野さんはなにもなかったように俺に笑顔を見せてくれる。

「あ…っと…」
「あ、課長」

午後の3時。
コーヒーでも飲もうと、給湯室に行くとベテランの女子事務員の船見ふなみ渡辺わたなべがなにやら作業中だった。

船見は長い髪をきりっと縛り上げて皿を持って待機している。
渡辺はハーフアップの髪を器用に横流しにして包丁を握って真剣な顔をしている。

まだ若いのにお局の風格まで出てきたふたりは優秀で。
うちの課では、課長の俺よりも権力を握っている。

まあ事実、このふたりがいなかったら課の事務は回らないからな。

「コーヒー飲みたいんだけどな」
「あら。桜木課長、甘えてます?」
「甘えちゃっていい?」
「はいはい。船見、頼むね」

船見がプラのコップをホルダーにセットすると、コーヒーを注いでくれた。

「これ、どしたの?」

渡辺が慎重に包丁で切り分けているのは、豪勢な一本のパイケーキだった。

「天野さんが差し入れで買ってきてくれたんです」
「おお。そっか」
「切ったら、課長の魔窟に置いておきますね」
「頼む。今日はちょっと魔窟整理しておいたから」
「知ってます。あれって年末の大掃除レベルだって知ってました?」
「むぐ…」

天野さん、さっき外回りから帰ってきたからな。
どっか美味しいとこのなんだろう。

「課長、天野さんが移動するってホントですか?」

船見が紙皿をトレーに並べながら、寂しそうな顔をこっちに向けた。
平成っ子たちは結構平気でこういう機密を聞いてくる。

まあもう、ほとんど決定事項だからな…移動は。
あとは時期を見てるだけで。

「ああ…」
「寂しいな…」
「ね?」

渡辺も寂しそうにすると、2人でため息をついた。

「マキシム・ド・パリのケーキ買ってきてくれる人なんて他に居ないのに…」

寂しいのはそこかよ。

「まあ、まだ決まってないから」
「え?そうなんですか?」
「ほら、ご不幸があったばかりだからさ」
「あ、そうですよね…」
「あら…?」

渡辺が後ろを振り返るから、つられてそっちをみた。
微笑みを浮かべた天野さんが給湯室の入り口に立っていた。

「天野さん、ごちそうさまです。今、切りましたから。デスク持っていきますね」
「はい。お願いします」

にっこり笑いかけると、船見と渡辺は嬉しそうに切れたケーキを持って給湯室を出ていった。
俺も一緒に出ていこうとしたが、天野さんが給湯室に入ってきて、押し戻される形になった。

「へ?天野さん…?」
「あの」

ずんずん俺の顔を見ながら迫ってくる。

「な、なに。近いって…」

あれからなるべく近寄らないようにしてるのに。
天野さんはお構いなしだった。

「移動の話…」
「あ、ああ…」
「本当ですか?伸びたって」
「え、うん…って、言えないって俺からは…」
「大事なことなんです!」
「え…?」

もしかして…ご家庭のことでなにか都合があるのか。
ご母堂を亡くしたばかりだから、いろいろあるのだろうか。

それとも…

「…もしかして…アメリカ、帰ろうとしてる…?」
「は?」
「え?」
「なんでそうなるんですか…俺はもうアメリカには戻りませんよ?」
「え?そうなの?」
「だから、就職だってしたんです。もしもアメリカに戻るつもりなら、正社員になんてなっていませんよ」

そうか…そうだったのか…

キャリアアップするのに、別にそんなきっちりと会社に義理立てしなくてもいいのに。(この会社でそう考えるのは俺だけかもしれないが)

そういうとこは、全然アメリカナイズされてなくて。
なんだか天野さんらしい考え方だと思ってしまった。

「ま、まあ…だったらいいんだけど…」
「良くないです」
「へ?」

また天野さんが一歩、俺に近づいてきた。

「移動の話は…もう動かないんですか…?」

まあ…そうだろうな…
将来の部長候補として、今いる課長たちをぶっちぎっていくことになる。
でもそれに誰も異論はないと思う。
俺がそのように仕向けたのもあるし、部長も他の課長たちも、天野さんの実力は嫌というほど認めている。

「そう、だね…」

ガッツリと決まった基本路線は、動くことはないだろう。

「まだ俺…課長と一緒に仕事がしたいです」

どきっとした。

「課長…」

切ない目で見上げられた。

「…駄目だ…」

そっと目を逸らす。

「え?」

また、触れたいと思った。

「これは、決まったことだよ…天野さん」

抱きしめたい。
めちゃくちゃにキスしたい。
その細い首筋にかぶりつきたい。

もう、限界だ。
でも嫌われたくない。
でも側に居たい。

俺、ぐちゃぐちゃだ…

それでもなんとか、最後まで…
天野さんのいい上司で居たいっていう気持ちが勝った。

「俺の一存じゃなく、部長やその上の人たちが決めたことだから…」

一度触れてしまった唇の感触が、俺をどんどん欲張りにする。
もっと、触れたい。
もっと、欲しい。

「みんなが、天野さんの力を認めて、決まったことだよ。それを無下にしたいの?」

でも…俺も天野さんも男で…

「それに、さ…マーケティング部という括りの中では、一緒に働けるんだよ?気持ちはありがたいけどさ…」

これ以上、進んじゃいけない。

「はは…あれだよ。天野さん、俺よりも出世できそうだからさ。俺のこと、見捨てないでよ?」

触れちゃ…いけない…

「見捨てる…?」

顔を上げたら、メガネの奥の目が怒ってた。

「え…?」

いきなり、ガシッと腕を掴まれた。

「うわっ…コーヒー溢れっ…」

びしゃっと、俺と天野さんの革靴にコーヒーが少し溢れた。

「そんなことっ…あるわけないじゃないですかっ…」
「あ、あ、天野さん…」

なんでそんな急に怒るんだよぉ…
手も足もコーヒーまみれじゃないか…

「あ…」

コーヒーにまみれてる俺の手を見て、しおしおと天野さんの怒りがしぼんで行った。

「すいませんでした…」

そう言ってペーパータオルを取ってくれて、手を拭くことができた。
その間に天野さんは屈んで、俺と自分の靴を拭いてくれた。

「あ、ありがと…」
「いえ…すいませんでした…」
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