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第六話 焦燥と子犬
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「え? なんです?」
和真は自分の耳を疑った。あまりの出来事に一瞬耳が聞こえなかった。いや、耳からは入ったのだろう。脳が理解することを拒んだ。
部長の吉田は苛つく自分を抑えて、ため息混じりに言った。
「だから、高橋の下について引き続き主任をやるように。私が定年だから、代わりに部長をやるのは高橋だ。色々教えてやってくれ。話しは以上だ。戻りなさい」
和真は呆然と立ち尽くし、部長を見ていた。
「戻りなさい」
もう一度言われて、ようやく足を自分のデスクに向けた。
椅子に座り、じっと使い古された自分のデスクを見つめながら、和真はフツフツと腹の底から沸き立つものを感じていた。まるで胃の中が溶岩地獄にでもなったみたいだ。
和真はデスクの下で握りこぶしを作り、ブルブルと怒りに震えるままにして思った。下? 下だと? あんなバカの? バカに命令されるのか? あいつより劣っていると言うのか? 信じられない。今まで主任として庇ってやったり面倒見てきたやつに顎で使われるのか?
当の高橋が足取りも軽く、本当に軽く、スキップしながら和真の横にやってきた。和真が血走った目を向けると、頭が悪そうにニヤニヤと笑っていた。和真の肩にぽんと手を置くと、耳に顔を近づけて囁くように言った。
「今度からは奴隷みたいにこき使ってやるからな」
和真は目の前が真っ赤に染まるのを感じた。本能に身を任せ、高橋を殴った。二発、三発、瞬間、我にかえって周りを見渡すと同僚のみんなが見ていた。自分が高橋に馬乗りになって殴っているのを。高橋はすでに鼻血と、和真の拳から滲み出ている血とで真っ赤に染まっていた。
部長が騒ぎを聞きつけ、血相を変えながら走ってくるのが見える。
和真はオマケでもう一発拳骨を振り下ろす。ゴキッと何かがひしゃげた感触がした。鼻が折れたかもしれない。
「何をやっているんだ!」
和真は立ち上がると、手身近にあったデスクの花瓶を部長の足元に投げつけた。
部長は禿げあがった頭を真っ赤にしながら叫ぶように言った。
「クビだ! 今すぐ出ていけ!」
和真は高橋の鼻血で汚れた顔にぺっと唾を吐きかけてトドメを刺す。そして鞄を乱暴に掴むと会社を後にした。
会社から外に出た和真は清々しい気分だった。照りつける太陽ですら気持ちがいい。ずっと……ずっとこうしたかったのかもしれないという感情に和真は気がついた。
ああ、やっと自由だ。次の仕事を探さなければいけないが、今はいい。何も考えたくない。ただただ自由に羽ばたきたいと和真は思っていた。
家に帰りついた和真は、玄関の段差に座り、ぼんやりと蛇を潰した時にできた窪みを眺めていた。背後でガチャりと音を立て、明徳がトイレの扉から悪臭とともに顔を覗かせてこう言った。
「なあ、紙ないか? なかったら買ってきてくれ」
和真は仕事が見つかるまでの間、明徳が店長を務めるコンビニで働くことにした。まさか自分がこの憎たらしい制服に身を包むとは夢にも思っていなかった和真は、自らの生い立ちを呪った。
和真と明徳がコンビニから帰る道中、急斜面の天辺、中曽根荘の前に黒い毛並みの子犬が一匹ちょこんと座ってこちらを見ていた。舌を出し、その尻尾をちぎれんばかりに振っていた。
二人は、どちらが言うともなく子犬を抱き上げて家の中に誘い入れた。
明徳は中曽根荘の角に位置する倉庫から、古ぼけた首輪とロープを取り出すと家の中に入っていった。
和真は買ったばかりの牛乳を出して、適当な大きさの器を出して注いでやった。子犬はぺろぺろと牛乳を舐め取り、すぐに空にした。
「腹が減ってたんだな、お前。いったいどこから来たんだ?」
子犬は和真の方に顔を向け、口の周りから滴る雫を舐めて、また空っぽになった器を舐めた。
和真は牛乳のパックを傾けて、もう一杯注いでやった。
子犬の目からはどこか懐かしさを感じていた。
和真は自分の耳を疑った。あまりの出来事に一瞬耳が聞こえなかった。いや、耳からは入ったのだろう。脳が理解することを拒んだ。
部長の吉田は苛つく自分を抑えて、ため息混じりに言った。
「だから、高橋の下について引き続き主任をやるように。私が定年だから、代わりに部長をやるのは高橋だ。色々教えてやってくれ。話しは以上だ。戻りなさい」
和真は呆然と立ち尽くし、部長を見ていた。
「戻りなさい」
もう一度言われて、ようやく足を自分のデスクに向けた。
椅子に座り、じっと使い古された自分のデスクを見つめながら、和真はフツフツと腹の底から沸き立つものを感じていた。まるで胃の中が溶岩地獄にでもなったみたいだ。
和真はデスクの下で握りこぶしを作り、ブルブルと怒りに震えるままにして思った。下? 下だと? あんなバカの? バカに命令されるのか? あいつより劣っていると言うのか? 信じられない。今まで主任として庇ってやったり面倒見てきたやつに顎で使われるのか?
当の高橋が足取りも軽く、本当に軽く、スキップしながら和真の横にやってきた。和真が血走った目を向けると、頭が悪そうにニヤニヤと笑っていた。和真の肩にぽんと手を置くと、耳に顔を近づけて囁くように言った。
「今度からは奴隷みたいにこき使ってやるからな」
和真は目の前が真っ赤に染まるのを感じた。本能に身を任せ、高橋を殴った。二発、三発、瞬間、我にかえって周りを見渡すと同僚のみんなが見ていた。自分が高橋に馬乗りになって殴っているのを。高橋はすでに鼻血と、和真の拳から滲み出ている血とで真っ赤に染まっていた。
部長が騒ぎを聞きつけ、血相を変えながら走ってくるのが見える。
和真はオマケでもう一発拳骨を振り下ろす。ゴキッと何かがひしゃげた感触がした。鼻が折れたかもしれない。
「何をやっているんだ!」
和真は立ち上がると、手身近にあったデスクの花瓶を部長の足元に投げつけた。
部長は禿げあがった頭を真っ赤にしながら叫ぶように言った。
「クビだ! 今すぐ出ていけ!」
和真は高橋の鼻血で汚れた顔にぺっと唾を吐きかけてトドメを刺す。そして鞄を乱暴に掴むと会社を後にした。
会社から外に出た和真は清々しい気分だった。照りつける太陽ですら気持ちがいい。ずっと……ずっとこうしたかったのかもしれないという感情に和真は気がついた。
ああ、やっと自由だ。次の仕事を探さなければいけないが、今はいい。何も考えたくない。ただただ自由に羽ばたきたいと和真は思っていた。
家に帰りついた和真は、玄関の段差に座り、ぼんやりと蛇を潰した時にできた窪みを眺めていた。背後でガチャりと音を立て、明徳がトイレの扉から悪臭とともに顔を覗かせてこう言った。
「なあ、紙ないか? なかったら買ってきてくれ」
和真は仕事が見つかるまでの間、明徳が店長を務めるコンビニで働くことにした。まさか自分がこの憎たらしい制服に身を包むとは夢にも思っていなかった和真は、自らの生い立ちを呪った。
和真と明徳がコンビニから帰る道中、急斜面の天辺、中曽根荘の前に黒い毛並みの子犬が一匹ちょこんと座ってこちらを見ていた。舌を出し、その尻尾をちぎれんばかりに振っていた。
二人は、どちらが言うともなく子犬を抱き上げて家の中に誘い入れた。
明徳は中曽根荘の角に位置する倉庫から、古ぼけた首輪とロープを取り出すと家の中に入っていった。
和真は買ったばかりの牛乳を出して、適当な大きさの器を出して注いでやった。子犬はぺろぺろと牛乳を舐め取り、すぐに空にした。
「腹が減ってたんだな、お前。いったいどこから来たんだ?」
子犬は和真の方に顔を向け、口の周りから滴る雫を舐めて、また空っぽになった器を舐めた。
和真は牛乳のパックを傾けて、もう一杯注いでやった。
子犬の目からはどこか懐かしさを感じていた。
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