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第一章その2 ~黒鷹、私よ!~ あなたに届けのモウ・アピール編
かつての英雄、今はドジっ子
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「鶉谷司令、よろしいでしょうか」
かつて校長室だった部屋の引き戸をノックし、誠は緊張しながら声をかけた。
「どうぞ」
澄んだ女性の声が聞こえ、誠は引き手金具に手をかけた。
扉を開けると、手前には応接用の黒い鋲打ち椅子が並ぶ。奥には両袖机と大きな本棚。そして本棚の資料を手にした、一人の女性が振り返っていた。
金の髪を長く伸ばしたその人物は、誠より年上の24歳。
旧自衛隊の冬服に似たモスグリーンのジャケットを纏い、豊かな胸元には同じ色のネクタイを締めている。腰から下は、膝上までのタイトスカートだ。
純粋な日本人にも関わらず髪の色が金なのは、かつて餓霊達の総大将・ディアヌスと対峙し、かなり高度のダメージを受けた証拠である。
彼女こそ、この基地の司令官を務めている鶉谷雪菜少佐だった。
およそ若すぎる異例の出世だったが、それは混乱初期に活躍した神武勲章隊……いわゆるレジェンド隊のパイロットが故であった。
「鳴瀬くん、お疲れ様。今お茶を入れるわ。ああっ!?」
雪菜は嬉しそうに給仕を試みるが、手がもたつき、湯飲みが飛んで砕け散った。
「い、いけないわ。すぐ片付けるから。あああっ!?」
雪菜は慌てて片付けようとするが、体がふらついて食器棚に激突、次々別の茶碗が舞っていく。
「あっ雪菜さん! いえ、司令、ご無理をなさらず」
誠は慌てて歩み寄り、いそいそと箒で破片を片付けていく。
「自分がやりますから、司令はお座り下さい」
「そんなに病人扱いしなくても平気よ?」
「いえあの、ていうか司令ですから、お茶なら自分がお入れします」
「……つまらないわ」
雪菜は少し抗議の眼差しで誠を見つめていたが、諦めて応接椅子に腰掛けた。
「この紙袋は報告書?」
「えっ!?」
ガサガサという音に振り返ると、雪菜は誠の紙袋を手にしている。
「うわっと! そ、それは間違えました、持って来るつもりじゃなかったんです!」
止めるのが遅かったらしく、雪菜は黙って紙袋に本を戻した。
「…………どうぞ」
「…………ありがとう」
お茶は安い断ち屑であるが、今の時代では貴重な緑茶だった。袋には静岡産と書いていたはずだ。
静岡には親戚がいたので、母はうまい新茶が届く度、水出しで冷茶漬けを作っていた。誠は一緒に届く駿河湾の魚、特に金目鯛の干物が好物で……いや、そんな事は今はいいのだ。
気まずさで目を落とすと、床面はチークの集成材だった。よく手入れされていて、鼈甲に近い艶がある。いや、だからそんな事は今はいいのだ。
しばし無言でお茶を飲んだ後、唐突に雪菜が口を開いた。
「……そうよね、鳴瀬くんも男の子だものね」
誠は思わずお茶を吹きかけたが、そこは必死に我慢した。
「いや、違うんです! これは宮……悪友が!」
「鳴瀬くんがこんな小さい頃から知ってたから、ちょっとショックで」
「だから違うんです!」
「その人、私に似ている気がするのだけれど」
(鋭い!)
誠は内心ぎくりとしたが、そこは必死に否定した。
「にっにに似てません、似てません! そもそも司令の方が!」
「私の方が?」
「……いえ、あの、その……」
誠は口の中でもごもご言って誤魔化した。
司令の方が綺麗です、と言うと告白みたいになるし、そもそも写真より雪菜の方がダイナマイトセクシーバディなのだが、それを言うと怒られそうだからだ。
誠が口ごもると、雪菜は残念そうにこちらを見つめる。
「……つまらないわ。途中でやめちゃうのね」
「その、ちょっと勘弁して下さい。ていうか司令、何か嫌な事ありました?」
「……そうね」
雪菜は少し静かになって、手にしたお茶を眺めながら呟いた。
「司令なんて言っても、私はここのお飾りなのよ。神武勲章隊のパイロットだから名を買われただけで、私に決められる事なんて、殆ど無いんだから。本当は、鳴瀬くん達と一緒に戦いたいわ」
「治ったらぜひお願いします」
誠がそう言うと、雪菜は少しばつが悪そうに微笑んで湯飲みを置いた。
「ごめんなさい、それじゃお仕事モードに戻りましょう」
「はいっ」
誠は手短に報告を済ませた。雪菜は頷いて誠達の活躍を労ってくれる。
「避難民の救助任務、本当にご苦労様。出来ればお休みでもあげられればいいんだけど……手短に伝えるわ。まずはいいニュースから。負傷した池谷中佐が意識を取り戻されたの」
「池谷中佐が? それは良かった」
誠は胸を撫でおろした。
あの第16特別避難区の港にて、中佐は車ごと餓霊に体当たりし、その無茶が祟ったのか、船に乗ってすぐ倒れてしまったのだ。
そのまま意識不明の重態となり、池谷の人柄を慕う若者達は、少なからず彼の身を案じていたわけだ。
「そしてここからが悪いニュース。会議の結果、今後の編成がまた変わるらしいの」
雪菜が差し出した資料には、『第5船団防衛計画大綱』と『中期防衛力整備計画』と書かれていた。そしてそれは、端的に言って絶望の内容だった。
高縄半島向けの予算は更に削られ、前線の基地も統廃合されるという。これで本当にこの避難区が守れるのだろうか、と誠は眩暈を覚えた。
「それともう一つ、これも言いにくいのだけど……」
雪菜はもう一枚、テーブルに紙を差し出した。
「本人は承諾しているわ。家族を病院に入れる条件で引き抜かれたから、仕方がないわね」
それは整備部隊のベテラン人員の、後方への移転辞令だった。一応拒否する事も出来るのだが、この危険なご時勢に、後方移転を拒否する者は殆どいない。
「支援が得られない以上、しばらくは周囲の基地と協力してしのぐしかないわ。苦しいだろうけど、なんとかここは耐えましょう」
「勿論、全身全霊で頑張ります」
誠は力強くそう言ったが、不意に左手が疼き、反射的に顔を顰めた。
「……っ!」
雪菜は心配そうに誠を見つめる。
「どうしたの?」
「あ、いえっ、全く問題ありません」
誠は咄嗟に痙攣する左手を隠した。
「……そう。無理しないで、ちゃんと休んでね」
誠は立ち上がり、食器を片付ようとするが、雪菜は手を上げてそれを制した。
「あっいいわ、後片付けぐらいはさせて。その方が気持ちが落ち着くから」
「えっ? りょ……了解しました……!」
誠が退出すると、案の定、後ろから食器が盛大に割れる音が響いて来る。
「だ、駄目だ、助けると司令も気が辛いから……!」
誠は飛んでいきたいのを必死に我慢するが、戸棚がひっくり返るような音が続き、たまらず室内に駆け込んだ。
湯飲み茶碗に壊滅的な損害を出し、雪菜はデスクに戻ってきた。一足ごとに針で体中を刺されるような痛みが走る。
「あいたた……よいしょっと」
鋲打ち椅子に身を預け、雪菜はようやくひと心地がついた。以前は羽のように軽く感じた体は、今は殆ど言う事をきかないのだ。
それは女として成長し、身が重くなっただけではなく、戦いで受けた魔王の攻撃のせいなのだが……そんな我が身の事など、今の雪菜にはどうでも良かった。
あの鳴瀬少年を含む若者達の明日が、今にも消えようとしているからである。
その事に心を痛めている大人も多かったが、崩壊後の日本で力を持っていたのは、他者を押しのけて生き残ってきた人間が多く、そういう者こそ権力欲が高かった。
いくら優しい大人がいても、彼らが出世しようとしなければ、実権を握るのは悪魔のような人間ばかりだ。
結果的に被災孤児にとって、地獄の世界が始まったのだ。
もちろんこんな前線の盾代わりの部隊でも、元々は旧自衛隊出身の大人が一定数配置され、子供達をサポートしていた……が、彼らは1人また1人と呼び戻されていった。
どうせ死に行く部隊に貴重な人員は無駄だからだし、若者達に慕われている雪菜がいれば、配下が離反する事はそうそう無いからだ。
また仮に反逆したところで、食料や物資はたちまち尽きる。政府の言う事を聞かねば、どうやっても生きていく事は出来ないのだ。
「…………」
雪菜は無言で机上の写真に目を遣った。
かつて実験段階だった人型重機を駆って、日本中を駆け抜けた部隊の……いわゆる『神武勲章隊』の写真であり、そこには雪菜も写っていた。
メンバーは当時全員が十代だったが、これは人型重機の接続操作に、逆鱗と呼ばれる特殊な細胞片の移植が必要だからだ。
逆鱗の移植手術には適性も必要だが、何より脳の認識機能との兼ね合いで、成人までに体に組み込まなければならない。そのため、若年兵が人型重機に乗って戦ったのだ。
子供を実験台にする事に批判も多かったが、当の雪菜は日本を守る高揚感に燃えていた。自分ならきっと出来るし、すぐにでも日本を取り戻せると思っていた。
故郷の偉人・坂本竜馬の為したように、自分達の活躍で日本を一つに取りまとめ、この苦難の時期を終わらせられると思ったのだ。
……でもそれは、子供じみた幻想だった。
餓霊の軍勢は驚くほど強大であり、雪菜達は次第に疲れ果てていった。お伽話の英雄のように、悪者退治は出来なかったのである。
特にあの餓霊軍団の総大将・八柱の魔王と称されるディアヌスと対峙した時、頭から足のつま先まで、稲妻が走ったような痛みを覚えた。その痛みは今も鈍い残り火となって、雪菜の五体を責め続けるのである。
でもそれは他の隊員達も同じだったし、そんな事より誠の身が心配だった。
彼が雪菜の転属先に付いて来た時から、どんな困難な任務にも、彼は「やります」と即答する。そして実際にやり遂げて来るのだ。
毎度見ていられないほど消耗し、生傷を付けて帰ってくるが、自分の前では少しも辛そうな素振りを見せない。
……もちろん鈍い雪菜でも、少年の好意には気付いている。
彼が命をすり減らして得た貢献ポイントを、こっそり基地の補給に使っている事も、雪菜はずっと前から気付いていた。
あの日、避難所で飢え死にしかけていた幼い彼を見つけた時から、雪菜は彼の事を誰より理解してきたつもりだ。
本来であれば、彼に逃げろと言うべきだろうか? 彼に嫌われ憎まれてでも、辛辣な言葉を浴びせ、追い払おうとするべきだろうか?
でもそれは、この基地を守っている最大の功労者を失う事であり、避難している大勢の人を見捨てる事に繋がるのだ。
「……っ!」
一際強い痛みが走り、雪菜は思わず左手を押さえた。
かつてパイロットだった事を示す、左手の甲の細胞片……つまり逆鱗は、赤い宝石のように輝きながら明滅している。あのディアヌスの攻撃を受けた際、逆鱗はその性質を変化させ、雪菜の命を蝕み始めた。
体内各部に転移したその細胞は、外科手術では取り除けないほど臓器に絡みついている。少しずつ、けれど確実に増えながら、主の命を吸い取っていくのだ。
雪菜は無言で左手を握り締める。
無邪気に笑うかつての自分を見つめ、傍らに写る髪の長い青年に目を移す。
「明日馬くん、どうしたらいいの……?」
かつて校長室だった部屋の引き戸をノックし、誠は緊張しながら声をかけた。
「どうぞ」
澄んだ女性の声が聞こえ、誠は引き手金具に手をかけた。
扉を開けると、手前には応接用の黒い鋲打ち椅子が並ぶ。奥には両袖机と大きな本棚。そして本棚の資料を手にした、一人の女性が振り返っていた。
金の髪を長く伸ばしたその人物は、誠より年上の24歳。
旧自衛隊の冬服に似たモスグリーンのジャケットを纏い、豊かな胸元には同じ色のネクタイを締めている。腰から下は、膝上までのタイトスカートだ。
純粋な日本人にも関わらず髪の色が金なのは、かつて餓霊達の総大将・ディアヌスと対峙し、かなり高度のダメージを受けた証拠である。
彼女こそ、この基地の司令官を務めている鶉谷雪菜少佐だった。
およそ若すぎる異例の出世だったが、それは混乱初期に活躍した神武勲章隊……いわゆるレジェンド隊のパイロットが故であった。
「鳴瀬くん、お疲れ様。今お茶を入れるわ。ああっ!?」
雪菜は嬉しそうに給仕を試みるが、手がもたつき、湯飲みが飛んで砕け散った。
「い、いけないわ。すぐ片付けるから。あああっ!?」
雪菜は慌てて片付けようとするが、体がふらついて食器棚に激突、次々別の茶碗が舞っていく。
「あっ雪菜さん! いえ、司令、ご無理をなさらず」
誠は慌てて歩み寄り、いそいそと箒で破片を片付けていく。
「自分がやりますから、司令はお座り下さい」
「そんなに病人扱いしなくても平気よ?」
「いえあの、ていうか司令ですから、お茶なら自分がお入れします」
「……つまらないわ」
雪菜は少し抗議の眼差しで誠を見つめていたが、諦めて応接椅子に腰掛けた。
「この紙袋は報告書?」
「えっ!?」
ガサガサという音に振り返ると、雪菜は誠の紙袋を手にしている。
「うわっと! そ、それは間違えました、持って来るつもりじゃなかったんです!」
止めるのが遅かったらしく、雪菜は黙って紙袋に本を戻した。
「…………どうぞ」
「…………ありがとう」
お茶は安い断ち屑であるが、今の時代では貴重な緑茶だった。袋には静岡産と書いていたはずだ。
静岡には親戚がいたので、母はうまい新茶が届く度、水出しで冷茶漬けを作っていた。誠は一緒に届く駿河湾の魚、特に金目鯛の干物が好物で……いや、そんな事は今はいいのだ。
気まずさで目を落とすと、床面はチークの集成材だった。よく手入れされていて、鼈甲に近い艶がある。いや、だからそんな事は今はいいのだ。
しばし無言でお茶を飲んだ後、唐突に雪菜が口を開いた。
「……そうよね、鳴瀬くんも男の子だものね」
誠は思わずお茶を吹きかけたが、そこは必死に我慢した。
「いや、違うんです! これは宮……悪友が!」
「鳴瀬くんがこんな小さい頃から知ってたから、ちょっとショックで」
「だから違うんです!」
「その人、私に似ている気がするのだけれど」
(鋭い!)
誠は内心ぎくりとしたが、そこは必死に否定した。
「にっにに似てません、似てません! そもそも司令の方が!」
「私の方が?」
「……いえ、あの、その……」
誠は口の中でもごもご言って誤魔化した。
司令の方が綺麗です、と言うと告白みたいになるし、そもそも写真より雪菜の方がダイナマイトセクシーバディなのだが、それを言うと怒られそうだからだ。
誠が口ごもると、雪菜は残念そうにこちらを見つめる。
「……つまらないわ。途中でやめちゃうのね」
「その、ちょっと勘弁して下さい。ていうか司令、何か嫌な事ありました?」
「……そうね」
雪菜は少し静かになって、手にしたお茶を眺めながら呟いた。
「司令なんて言っても、私はここのお飾りなのよ。神武勲章隊のパイロットだから名を買われただけで、私に決められる事なんて、殆ど無いんだから。本当は、鳴瀬くん達と一緒に戦いたいわ」
「治ったらぜひお願いします」
誠がそう言うと、雪菜は少しばつが悪そうに微笑んで湯飲みを置いた。
「ごめんなさい、それじゃお仕事モードに戻りましょう」
「はいっ」
誠は手短に報告を済ませた。雪菜は頷いて誠達の活躍を労ってくれる。
「避難民の救助任務、本当にご苦労様。出来ればお休みでもあげられればいいんだけど……手短に伝えるわ。まずはいいニュースから。負傷した池谷中佐が意識を取り戻されたの」
「池谷中佐が? それは良かった」
誠は胸を撫でおろした。
あの第16特別避難区の港にて、中佐は車ごと餓霊に体当たりし、その無茶が祟ったのか、船に乗ってすぐ倒れてしまったのだ。
そのまま意識不明の重態となり、池谷の人柄を慕う若者達は、少なからず彼の身を案じていたわけだ。
「そしてここからが悪いニュース。会議の結果、今後の編成がまた変わるらしいの」
雪菜が差し出した資料には、『第5船団防衛計画大綱』と『中期防衛力整備計画』と書かれていた。そしてそれは、端的に言って絶望の内容だった。
高縄半島向けの予算は更に削られ、前線の基地も統廃合されるという。これで本当にこの避難区が守れるのだろうか、と誠は眩暈を覚えた。
「それともう一つ、これも言いにくいのだけど……」
雪菜はもう一枚、テーブルに紙を差し出した。
「本人は承諾しているわ。家族を病院に入れる条件で引き抜かれたから、仕方がないわね」
それは整備部隊のベテラン人員の、後方への移転辞令だった。一応拒否する事も出来るのだが、この危険なご時勢に、後方移転を拒否する者は殆どいない。
「支援が得られない以上、しばらくは周囲の基地と協力してしのぐしかないわ。苦しいだろうけど、なんとかここは耐えましょう」
「勿論、全身全霊で頑張ります」
誠は力強くそう言ったが、不意に左手が疼き、反射的に顔を顰めた。
「……っ!」
雪菜は心配そうに誠を見つめる。
「どうしたの?」
「あ、いえっ、全く問題ありません」
誠は咄嗟に痙攣する左手を隠した。
「……そう。無理しないで、ちゃんと休んでね」
誠は立ち上がり、食器を片付ようとするが、雪菜は手を上げてそれを制した。
「あっいいわ、後片付けぐらいはさせて。その方が気持ちが落ち着くから」
「えっ? りょ……了解しました……!」
誠が退出すると、案の定、後ろから食器が盛大に割れる音が響いて来る。
「だ、駄目だ、助けると司令も気が辛いから……!」
誠は飛んでいきたいのを必死に我慢するが、戸棚がひっくり返るような音が続き、たまらず室内に駆け込んだ。
湯飲み茶碗に壊滅的な損害を出し、雪菜はデスクに戻ってきた。一足ごとに針で体中を刺されるような痛みが走る。
「あいたた……よいしょっと」
鋲打ち椅子に身を預け、雪菜はようやくひと心地がついた。以前は羽のように軽く感じた体は、今は殆ど言う事をきかないのだ。
それは女として成長し、身が重くなっただけではなく、戦いで受けた魔王の攻撃のせいなのだが……そんな我が身の事など、今の雪菜にはどうでも良かった。
あの鳴瀬少年を含む若者達の明日が、今にも消えようとしているからである。
その事に心を痛めている大人も多かったが、崩壊後の日本で力を持っていたのは、他者を押しのけて生き残ってきた人間が多く、そういう者こそ権力欲が高かった。
いくら優しい大人がいても、彼らが出世しようとしなければ、実権を握るのは悪魔のような人間ばかりだ。
結果的に被災孤児にとって、地獄の世界が始まったのだ。
もちろんこんな前線の盾代わりの部隊でも、元々は旧自衛隊出身の大人が一定数配置され、子供達をサポートしていた……が、彼らは1人また1人と呼び戻されていった。
どうせ死に行く部隊に貴重な人員は無駄だからだし、若者達に慕われている雪菜がいれば、配下が離反する事はそうそう無いからだ。
また仮に反逆したところで、食料や物資はたちまち尽きる。政府の言う事を聞かねば、どうやっても生きていく事は出来ないのだ。
「…………」
雪菜は無言で机上の写真に目を遣った。
かつて実験段階だった人型重機を駆って、日本中を駆け抜けた部隊の……いわゆる『神武勲章隊』の写真であり、そこには雪菜も写っていた。
メンバーは当時全員が十代だったが、これは人型重機の接続操作に、逆鱗と呼ばれる特殊な細胞片の移植が必要だからだ。
逆鱗の移植手術には適性も必要だが、何より脳の認識機能との兼ね合いで、成人までに体に組み込まなければならない。そのため、若年兵が人型重機に乗って戦ったのだ。
子供を実験台にする事に批判も多かったが、当の雪菜は日本を守る高揚感に燃えていた。自分ならきっと出来るし、すぐにでも日本を取り戻せると思っていた。
故郷の偉人・坂本竜馬の為したように、自分達の活躍で日本を一つに取りまとめ、この苦難の時期を終わらせられると思ったのだ。
……でもそれは、子供じみた幻想だった。
餓霊の軍勢は驚くほど強大であり、雪菜達は次第に疲れ果てていった。お伽話の英雄のように、悪者退治は出来なかったのである。
特にあの餓霊軍団の総大将・八柱の魔王と称されるディアヌスと対峙した時、頭から足のつま先まで、稲妻が走ったような痛みを覚えた。その痛みは今も鈍い残り火となって、雪菜の五体を責め続けるのである。
でもそれは他の隊員達も同じだったし、そんな事より誠の身が心配だった。
彼が雪菜の転属先に付いて来た時から、どんな困難な任務にも、彼は「やります」と即答する。そして実際にやり遂げて来るのだ。
毎度見ていられないほど消耗し、生傷を付けて帰ってくるが、自分の前では少しも辛そうな素振りを見せない。
……もちろん鈍い雪菜でも、少年の好意には気付いている。
彼が命をすり減らして得た貢献ポイントを、こっそり基地の補給に使っている事も、雪菜はずっと前から気付いていた。
あの日、避難所で飢え死にしかけていた幼い彼を見つけた時から、雪菜は彼の事を誰より理解してきたつもりだ。
本来であれば、彼に逃げろと言うべきだろうか? 彼に嫌われ憎まれてでも、辛辣な言葉を浴びせ、追い払おうとするべきだろうか?
でもそれは、この基地を守っている最大の功労者を失う事であり、避難している大勢の人を見捨てる事に繋がるのだ。
「……っ!」
一際強い痛みが走り、雪菜は思わず左手を押さえた。
かつてパイロットだった事を示す、左手の甲の細胞片……つまり逆鱗は、赤い宝石のように輝きながら明滅している。あのディアヌスの攻撃を受けた際、逆鱗はその性質を変化させ、雪菜の命を蝕み始めた。
体内各部に転移したその細胞は、外科手術では取り除けないほど臓器に絡みついている。少しずつ、けれど確実に増えながら、主の命を吸い取っていくのだ。
雪菜は無言で左手を握り締める。
無邪気に笑うかつての自分を見つめ、傍らに写る髪の長い青年に目を移す。
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