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第2部

裏切りの顛末(2)

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ごぼ、と聞くに堪えない音がして、ぼたりと血の塊が口から零れた。
それは戴冠式のために誂えた豪奢な白金の衣装の上に落ちた。落ちた先では、腹の上に突き立てられた剣の先が肉を抉っている。
あああ、と呻き声を発して、アルサスが大理石の上に崩れ落ちた。
後ろからしがみ付くよう拘束し、剣を埋め込んでいたイルファーンは仕事は済んだとばかりにぱっと手を離した。
仰向けに倒れ呻きながら目を白黒させているアルサスの上をまたぐと、アジラヒムの顎を掴んで、乱暴に親指の腹で鼻の下を拭った。
「この愚図。なんで避けないんだ。鍛錬しないからとっさにあんな豚の拳もかわせないんだ、馬鹿め」
この控えの間に入ってから、アジラヒムは己に対する罵倒の種類の多さにいっそのこと感心していた。
愚図、生意気、面倒、そして馬鹿ときた。もはやアルサスから貰った罵倒の方が少ないくらいだった。
「放せ、雑に拭うな余計汚くなる。見てたならもっと早く出て来てくれよ」
「お前たちが来るのが早いんだよ、まだ地下の連中の準備が出来てない。時間稼ぎだ。分かるか?間抜け」
「はいはい……どうせ俺は間抜けだよ、すみませんね」
ため息交じりにそう返すと、イルファーンはそれでいいと言うように微笑んだ。こういうところが性格が悪いというのだ。
「お、まえ……おま、うらぎったのか」
目を血走らせたアルサスが何とか上体を起こす。イルファーンの剣はうまい具合に内臓をよけてあるので、放っておいてもいくらかもつだろう。
「さすがは殿下、ご慧眼であらせられる!」
イルファーンは恭しく腕を広げてお辞儀をした。まさに慇懃無礼を絵に描いた態度に、アジラヒムは兄に同情した。

「いずれ殿下には表舞台を降りていただくつもりでしたが、私のお願いを呑んでいてくだされば、もう少し穏便な殺し方を用意しておりましたものを……どうかお許しくださいませ」
口許には笑みが浮かぶものの、その目は全く無感動で、アルサスにとってそれが最後通告であるのは明らかだった。
「おいっ、誰か!だれか、こいつを、こいつらをっ」
「おやめください殿下。傷口が開きますよ」
騒ぎながらなんとか扉まで這ってゆこうとするアルサスにゆったりと追いつくと、イルファーンは芋虫のような男に優しく言った。ゆっくりと屈み込み、相手と目線を合わせていく。
「殿下、殿下……どこへ行くのです、念願の玉座がすぐ目の前だというのに。それに誰も来やしませんよ。人払いをしてあるのでね」
「とりたてて、やった、恩をっ……奴隷風情が、どうなるか、思い知れっ!」
「そうですね。しかし権力を持っていたのは貴方の派閥であって……殿下ではございますまい。連中とラジェドの反乱分子が水面下で食い合ってくれたおかげで、宮殿内部にここまで手を伸ばせるようになったことは礼を言おうか」
「どうする気だ……王にでも、なるつもりか?馬鹿げたことを……軍部も貴族議会も、お前なんぞ、認めるものかっ」
「私がいつ、玉座に興味があるなどと言いましたか?」
イルファーンは立ち上がり、アジラヒムを振り返った。
「血は止まったか?」という問いに、ああ、と短く返すとイルファーンは剣の柄に手をかけ、引き抜く前にぐり、とそれを押した。
当然、アルサスはさらなる痛みでのたうち回る羽目になった。
「イル、それも時間稼ぎか?違うならやめろ。苦しみが長引くと、魂が輪廻転生に乗れなくなる」
イルファーンは鼻先で笑って見せた。
「迷信だ。それにこいつはシェリ様を息子の前で侮辱した。これくらい痛みの内に入るものか」
「……母上が今のお前を見たらなんと言うかな」
「褒めてくださるさ。お前の面倒をちゃんと見てやったじゃないか。こいつから守ってやったろ?」
にやりと口角を上げ、イルファーンは柄から手を離した。代わりに懐剣を取り出したのを見て、アジラヒムは前に出た。
「俺がやる」
イルファーンは手首を返して剣を遠ざけた。
「いや、は俺がやる。俺の一族の仇をお前が取り、お前たち親子の敵を俺が取る。これでやっと、俺たちは対等だ」
言うと、返事も待たずにアルサスに向き直った。意図が伝わったらしく、アルサスはひっ、と喘いだ。
「安心しろ。お前と違って俺に拷問の趣味はない。一瞬で済む」

刃を首筋に当てた瞬間、それは起こった。初めは地鳴りの様だった。そして足元から伝わる振動が徐々に大きく、間隔が狭くなってきたと思うと、途端にそれは鎮まり、消えた。

「なんだ、今の……」
「地下水路で何かあったんじゃないないのか」
イルファーンはまさか、という顔をしたが次第にその表情に警戒の色が滲んできた。
「おい愚図、あの厄介な皇子様一行は帰国したんだよな」
「は?花鶏たちのことか。ああ、一週間前に港から出航したのを確認した……」
アジラヒムは口をつぐんだ。
「おい、なんだ。アジル?」
そう、確かに確認した。最後の晩にもう一度館を訪ねて、ささやかな送別の晩餐を共にした。
蘇芳はあの変な絵の描かれた星灯を記念にくれると言ったが、花鶏と同様になんか気持ち悪いなと思っていたアジラヒムはそれを断って、それを見ていた花鶏が怒り出して「いらないなら俺が貰う」と言ってぶんどっていった。

船は確かに港から出航したはずだ。戴冠式前の帰国を許すことで、アルサスはラジェドの起こした外交問題を穏便に片付けようとしていた。要は、頭を下げるのが嫌でさっさと追い出したのだ。

「いや、何でもない。それになんで、ここでアイツらが出てくるんだ。関係ないだろう」
「関係ない、ね。お前があの皇子の周りをちょろちょろするから、『名もない国』との取引に失敗した。お前がこの豚の代わりに即位した後、何かと便宜を図らせるつもりでラジェドを泳がせていたってのに」
チクチクと嫌味を言われる。それについては言い訳もできないので、大人しく黙っておいた。

まあいい、とイルファーンが懐剣を構え直す。
「時間だ。街に入れた連中が動く前に終わらせよう。手筈通り、アルサス派の貴族達は全員、この場で制圧する。領地に戻って体制を整えられたら面倒だ」
ああ、と頷いた。もう車輪が回り出した以上、ここで引くことはできない。
ラジェドたちが国内に巻いた火種を早急に何とかせねばならなかった。


「お取込み中、申し訳ないのですが……」
遠慮がちな声に、アジラヒムは全身を跳ねさせる勢いで振り向いた。
イルファーンもとっさに懐剣をアルサスに当てたまま息を詰めている。

そこには、ちょうど控えの間の隠し扉の向こうからひょっこりと半身を出している、異国人の姿があった。
「蘇芳殿……」
呆然と呟くアジラヒムに、蘇芳は強張った笑みを浮かべて、首筋に手を置いた。
そして床の上に転がるアルサスの腹から突き出た剣先を見て、顔を真っ青にした後、耐えきれないように口を手で覆って、船酔いした人間のように呻いた。



蘇芳は目の前の光景に戦慄しながら、胃の中身を吐きそうになるのを何とか堪えている。
一人で先にここへ来たことを後悔した。花鶏は終わればすぐ向かうと言っていたが、目の前には腹に剣が突き刺さったアルサス、刃を首に当てて今にも横に引こうとするイルファーン、それを見守るアジラヒム。
まさに修羅場である。とてもではないが「お取込み中すみません」で許してもらえる雰囲気ではなかった。

(刺されてるし血が出てるじゃないか、気分悪くなってきた……吐きそう。花鶏を待ってればよかった)
蘇るのは何年も前に、江雪に鞭打たれて背中の肉が抉れた時に嗅いだ血の匂いだ。
「……どうやって入ってきた!帰国したんじゃなかったのか」
アジラヒムは驚愕で固まっていたが、ややして立ち直るなり詰問した。
蘇芳はまだ室内に入って彼らに近づく勇気がなく、そっと隠し扉の縁を掴んだままだった。
「最初はそのつもりでいましたが、ぜひ皆さんと取引をしたいと思いまして。ここまでは、ちょっと宮殿の使用人にお願いをして通してもらいました」
花鶏皇子の霊獣の仕業か、とアジラヒムは苦々しく言った。誘拐騒動の時のあらましを見ていたから、すぐ結びついたのだろう。
取引?とイルファーンが眉根を寄せる。彼はスッと懐剣を退かし立ち上がった。
「まるでこうなることが分かっていたようだ。詳しく聞きたいが、あいにく時間がないのです。取引とやらにも興味ありませんね。貴方に特別恨みはないが、こんな場所に狗も連れず一人で来るなんて馬鹿、失礼……馬鹿なのですか」
狗、とはもしかしなくても花鶏のことだろう。
(まごうかたなき悪役の台詞じゃないか……とにかく花鶏が来るまで時間稼ぎだ。アルサスを殺されると後が面倒だ)
蘇芳は近づいてこようとするイルファーンに向かって、猛獣をなだめるように手の平を突き出した。
「地下水路にいるあなた方の仲間でしたら、花鶏殿下が足止めしていますから無駄ですよ。それにアルサス様を殺すのもお勧めはしませんね。貴方がたの目的が国内の平定なら、初動が簒奪というのは旨味がないでしょう。初めからアルサス派閥を切って捨てますか?勿体ない!むしろ吸収して傘下に入れないでどうします。どうせアジラヒム殿下には宮廷に後ろ盾がないのでしょう?運よく簒奪に成功しても、結局派閥がなければただの傀儡になるか、権利をもぎ取られた一派に恨まれて引きずり降ろされて終わり……ではないでしょうか」
最後はイルファーンの睨みに圧されて尻すぼみになった。
「まるで見てきたように仰る」
挑発的に言われて、蘇芳は内心まあな、と返していた。
それは原作のルートで、花鶏が失脚するに至った顛末だ。結局、雨月たちに倒されるとなった時、当然だが宮廷に味方などなく江雪にも見限られて為すすべもなく処刑された。
もはや起こらなかった世界での話だが、思い返すと胸がきりりと痛んだ。
イルファーンは忌々し気に嘆息した。計画を邪魔され、目の前の蘇芳をどうしてやろうかと頭を回転させているようだった。
「イル、地下水路の件が本当なら……まあ本当だろうが、ここは蘇芳殿の話を聞くしかなさそうだ」
「こいつを人質にして花鶏皇子に手を退かせるか、加担させる方法もある」
(言うと思った!こいつなら言うと思ったよ)

「……霊獣は離れた場所にも出現させられる。宴の席で見ただろう。俺にもお前にも、あの大蛇を押さえ込む自信があるか?」
イルファーンはややしてから、剣先でちょいちょいと投げやりに蘇芳を促した。話してみろ、ということらしい。
「なぜ俺たちの計画が分かったんだ?それになんで邪魔した。花鶏を誘拐した腹いせか?……アンタならそれくらいのことしそうだよな」
アジラヒムの言葉に、心外だと顔をしかめた。確かに事の顛末を知って憤慨したが、それとこれとは話が別……でもないけれど、目的は別にある。
それにどうやら時間稼ぎの方は問題なさそうだ。蘇芳は一つ息を吸うと、呼吸を整えてから、ことさらゆっくりと話しし始めた。一刻も早く花鶏が来てくれますようにと祈りながら。

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