自粛の世界と一割の本物

壬生葵

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 まだ返ってこないの? まったく……。
 静まり返ったリビングでソファーに寝転がりながら、私は携帯電話とにらめっこしている。昨夜、母に送ったメッセージはまだ既読がついていない。
 今、世界では新型ウィルスによる感染症が流行している。感染者を受け入れている最前線は勿論、その他の医療の現場も対策に奔走している。母が入院しているリハビリテーション病院も例に漏れず、入退院時の付き添い以外は家族であっても患者との接触が許されていない。
 患者は許可なく病棟から出ることが認められておらず、荷物の受け渡しといった外との接触も全て病院の受付経由で行われている。
 電話では「大丈夫。退院までの辛抱だから」と強がっていたけど、その予定はまだ遠い。それにしても、直接顔を見られない生活がこんなにも堪えるものだったなんて。連絡手段が発達した時代でなければ、一層精神をすり減らしていただろう。母も、私も。

「何やらお困りのようだね?」
「うん……って、えっ!? 誰!?」

 母は病院、父は単身赴任で県外、今家には私しかいないはず。もちろん周囲を見回しても誰もいない。飼い猫のオスカーが澄んだ瞳をこちらに向けているだけだ。

「俺? 今、君の前にいるよ? 全裸で」
「はあ!?」

 まったくもって意味がわからない。目の前には食べさしのお菓子と読みかけの本が並ぶテーブル、その向こうに真っ暗な画面のテレビがあるだけだ。

「あー違う。テーブルの右……そう! そこの座椅子に座っている!」

 声の主は私から見て斜め方向、テーブル右側の座椅子に座っているらしい。っていうか全裸でそこに座るな。

「おっと失礼、では立っていることにしよう」
「そうじゃなくて! ええっとそもそも何なのよ……」
「そうだそうだ。ちゃんと説明してやらんと彼女が混乱するではないか」
「そうよ、もうっ……ってうわぁ!」

 ソファーの背もたれ側、頭上から別の声がしたので見上げると、今度は坊主頭にひげ面の強面が!

「何だ? 俺は服を着ているぞ?」
「そうだけどそうじゃねえよ!」とうら若き乙女にあるまじき言葉遣いをしてしまう。とにかく逃げて警察を呼ばなくては!
 私は脱兎の如く俊敏に立ち上がり、携帯を手に、オスカーを脇に抱えて駆け出した――が、強面はいつの間にか部屋の出口に立ち塞がっていた。しかも手には私の携帯を持っている。オスカーが私の脇で「あーしんどい」と言いたげに低く唸った。

「えっ!? あれ?」
「嬢ちゃん、こいつはいけない。まあちょっと落ち着いてくれや」

 強面は携帯を摘まんでぶらぶらさせる。黙らせるのは慣れているぞ、と言わんばかりに穏やかに威圧してくる。
 落ち着いていられるかと言い返したい所だが、何をされるかわからない。ただ、男達(片方は声から判断)は危害を加えるつもりはないらしい。あの素早さなら瞬時に私の腕を捩じ上げることだってできたはずだ。

「おじ――」
「お兄さん、だ」
「――さん達は何者なの?」

 手練れの空き巣だって、歴戦の軍人だってあそこまで気配を断てないだろう。表向きは紳士的な雰囲気を醸し出しているものの、おそらく只者ではない。
 私は警戒を解かずに一定の距離を保つ。携帯は奪われたが、この場を脱するだけならまだどうにかなる。
 背後にいると思われる、姿が見えない方が相も変わらず馴れ馴れしく話しかけてきた。

「俺達はさ、君のお母さんに頼まれてきたのよ」
「母さんに?」

 母は今、誰にも会えない。それに母に限って、こんな輩と付き合いがあるとも考えにくい。
 まさか病院関係者……!? でもこんな変なのおるか?

「うーん、どうも信じてもらえていない様子だねぇ」
「下手くそ。俺が話すから黙っていろ」
「あん? 誰が「下手」だと? こちとら撮影がない間にひたすらテクを――」
「良いから早く服を着てこい。感染症以前に風邪引くぞ」

「ちっ」と舌打ちを残して、全裸マンは移動したようだ。依然として怪しさ満点だけど荒っぽいことをする様子はなさそうだし、話くらいは聞いても良いかもしれない。

「さて、どう話したもんか……」
「色々気になるけど、まず用件は? ってか携帯返して」
「通報しないならな」
「しない」
「ん、ほらよ」

 あっけなく返されて拍子抜けした。いくらでも逃走を阻止できるという余裕の表れかもしれない。

「俺達の用件っつーのはまずこれだな」
「あっ、それってお母さんの携帯じゃない。どうしておじ……お兄さんが?」
「寿命だったのか、色々データが吹っ飛んだらしい。もううんともすんとも言わん」

 それなら病院の看護師さんに頼んで連絡してくれれば良いものを……。どうしてよりによってこんな二人組を寄越したんだか。
 もしかして――。

「他にも頼まれていることでもあるの?」
「その通り! 話が早くて助かるねぇ」

 先ほど聞こえていた声が戻ってきた。声主の姿を確認して、私の心臓はドクンと跳ね上がった。どうしてこの人が!
 緩くふんわりセットされた黒髪が歩く度に小躍りしている。程々に整った眼差し、程々に通った鼻筋、そして周囲に埋没する為に形成されたと言われても不思議ではない程の清潔感、全てがちょうど良い。没個性であることが却って個性になる存在感は私を含め、彼は多くの者の心を魅了している。

「あっ! もしかしてそっちの人って影浦碓人かげうらうすひと!? 男優の「うすにん」さん!? 影が薄すぎて視聴者の邪魔にならないと評判の! あれ? ってことはさっきの透明人間って……」
「お、おう……よく知っているね。そうだよ。俺はAV男優の影浦碓人、人や物を透明化できる能力をもち、本物の透明人間物にも出――」

「えええええ!?」と腹の底から沸き立つ感情を放出する。何事かと驚く二人組をよそに私は一人で盛り上がる。

「嘘! 本物のうすにん!? やったー! あっ、でもプライベートで露出癖あるのはちょっとショックかも。ってか何でうちに!? 素人参加企画とか!? でも応募した覚えないよ?」
「待て待て。嬉しいけど触れる所がおかしいよ」
「触れる……今のはフェザータッチにかけた男優ギャグですね! すごい! トークもイケてますね!」
「だめだこりゃ」
「えへへ、あのですねー何でうすにんさんを知ったかと言いますとですねー母さんは入院中だし、父さんは自粛で単身赴任から帰ってこられないし、私は大学が休校だし……その……一人で暇すぎて……」

 AV男優を熟知している時点で恥もへったくれもないのだが、私は話している内に歓喜よりも照れが勝ってきて思わず口ごもってしまう。まず、透明人間が実在する事実に触れるべきなんだけど、それよりも本物のAV男優、しかもそこらの有象無象じゃない人物に出会えたことの方が私にとっては大事だった。
 それは何故かって? 
 自粛中にスケベの世界にドハマりしてしまったからさ! お上品に言うならば、官能の世界に耽溺してしまいましたのよ!

「あー……なるほどね。今は女の子もそういうの話せる時代だし、皆が持ってる欲だから恥ずかしいことじゃないさ」
「ですよねですよねですよね! うすにんさんって本当に紳士的なんですね! 露出癖は引くけど!」
「露出は嫌いなんだね……」

 待てよ……? 目の前の彼が本物のうすにんだということなら強面の方は? マネージャー? スタッフ? いや、どちらでもなさそう。むしろ演者の方がしっくりくる。この坊主頭、どこかで見た覚えがあるんだけどなぁ。

「ところで、もう一人のこちらの方は? もしかして透明人間に対して瞬間移動とか? この人も只者じゃないよね?」
「俺か? 俺も男優だよ。そいつに比べたら無名だけどな」

 やっぱり男優さんだよね。でも、パッと名前が出てこないなー。
 脳内アーカイブにて照合……坊主、強面、いかつい……該当者多し。さらなる情報を求む。

「普段見慣れない若い女性視聴者だからって何照れているんだか。ほんと素人苦手だよ――」

 ――うるせぇ。
 強面から圧のようなものを感じた瞬間、周囲から音が消え去った。先ほども我が家のリビングは静かであったがそれよりももっと静謐で、まるで空気が死んだかのような虚無感が一帯を支配していた。
 うすにんがにやにや笑みを浮かべている。ただ、そこから彼は微塵も身動きしない。先ほどから抱えられっぱなしのオスカーがまじまじとにやけ面を眺めている。
 彼だけではない。マグカップに入ったコーヒーは波紋を浮かべたまま静止しているし、最近電池を入れ替えたはずの壁時計が止まっている。私とオスカー、強面以外の時が止まってしまったかのようだ。

「そう、それよ」
「えっ?」
「俺の能力は時止め・・・。ビデオに時間停止物ってあるだろ?」

 それなりにネットに入り浸っている人ならば、「アダルトビデオの○○物の九割は嘘」というお話を聞いたことがあるだろう。これはもちろん、十割が作り物だという前提を元にした冗談だ。しかし事実は小説よりも奇なりかな。本物がここに存在していた。
 透明人間が実在している時点で「もしや」と察していたけど、まさか彼も一割の本物だったなんて。たしかにこの力なら瞬間移動だってできるし、人に気付かれずに物を奪うことだってできてしまう。
 しかし、それにしてもこんなびっくり人間が連れ添って私の所にやって来た理由が気になる。

「そうだな。さっきから横道に逸れまくっとるからそれを説明せんといかんな」

 ピンと張りつめた気配が引いていく。それと同時に世界に音が戻ってきた。

「――ねぇ……って、おや? やすしさん、もしかして今使った・・・?」
「その方が理解してもらうのに手っ取り早いだろ」
「にしても俺だけ停止させておく必要ないでしょ」
「るせぇ。仕返しだ」

 康さん……? 脳内アーカイブで再度検索……坊主、時間停止、ヤス……該当件数一件。
 もしや――。

「ストッパーヤス?」

 私の呟きを聞いて、二人は得体の知れぬ物でも見たかのような表情を浮かべている。要するにドン引きだ。

「嬢ちゃんよう……。うすにんならまだしも、俺まで知ってるってこの短期間にどんだけ貪ってんのよ?」
「何かにハマった時の女性って怖いよねぇ」

 やかましい。この自粛の折に定額サービスを始めた販売サイトが悪いんだ。今まで見えていても降りる場所がなかった新大陸にいきなり港ができたようなものだぞ? そりゃ一心不乱に開拓と調査に明け暮れるものでしょ。

「哀れな眼で見てないで、早く用件を言いなさいよ。もうどれだけ横道に逸れたと思ってんの」
「おっと、そうだったな。まぁ実はな、お袋さんが俺達に頼った詳しい事情はよくわからん。とにかく嬢ちゃんと直接会わしてくれとだけ言われとる」
「俺達は本業とは離れて、困っている人の頼み事を聞く何でも屋みたいな仕事もしているんだ。今は感染予防で撮影もできないし、こっちが本業みたいになってんだけどね」
「ふーん。それでうちに侵入してきたって訳ね。でも自分の母親のことだけど、変な依頼だよね。顔つき合わして話すなら新しい携帯渡してビデオ通話で良いじゃん」
「そうできない事情があるのだろう。その為の俺達だ」

 要するに誰にもバレないように直接会いたいという訳か……。うーん、理由が皆目見当つかん。

「理由はお母さんに会った時にでも聞いたら良いんじゃないかな。とりあえずお見舞いの準備をしておいてくれない? ショップも営業時間を短縮しているだろうから、新しい携帯もすぐには用意できないでしょ」
「そうね……。ところでこの話、無断で侵入しないでちゃんと順序を追って説明してくれていたら、こんなドタバタしなかったよね?」
「…………」
「ねえ、ちょっと……ってあれ?」

 気が付いた時には二人は部屋から消え去っていた。テーブルに連絡先を示したメモが置いてあり、「都合がついたら連絡するように」と書き添えられてあった。あんにゃろう、使いやがったな。
 腕の中でオスカーがじたばた暴れるので下ろしてやった。腕がくたくただ。今日はシなくて良いかな。あ、でも実物見た後にビデオを観たら臨場感出て良いかも……。携帯ショップの予約を入れたら試そう。うん。そうしよう。


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