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あの日の忘れ物
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三年ぶりに地元に降り立ったその日は少し遅い初雪が降っていた。
空港の大きな窓から見えるのは乗ってきたジャンボジェット機に薄く積もる雪。あからさまに寒そうな景色に、温かい室内にいるはずの身体が思わず震える。
長い廊下を歩いた先にある荷物の受取場で永遠と流れてくるキャリーバックを見つめていると、ようやく空の旅が終わって目的地に着いたことを実感してきた。
特別荷物として預けていた楽器ケースを受け取って駅へと向かう。
氷のような空気が肌をさす。懐かしい感覚にふっと口角が上がる。
次の電車は約三〇分後。人の少ないホームでヘッドホンをつける。『あの日』と書かれたプレイリストから一曲選んで流す。一瞬であの頃に、私の青春にタイムスリップする。
中学を卒業してもうすぐ七年。そのうち約三年は世界を一変させたどっかのはた迷惑なウイルスのせいで、あの頃の仲間で集まるどころか地元に帰ってくることすらできなかった。だから、人の少ないホームも、なかなか来ない電車も、身体の芯まで凍えさせる張り詰めた空気も、薄氷で滑る駅の床も、すべてが懐かしい。
ようやくきた電車に乗ったころには足先も指の感覚もなくなっていたがなぜかそれが嫌ではなかった。
ガタゴトと電車に揺られて向かうのは私の生まれ育った街。広い北の大地の中では都会に比較的近い街。自然と住宅街が調和した騒がしくなく、寂しくもない街。そして吹奏楽の盛んな街。
電車から降りて実家には向かわず、直接母校、第二中学校へと向かう。
薄く積もった雪がサク、サクと音を立てる。ブーツでは来たけれど雪靴ではないからひたすらに滑る。今の格好で後ろにひっくり返ったら楽器ケースが下になる。必死に体に残っているはずの記憶を呼び覚まして歩く。
今日は約束の日からちょうど二年。私の二二歳の誕生日だ。
私は中学生の頃、この街で吹奏楽に明け暮れた。それこそ、思い出は吹奏楽部のこと以外ないというほど、吹奏楽一色。その思い出の中に必ず、ともに存在するのが九人の仲間と恩師である先生だった。
教師という仕事をしているとはとても信じられないほど口が悪く、お世辞を言わない先生は、私たち吹奏楽部の生徒にはことさら厳しかった。
先生に罵倒されたことなんて数えきれない。いつもまっすぐ生徒を見て嘘偽りなく、本当にボロクソに言いながら指導をしてくれる人。誰よりも音楽を愛し、真正面に音楽と向き合い、私たちの可能性を信じてくれた人。そしてなにより私たちが愛した人。
先生との思い出は語り切れないほどある。
その中でも、全く色褪せずに残っているのが卒業式だ。
七年前、卒業式の日、私たちは先生に音楽室に呼び出された。先生は特別なことは何も言わなかった。いつもの調子で「お疲れ」と挨拶をし、部活でやる新曲を配るかのように私たちに楽譜を配った。
曲は『戦場のメリークリスマス』。先生が一番好きな曲だと公言していた曲。いつか演奏したいなと言いながら、結局機会に恵まれなかった曲。
その楽譜には先生の手書きのメッセージが記されていた。
「君たち全員が二〇歳になる日の同じ時間にまたここで」
それは何年も先の約束だった。
先生はそれ以上は語らずに「帰った帰った」と私たちを音楽室から追い出した。
私たち全員が二〇歳になる日。それはこの学年で一番誕生日が遅い私の誕生日。十二月二六日。同じ時間、私たちが呼び出された一四時。必ず音楽室で。
その約束は果たされなかった。
先生は約束の日を待たずして癌で亡くなった。亡くなる二日前まで指揮を振っていたらしい。
そして約束の日は、不要不急の外出の制限で家から出ることもできずに過ぎ去った。
ともに演奏するどころか顔を合わせることすらできず、約束の時間に『戦場のメリークリスマス』を流すことしかできなかった。
それでも私を含む十人全員がいつかという希望だけは抱いていた。
だから今日、私たちはあの日の忘れ物を取りに来た。
二年前の今日叶えられなかった『約束』という忘れ物を。
校門をくぐると懐かしい顔が見えた。
「よ、久しぶり」「元気だった?」なんて声が飛ぶ。
それぞれがそれぞれの進路を選びこの街から出た今となっては、この約束がなければきっと二度と会わなかったであろうあの頃の仲間たち。
私たち十人は性格も趣味も進路もバラバラだ。だから音楽がなければ繋がらない。
数年ぶりだというのにあの頃と変わらない空気が流れる。みんな変わっているようで変わらない。
室内だというのに外と変わらないような極寒の木造校舎に足を踏み入れる。私たちが通っていたころも大概ぼろかったが、この七年でそれがより一層悪化している。ミシミシ鳴る廊下を通り抜け、階段を上った先の音楽室。
あの頃より少し錆びた重たい金属の扉。部長が職員室から借りてきた鍵をさす。
職員室にはほとんど顔の知っている先生はいなかった。それでも、校長だけは変わらずにいてくれたおかげで、快く音楽室を貸してもらえた。
校長は先生から『あの日の約束』を聞いていたらしい。
恐る恐る部長が電話を掛けた時、「あの約束がどうなったのか、僕も気になっていたんだよ」と言って一つ返事で音楽室の使用許可をくれたらしい。
ギーっと大きく鳴って音楽室の扉が開く。
そこは昔と同じようで、全く様変わりしていた。
置いてあるものは同じだ。ピアノも棚も机も。
でも、真ん中にあったはずのグランドピアノは端の方に寄せてあり、机の並べ方も異なっていた。
そしてなにより、先生のデスクが無くなっている。教室の右端にあったデスク。あそこにいつも先生は座っていた。ピンク色のシャツを着て。あの凛とした背中はいつまで経っても目の中に焼き付いている。
おそらくみんなも同じことを思ったのだろう。
騒がしかった空気が音楽室に入った瞬間しんと静まり返った。誰も何も言わずにただただ音楽室を見つめる。ここには思い出がありすぎるのだ。いいものも悪いものも、そこに時が経ったという事実が突きつけられる。
何分経ったのだろう。不意に副部長が無言で机を動かし始めた。そうだ、今日私たちはここに音楽を奏でに来たのだ。
黙々と机と椅子を動かし合奏形態を作っていく。打ち合わせをしなくても、言葉を交わさなくてもスムーズに出来上がっていく。
楽器庫からパーカッションを出して、合奏形態が完成したら音出しを始める。
耳に流れ込んでくるのはあの頃毎日のように聞いた仲間の音色。何年経ってもすぐにわかる、慣れ親しんだ音。
「始めようか」
部長が言った一言で全員が席に着く。
クラリネットの合図でチューニングを行う。
今でも吹奏楽を続けている人も何年もブランクがある人もいる。
それでも不思議とあの頃の音色と変わらなかった。
譜面台に置かれたのはもちろん『戦場のメリークリスマス』の楽譜。あの日渡された、先生のメッセージが記された約束の証。たった十人でも演奏できるように先生が編曲した特別バージョン。
曲は柔らかいピアノのソロから始まる。今や音大のピアノ科に在籍し、あの頃よりも格段に上手くなった演奏でしっとりと。それを支えるのは木管楽器のハーモニー。そこに重厚感のある金管楽器が加わる。決してレベルが高いわけではない。全員、練習をしてきたとはいえ半分が今は現役でない素人同然。中学生の頃には遠く及ばない。音程はズレるし、ミスタッチも聞こえる。
音楽を導く指揮者はいない。
それでも音楽は止まることなく流れていく。三年間毎日練習をして培った阿吽の呼吸はブランクなんかじゃなくならない。
一音一音丁寧に。楽譜に忠実に。それでも楽譜の奴隷にはならずに楽しんで。たった五分ちょっとの時間を味わい尽くすように。丁寧に丁寧に音を奏でていく。軽やかに、柔らかく優しく、時には激しく情熱的に。
天まで届くように。
演奏が終わった後、私たちは買ってきたハーゲンダッツを食べた。
全員二十を超えた今、献杯という選択肢もあったけれど、先生の好物で合ったアイスをあの頃のように。
なんとなく、それぞれがそれぞれの近況を話して、それから思い出話に花を咲かせて懐かしい曲たちをがむしゃらに吹いた。
楽譜なんて用意してないから全員うろ覚えの記憶を頼りに、無茶苦茶に吹きまくった。コンクールで演奏したマーチに、七年前に流行っていたポップス。アニソンメドレーに吹奏楽の定番曲。先生がいたら「なんだそのへったくそな演奏は!」と怒鳴られること間違いなしのぐちゃぐちゃな音楽。
吹いて、笑って、喋って、また吹いて。あっという間に時間は過ぎていき日が完全に落ちた頃、私たちは音楽室を元に戻して鍵をかけた。
私たちの歪で、泥臭くて、粗削りな演奏は、七年前に交わした約束は、あの日の忘れ物はそうやって幕を閉じた。
日が落ちて暗くなったはずの外は一面の銀世界を満点の星が照らしてキラキラとあの日々みたいに輝いていた。
空港の大きな窓から見えるのは乗ってきたジャンボジェット機に薄く積もる雪。あからさまに寒そうな景色に、温かい室内にいるはずの身体が思わず震える。
長い廊下を歩いた先にある荷物の受取場で永遠と流れてくるキャリーバックを見つめていると、ようやく空の旅が終わって目的地に着いたことを実感してきた。
特別荷物として預けていた楽器ケースを受け取って駅へと向かう。
氷のような空気が肌をさす。懐かしい感覚にふっと口角が上がる。
次の電車は約三〇分後。人の少ないホームでヘッドホンをつける。『あの日』と書かれたプレイリストから一曲選んで流す。一瞬であの頃に、私の青春にタイムスリップする。
中学を卒業してもうすぐ七年。そのうち約三年は世界を一変させたどっかのはた迷惑なウイルスのせいで、あの頃の仲間で集まるどころか地元に帰ってくることすらできなかった。だから、人の少ないホームも、なかなか来ない電車も、身体の芯まで凍えさせる張り詰めた空気も、薄氷で滑る駅の床も、すべてが懐かしい。
ようやくきた電車に乗ったころには足先も指の感覚もなくなっていたがなぜかそれが嫌ではなかった。
ガタゴトと電車に揺られて向かうのは私の生まれ育った街。広い北の大地の中では都会に比較的近い街。自然と住宅街が調和した騒がしくなく、寂しくもない街。そして吹奏楽の盛んな街。
電車から降りて実家には向かわず、直接母校、第二中学校へと向かう。
薄く積もった雪がサク、サクと音を立てる。ブーツでは来たけれど雪靴ではないからひたすらに滑る。今の格好で後ろにひっくり返ったら楽器ケースが下になる。必死に体に残っているはずの記憶を呼び覚まして歩く。
今日は約束の日からちょうど二年。私の二二歳の誕生日だ。
私は中学生の頃、この街で吹奏楽に明け暮れた。それこそ、思い出は吹奏楽部のこと以外ないというほど、吹奏楽一色。その思い出の中に必ず、ともに存在するのが九人の仲間と恩師である先生だった。
教師という仕事をしているとはとても信じられないほど口が悪く、お世辞を言わない先生は、私たち吹奏楽部の生徒にはことさら厳しかった。
先生に罵倒されたことなんて数えきれない。いつもまっすぐ生徒を見て嘘偽りなく、本当にボロクソに言いながら指導をしてくれる人。誰よりも音楽を愛し、真正面に音楽と向き合い、私たちの可能性を信じてくれた人。そしてなにより私たちが愛した人。
先生との思い出は語り切れないほどある。
その中でも、全く色褪せずに残っているのが卒業式だ。
七年前、卒業式の日、私たちは先生に音楽室に呼び出された。先生は特別なことは何も言わなかった。いつもの調子で「お疲れ」と挨拶をし、部活でやる新曲を配るかのように私たちに楽譜を配った。
曲は『戦場のメリークリスマス』。先生が一番好きな曲だと公言していた曲。いつか演奏したいなと言いながら、結局機会に恵まれなかった曲。
その楽譜には先生の手書きのメッセージが記されていた。
「君たち全員が二〇歳になる日の同じ時間にまたここで」
それは何年も先の約束だった。
先生はそれ以上は語らずに「帰った帰った」と私たちを音楽室から追い出した。
私たち全員が二〇歳になる日。それはこの学年で一番誕生日が遅い私の誕生日。十二月二六日。同じ時間、私たちが呼び出された一四時。必ず音楽室で。
その約束は果たされなかった。
先生は約束の日を待たずして癌で亡くなった。亡くなる二日前まで指揮を振っていたらしい。
そして約束の日は、不要不急の外出の制限で家から出ることもできずに過ぎ去った。
ともに演奏するどころか顔を合わせることすらできず、約束の時間に『戦場のメリークリスマス』を流すことしかできなかった。
それでも私を含む十人全員がいつかという希望だけは抱いていた。
だから今日、私たちはあの日の忘れ物を取りに来た。
二年前の今日叶えられなかった『約束』という忘れ物を。
校門をくぐると懐かしい顔が見えた。
「よ、久しぶり」「元気だった?」なんて声が飛ぶ。
それぞれがそれぞれの進路を選びこの街から出た今となっては、この約束がなければきっと二度と会わなかったであろうあの頃の仲間たち。
私たち十人は性格も趣味も進路もバラバラだ。だから音楽がなければ繋がらない。
数年ぶりだというのにあの頃と変わらない空気が流れる。みんな変わっているようで変わらない。
室内だというのに外と変わらないような極寒の木造校舎に足を踏み入れる。私たちが通っていたころも大概ぼろかったが、この七年でそれがより一層悪化している。ミシミシ鳴る廊下を通り抜け、階段を上った先の音楽室。
あの頃より少し錆びた重たい金属の扉。部長が職員室から借りてきた鍵をさす。
職員室にはほとんど顔の知っている先生はいなかった。それでも、校長だけは変わらずにいてくれたおかげで、快く音楽室を貸してもらえた。
校長は先生から『あの日の約束』を聞いていたらしい。
恐る恐る部長が電話を掛けた時、「あの約束がどうなったのか、僕も気になっていたんだよ」と言って一つ返事で音楽室の使用許可をくれたらしい。
ギーっと大きく鳴って音楽室の扉が開く。
そこは昔と同じようで、全く様変わりしていた。
置いてあるものは同じだ。ピアノも棚も机も。
でも、真ん中にあったはずのグランドピアノは端の方に寄せてあり、机の並べ方も異なっていた。
そしてなにより、先生のデスクが無くなっている。教室の右端にあったデスク。あそこにいつも先生は座っていた。ピンク色のシャツを着て。あの凛とした背中はいつまで経っても目の中に焼き付いている。
おそらくみんなも同じことを思ったのだろう。
騒がしかった空気が音楽室に入った瞬間しんと静まり返った。誰も何も言わずにただただ音楽室を見つめる。ここには思い出がありすぎるのだ。いいものも悪いものも、そこに時が経ったという事実が突きつけられる。
何分経ったのだろう。不意に副部長が無言で机を動かし始めた。そうだ、今日私たちはここに音楽を奏でに来たのだ。
黙々と机と椅子を動かし合奏形態を作っていく。打ち合わせをしなくても、言葉を交わさなくてもスムーズに出来上がっていく。
楽器庫からパーカッションを出して、合奏形態が完成したら音出しを始める。
耳に流れ込んでくるのはあの頃毎日のように聞いた仲間の音色。何年経ってもすぐにわかる、慣れ親しんだ音。
「始めようか」
部長が言った一言で全員が席に着く。
クラリネットの合図でチューニングを行う。
今でも吹奏楽を続けている人も何年もブランクがある人もいる。
それでも不思議とあの頃の音色と変わらなかった。
譜面台に置かれたのはもちろん『戦場のメリークリスマス』の楽譜。あの日渡された、先生のメッセージが記された約束の証。たった十人でも演奏できるように先生が編曲した特別バージョン。
曲は柔らかいピアノのソロから始まる。今や音大のピアノ科に在籍し、あの頃よりも格段に上手くなった演奏でしっとりと。それを支えるのは木管楽器のハーモニー。そこに重厚感のある金管楽器が加わる。決してレベルが高いわけではない。全員、練習をしてきたとはいえ半分が今は現役でない素人同然。中学生の頃には遠く及ばない。音程はズレるし、ミスタッチも聞こえる。
音楽を導く指揮者はいない。
それでも音楽は止まることなく流れていく。三年間毎日練習をして培った阿吽の呼吸はブランクなんかじゃなくならない。
一音一音丁寧に。楽譜に忠実に。それでも楽譜の奴隷にはならずに楽しんで。たった五分ちょっとの時間を味わい尽くすように。丁寧に丁寧に音を奏でていく。軽やかに、柔らかく優しく、時には激しく情熱的に。
天まで届くように。
演奏が終わった後、私たちは買ってきたハーゲンダッツを食べた。
全員二十を超えた今、献杯という選択肢もあったけれど、先生の好物で合ったアイスをあの頃のように。
なんとなく、それぞれがそれぞれの近況を話して、それから思い出話に花を咲かせて懐かしい曲たちをがむしゃらに吹いた。
楽譜なんて用意してないから全員うろ覚えの記憶を頼りに、無茶苦茶に吹きまくった。コンクールで演奏したマーチに、七年前に流行っていたポップス。アニソンメドレーに吹奏楽の定番曲。先生がいたら「なんだそのへったくそな演奏は!」と怒鳴られること間違いなしのぐちゃぐちゃな音楽。
吹いて、笑って、喋って、また吹いて。あっという間に時間は過ぎていき日が完全に落ちた頃、私たちは音楽室を元に戻して鍵をかけた。
私たちの歪で、泥臭くて、粗削りな演奏は、七年前に交わした約束は、あの日の忘れ物はそうやって幕を閉じた。
日が落ちて暗くなったはずの外は一面の銀世界を満点の星が照らしてキラキラとあの日々みたいに輝いていた。
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