碧翼~ぼくのたからもの~

琥珀燦

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耳雨の姿を鮮明には思い出せない。存在感は大きい人だったのに、見た目がイメージできない。キレイな男の人だったと思う。でも何だかぼんやりとしている。

少しずつ思い出すのは、長い前髪の間から見える左目。澄んだ琥珀色をしていた。あと、身長が高くて。(ぼくがちびだから余計に高く感じたのかな)

そんなわけでぼくは、また耳雨に会うのを楽しみにしていた。次に会ったらきっともう顔は忘れないと思う。ただ、ぼくから連絡するには何となく気がひけた。

だから、LINEの電話が鳴った時には飛び上がった。動悸がおさまらない。「はいはいはい」とか言いながら電話に出る、

「もしもし」

ああ、耳雨だ。耳雨の声だ、と思いきや、

「非常に失礼ですが、そちら様はどなたですか?」

とあまりにも意外な言葉が続いた。え、と声が掠れてしまった。

「あ…あの」

もしかしたら彼はとてもモテるのか、あるいは女遊びが激しいんだろうか?軽い気持ちでナンパして、軽い気持ちでLINEも交換して、軽い気持ちでぼくのこと忘れてしまうようなひとだったんだろうか?

「不躾を承知で伺っています。耳雨はあなたにご迷惑をおかけしていないでしょうか?」

「ましろです。野々村ましろ。ショッピングモールのCD売り場で助けてもらったでしょ?」

悲しくて早口でまくし立ててしまった。

「…忘れちゃったの?」

よくよく考える。この人は、耳雨と同じ声をしているが、話し方がまったく違う。丁寧な語り口。耳雨の家族とか、そういう人なんだろうか?

「あの。もしかして耳雨のお兄さんかどなたかですか?」

兄弟だからって、スマホの履歴をチェックしたりするんだろうか。

「ああ、まあ、そういうようなものです。そのことについて、あなたと話をしたくて。大事な話なんです。会っていただけますか?」

「耳雨は、このことご存じなんでしょうか、その、ぼくに電話するって」

「知ってますね」

「会うとしたら、耳雨も来るんですか」

「それは、はい」

「わかりました。いつ会えるんですか?」

「あなたの都合さえよければ、今すぐにでも」 

「ではぼくはどちらに伺えばよろしいですか?」

最寄り駅を尋ねられ、車で迎えに行く、と言われて電話を切った。




まず大きなコップの水を一杯飲み干しながら考えた。

突然の電話だったので最初は怖い人だと思ったが、言葉が丁寧だった。ぼくに害を与えようとしているわけではないようだ。

何より、また耳雨に会えるのだ。嬉しい、といえば嬉しい。

ぼくはデニムのワンピースを選んで、襟元に赤いバンダナを巻いた。合皮のキャスケットは似合うだろうか?

もう一杯水を飲んで、部屋を出た。




駅までいつも自転車で行く道だけど歩いて行くことにした。小さな駅だけど、ロータリーがあって、そこに「支度が出来次第行きます」とさっきの電話の人は言っていた。「気長に待っていてください」と。

約15分、淡々と歩いた。運動不足なので息が荒くなる。

帰りにこの道を通る時には、何かが変わっている気がする。自分の中に何かが起こっている気が。いつもなら自転車で駆け抜けていた道の一つ一つの風景が私をスローモーションで追いかけてくるような感じ。

スニーカーの爪先を見つめて歩く。一歩一歩、何に向かっているんだろうぼくは。

もうすぐ耳雨に会える。それだけで、胸が弾む。

駅に着いて、自動販売機でペットボトルのジャスミンティーを買った。緊張を解こうと、ボトルの蓋を捻る。

冷たい液体が口の中を潤す。初対面の人と会う時はいつもこうして何か飲まずにいられない。ごくごく、喉を通り抜ける液体。はーっとため息をつく。

白い、大きな車がロータリーに滑り込んできた。あれか?

運転席から降りてくる、長身の男性。耳雨…?

違う? いやあれは耳雨だ。眼鏡をかけて、前髪を数本額に垂らしてあとはオールバックにしてる。レモンイエローのサマーセーターにジーンズを着た、でも背格好だって耳雨だ。

「野々村ましろさん、ですね」

さっきの電話の人だ。でも耳雨だ。違う。体にまとった雰囲気が全然違う。

「乗ってください」

助手席に押し込まれてロックをかけられた。車を出しながら運転席の彼は、

「僕の名は志彦(ゆきひこ)といいます。『東雲志彦(しののめゆきひこ)』。ライトノベルを書いています。そこそこ売れてるんですけどご存じないでしょうか?」

と自己紹介した。

「すみません。あまり本は読まないんで」

正直に答えると、横顔ではは、と笑った。

「それなら却って良かったです。本当は名前以外のことは公表していないんで、顔を知られたくないんですけど、あなたには耳雨のことがありますから」

「あの、耳雨は」

「僕の部屋に着いたらお話します」

双子、だとか…だろうか?本当によく似ている。耳雨の方が、子供っぽいかな。志彦は大人びていて、落ち着いて見える。

夕暮れ少し前の街なかを車は進んでいく。

「野々村さんは、怖くないんですか? こんな、ろくに知らない男の車に乗り込んで」

「…怖いけど、耳雨に会えるから」

零れるように答えた。

「耳雨がそんなに気に入りましたか? 彼こそ得体が知れないところがあるでしょう?」

「…ええ、でも悪い人じゃないと思います。ぼくを助けてくれたし」

「そうですか。彼が聞いたら喜びますよ」

彼は静かな笑顔で運転を続けた。

車に乗せられてから30分位経って、どこかの公園の傍のマンションの地下駐車場に入った。

「どうぞ、降りてください」

助手席のドアを開けて優しく言う。結構遠くまで来たなあと考える。多少遠くても一人で帰れる程度の交通費は持ってきてる筈だけど。




さほど大きくはないマンションの一室に案内された。

「ここが僕の仕事場です。さあ、座って」

リビングに案内されて、ソファに腰かけた。

「紅茶でいいですか? ミルクティで」

「…あの、冷たい麦茶とかウーロン茶とかありますか? ぼく、猫舌で」

「わかりました」

冷蔵庫からペットボトルのウーロン茶を出して、2人分コップに注いだ。それを私と彼の前に置いて、彼は向かいの席に座った。

「さてと。あなたのことを少し伺いたいのですが、いいですか?」

「…じ…耳雨は? 耳雨に会わせてもらえるんじゃ」

「彼のことは、いろいろデリケートな問題があって、あなたの素性をある程度知った上で、お話ししたいことがあります。大丈夫。彼には会わせてあげますよ、必ず」

「…わかりました。どうぞ」

ぼくはコップのウーロン茶を口に含んだ。

「あなたは学生さんですか? お一人暮らしで?」

「一人暮らしですけど、学生ではありません。…その、病気でちゃんと働けなくて、障碍者年金でなんとか暮らしてます」

「それは、失礼ですが精神の?」

「…はい」

「ご実家は?」

「…2年前、交通事故で両親とも…」

「そうですか。それは本当に寂しいですね」

「あの…いつまで、こんな質問続くんですか?」

震えながら尋ねる。

「…すみません。あなたが繊細な感受性の持ち主であることはわかりましたので、もう充分です」

そう言って、失礼、と一言詫びて煙草に火を点けた。一口吸って言った。

「…僕が、耳雨です」

頭の中で、ガラスが割れたような感じがあった。ぼくの表情は固かったと思う。

「気づいていたでしょう?」

「気配が、同じだから」

「はい」

「でも、雰囲気が違うから」

「はい」

「…二重人格…?」

そういう現象が本当にあると聞いたことがある。でも、まさか目の前のこの人が。

「はい。この身体を二つの心が共有しています。いえ、僕が耳雨の本体です」

「…でも、耳雨じゃない」

今のあなたは。

「耳雨は、心の中で聞いていると思います。今の僕は志彦です」

「耳雨と話をさせてはくれないんですか?」

「お互いに、意識的に切り替えることは出来ないんです。彼とは長い付き合いになりますが、切り替えのタイミングは未だに不明です」

志彦はそう言って、また煙草を吸った。こちらに横顔を向けて紫煙をひと吐きすると、

「あなたのことは彼がLINEに登録した名前で気づきました。彼は僕とはスマホを別に所有していて、そちらで異なる交友関係を持っているようですが、一応チェックはするようにしているんです。ただ、登録された名前がほぼニックネームの中、あなたは初めて本名で電話番号が登録されていたんで気になって。つまり…彼はあなたのことを特別に思っているのかな、と思いまして」

そこでまた一度煙草を吸って、煙を吐くと、火を灰皿でもみ消して、それから少し厳しい声で言った。

「どうしますか? 耳雨はあなたと関わりたいと思っています。が、これ以上詳細を言って聞かせたらあなたを僕の症状に巻きこむことになる。耳雨という存在は僕の病の一つの症状に過ぎません。耳雨と僕のことは忘れてもらえませんか?」

ぼくは言葉を失った。耳雨に対しての好奇心を、恐れが上回った。

「耳雨は…」

やっと出た声が震えている。

「耳雨は、ぼくを守ってやるって言ったんです」 

「一時的な気まぐれだとは思いませんか?」

志彦は残酷なことを言った。

「耳雨は、やがて、僕と統合されるべき存在なんです。彼はそれを承知で、あなたを守る、と言ったわけですよ。…いつかそうなったら、その時泣くのはあなたです」

残酷なことをとても静かに、言った。

「お互い、心の病を抱えた人間だからこそ、言えるんです。耳雨に関わることがどれほどあなたの負担になるか、わかってもらえると思います。耳雨のことは無かったことにして忘れてください」

頭の中が真っ白になる。二重人格なんて確かにぼくの理解の許容範囲を超えている。

「僕が言いたいことはこれだけです。わかりますよね。…ではお家にお送りしましょうか」

「ま…待ってください」

体に力が入らない。ぼくは落ち着きを取り戻すためにコップに残ったウーロン茶を飲み干した。気分をスッキリさせるにはぬるくなり過ぎていた。



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