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第3部(終章)

継承と泣き顔

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(人間じゃなくても、血って赤いんだな)

蘇芳の脳裏に場違いな感想が浮かんだ。カデンルラで腹を刺されたアルサスを見た時も卒倒しかけたが、今度はかろうじて立っていられた。耐性ができたわけではなく、予想外の事態に硬直して動けなかっただけだが。

沙羅の細い腕がずるりと動いた。
ごぼりと嫌な音がして、<睡蓮>の口から血が零れる。
胸元、ちょうど人間なら心臓の真上の位置から、じわじわと血の染みが衣に広がり裾まで垂れていた。

大量の血を失いながらも、<睡蓮>は不思議そうな、どうしていいか分からない顔で沙羅を見ていた。
沙羅は何も言わず、ただ静かに微笑んで、腕をねじった。

ぐちゅ、ぶち……という嫌な音がした。一生耳に残りそうな、濡れた嫌な音だ。
ぞろりと引き抜いた沙羅の手には、赤黒い何か……弱弱しく拍動する心臓が握られていた。

全身から血の気が引くとは、まさにこのことだった。蘇芳は無意識に花鶏を後ろに下がらせようとしたが、それより早く、花鶏が蘇芳を背に庇った。

その額にも、さっき被った水ではない、冷や汗が垂れている。

「花鶏」

呼んでも花鶏は返事をしない。何故呼び掛けたのか、自分でも分からなかった。

(味方でいいんだよな?だってゲームではこんな場面……こんな、まるで沙羅の方が)

化け物ではないか。彼女は哀れな生贄の女性で、『瀧華国寵姫譚』のもう一人の悲劇のヒロインで。
そしてもしかすると、花鶏と花雲の……。

「君の望みなのか、沙羅……」

<睡蓮>がぽつりと零した。その腕から力が抜けるのをも見計らったように、沙羅は自分の足で水面に降りたった。代わりに今度は<睡蓮>が、ゆっくりと膝から頽れ、ばしゃんと水飛沫を上げて座りこんだ。

沙羅を見上げ、はじめて不満にも似た表情を浮かべた。

「ずっと待っていたのに。君を蔑ろにした里の子孫たちに長く恐怖を与えて、ぜんぶ君が、望んだから」

沙羅からの返事はない。なじる声が耳に届いていないように、うっすらと微笑を湛えたままだ。
<睡蓮>は寂しそうに嘆息した。

「けれど、そうか……うん、君がしたいようにしてくれていい」

蘇芳は背後の剣を見た。<睡蓮>が瀕死なのは確かだ。
(どっちにせよ、ゲームのBAD ENDを回避するためにも<睡蓮>には死んでもらった方がいい)

いざとなれば、蘇芳にもその覚悟はある。
封印がどうのと悠長なことを考えていたが、肝心の沙羅が、ちっともお助けキャラの様相を呈していない今、不穏分子は摘んでおきたい。

(沙羅と意思疎通が出来るのかすら怪しいってどうなってんだ。それにいつから『寵姫譚』はグロ描写解禁になったんだ!)

「……もう一度目を開けた君に会えたのだから、それ以上は贅沢というものか」

<睡蓮>の所業は惨い……自分こそが祟り神であることを偽り、一度は沙羅を助けたが、自分以外の男を選んだのに嫉妬して、男の住む四の里までを水没させた。

沙羅は夫を助けるよう<睡蓮>に請うたが叶わず、残った里人を救うため、自分の命を犠牲に<睡蓮>を地下に封じたのだ。

「最後に名前を呼んでくれないだろうか」
<睡蓮>の懇願を、沙羅は受け入れなかった。彼女はただ、張り付いた笑みのまま、手に握った心臓を持ち上げ、唇を寄せていった。


「見ない方がいい」
花鶏の掌が蘇芳の目を塞いだ。守るように腕の中に庇い、目の前の光景を閉ざす。耳にだけ、その音が響いた。
ぐしゅっと何かが弾けるような音は、熟れた果実にかぶりついた時のそれに似ている。
見えていなくても、何が起こったのか想像に難くない。

(こんなの、俺の知る『寵姫譚』じゃない……!)

自分はなにか勘違いしているんじゃないか。もっと早く、強引にでもはつりに<睡蓮>を滅するよう、<三觜>に願わせるのが正解だったんじゃないか。

震える手で花鶏の腕を外した。
目を開けた先に<睡蓮>の身体は無かった。そこにあった形跡はおろか、着ていた衣さえ見当たらない。

「消えました……まるで溶けだしたみたいに。先生、それよりあれは」
沙羅は何事もなかったように、静かに佇んでいる。その姿は変化していた。
艶めいた黒髪は、白髪に。瞳は睡蓮の花の色に。死に装束のような白い衣は、緑色の古装に。
誰かの色を、そのまま写し取ったかのようだ。蘇芳はごくりと固唾を呑んだ。これではまるで……。

「継承したみたいだ」
花鶏が心を読んだようにぽつりと言った。
「……同感です」
口の中がカラカラに乾いた。珀の時は、筋書きにないことをしたせいで雨月に警戒された。今回は、ルートに出てこない<三觜>を持ち込んだために沙羅が蘇り、<睡蓮>に……天災級の<水蟲>になるはずだった彼に……取って代わったとでもいうのか?

もはや、何が原因でこの結果に繋がったのか分からない。
花鶏が後嗣の儀で東雲を呼び出したこと?蘇芳が花鶏に寝返ったこと?……いや、蘇芳がこの世界に入って来たことか?
考え出したらキリがなかった。
「……バタフライエフェクトだ」
「先生?」

蘇芳は沙羅を観察した。彼女は無垢な少女のように微笑みを浮かべているが、その目には意思がないように見える。
善意も悪意もなく、ふと、舞うように裾を翻したかと思うと、蘇芳たちを視界に捉えた。
がらんどうの眼差しと見つめ合った。

「沙羅、……私の声が聞こえますか」
蘇芳が慎重に呼びかけると、わずかに首を傾げたように見えた。
「私は蘇芳、こちらは瀧華国第三皇子の花鶏殿下です。貴方に訪ねたいことと、お願いがあってきたのです、どうか話を、ッ!」

蘇芳は息を詰めた。呼吸を止め、金縛りにあったかの如く、その場から動けない。
目と鼻の先、あとわずかに動けば鼻の先が触れ合おうかという距離に、沙羅がいた。長身の部類に入る蘇芳と、鼻先が触れ合う……つまり彼女の身体は重力に逆らって浮遊している。

花の色をした瞳に、ほんの少しだけ、感情の灯りがともった気がした。それは怒りだった。

「先生ッ、東雲!」

東雲が水を跳ね上げて飛び掛かった瞬間、沙羅の繊手がひらりと舞い、東雲が何かに弾かれて巨体を岩盤に激突させた。
「殿下、さがらせて!」

東雲では歯が立たない。なぜならここにいるのは、神力が及ばない別種の存在だから。
<睡蓮>を継承して、かつ彼のように封じられてもいない。
理由は分からないが、沙羅は全盛期の<水蟲>そのものといっていい。
人間の姿をしていても、災害と同じ。自然現象に近い。

花鶏が背後の剣を掴み、すかさず蘇芳と沙羅の間に割るように刃を突き出す。

沙羅は素手で剣を掴むと、薙ぎ払った。折れる、というより粉砕された剣を捨て、花鶏が蘇芳の襟首をつかんで強引に後ろに引き倒した。

「花鶏ッ!」

当然、沙羅と花鶏の距離の方が近くなる。蘇芳は目を見開き悲鳴を上げた。沙羅の白い腕が花鶏の胸元に伸びたのだ。
寸前の光景がひらめく。
胸を貫かれる花鶏の姿が浮かんで、発狂しそうになった。

(なんで、嘘だッ、ここまで来たのにそんなの、嫌だ、嫌だ!)

無我夢中で駆け寄ろうとした蘇芳の前で、沙羅の手がピタリと止まった。花鶏が息を詰め、彼女の顔を凝視する。沙羅はすっと視線を逸らし、何かに耳を傾けるようにした。

地鳴りが聞こえる。

沙羅はもう一度首を捻り、ゆらりと踵を返した。無数にある洞窟通路のひとつに向かって、小さな体が蝶のようにふわりと浮かんだ。姿が闇に溶けて見えなくなる。

呆然としていると、横からものすごい勢いで抱き着かれて、花鶏は踏ん張った甲斐もなく後ろに倒れた。

「先生……泣いてる?」

蘇芳は無言だ。夢中で花鶏の首根っこに抱き着き、頭を掻き抱くように撫でまわす。その体がぶるぶると震えていて、嗚咽が聞こえる。こんな状況なのに、花鶏は胸が高鳴った。

蘇芳の背に手を回し、落ち着かせるように撫でてから、ゆっくり腕を外させた。
両手で顔を包むと、綺麗な黒い目からぼたぼたと涙をこぼしている。

「泣かないで。花鶏はどこも怪我してないよ」

蘇芳はぐっと眉間にしわを寄せて花鶏を睨んだ。泣き顔でそんな風にされても怖くないが、花鶏は大人しく反省した顔を作った。

「やめなさいッ、その、反省してるふりはっ!私を庇う真似は二度としないと誓いなさい!」
「無理です」
「このっ、私がどんなに、あ、貴方が、しぬかとおも、思って」

蘇芳の顔を両手で上向かせて、涙を舐めとった。しゃくりあげていた蘇芳の目に怒りが宿る。

「やめ、やめろッ」

(先生、先生、せんせい……)

綺麗にしているのか、汚しているのか分からない。別人のように乱暴な口調が、蘇芳の切羽詰まった感情を伝えてくる。花鶏はうっとりと、泣き顔に見惚れた。

(俺を心配して、こんなに我を忘れて、震えて)

泣きながら怒っている蘇芳を押さえつけ、じわじわと胸を浸す多幸感に酔いしれながら、その唇を奪った。
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