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ⅩⅤ
ⅩⅤ.オルドピスへの道
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村人たちとしては、彼らの村近くにヒマバクのヨグが、見たこともない服装をした女をその背に乗せて連れてきたことは、まったく恐ろしく畏れ多いことでした。ヨグの真意がまるでわからないゆえに、また、あまりに女が堂々とした姿でいてかつ鋭い眼差しを湛えていたので、隣人以上のもてなしで供して迎え入れざるをえなかったのです。一方で少年マズグズは、甲虫に襲われた彼女に「危ない!」と呼び掛けた時こそ、この森で見かけた珍しい恰好の女をよく観察している最中で、彼女が森から逃げ出そうとして山際に駆けていった姿も見ています。ところが、そこにヨグが現れ、彼女をその背中に乗せていく光景を見て、彼はまったく混乱してしまいました。どうすればいいか分からず、しかし当初探していたヨグから目を離すこともできず、その後を追うしかありませんでした。ヨグが、彼女を降ろして行ってしまった時、彼はどちらを追うべきか迷いましたが、その迷いが、彼女のあとを下手くそな追跡音を立てながらついてくることになったのです。彼は自然にイアリオのあとを追いました。ヨグこそまた探せば見つかったでしょうし、女性は、さっきは本当に危ない目に遭っていたのです。
ところで、イアリオが向かわなければいけないオルドピスという国は、森の人々にとって現在最上の懸念でした。それで、この懸案についてこの女性が、もしかしたら新しい何かの変革をもたしてくれるかもしれないなどと彼らは感じました。まして彼女はヨグに連れて来られたのです。彼らはかの国に何用かと彼女に問えませんでした。神やその代理と思われる相手に、きちんとした手順を踏まえた言葉なくして尋ねることは彼らにとって禁忌だったのです。森の人々は、自分たちを神意の受け皿として考えています。彼らは森と共に生きていました。ですから、彼らの総意は森の総意であるべきだと、考えられていました。
彼らは無言のうちに己の定められた運命を知覚する能力に優れていました。彼らにとって、発達した人間のわざは、恐ろしいものでした。敵は身近に作られるのであり、人間の生み出す炎は、すべてを燃やし尽くして跡形もなくす魔の力に溢れていたのです。森の民の生き方は自然主義と言えるものでした。人間が自然と共生する方法を、試行錯誤しながら見つけていく生き方ではそれはありませんでした。むしろ、完全に自然そのものに自らを委ねようとするものだからです。それでも森の中で住居を構えて暮らす以上、何らかの形で彼ら自身が森に影響を及ぼしながら生きているはずなのですが、森に向かってこうべを垂れて暮らす姿勢なのでした。
森の人々は、彼らの生き方に純粋でした。こうした生活に魅了されて、様々な社会から逸脱して森の中に分け入る人間が、この何千年もの長い間にも少なからずい続けました。あのオルドピスにいた若者もそうでした。しかし逆に、この生活から出て行く者もいました。それはひょっとしたらイアリオのように、その生き方の中にどうしようもないものを見出して堪えられなくなった者たちだったかもしれません。困難に至った時彼らが行えるすべは祈りでした。それが一向に効果ないと感じた者たちは、多分出て行くしかないのでしょう。祈りは生活を確かにします。でも、それだけではないのですから。
これが確信ある道だとして、揺らがず歩いている人間はどれくらいいるものでしょうか。彼女の場合は決してそうではありませんでした。揺らぎやすく、肝を潰しやすく、きちんと自分の意志を確かめたとしても、意識はそれに追従しませんでした。どうして自分はこの道を選んだのか?ということを、ことあるごとに、見直していました。その全体像は、果たしていかなるものになるのか、歩まなければわからないところに、イアリオはいました。町から出て行くということは、そうなるということでした。
けれど、出て行く瞬間は、はっきりとしていたはずです。その理由が!それがただちに、疑問の渦中に投げ込まれたとすれば、それは多分、道の途中にいるからでしょう。始まりと中間と、終わりとでは、自分自身は違ったものに見えるのです。
まだまだ始まりに近い中間で、彼女は道に惑った気がしました。出会ったものが、皆知らないものばかりだったり、他民族だったりしたからでした。オルドピスへ行く。その理由は、彼女の町でこれから何が起きるかを確かめるためです。彼女はかの国の知恵を頼りにしたのです。ですが、皮肉にも、あの町に起きるべきことは、その町の生まれである、彼女に起きるべきこと、でもあるのです。彼女の事情は、その町の事情でもあるのです。つまり、彼女の惑いは…あらゆる所を伝播して、彼女まで届いているところの、困惑だったのです。
あの町で今起きていることは、この冒険の三年の月日が経ってから、ここに記すことになります。まるで彼女は、その今起きている町の出来事を、その身に体現してたった今感じているのです。崩壊へと向かう町は…無意識に、その過程を受け入れていきます。人々は、互いに争うようにしてその変化をものにしていきます。彼女もまたこうした世事に全身を妥協していくのです。ですから、彼女の変化を追えば、きっと町での出来事も理解できるでしょう。それは、知るための過酷な旅でした。しかし、彼女が誰か産むとすれば、こうした過程は踏んでしかるべきものでした。
マズグズとともに、彼女は色彩に溢れた森林をまた歩みました。昨日はその圧倒的な景色に目の方が驚きすぎていたかもしれません。聞いたことのない音が聞こえています。それは鳥と、森とが、きいきいと軋んで互いに意見を交換し合っているかのようです。中でも目立ってぺちゃくちゃとおしゃべりをしているのはルリコウチョウと呼ばれる鳥で、この動物もまた神獣の子供とされていました。青い翼に金色の尾を垂れ下げています。綺麗で美しく、天敵はいません。しかし、この神の鳥も不慮の事故で命を落とすことがあります。バクの場合は蟻に食べられますが、ルリコウチョウは花に食べられるのです。この森の花は、イアリオも遭遇したように危険で、肉食のものが多数います。聖鳥を食べる花とは、無数の花弁を携えた植物で、真っ赤に燃える唇を思わせ、ちょうど紫陽花をお椀型に返したような形をしていました。オルドピスの書物に勿論この花も載っています。名は、テイシコウ、つまり、紅の歯が獲物を掴むと、丁になるという意味です。(瑠璃煌鳥、丁歯紅は、オルドピスで分類されている名前でした。森の人々は、それぞれを「マク・ハ・ル」、「ラルバ」と発音していました。ヒマバクにも「ジスパ」という元来の呼び方がありましたが、その名前は儀式用語となりつつあり、森の民も普通は前者の呼び名を用いていました。)テイシコウのお椀に開いた花弁は獲物を取り込むとひしゃげて頭が平らになります。そこに、滅多にはないことですが金色の尾がぴょこんと伸びていることがありました。花弁を開くと、そこに青い鳥が見つかるのです。テイシコウは人間にとって身近な花で、薬をつくるのに重宝しました。人に害はなく、その花弁の形で虫や鳥を誘い込む花でした。そのごく一般的な花に、聖鳥であるルリコウチョウが食べられたとすれば、彼らにとってたいそうな意味がこの現象には存すると感じられました。聖なるほど美しいその鳥は、身重になると地面に穴を空けてそこに産卵の用意をしましたが、それはその美のために人のように大量の業を背負っているから、枝の上などには巣を作れないのだと森の民から見做されていたのです。その鳥は不幸な鳥で、その美と引き換えるかのように、死に様は腐食しとても醜くなるまで地面の上に晒されました。彼らの死が、もし花の中にあれば、土の上の死以上の、必然に襲われたように、森を信仰する民からは捉えられたのです。彼らの美しさは、喰らわれる運命の美しさだという風に。
美しかったものが醜い姿を晒すようになることもいかにも自然でしたが、喰らわれれば、その業の巡りがもっと必然の運命をもたらしたのだと受け取ったのです。このように森の住民にとって、森に起こる不可思議に見える現象は、神の御業だと捉えるにふさわしい感覚を様々に刺激しました。ですが、そのルリコウチョウの死がテイシコウの養分となり彼らの病を癒す薬にもなることまでは、彼らのその感覚に及んでいませんでした。またイアリオの耳には、ジャングルに響く命の音は、躍動感に満ち溢れるも忌々しく聞こえました。彼女は決してこの森が嫌いではありません。ただ、死滅したふるさとのしんとした静寂を聞き慣れた耳には、その無音に等しく、森の音は捉えられたのです。どちらも異様で真実で、どちらも命を奏でているのでした。
この場所に、オグはなくともヨグはいました。
イアリオは森の人々の村から出て行く際、村人たちから三つの贈り物を貰いました。一つは小石のペンダントで、丁寧に空けられた水色の石の穴に、カラフルな紐が通っていました。いま一つは木の束で、不思議な香りを放つものですが、これは虫除けになるようでした。最後の一つは、テイシコウから採れる薬でした。若芽の根元を乾燥したもので、煎じると鮮やかな赤色に変化します。よく水に溶かして使用すると、肌の荒れを防ぎ、飲めば病気の予後を楽にします。鼻の頭に乗せて眠ると、ぐっすりと眠れるそうです。気付けにもなり、普通に食べ物に混ぜて食しても健康にいいと言われました。この花が食す美鳥を含んだ動物たちのエキスは体の根元の方に働き掛けるようです。決して特定の病を治すものではなく、体の調子を整える効用があるのです。
それこそ、人間の体の美の部分でもありました。そこは、自ら、自分を治す力に満ちているのです。
イアリオは、テイシコウの薬を鼻で嗅ぎました。すると、腐臭がありました。やや匂うほどで、そんなに強烈ではありませんが、何か腐ったものであれば、それこそ、薬効があったりするものです。特に、体に食するものにおいては。
イアリオとマズグズは、森の東を指して歩いていきました。そのうち彼女たちの背丈ほどもない低木ばかりが茂るようになっていき、それ以外の樹はずんぐりとしたまっすぐな幹の、広々と網の目の枝を天に上げた巨木が、二十尋ごとに植わる景色に変わっていきました。二人は低木の隙間を縫って行きました。次第に森は乾いた土を見せてきて、木肌も乾燥した硬い皮膚をのぞかせてきました。その葉はまばらになり出し、草があちこちに群生し始めました。巨木の木の実は勾玉状の珍しい形で、しかも季節はまだ夏にもかかわらず手の平ほどに大きく膨れていました。少し背を屈めただけで聞こえていたきんきんとした音は、鳴りを潜め、一方、乾いた風がさああと木のかしらを撫でていきました。やや騒々しかった鳥たちはちゅんちゅんとおとなしくなり、雛鳥は可愛らしくぴいぴいと餌をねだっていました。溢れんばかりだった生命は、どこか落ち着き、ようやく世界と調和してきました。
かんかんかんと、金属を叩く乾いた音が行く手からしました。マズグズが立ち止まり、嫌悪感いっぱいのしかめっ面をしました。この先に誰かがいるのでしょうが、もしかしたらと、イアリオは見当を付けましたが、黙っていました。少年は、彼女に指図しました。
「そこに、オルドピスの連中がいるよ。あなたはそこに用があったんだっけ?僕は止めないけれど、森は、あなたを出してあげるから、そこまではついていくつもりだから」
マズグズはまだ少年ゆえの言葉を使いました。義務と希望は相反するものだと発言に表れてしまえば、判断に窮するのは相手の方です。それとも、こうした言葉遣いしかできなかったのでしょうか。
「そう言われてしまうと困るわ!マズグズ、本当はどうしてほしいの?」
「あなたにはやっぱり森にいてほしい。ヨグが連れてきたからってだけじゃないよ!何か、気に入るものが、あなたにはあるから」
「そう。それが本心なんだね。えっと…じゃ、やっぱりオルドピスの人たちに会うわ」
「なぜ?」
「私は私だと、認めるならば、ヨグに連れてきてもらったかどうかじゃなくて、ルイーズ=イアリオだとするならば、それが普通よ。マズグズ、あなたに好かれて私は嬉しい。だけど、人間が判断する森の総意は、果たして本当に森の思いなのか、判らないところに、真実があるように思うの。結果がすべてを表すわ、きっと。だったら、猪のようでも、まっすぐに進まなきゃならないと、私は思う」
もしかしたら、彼女の余計な感覚がそう言わせたかもしれません。少年にどれだけ伝わったでしょうか。しかも、彼女とは異なる伝統に住む人間に対して。しかし彼女は言葉にしなければなりませんでした。ハリトやレーゼに対しても、そうだったように、自分の臨むチャレンジを、人に伝えながらでなければ行けませんでした。
マズグズはじっと彼女の瞳の中を見ました。そのようにしなければ、受け入れられませんでした。神獣の息子の連れて来た人間を、どのように把握するかではなくて、今そばにいる人間が、何を思っているかを感じながら。彼は、途方もない分岐点にいるような気がしましたが、どこか守られている気分もありました。少年は、自分の心に著しい変化を覚えました。こんなに短期間で、彼がイアリオから影響を与えられたことは驚きですが、彼にも変化を呼び込む相応の感性があったのと、オルドピスが、積極的に森に働き掛けをしている時代の背景も総合して働いたのでしょう。彼は、ヨグを探して次の世話するヒマバクを連れて来るように村から使命を受けていました。彼こそヨグと接触するにふさわしいと選ばれる理由があったのです。ですから彼が連れて来た若い女性は、特別の待遇をもって迎え入れられたのですし、入り口と出口同じくして、彼が、イアリオを連れて出て行ったのです。彼の感性は、村の最前線の感性と言えました。森に棲んでいれば、その感覚は、複雑な人間社会にいるものよりも純粋で柔軟なのかもしれません。
村は、変化の途上にいたのです。絶対に変わらないと思う伝統は、しかしいつのまにか変わっているものです。そこにいる人々が、受け入れる体勢であるならば。
「あ、あいつら!」
マズグズはその耳でわずかな音を聞き分けました。彼は、イアリオの手を引き、まっすぐ音へと向かいました。ざわざわと低木を掻き分ける音がしたので、森の一角にテントを張り駐留していたオルドピスの人間らは、一様にざわめき、急な敵の出現に備え出しました。弓を持った戦士がキャンプの中央で構え、他の人々は、手に手に松明となたなどを持って、応戦する体勢を取りました。イアリオは唖然として彼らの前に姿を現しました。マズグズが、興奮して鼻息荒くしていました。火は、土の表にぱちぱちと爆ぜていたのです。
「こいつら、火を土の中から出しやがった!」
彼の非難に、人々はただちに炎を消す作業をしました。しかし、なお彼は人々に食ってかかりそうな姿勢のまま、ぎらぎらと両目を燃え立たせていました。
「弓を、下ろして下さい」
イアリオは言いました。
「火がなければパンはできない。でも、何よりもそれが、この場所では破壊の予兆ともなるのです。この子の前でそれを消したことは認められますが、およそやはり森林に対する正しい態度とは言い兼ねますね?」
「あなたは?」
兵士が声を掛けてきました。
「私はオルドピスに用事があって来ました。私の故郷ははるか西、クロウルダという民族に会う必要があるのですが、ご存知ですか?」
鎧をまとっていない、おそらく研究者と思われる、頭髪の薄い痩せぎすの男たちがざわめきました。イアリオが彼らに自分が山脈の向こうから来たことを隠したのは、町からオルドピスに、町人について山脈から外へ出て行った者がいればそれを保護し、町に戻してもらうよう頼んでいる可能性があったからでした。オルドピス人すべてが彼女の町を知っているわけもないでしょうから、それほど高い可能性とも思われませんでしたが。ですがいまだその地下に隠されている黄金は町の人間に特有の十字架であり、町はおろか、オルドピスとしても、その情報の流出は好まないことが予想できました。
イアリオはオルドピス領に臨むにあたり、クロウルダさえ見つかればいいように思っていました。彼女が知りたいことは、これから町に降りかかる災難の正体です。どうしようもない焦燥の幻霧を払った姿です。ですが、そのクロウルダという単語に対して、研究者たちはざわめいたようでした。
「まるで、森の神意を体現したようなものの言い方をされますが、見るからにあなたは森の人間ではない。敬意を表します。しかし、なぜにかの民族に用事があるのでしょうか?」
キャンプの中央で弓を番えた戦士が、厚手の布に巻かれた、弓を掲げた小手を下ろしながら、尋ねました。
「お話はできませんが、重要な使命を帯びています。かの民族をご存知なのですね?どこに行けば彼らに会えるか、教えていただけないでしょうか?」
オルドピスの人々は、彼女に恐れを感じました。彼らは彼らの領土から西に伸びるこの森を、「湧森」と名付けて距離を取っていました。森にはイアリオも訪ねたような泉が突然現れることがあり、また突如草原だったところにその一部が張り出すこともあったからでした。彼らはこの森を積極的に調べていましたが、それでもまだ判別できないことに遭遇することが多く、その度に依然として森そのものに畏怖を覚えました。そんな森の中から、その女性はまったく唐突に彼らの目の前に現れました。一介の女性がこの場に現れたなどとは毛頭考えられず、重要な使命を帯びているというその言葉通りに、その身は迫力を纏って見え、一同を仰け反らせたのです。しかし最初こそ彼女を怖れたのは森の民でしたが、その時の彼女の姿勢もあまりに堂々としていました。イアリオの両目は聡明で、曇り一つなく、眉はきりっとして決して揺るがない心を示していました。視線はまっすぐに彼らを見ていて、相手と自分との距離をまるで零にするようでした。彼女と、彼女に見つめられた人間と、その両者の存在をこの場に確定でもするかのように。しかし、それは彼女に元々具わっていた性質でした。故郷ではその能力は教師として発揮されていて、またハリトやレーゼも、こうした魅力に魅かれていたのです。
オルドピスの研究者たちは黒く日に焼けた腕と脚とを剥き出していました。穿き物は短く、上半身にはイアリオの町の人々が身に付けているセジルという長方形の上着を、そのまま肌の上に着せていました。兵士たちは袖のある服を着ていて、穿き物も膝まで長く、その上に鉄製の胸当て、小手、脛当てを嵌めて、腰に気付け薬や笛などを入れた軽い袋を提げていました。全部で十人ほどがそこにいましたが、群がる人々の後ろから、青みがかった銀色の装備に身を包んだ、たくましい体をしたいかにも地位のある風体の戦士が、彼女の前に進み出ました。
「失礼をば、お許し下さい」
その額は窮屈な鉢金に縛られていて、こめかみに筋が入っています。太い首をひくひくとさせながら、兵士長は頭を下げました。
「もしかしたら、とお尋ねしますが、あなたは、山向こうのトラエルの町の人間ではありませんか?そちらからの使者は、丁重にもてなすようにと私の上役から言いつかっています」
トラエルの町とは、彼女の町では自称しない、オルドピスがその町を呼ぶ呼び方でした。イアリオはいいえ違いますと思わず答えそうになり、思い直しました。彼女は、彼女の町からは絶対にオルドピスなどへ何か連絡を寄越すことはないはずだと考えていました。いくら危急の存亡の時を迎えても、またかの国から物理的なかつ技術的な援助をしてもらっているとしても、黄金の都を守るためには自分たちの力だけを頼みにするように、町の人間には常々覚悟が求められてきたのです。町の運命は町の人間が自らで決めるのです。使者…?そんなものが、かの国に行くことになっていたのでしょうか?そういう約束を、彼女の町は彼らと交わしていたのでしょうか?
だったら…と、彼女は考えました。私の言葉も通じやすくなるかもしれない。考えていたよりもずっと早く、クロウルダにも会えるかも知れないじゃないか!私は決して使者じゃないけれど、途中までならそのふりをして行くことも、こちらのためになるかもしれない。彼女の中で打算が働きました。彼らの言う使者が、ひょっとしたら山脈の外側に出てしまった町人を保護するための方便かもしれないなどとは思い当たらず、深く考えず、またイアリオは行き当たりばったりの計画をぶち立てたのです。
「それは本当にありがたい話です。よろしくお願いします」
彼女は嘘をつきました。必要な嘘というのもあるものだと思ったのですが、それは危うい選択でした。しかしこうして、彼女は一路目的地まで行く手段を獲得したのでした。イアリオは隣を振り向きました。マズグズは、依然怒りに燃えた瞳で、彼らを睨みつけていました。
「本当に行っちゃうの?僕たちの村で、一緒に暮らさない?」
マズグズはそう小さく言いました。彼女は困った顔をしました。
「こんなに気に入ってくれたのはすごく嬉しいけれど、どうしてそんなに私を引き留めるの?」
「あいつらと一緒に行けば、イアリオは森の声が聞こえなくなっちゃうからだよ?森との関係が、変わっちゃうから。僕たちは二度と出会えないかもしれないから」
「どうしてそんな…」
そう言いかけて、彼女ははっとしました。パズルが組み立てられるように、色々なことが有機的に結び付いたのです。森は、彼女にヒマバクのヨグを寄越したとするなら、彼女の命運は一見森に握られているかのようでした。ですが、そうではありません。事態は、彼女に選択肢を与えたのです。実際には一つしかなかったはずの選択が、増えて、彼女に少しだけ自由意志の機会が訪れました。人は、生きる時、圧倒的な自由に参ることよりも、数少ない選択肢のどれを選ぶかで迷うことがほとんどでしょう。本当は目に見えている物事など限定されています。でも、無限の可能性の中から実際に選んでいることは間違いありません。イアリオは、ヨグに連れられて、自分を取り戻して、なおかつ少しばかりの選択肢を得たことで、心理的な余裕ができました。焦燥は彼女を町から連れて行く重要な要素でしたが、もう、今は客観的にも応対できる、ようやく向き合える課題になりました。焦りにまだ突かれつつも、同化はしていないのでした。森との関係は変わっていいものでした。ヨグの導きは彼女を救いましたが、彼女の道程を制御する働きは微塵もしていないのです。
「マズグズ、」
イアリオは彼に言いました。
「私、森に入って、ほんの数日しか知らないわ。あなたがヨグといるところを見つけて、村に連れて来てくれて、そして今、ここにいるけれど、森の声はあなたたちより私は聞こえていなかった。ヨグと出会ったのは偶然なの。それこそ、あなたはきっと森の導きとして、考えているけどね。私は森の一部でも何でもない。私は私、ルイーズ=イアリオだ。きっとまた会えるわ!心配しないでもいいんだよ」
「でも…」
「そんなに私が連中と行ってしまうことが嫌い?」
彼は頷きました。
「では、私が信念を押し曲げてしまって、森に棲むことがどれだけ良いことだろうか?」
彼は頷きませんでした。きっと彼女を睨み、それでいて神妙ななりでした。
イアリオは、彼を連れてオルドピス人のキャンプから少し離れた森の中に入りました。
「いい?これはまだ誰にも話しちゃ駄目だけど、実は私のふるさとに、とてつもない怪物がいるの。もうすぐそいつは暴れ出そうとしているわ。私は、その原因を突き止めなければならない。そのために調べに行くのよ、彼らの国へね。何も、私が彼らの国で過ごしたいから行くのではないわ。でもね、マズグズ、私はきっと町に帰る。この山向こうの、閉ざされた場所へ」
マズグズが目を見開きました。
「あの神の山を、越えてきたの!」
「ええ。やっぱり、こちらではあの山脈はそう呼ばれているんだね」
「神様が降りてくるんだ。あの山に、白い光を纏って!」
彼は興奮して頬を赤らめました。
「すごいや!」
イアリオは、すまないような顔をしました。彼女は、ハルロスの日記を通じてこちら側の人々が、山をどのように見ているかを知っていました。彼女はそれを乗り越えてきたのですが、一介の人間が、彼らの神聖視する山岳を制覇しても、とどまるところ、何も得るものはないと思いました。マズグズはいよいよ彼女を尊敬の視線で眺めましたが、そんな価値は自分にはないのにと彼女は思いました。
「伝説では、あの山の向こうにいる人たちは、皆敬虔な神の徒なんだって。勿論、神様のお膝元に居るから!」
「そうね。そうだわ。あそこにいる人たちは、皆信心深い人々よ。だから…」
彼女は、また嘘をつきました。
「神様の神意は、私たちに、こう教えているの。急がなくては。オルドピスへ行き、適切な判断を下せるように、調べ尽くしなさい。怪物が、暴れようとしているから。これはエアロス、暴風が吹く。来たるべきイピリスを迎えるために、準備をしなさいって」
イアリオは、マズグズの表情がみるみる変わっていくのを見ました。彼は、さっと顔を青くし、とても恐ろしいことを聞いたような、怯えた様子を示しました。
「エ、エ…」
彼女は彼の心理を推して「言わなくていいわ」と言いました。彼女ほどその名前の力を今感じている人間はいませんでしたが、きっと、マズグズたちにもエアロスの伝説は伝わっていたのでしょう。しかしその伝説は広く世界に広まっているとは彼女も聞いていましたが、こんな風に強い反応が返ってくるとは思いもしませんでした。
「本当?」
「ええ」
「じゃあ、イアリオは…」
「神様のお膝元で繰り出されることだもの、決して理解できない破滅じゃないけれど、私たちに、猶予を与えてくれたということは、その破滅を止められるということではなくて、すべて、準備しろということなの」
「ヨグはそれを占うんだ。ヒマバクが蟻たちに食われると、破壊と再生が同時に起きるって。神様も意図しないことが。でも、去年は食べられなかった」
「まだその時は来ないわ。でも、近い将来、きっと訪れるの」
「イアリオは…」
「大事な使命を帯びているの」
少年はわかったと言いました。少年は大人びた表情をしました。すっと頬骨が立ち、首筋がするりと引き締まりました。
「我々は大事な客人を迎えたということが、これでわかった。敬意を表します。我々は森と共に生きる。でも、あなたの心は、遥か高い天井を臨んでいる。いつまでもよき隣人でありたい!だから、僕はあなたを送ります」
イアリオは、背筋をぴんと張って、この申し入れを受けました。
「旅の道中、あなたたちの村に入れて良かったわ。そしてヨグにも、感謝してあまりある感謝を。マズグズ、また会いましょうね?神様は、きっと、その邂逅を用意してくれると思うから」
マズグズは、力強く頷きました。
彼の怒りはほとぼりが冷めました。なぜなら、オルドピスこそ、小事となったからです。連中が火を土から出したのも、彼は忘れてしまいました。忘れてもいいことだったのです。火は、彼らの生活する森にとって危険極まるものでしたが、実際、彼らの森は縮小しつつありました。火や伐採による縮小ではなく、自然現象としての進行でした。いつか森から暮らしの場を移す未来が我らの行く手にあることを、とは、来るべきその日を予感した森人の遠い祖先が残した言葉でした。それでも彼らは森のあった一帯から住処を移すことは考えていませんが、徐々に乾燥しつつある森林の周囲の環境は、否が応にも段々と覚悟が求められていました。彼らは森を、神意の表れとしています。でも、その森自体の破壊を誰が起こしているかといえば、やはりそれも神でした。彼らを指して、自然主義だと言いました。彼らは別に森に棲んでいるからそうなのではありません。それは彼らの意志で、生き方に他なりません。
火は彼らを亡ぼす可能性があります。けれど、真に彼らがいなくなることではなかったのです。火は一面的な怒りを煽ります。ですが、消え去るものでもあるのです。火の始末に気をつけろ、ということではありません。火の扱いは、その人間の思想を表していたのです。揺らめく炎は、イアリオの言った通り、パンを焼く手段にもなるのです。土の表で、そこでなければ焼けない、実験というパンを。オルドピスの炎はさっきまで、採取した木の実と石灰とを混ぜ合わせて、新しい薬作りに挑戦していました。ルリコウチョウは餌食となり、その栄養素は若芽の薬になりました。薬は、人間の体の機能を元に戻します。それを手に入れるための交換条件は、時代時代によっても違うのです。それが当たり前で、理解し得ないことではありません。
オルドピスの森の民に対する態度は、柔軟なものでした。彼らの支配など目的ではないのです。ただ硬化していたのは向こうの人々でした。森の民は、新しい知識など欲していなかったからです。火は、土の中から出してはいけませんでした。まるで、それはイアリオの故郷が、黄金とそれにまつわる人の欲望を、からきし地面の下から出さなかった様に。
土の上に、炎を出したことは忘れてしまってもいいのでした。
マズグズは、許すなどという観念があったわけではなくて、案の定、空に飛び散る雲のように、ただ忘れただけなのでした。水に流したのではなく、雲にして。それはいいことでした。彼は委ねていたのです。身を、その目の当たりにする変化に。
「僕たちは、どんなことが起きても、イアリオやイアリオのふるさとの無事を願ってる。きっと、ヒマバクのヨグも、そんなはずさ!」
彼女はマズグズに笑いかけて、オルドピス人のキャンプに戻りました。
鈍色黒く、雲が空に横たわりました。マズグズは彼女の出立を見送る前に、もう森へ戻っていました。兵士長は、キャンプから彼女を近くの兵の駐屯地へ迎えると言いました。
「少なくともここよりは休める場所です。そこから、馬であなたをコパ・デ・コパまで送り届けようと思います」
「コパ・デ・コパ?」
「ええ。大陸のほぼ中央にある、交易都市です」
「ところで、あなたは…私の町を、トラエル?とか言いましたが、そのように呼ばれていたのですか」
「ああ、あなたはふるさとを、名を付けていらっしゃらなかったのですか?」
イアリオは沈黙しました。兵隊たちは三人付き、彼女の前後を囲みながらいよいよ木もまばらになった森の中をずんずん歩いていきました。その歩みは、彼女に歩調を合わせた調子ではなく、むしろ、何かに追い立てられるようにせわしい歩みでした。しかしイアリオは苦にしませんでした。森の中は、もう彼女の方が歩き慣れている感じで、男共の勝手知ったる道の歩き方よりも、いささか速いくらいなのでした。勿論、男性に後れを取らない運動神経の彼女ですから、驚くことではありません。誰が一人であの険しい山脈の道無き道を乗り越えて行こうとするものでしょうか。男性たちは彼女に遠慮しながら、足取りを進めて行くことも十分考えましたが、決して追い立てられるようにせわしくない彼女の歩みの方がずっと速いので、彼らが追い立てられたのでした。
森を出てすぐの所に、彼らの建てた二十棟ほどの平屋根の木板の小屋が並んでいるのが見えました。そこを取り囲む胸の高さまである壁は、野ざらし石が上手に綺麗に積み上げられていて、清潔感がありました。厩舎とトイレとが小屋とは別に併設されていて、食堂は幔幕が張られていました。その晩はここに宿泊しました。イアリオは兵士たちの振舞いでしし肉と魚と、香菜のスープをいただきました。ぶつ切り肉と、厚手の葉肉のスープは、歯ごたえがありました。おいしかったのですが、男手の料理らしく、味わうより腹を満たす食事でした。イアリオは十分に腹を満たし、ついたてで仕切られた間取りの寝室に案内されて、そこで眠りました。朝起きると、兵士たちが互いに呼び合い、野戦の訓練をしていました。彼らの声で、イアリオは目を覚ましたのです。彼らの武器は、主に槍と剣と弓でしたが、途方もなく大きな鉄鉈を数人で持ち、回転しながら敵にアタックしていくような珍しい攻撃も練習していました。軍馬がいななき、前脚を蹴り上げて、ジャンプする訓練もしていました。「そらっそらっ!」その乗り手と馬の呼吸はいまいち合っていないようで、苦しげに大量の息を吐き出す黒毛の馬が、何かを訴える目を彼女に向けました。彼女はその目の意図を汲み取りました。
(うまくいかないのだよ、か。どっちがうまくいかないのかしら。馬の方?人間の方?それとも今の時間が原因かな?)
ヒヒーンと一声高くいなないて、黒馬は乗り手と共に、野原を一直線に突っ切りました。どうやら、人間も軍馬もこのままじゃ埒が明かないとみるや、思いっ切り原っぱを駆け巡って、鬱憤を晴らそうとしたようでした。ですが、帰ってくると、なぜか彼らは喧嘩をしました。乗り手はまだ若く、十八歳ぐらいに見えました。
「速過ぎるんだよ、お前は。危うく振り落とされるところだったじゃないか!」
(だったら別の馬にでも乗ればいいんだよ。俺はここにいる馬の中じゃ一番速いんだ。選んだのはお前なんだから、もちっと俺の速さに慣れてくれよ)
イアリオはその馬の気持ちからしたらこんな感じだろうと見えました。彼女は、兵士から馬で次の町まで送り届けられると聞いていましたが、自分が馬に乗って行くつもりでしたから、厩舎に入り、どの馬が自分に割り当てられるのだろうと見ているところでした。そこに、彼らが入ってきて、黒毛の馬と再びばったり目を合わせたのです。
彼女の申し出に、兵士たちはびっくりしました。
「まさかお乗りになられるとは。では私たちがあなたを前に抱えてなくとも大丈夫ですね?」
「その方が危ないでしょう?違いますか?」
彼女に乗る馬を選ばせてくれるということで、イアリオはあの黒毛馬を選択しました。彼が走っているところを見たから大丈夫だと言って彼女は周りを説き伏せました。
「なんとなく、お前の心はわかる気がするわ。だから、大丈夫ね」
嬉しそうに鳴いたのは引き締まった馬体のその黒馬でした。
森の周囲は乾燥したサバンナでした。延々と続く原っぱはどこまでも茶色で、大声を出せば地平線まで届きそうでした。しかし、残念なのは昨日から変わらない天気でした。どんよりと曇って、大空の真下を気持ち良く駆け抜けることは願えませんでした。ですが、早馬に乗った感触は飛ぶように地面を駆けて、こんなに速いものに乗ったことがないイアリオは、思わず歓声を上げてしまうくらいに喜びました。追いつこうと、他の兵士たちは大変です。彼らは鎧を着ていますから、その分ハンデがありました。バハッバハッと息を吐く彼らの馬たちは、羨ましげに前方の黒毛馬を眺めました。イアリオは速度を落として、彼らを待ちました。一人で行っては、彼らの町まで到着できません。待つことは正しいのです。彼女は自分のやるべきことをしっかりと認識していました。もしかしたら、今はまったく自由の子女であったかもしれません。あの町の秘密を明かさなければ、彼女はどんな人間にもなれたでしょう。兵士たちを引き離して、誰も知らない、でもこれから、生活を形作っていけるような、見知らぬ土地へ行ってしまっても、良かったかもしれません。故郷は遠くへ遠ざけられました。イアリオは首を振りました。彼女は彼女でした。どこかの物語のように、生活の自由を手にした淑女の理由などいりません。ふるさとの境界を越えた奔放な魂はあっけに取られるくらいな想像と空想を可能にしましたが、でも、待つべきものがあそこにはありました。
何が待っているのでしょうか。そこに突き進むための、色々な準備を彼女はまだまだ始めたばかりでした。暗い曇り空は前途を示しましたが、途方もない広さの大地は彼女にできる限りのことを期待しました。自由は、実は束縛されているものです。無限が、待ち望んでいるのではなく、選択が、前に横たわっているのです。途方もなく厳しい選択が。
彼女の手は血塗られていません。でも、そうした過去があった事実を、彼女なりに、選んでいくのです。記憶は選択されて出現します。動かし難い過去と感じるのは、選択がなせる技です。それを無視することだってできるのですから。あの町に住んでいる人々ですら、様々に昔を感じながら生きています。シャム爺のように、思い悩む人もいれば、足を怪我したロムンカ=ヤーガットのように、闊達に生活する人間もいます。過去や現在はすべての人間にとって等価でしょうか。いいえそうではありません。価値は、その人自身が決めます。どのように、どんな風に、世界を見ているか?という問いに、受け入れるしか、答えはなさそうです。
いずれ、川が見えてきました。雲間に光が射しました。イアリオの黒馬は、一声いななき、彼女に、前方奥に建物の集合が見えてきたことを知らせました。
「あそこがコパ・デ・コパです」
銀色の胸当ての兵士長が言いました。雲間から抜け出した光は、やや翳って、赤色を帯びていました。もうすぐ夕暮れが訪れる頃でした。
コパ・デ・コパは、「真ん中の真ん中」という意味の言葉です。文字通り、大陸のほぼ真ん中にあって、交通の要衝地であり、オルドピスが彼らの領土の北側に向かって軍を送るべく大きな駐屯地がありました。町の西側は、川沿いの肥沃な土地にのぞむ畑がびっしりと続いており、旅人を迎える街道は、その両側に肘丈ほどの石が並べられてあり、田畑の上を縫っていました。他にもいくつか道が舗装されて、軍隊が通るべき軍用道路も方々に走っていました。イアリオたちは川のそばを走りました。川は大きくうねって、豊かな水を湛えており、しんしんと東に向かって流れていました。木立が散らばって、鳥が一本の木にたくさん居座っていました。空気は乾燥しているものの、水の匂いが混じり始め、土も、耕されている分湿っており、ここがどれだけ人間の住むのに適した場所かを表しています。イアリオはまるで故郷に帰ってきたかのような印象でした。彼女の大地と同じ匂いがしたのです。彼女のトラエルの町の北側に伸びる、農地も水の多い豊穣な土を持っていたのです。
近づいてくる城壁は町の西の門でした。ここは堅牢な砦でもあるので、農家の藁葺きの質素な家々の向こうに、彼らを守る、無骨な建造物が姿を現しました。町は、北側を小高い丘に守られていましたが、その丘は、川に面した南側をくり抜くように大きく削られており、ほとんど絶壁となっていて、西向きに張り出した城壁の続きとなっていました。道の周りの畑は、熟れた瓜が顔を見せ、農家の家々から漂ってくる香ばしい匂いが、あちこちから鼻腔を突付きました。料理上手な主婦たちが、家から遠い場所まで届くようにお腹を空かせる効果覿面の香りを寄越して、いつまでも遊んでいる子供たちを呼んでいたのです。暮れなずむ田畑にあって、何ともほっとする空気が流れていました。
川は、城門の下を直接通っていました。城壁は煉瓦を積み上げ、二階建ての建物ほどの高さにして厚みがあり、ぐるっと中町の西と南と東を取り囲んでいました。その上にさらに櫓が乗っていて、近づくと錚々たる佇まいに見えました。互い違いに配置された褐色の煉瓦は美しく、西日に当たってきらきらと光りました。それはまるで黄金色に輝いて西から来たる者を出迎えました。イアリオは、馬たちが通るべき小門に案内されて、城壁の中に造られた馬屋にすでに親しくなった黒毛の君を、優しく撫でて、返しました。彼は片目を瞑り、彼女を送り出しました。まるで、今の旅路はきっとうまくいくはずだとでも言っているかのように。馬は、主人の幸運を祈り、颯爽とそのピンチに訪れる、そして主人を安全な場所に連れ出す、また、共に雄々しく戦い勝利をもたらす、などというお話は数限りなくありますが、動物との信頼は、実感すればそのお話も、現実にありうるものだとわかります。彼女と彼は、それほどの強い結びつきをこの短時間で築き上げたわけではありませんが、ともに、友達としての信頼を獲得したようでした。
さて、城壁の内側の川の両側には幅を取った道があり、その周囲にはたくさんの家屋が立ち並んでいました。看板やら色の付いた軒先やらが目立ち、様々な店がずっと続いていました。城門から入って、旅人をまず迎えたのは、こうした、交通の要衝ならではの光景でした。ここは交易都市というだけあって、様々な物産が、軒下に所狭しと並べられているだけでなく、道路にも、地べたに大風呂敷を広げた旅の商人が、威勢のいい声で商売に精を出していました。喧しい声音が飛び交い、彼女は、門から入った瞬間にくらりとしました。威勢のいいのは結構ですが、何しろ初めての外国の町で、これだけ商売っ気に溢れる町並みも見たことがなかったので、人々の、厚かましいほどの呼び込みに、気を抑圧されてしまったのです。彼女は、人々の服装にもそうした雰囲気を感じました。彼女の町では目立たない色の服を着ていましたから、こんなに、色とりどりの衣装を目にしてはくらくらするのも当たり前でした。赤に黄色にブルーまで、およそ衣服に合ってないような強烈な色彩が、人々の胸と腰とに散らばっていました。彼らは森の端で出会ったオルドピスの研究者たちのように、四角くきっぱりと断ち切った袖周りと裾周りの上衣に、丈の短い二股の穿き物を穿いていました。マズグズたち森の民ほどではないにしても、イアリオのふるさとからしたら、襦袢を着ていない分十分に露出のある出で立ちでした。その小さめの衣装に、あまり余白なく原色が溢れていたのです。あの森にも原色は多方に健在でしたが、それを思い出させるような、半ばぞっとするほどの、色合いなのでした。
彼らはまた、靴を履いていました。靴は、わらじに近くて、むき出しの素足に紐を巻きつけていました。それもまた原色に取られて、彼女の町の人々よりも褐色に焼けた肌の脚に、ミスマッチを超えた奇妙なマッチングを見せていました。イアリオは自分の地味目な衣装が目立たなくてほっとしました。ですが、見るからに地元の人間でもなく、商品を求めてはるばる来た感じの旅人でもない彼女を、軒下の人々は一目は見るものの、すぐにぷいと他の方を向いてしまいました。これには彼女はちょっと感心しませんでした。人々は、自分にとって関係ある相手しか、相手にしないとでもいった様子でした。
イアリオは兵士長に連れられて町を歩いていきました。彼の上官が待っているというのです。方々がけたたましいので、彼女は彼に一言も質問ができませんでした。おとなしくついていくと、前方に、商人たちの人だかりができていました。「泥棒だ!泥棒だ!」と、人々は言っています。その中に、人ごみにも紛れずひときわ高く兜の先が剣のように突き出した、甲冑の戦士がいました。イアリオはこの戦士の雰囲気にどきりとしました。彼女を連れてきた兵士長もたくましい体つきでしたが、この戦士はもっと、歴戦の勇士の風格が表れていたのです。
しばらくして、人だかりが解散しました。どうやら事件は収まったようで、容疑者と見られる男は、地面に這いつくばりひたすら許しを請うていました。彼は、この町の人間と思しき服装をしていましたが、顔つきは、この辺りにいない外国人のようでした。目は吊り上がり、頬はこけて、いかにも不摂生な食事をしてきたように見えます。
「見た目で疑われるとは運のないことだが、本当にしてしまったのであれば揺るぎない罪がお前を襲うことになる」
兜に顔をすっぽりと覆われた風格ある戦士が言いました。男は身を竦ませました。
「オルドピスはお前の村を豊かにしたはずだ。開拓は滞りなく進み、皆暮らしは豊かになったと聞いている。もしまだ帰られるつてがあるなら、帰りなさい。不運にも我々の侵略で、借り出されたいくさで傷ついたとしても、これは傲慢かもしれないが、悉く敗戦した国民に知恵という贈り物をしているのだから。ただし、そうでなくば処刑がお前を待っている」
戦士の言葉に男はぎらっとした疑り深い視線を向けました。その眼差しは単に盗賊に堕した不運な元戦士の瞳の色ではないようでした。
「どちらがいいかといえば、」
彼は、かすりつけた声でしゃべりました。
「限りない破壊だった。誇りは生きる目的にすべてを費やすことができた。あんたは確かに二者択一の選択肢を俺に与えてくれた。生きる望みはあるのだ。それには、感謝しなければならないだろうな。だが、だが…!これほどの屈辱があるだろうか?」
「この者を城門の外に連れて行け。もし、また入ることがあればその時は遠慮なく刑に処せよ。この者の人相を各地に伝えろ。再び罪を犯せばただちに重罪に処するように」
一人の兵士が伝令に走りました。もう一人の兵士は、男を連れて、その場を立ち去りました。彼らの上官は指示を済ませると、付近にいた商人や、農作物を売りに来た農家の人間に、今年の売り上げの調子や、作付けの様子などを聞いて回りました。
「売り上げが伸びたのは結構ですが、如何せん、この辺りの作物は出来が不出来だというのです」
「なぜだ」
「天候の不具合です。ですから、我々商人は良くても、農家の方々はどうでしょうね」
「まったくです。他の産地から来るものに負けているのですから。何でも金額に変えられてしまう世の中です。私たちのものは、私たちが食う限りのものです。それで十分ではあるのですが」
「目の前を通る金銀宝石を買えるだけのお金は持てずにいるのです。我々との不平等を若干感じているらしいのですが、それは我々としても困ります。何しろ、コパ・デ・コパと隣町、その隣町の間しか、商売は許されていないんですからね」
「ふむ」
この国では、商売や職業は非常に制限されていました。自由な選択というものはなく、基本的にどれも世襲制であり、耕し作物を育てられる農地や商売に行ける領界は個々人によって定められていました。学問の国は、ルール作りに則り、人々の生活を制限しながら、その名どおりの秩序だった平和な国づくりをずっと目指していたのです。(オルドピスは彼らの呼び方でもこの音のとおりですが、「order」「peace」それぞれの言葉の意味を含んでいました。)
「了解した。何事か考えよう。しかし何事も、最低限の良さというものがある。商人と農家とでは、勿論私たち兵隊とも、暮らしの違いはあって当然だ。だがそれぞれに誇りがあるのだ。先ほどの盗賊の言ではないがな。お互いにそれを諒解し合い、尊重しなければならない」
「解っています」
商人と農民は同時にそう言いました。上官は頷き、彼らを解放しました。その戦士の横顔を、その時イアリオは初めて見ることができました。ずっと彼の背後から、様子を窺っていたのです。彼女を連れた兵士長は、明らかに彼に用事がありましたが、今の仕事の邪魔をしてはならないと、ずっと遠慮していたのです。
「トスクレア殿、こちらです!」
上官が彼女を振り向きました。イアリオは驚きました。その兜の下に彼女の見たことのないあまりに整った美貌が現れたのです。それは感激してしまうほどの美しさで、兜からは黄金色の長髪が左右にはみ出、その間に気高く、雄々しい、厳めしさがありながらも柔和さも湛えた顔がありました。すっと長い鷲鼻は彼女の故郷にもない鼻立ちですが、ややこけた頬や鋭い目と絶妙に調和していますし、髭痕は、品の良さを強調していました。彼女より十、あるいは二十は年上でしょうか、深い色の目と瞳は、いくつもの真実をそこに映してきただろう疲労と確信とが、混ざって、彼自身の誇りに還元されていました。まるで王子様のような顔立ちでした。その引き締まった体躯と立派な装束とを合わせ見れば、そのように言っても、彼の身分を知らぬ者なら誰も疑わないでしょう。
「このご婦人が、イアリオ殿です。かの町から、いらっしゃいました」
「ようこそ、わが国へ」
トスクレアはそう言って手を差し出しました。銀色の篭手から伸びたその手は、厚く、ぬくもりに満ちた大きな手でした。イアリオはこの手に触れようかどうかと混乱しました。いいえ、自分は使者であると嘘をついた、彼らを騙した気分が、そう躊躇させたのではなくて、相手のこの壮麗すぎた艶美さに、彼女は恐れを持ったのでした。おずおずと出したその手に、彼が触れると、まるで自分の体に稲妻が突き抜けたかのようでした。でも、彼は碧眼の色を変えずに、彼女に町を案内しがてら、気を遣って、はるばる来た旅人に歓迎の意を表しながら、彼女の緊張をほぐそうと努めました。
「お疲れでしょう。早速宿舎にお連れしなければなりませんが、二つ選択肢があるのです。町なかの宿も、あなたがゆっくり休息できてかつ身の安全を保証できる所がありますが、我々の砦にも、同じくらいくつろげる絶対堅固な居場所をご用意できます。どちらにしましょうか」
「あ、はい、ええと、そちらに迷惑のかからない方なら、喜んで行きます」
突然、トスクレアは大声で笑い出しました。そうしてさらに、ご婦人の硬さを和らげようとしたのです。しかし彼女はぼうっとして彼の笑顔を見ていました。こんな風に笑うんだと、まるで性を意識し始めた少女のような発見をしたのでした。
「では、我々の砦に来てもらいましょうか。男ばかりの住まいなので、淋しい思いを多少させてしまうかもしれませんが」
「いいえ」
「ではこちらへ。ああ、ご安心ください。この町へ遊びにいらっしゃる姫君と同じ部屋を用意して差し上げますので、女性として不自由はないはずですから」
かの国は学問の国で、その代表者も学識ある人間が為ることになっていますが、王族はその適切な職種として認識される地位に健在していました。王族は外交に重んじられました。ですから、他の国の王侯と、そう大して変わらない扱いを受けていました。しかし、どこぞの国の貴賓でもない普通の町女が、こんな接待を受けても構わないものでしょうか。イアリオはすっかり身を低くして彼に従いました。彼女ははたして自分の身が持つか心配になりました。物語の中にしかない、騎士の国にこうして出てきたことは後悔しなくても、これまた物語の中でしか語られないような、突然の貴い扱いに現実の体が慣れることはありません。それほど、頭の中でいかにストーリーに入り込んでいても。
事実は小説より奇なりとすれば、おそらくずっとそうなのでしょう。それでも、どの現実も、目立たない刃を剥き出しにすれば、すべからく、奇妙だとは言えます。おそらく、誰もが気付いていないだけで。イアリオは考えなければならないことがいっぱい出てきました。どうして彼女は、町からの特使だという嘘をつき、のうのうとここまで来たかといえば、クロウルダに会いに行き、彼女の町で起きている出来事を知るためでした。ですが、嘘がこのような体裁を生むことになってしまいました。彼女は、素晴らしい部屋に案内されて、そこに施された数々の意匠に目を凝らしました。ふかふかの絨毯には金ぴかの獅子の刺繍が施されていて、ベッドの柱には龍が彫られ、真鍮のコップはウサギを模していました。調度品がこがね色の棚の上に一列に並んでいました。それらもいかにも一級品でしたが、皆動物の何かを象っているようでした。
「すみません」
トスクレアが謝りました。
「ここの部屋を造った姫様は、動物好きでして。そのような意匠が多いのはどうかご勘弁を。しかし彼女は、ここから南に見える窓の外の風景をいたくお気に入りでした。午前中は兵士たちの合戦練習の風景をお目に入れられますが、それがもし気に入らなければ、窓から離れて真下を視界に入れないで下さい。滔々と流れる大河と、美麗な花畑を御覧になられます」
「私、本当にこの部屋で一晩を明かしてもいいのでしょうか?」
彼女は恐る恐る尋ねました。
「勿論!失礼にならなければ、ここは多くの貴賓を迎え入れる最上の部屋でもあるのです。我慢ならなければ、もう一つ、別のお部屋も御覧になられますか?そこは少しだけ古めかしいのですが、先代のお后がお造りになった凝った寝室です。決して華美ではない、落ち着いた雰囲気の静寂の間でありますが」
「いいえ、そんな。私…」
彼女にとってはここで落ち着いて物事をうまく考えられるか、ちゃんと眠れるかどうかが気がかりでした。まったく身分に似合わない豪勢な寝室をあてがわれて、本当に、身の縮む思いがしたのです。
しかし、彼女はすぐにその場にも慣れてしまいました。見知らぬ土地へ冒険に行くと感性が鋭くなり感じやすくもなるのでしたが、同時に図太くもなるものです。いいえ、あの地下街やその下の洞窟、切り立つ山や異常なほど生命が漲る森などを経てきた神経には、それほどただ豪奢な空間など慣れるに苦労はしなかったのでした。彼女は客人用の長椅子に座り、ほっとするまでそこにいました。トスクレアがいなくなり、間もなく長袖長裾のメイドが登場しましたが、少し時間を空けてもう一度来て下さいと、イアリオは頼みました。一人になる時間ができたことは望外の喜びでした。やっと色々と思考する機会が訪れたのです。
彼女はどこまで嘘をつき続けるべきか、悩みました。おそらくどこかで、兵隊たちの護衛を振り切り、単独でクロウルダを探さねばならない時が来ます。彼女は使者ではないのですから。もし、それが暴露されたら、彼女は勿論ただでは済まなくなるのです。強制的に送り返されるか、あるいはこの国で最も下層の位の端した女としてこき使われるか、それも運のいい方で、何らかの刑罰は当然だろうと思われました。行き当たりばったりの計画など立てるものではありません。彼女は勇気で彼らを騙したと思っていますが、これほど無謀な勇気もないのです。図太さは無神経でした。無計画さはいい加減でした。
しかし、彼女は無神経さと感じやすさの両極を行ったり来たりしました。眠れぬ夜を過ごしたものの、体に疲れが残るほど眠れなかったのでもありませんでした。その晩彼女が見た浅い夢の中で、鈴の音を聞きました。行進する軍隊が、彼女を連れて、オルドピスの首都へ向かっているのです。トスクレアは彼女に兵士たちを付き添わせ首都まで連れて行くことを約束していました。そこで、彼らの指導者に会うことになったのです。イアリオは恐ろしさに身を震わせました。故郷の町の北の山脈を越えていこうとするよりも、あの地下都市の亡霊たちに出会うことよりも、その約束に差し迫った恐怖を感じました。夢の中、これまでの夢幻の如き冒険の数々は、思い出の中に散り散りになり、そこで培ったはずの勇気と度胸は、微塵に壊れてしまいそうでした。彼女ははっと目を覚ましました。
昨夜思いついた計画では、彼女は首都の手前でその行方をくらまし、首都付近でクロウルダの消息を尋ねようと考えていました。ですが、それでは追っ手がかかった時に、すぐに捕まってしまうでしょうから、もっと早い段階で、彼らの手を振り切る必要がありました。時間をかけて、じっくりと、クロウルダ探しは行っていった方が良いと思われたのです。森の端で下した決断は、かえって足取りを悪くすることにようやく彼女は気が付いたのでした。きっとまだうかれていたのでしょう、初めての外側の世界に!
けれどここも人間の社会なのです。彼女の想像の中で広がっていた外世界は、実際に来てみるといかにも彼女の覚えたことのなかった様々な感覚を刺激したようでしたが、そこにも人が住み、町と同じ理屈が通りました。ですが、彼女の町とはまた違った慎重さが求められました。彼女は自分をちっぽけな存在に感じました。だから、その本意を遂げるためには、自分を隠しながら行けば自ずと道は開かれるのではないか、という期待を自分にかけられました。それがまた正しい判断かどうかは別にして。しかし大胆さは、牛のような足並みの下に、無鉄砲さは、秘密の影に隠れていなくてはなりません。彼女の町は、黄金を隠しているのです。その存在自体が、かの町に危険を呼び込むのです。
クロウルダと会うために何をしなければいけないか。彼女の行為の理由はそこに集約されるべきでした。当てずっぽうな旅は本当は危険ばかりがありました。そこへ、やって来るのはただ焦りと不安と落とし穴なのです。彼女はこの国で貴賓として扱われることになりました。今は、その身分に乗じて大人しくしており、この要塞都市を出てからが、勝負でした。ところで…オルドピスは、自国の都市には必ずその中心に図書館を置いて、知識の享受を第一にして、国家運営を行っている国でした。しかし、コパ・デ・コパには書物の家はありませんでした。ここは、元々侵略地でしたので、交通の要衝地としての機能を重視していたのです。これは、かの国の実験でした。元々、この辺りの民族は交易民で、商人の多いお国柄なのですが、先の会話にもあったように商人ではない人々は彼らをやっかむ傾向があったのです。特に、農民や漁民などは商う人に根深い怒りを抱いていました。この町を侵略して、これを良しとしなかったオルドピスは、まず、商売に規制を設けて不平等感を拭い去ることから始めたのです。国の方針は次第に浸透していって、彼らはほとんど同じ資力を持つことができ始めましたが、そのために、支配側の神経をすり減らすような細やかな統治が要求されていました。この地方にまだ知恵の集合である書物を自由に読む権限を与えなかったのは、彼らの国の名の通り、平和と秩序の安寧が第一とされたからでした。オルドピスはまだこの交易都市あるいはその周辺に、打ち込むべき楔としての限定された知(思想、あるいは感化)は用いるものの、その他の様々な知恵まで与えて(彼らにとってまだ未開である)人々が使いこなすようになっては、自分たちの思うように支配ができないと考えていたのです。
このような、社会の方が尊大である場合は、一見息苦しさが先行しそうでしたが、実はそうでもありませんでした。知の中には安心があるのです。そこにくるまれてしまえば、それ以上のことは何も知らなくても、生きていけるのですから。他人に、自分を預けて、逃亡しても、咎む者はいません。知の実際は、現実には多くの愚者を生み出すシステムでもありましたが、これ以上ここで述べるのはやめましょう。かの国に愚者が多いというのではありませんが、愚にもつかぬ行いがいつのまにか蔓延してしまうのを、止められない、システム上の欠陥が数多く存在しているのでした。
愚は愚でもいいのですが、それを見つけられない文化が広がってしまっているのです。知は恐ろしい怪物にもなってしまうのです。
オルドピスの行く末は別の物語が判じるでしょう。ですが、イアリオが最初に訪れた町には、彼らの未来を暗示する事が色々と表示されていました。理想とは、現実の相棒です。それをなくして、両者はお互いに成立しないところがあります。オルドピスは象徴性の高い国づくりを目指していました。人々はそれに倣い、引き受ける形で、納得のいく生活をしているように思っていました。
彼女の町とは違った音色がこの国には、ありました。両者が混じり合うのだとすれば、その先鋒に、彼女の肉体がありました。両者は今、匂いとして響いていました。まるで森の中で嗅いだことのある匂い、そう、麗しい泉の水のような匂いでした。そこで、彼女は自分を取り戻し、ヒマバクのヨグと、森を横切っていったのでした。
各人は、それぞれのペースで、生きているからこそ、音楽は生まれるのです。砦は、戦いの音楽を奏でますが、今は、一人の女性を出してあげようと、送り出す曲を開きました。行進曲でした。それは夢の模様と同じようでした。彼女は数人の騎士に囲まれた、馬籠の中に入れられたのです。彼女はついに囚われの姫君となりました。ここまでかの町からの使者を丁重にもてなすのには、訳がありました。ですが、非常に怯えたのはイアリオのたゆまぬはずの精神でした。これではまったく逃げられませんから、計画もおじゃんです。どこかで休息を取るために泊まった宿から、ひっそりと逃げ出す他は、彼らを振り切る可能性はありませんでした。彼女は、嘘つきでした。神妙になった心は、出口を求めてさすらうも、許されたのはその籠の中でした。彼女は、刑罰を受けなければならない身分になったのでした。
今は誰にばれなくても。さて、これ以上、彼らを騙さなければなりません。ですが、まったく簡単なことでした。彼女は、自分が使者だと言い張ればいいのだと気付きました。イアリオは、堂々と嘘をつき続けることを選びました。今となってはもう怖がることなんてないのだと、開き直りました。それもそのはず、彼女は命を懸けて、山越えをしたのですから。自分の運命を行き当たりの偶然に懸けてしまっても、彼女は後悔しないはずの性格でした。彼女は、御立派な輿に揺られて、覚悟を決めた眼差しをしました。強い心は、不安を拭って、焦燥は、手の平に抱えて、行ったり来たりを繰り返すものの、彼女は、自分の芯を決めました。
首都へ行きます。
その脳裏に、別れた親しい友人たちを、愛しさに気付いた人間を、描いた時に、美貌の騎士トスクレアが、輿を停めて言いました。コパ・デ・コパから、十二日が経ちました。
「我らの首都、デラスへようこそ」
イアリオは輿の側面の木の小窓を開いて、外を覗きました。それでは足りず、外に出て、地面に足を下ろし、丘から眺められる眼下を窺いました。
「見てください」
三つの中心がありました。それは、毅然として立つ、要塞のごとき大図書館でした。道はそれらから放射状に伸びていました。網の目のように細かな小路は、幾何学模様をかたどり、街並みを整然と整えていました。街の南側には大宮殿と小宮殿があり、そこからもまた道が光の線のようになっていました。
「他国の人々は、この都を『蜘蛛の巣のようだ』と揶揄されることがありますが」
トスクレアが胸を張って下の壮麗な都を指差しました。
「その表現も正しいでしょう。しかし私は、この様子をまるで太陽の光だ、と思っています。しかし、デラスは、その意味なのです。知識とは、人間にもたらされた光ですから。我らが都は、その光線を、ここから全世界に届けているのです」
これが、学術都市・オルドピス首都なりの、傲然たる威容でした。
ところで、イアリオが向かわなければいけないオルドピスという国は、森の人々にとって現在最上の懸念でした。それで、この懸案についてこの女性が、もしかしたら新しい何かの変革をもたしてくれるかもしれないなどと彼らは感じました。まして彼女はヨグに連れて来られたのです。彼らはかの国に何用かと彼女に問えませんでした。神やその代理と思われる相手に、きちんとした手順を踏まえた言葉なくして尋ねることは彼らにとって禁忌だったのです。森の人々は、自分たちを神意の受け皿として考えています。彼らは森と共に生きていました。ですから、彼らの総意は森の総意であるべきだと、考えられていました。
彼らは無言のうちに己の定められた運命を知覚する能力に優れていました。彼らにとって、発達した人間のわざは、恐ろしいものでした。敵は身近に作られるのであり、人間の生み出す炎は、すべてを燃やし尽くして跡形もなくす魔の力に溢れていたのです。森の民の生き方は自然主義と言えるものでした。人間が自然と共生する方法を、試行錯誤しながら見つけていく生き方ではそれはありませんでした。むしろ、完全に自然そのものに自らを委ねようとするものだからです。それでも森の中で住居を構えて暮らす以上、何らかの形で彼ら自身が森に影響を及ぼしながら生きているはずなのですが、森に向かってこうべを垂れて暮らす姿勢なのでした。
森の人々は、彼らの生き方に純粋でした。こうした生活に魅了されて、様々な社会から逸脱して森の中に分け入る人間が、この何千年もの長い間にも少なからずい続けました。あのオルドピスにいた若者もそうでした。しかし逆に、この生活から出て行く者もいました。それはひょっとしたらイアリオのように、その生き方の中にどうしようもないものを見出して堪えられなくなった者たちだったかもしれません。困難に至った時彼らが行えるすべは祈りでした。それが一向に効果ないと感じた者たちは、多分出て行くしかないのでしょう。祈りは生活を確かにします。でも、それだけではないのですから。
これが確信ある道だとして、揺らがず歩いている人間はどれくらいいるものでしょうか。彼女の場合は決してそうではありませんでした。揺らぎやすく、肝を潰しやすく、きちんと自分の意志を確かめたとしても、意識はそれに追従しませんでした。どうして自分はこの道を選んだのか?ということを、ことあるごとに、見直していました。その全体像は、果たしていかなるものになるのか、歩まなければわからないところに、イアリオはいました。町から出て行くということは、そうなるということでした。
けれど、出て行く瞬間は、はっきりとしていたはずです。その理由が!それがただちに、疑問の渦中に投げ込まれたとすれば、それは多分、道の途中にいるからでしょう。始まりと中間と、終わりとでは、自分自身は違ったものに見えるのです。
まだまだ始まりに近い中間で、彼女は道に惑った気がしました。出会ったものが、皆知らないものばかりだったり、他民族だったりしたからでした。オルドピスへ行く。その理由は、彼女の町でこれから何が起きるかを確かめるためです。彼女はかの国の知恵を頼りにしたのです。ですが、皮肉にも、あの町に起きるべきことは、その町の生まれである、彼女に起きるべきこと、でもあるのです。彼女の事情は、その町の事情でもあるのです。つまり、彼女の惑いは…あらゆる所を伝播して、彼女まで届いているところの、困惑だったのです。
あの町で今起きていることは、この冒険の三年の月日が経ってから、ここに記すことになります。まるで彼女は、その今起きている町の出来事を、その身に体現してたった今感じているのです。崩壊へと向かう町は…無意識に、その過程を受け入れていきます。人々は、互いに争うようにしてその変化をものにしていきます。彼女もまたこうした世事に全身を妥協していくのです。ですから、彼女の変化を追えば、きっと町での出来事も理解できるでしょう。それは、知るための過酷な旅でした。しかし、彼女が誰か産むとすれば、こうした過程は踏んでしかるべきものでした。
マズグズとともに、彼女は色彩に溢れた森林をまた歩みました。昨日はその圧倒的な景色に目の方が驚きすぎていたかもしれません。聞いたことのない音が聞こえています。それは鳥と、森とが、きいきいと軋んで互いに意見を交換し合っているかのようです。中でも目立ってぺちゃくちゃとおしゃべりをしているのはルリコウチョウと呼ばれる鳥で、この動物もまた神獣の子供とされていました。青い翼に金色の尾を垂れ下げています。綺麗で美しく、天敵はいません。しかし、この神の鳥も不慮の事故で命を落とすことがあります。バクの場合は蟻に食べられますが、ルリコウチョウは花に食べられるのです。この森の花は、イアリオも遭遇したように危険で、肉食のものが多数います。聖鳥を食べる花とは、無数の花弁を携えた植物で、真っ赤に燃える唇を思わせ、ちょうど紫陽花をお椀型に返したような形をしていました。オルドピスの書物に勿論この花も載っています。名は、テイシコウ、つまり、紅の歯が獲物を掴むと、丁になるという意味です。(瑠璃煌鳥、丁歯紅は、オルドピスで分類されている名前でした。森の人々は、それぞれを「マク・ハ・ル」、「ラルバ」と発音していました。ヒマバクにも「ジスパ」という元来の呼び方がありましたが、その名前は儀式用語となりつつあり、森の民も普通は前者の呼び名を用いていました。)テイシコウのお椀に開いた花弁は獲物を取り込むとひしゃげて頭が平らになります。そこに、滅多にはないことですが金色の尾がぴょこんと伸びていることがありました。花弁を開くと、そこに青い鳥が見つかるのです。テイシコウは人間にとって身近な花で、薬をつくるのに重宝しました。人に害はなく、その花弁の形で虫や鳥を誘い込む花でした。そのごく一般的な花に、聖鳥であるルリコウチョウが食べられたとすれば、彼らにとってたいそうな意味がこの現象には存すると感じられました。聖なるほど美しいその鳥は、身重になると地面に穴を空けてそこに産卵の用意をしましたが、それはその美のために人のように大量の業を背負っているから、枝の上などには巣を作れないのだと森の民から見做されていたのです。その鳥は不幸な鳥で、その美と引き換えるかのように、死に様は腐食しとても醜くなるまで地面の上に晒されました。彼らの死が、もし花の中にあれば、土の上の死以上の、必然に襲われたように、森を信仰する民からは捉えられたのです。彼らの美しさは、喰らわれる運命の美しさだという風に。
美しかったものが醜い姿を晒すようになることもいかにも自然でしたが、喰らわれれば、その業の巡りがもっと必然の運命をもたらしたのだと受け取ったのです。このように森の住民にとって、森に起こる不可思議に見える現象は、神の御業だと捉えるにふさわしい感覚を様々に刺激しました。ですが、そのルリコウチョウの死がテイシコウの養分となり彼らの病を癒す薬にもなることまでは、彼らのその感覚に及んでいませんでした。またイアリオの耳には、ジャングルに響く命の音は、躍動感に満ち溢れるも忌々しく聞こえました。彼女は決してこの森が嫌いではありません。ただ、死滅したふるさとのしんとした静寂を聞き慣れた耳には、その無音に等しく、森の音は捉えられたのです。どちらも異様で真実で、どちらも命を奏でているのでした。
この場所に、オグはなくともヨグはいました。
イアリオは森の人々の村から出て行く際、村人たちから三つの贈り物を貰いました。一つは小石のペンダントで、丁寧に空けられた水色の石の穴に、カラフルな紐が通っていました。いま一つは木の束で、不思議な香りを放つものですが、これは虫除けになるようでした。最後の一つは、テイシコウから採れる薬でした。若芽の根元を乾燥したもので、煎じると鮮やかな赤色に変化します。よく水に溶かして使用すると、肌の荒れを防ぎ、飲めば病気の予後を楽にします。鼻の頭に乗せて眠ると、ぐっすりと眠れるそうです。気付けにもなり、普通に食べ物に混ぜて食しても健康にいいと言われました。この花が食す美鳥を含んだ動物たちのエキスは体の根元の方に働き掛けるようです。決して特定の病を治すものではなく、体の調子を整える効用があるのです。
それこそ、人間の体の美の部分でもありました。そこは、自ら、自分を治す力に満ちているのです。
イアリオは、テイシコウの薬を鼻で嗅ぎました。すると、腐臭がありました。やや匂うほどで、そんなに強烈ではありませんが、何か腐ったものであれば、それこそ、薬効があったりするものです。特に、体に食するものにおいては。
イアリオとマズグズは、森の東を指して歩いていきました。そのうち彼女たちの背丈ほどもない低木ばかりが茂るようになっていき、それ以外の樹はずんぐりとしたまっすぐな幹の、広々と網の目の枝を天に上げた巨木が、二十尋ごとに植わる景色に変わっていきました。二人は低木の隙間を縫って行きました。次第に森は乾いた土を見せてきて、木肌も乾燥した硬い皮膚をのぞかせてきました。その葉はまばらになり出し、草があちこちに群生し始めました。巨木の木の実は勾玉状の珍しい形で、しかも季節はまだ夏にもかかわらず手の平ほどに大きく膨れていました。少し背を屈めただけで聞こえていたきんきんとした音は、鳴りを潜め、一方、乾いた風がさああと木のかしらを撫でていきました。やや騒々しかった鳥たちはちゅんちゅんとおとなしくなり、雛鳥は可愛らしくぴいぴいと餌をねだっていました。溢れんばかりだった生命は、どこか落ち着き、ようやく世界と調和してきました。
かんかんかんと、金属を叩く乾いた音が行く手からしました。マズグズが立ち止まり、嫌悪感いっぱいのしかめっ面をしました。この先に誰かがいるのでしょうが、もしかしたらと、イアリオは見当を付けましたが、黙っていました。少年は、彼女に指図しました。
「そこに、オルドピスの連中がいるよ。あなたはそこに用があったんだっけ?僕は止めないけれど、森は、あなたを出してあげるから、そこまではついていくつもりだから」
マズグズはまだ少年ゆえの言葉を使いました。義務と希望は相反するものだと発言に表れてしまえば、判断に窮するのは相手の方です。それとも、こうした言葉遣いしかできなかったのでしょうか。
「そう言われてしまうと困るわ!マズグズ、本当はどうしてほしいの?」
「あなたにはやっぱり森にいてほしい。ヨグが連れてきたからってだけじゃないよ!何か、気に入るものが、あなたにはあるから」
「そう。それが本心なんだね。えっと…じゃ、やっぱりオルドピスの人たちに会うわ」
「なぜ?」
「私は私だと、認めるならば、ヨグに連れてきてもらったかどうかじゃなくて、ルイーズ=イアリオだとするならば、それが普通よ。マズグズ、あなたに好かれて私は嬉しい。だけど、人間が判断する森の総意は、果たして本当に森の思いなのか、判らないところに、真実があるように思うの。結果がすべてを表すわ、きっと。だったら、猪のようでも、まっすぐに進まなきゃならないと、私は思う」
もしかしたら、彼女の余計な感覚がそう言わせたかもしれません。少年にどれだけ伝わったでしょうか。しかも、彼女とは異なる伝統に住む人間に対して。しかし彼女は言葉にしなければなりませんでした。ハリトやレーゼに対しても、そうだったように、自分の臨むチャレンジを、人に伝えながらでなければ行けませんでした。
マズグズはじっと彼女の瞳の中を見ました。そのようにしなければ、受け入れられませんでした。神獣の息子の連れて来た人間を、どのように把握するかではなくて、今そばにいる人間が、何を思っているかを感じながら。彼は、途方もない分岐点にいるような気がしましたが、どこか守られている気分もありました。少年は、自分の心に著しい変化を覚えました。こんなに短期間で、彼がイアリオから影響を与えられたことは驚きですが、彼にも変化を呼び込む相応の感性があったのと、オルドピスが、積極的に森に働き掛けをしている時代の背景も総合して働いたのでしょう。彼は、ヨグを探して次の世話するヒマバクを連れて来るように村から使命を受けていました。彼こそヨグと接触するにふさわしいと選ばれる理由があったのです。ですから彼が連れて来た若い女性は、特別の待遇をもって迎え入れられたのですし、入り口と出口同じくして、彼が、イアリオを連れて出て行ったのです。彼の感性は、村の最前線の感性と言えました。森に棲んでいれば、その感覚は、複雑な人間社会にいるものよりも純粋で柔軟なのかもしれません。
村は、変化の途上にいたのです。絶対に変わらないと思う伝統は、しかしいつのまにか変わっているものです。そこにいる人々が、受け入れる体勢であるならば。
「あ、あいつら!」
マズグズはその耳でわずかな音を聞き分けました。彼は、イアリオの手を引き、まっすぐ音へと向かいました。ざわざわと低木を掻き分ける音がしたので、森の一角にテントを張り駐留していたオルドピスの人間らは、一様にざわめき、急な敵の出現に備え出しました。弓を持った戦士がキャンプの中央で構え、他の人々は、手に手に松明となたなどを持って、応戦する体勢を取りました。イアリオは唖然として彼らの前に姿を現しました。マズグズが、興奮して鼻息荒くしていました。火は、土の表にぱちぱちと爆ぜていたのです。
「こいつら、火を土の中から出しやがった!」
彼の非難に、人々はただちに炎を消す作業をしました。しかし、なお彼は人々に食ってかかりそうな姿勢のまま、ぎらぎらと両目を燃え立たせていました。
「弓を、下ろして下さい」
イアリオは言いました。
「火がなければパンはできない。でも、何よりもそれが、この場所では破壊の予兆ともなるのです。この子の前でそれを消したことは認められますが、およそやはり森林に対する正しい態度とは言い兼ねますね?」
「あなたは?」
兵士が声を掛けてきました。
「私はオルドピスに用事があって来ました。私の故郷ははるか西、クロウルダという民族に会う必要があるのですが、ご存知ですか?」
鎧をまとっていない、おそらく研究者と思われる、頭髪の薄い痩せぎすの男たちがざわめきました。イアリオが彼らに自分が山脈の向こうから来たことを隠したのは、町からオルドピスに、町人について山脈から外へ出て行った者がいればそれを保護し、町に戻してもらうよう頼んでいる可能性があったからでした。オルドピス人すべてが彼女の町を知っているわけもないでしょうから、それほど高い可能性とも思われませんでしたが。ですがいまだその地下に隠されている黄金は町の人間に特有の十字架であり、町はおろか、オルドピスとしても、その情報の流出は好まないことが予想できました。
イアリオはオルドピス領に臨むにあたり、クロウルダさえ見つかればいいように思っていました。彼女が知りたいことは、これから町に降りかかる災難の正体です。どうしようもない焦燥の幻霧を払った姿です。ですが、そのクロウルダという単語に対して、研究者たちはざわめいたようでした。
「まるで、森の神意を体現したようなものの言い方をされますが、見るからにあなたは森の人間ではない。敬意を表します。しかし、なぜにかの民族に用事があるのでしょうか?」
キャンプの中央で弓を番えた戦士が、厚手の布に巻かれた、弓を掲げた小手を下ろしながら、尋ねました。
「お話はできませんが、重要な使命を帯びています。かの民族をご存知なのですね?どこに行けば彼らに会えるか、教えていただけないでしょうか?」
オルドピスの人々は、彼女に恐れを感じました。彼らは彼らの領土から西に伸びるこの森を、「湧森」と名付けて距離を取っていました。森にはイアリオも訪ねたような泉が突然現れることがあり、また突如草原だったところにその一部が張り出すこともあったからでした。彼らはこの森を積極的に調べていましたが、それでもまだ判別できないことに遭遇することが多く、その度に依然として森そのものに畏怖を覚えました。そんな森の中から、その女性はまったく唐突に彼らの目の前に現れました。一介の女性がこの場に現れたなどとは毛頭考えられず、重要な使命を帯びているというその言葉通りに、その身は迫力を纏って見え、一同を仰け反らせたのです。しかし最初こそ彼女を怖れたのは森の民でしたが、その時の彼女の姿勢もあまりに堂々としていました。イアリオの両目は聡明で、曇り一つなく、眉はきりっとして決して揺るがない心を示していました。視線はまっすぐに彼らを見ていて、相手と自分との距離をまるで零にするようでした。彼女と、彼女に見つめられた人間と、その両者の存在をこの場に確定でもするかのように。しかし、それは彼女に元々具わっていた性質でした。故郷ではその能力は教師として発揮されていて、またハリトやレーゼも、こうした魅力に魅かれていたのです。
オルドピスの研究者たちは黒く日に焼けた腕と脚とを剥き出していました。穿き物は短く、上半身にはイアリオの町の人々が身に付けているセジルという長方形の上着を、そのまま肌の上に着せていました。兵士たちは袖のある服を着ていて、穿き物も膝まで長く、その上に鉄製の胸当て、小手、脛当てを嵌めて、腰に気付け薬や笛などを入れた軽い袋を提げていました。全部で十人ほどがそこにいましたが、群がる人々の後ろから、青みがかった銀色の装備に身を包んだ、たくましい体をしたいかにも地位のある風体の戦士が、彼女の前に進み出ました。
「失礼をば、お許し下さい」
その額は窮屈な鉢金に縛られていて、こめかみに筋が入っています。太い首をひくひくとさせながら、兵士長は頭を下げました。
「もしかしたら、とお尋ねしますが、あなたは、山向こうのトラエルの町の人間ではありませんか?そちらからの使者は、丁重にもてなすようにと私の上役から言いつかっています」
トラエルの町とは、彼女の町では自称しない、オルドピスがその町を呼ぶ呼び方でした。イアリオはいいえ違いますと思わず答えそうになり、思い直しました。彼女は、彼女の町からは絶対にオルドピスなどへ何か連絡を寄越すことはないはずだと考えていました。いくら危急の存亡の時を迎えても、またかの国から物理的なかつ技術的な援助をしてもらっているとしても、黄金の都を守るためには自分たちの力だけを頼みにするように、町の人間には常々覚悟が求められてきたのです。町の運命は町の人間が自らで決めるのです。使者…?そんなものが、かの国に行くことになっていたのでしょうか?そういう約束を、彼女の町は彼らと交わしていたのでしょうか?
だったら…と、彼女は考えました。私の言葉も通じやすくなるかもしれない。考えていたよりもずっと早く、クロウルダにも会えるかも知れないじゃないか!私は決して使者じゃないけれど、途中までならそのふりをして行くことも、こちらのためになるかもしれない。彼女の中で打算が働きました。彼らの言う使者が、ひょっとしたら山脈の外側に出てしまった町人を保護するための方便かもしれないなどとは思い当たらず、深く考えず、またイアリオは行き当たりばったりの計画をぶち立てたのです。
「それは本当にありがたい話です。よろしくお願いします」
彼女は嘘をつきました。必要な嘘というのもあるものだと思ったのですが、それは危うい選択でした。しかしこうして、彼女は一路目的地まで行く手段を獲得したのでした。イアリオは隣を振り向きました。マズグズは、依然怒りに燃えた瞳で、彼らを睨みつけていました。
「本当に行っちゃうの?僕たちの村で、一緒に暮らさない?」
マズグズはそう小さく言いました。彼女は困った顔をしました。
「こんなに気に入ってくれたのはすごく嬉しいけれど、どうしてそんなに私を引き留めるの?」
「あいつらと一緒に行けば、イアリオは森の声が聞こえなくなっちゃうからだよ?森との関係が、変わっちゃうから。僕たちは二度と出会えないかもしれないから」
「どうしてそんな…」
そう言いかけて、彼女ははっとしました。パズルが組み立てられるように、色々なことが有機的に結び付いたのです。森は、彼女にヒマバクのヨグを寄越したとするなら、彼女の命運は一見森に握られているかのようでした。ですが、そうではありません。事態は、彼女に選択肢を与えたのです。実際には一つしかなかったはずの選択が、増えて、彼女に少しだけ自由意志の機会が訪れました。人は、生きる時、圧倒的な自由に参ることよりも、数少ない選択肢のどれを選ぶかで迷うことがほとんどでしょう。本当は目に見えている物事など限定されています。でも、無限の可能性の中から実際に選んでいることは間違いありません。イアリオは、ヨグに連れられて、自分を取り戻して、なおかつ少しばかりの選択肢を得たことで、心理的な余裕ができました。焦燥は彼女を町から連れて行く重要な要素でしたが、もう、今は客観的にも応対できる、ようやく向き合える課題になりました。焦りにまだ突かれつつも、同化はしていないのでした。森との関係は変わっていいものでした。ヨグの導きは彼女を救いましたが、彼女の道程を制御する働きは微塵もしていないのです。
「マズグズ、」
イアリオは彼に言いました。
「私、森に入って、ほんの数日しか知らないわ。あなたがヨグといるところを見つけて、村に連れて来てくれて、そして今、ここにいるけれど、森の声はあなたたちより私は聞こえていなかった。ヨグと出会ったのは偶然なの。それこそ、あなたはきっと森の導きとして、考えているけどね。私は森の一部でも何でもない。私は私、ルイーズ=イアリオだ。きっとまた会えるわ!心配しないでもいいんだよ」
「でも…」
「そんなに私が連中と行ってしまうことが嫌い?」
彼は頷きました。
「では、私が信念を押し曲げてしまって、森に棲むことがどれだけ良いことだろうか?」
彼は頷きませんでした。きっと彼女を睨み、それでいて神妙ななりでした。
イアリオは、彼を連れてオルドピス人のキャンプから少し離れた森の中に入りました。
「いい?これはまだ誰にも話しちゃ駄目だけど、実は私のふるさとに、とてつもない怪物がいるの。もうすぐそいつは暴れ出そうとしているわ。私は、その原因を突き止めなければならない。そのために調べに行くのよ、彼らの国へね。何も、私が彼らの国で過ごしたいから行くのではないわ。でもね、マズグズ、私はきっと町に帰る。この山向こうの、閉ざされた場所へ」
マズグズが目を見開きました。
「あの神の山を、越えてきたの!」
「ええ。やっぱり、こちらではあの山脈はそう呼ばれているんだね」
「神様が降りてくるんだ。あの山に、白い光を纏って!」
彼は興奮して頬を赤らめました。
「すごいや!」
イアリオは、すまないような顔をしました。彼女は、ハルロスの日記を通じてこちら側の人々が、山をどのように見ているかを知っていました。彼女はそれを乗り越えてきたのですが、一介の人間が、彼らの神聖視する山岳を制覇しても、とどまるところ、何も得るものはないと思いました。マズグズはいよいよ彼女を尊敬の視線で眺めましたが、そんな価値は自分にはないのにと彼女は思いました。
「伝説では、あの山の向こうにいる人たちは、皆敬虔な神の徒なんだって。勿論、神様のお膝元に居るから!」
「そうね。そうだわ。あそこにいる人たちは、皆信心深い人々よ。だから…」
彼女は、また嘘をつきました。
「神様の神意は、私たちに、こう教えているの。急がなくては。オルドピスへ行き、適切な判断を下せるように、調べ尽くしなさい。怪物が、暴れようとしているから。これはエアロス、暴風が吹く。来たるべきイピリスを迎えるために、準備をしなさいって」
イアリオは、マズグズの表情がみるみる変わっていくのを見ました。彼は、さっと顔を青くし、とても恐ろしいことを聞いたような、怯えた様子を示しました。
「エ、エ…」
彼女は彼の心理を推して「言わなくていいわ」と言いました。彼女ほどその名前の力を今感じている人間はいませんでしたが、きっと、マズグズたちにもエアロスの伝説は伝わっていたのでしょう。しかしその伝説は広く世界に広まっているとは彼女も聞いていましたが、こんな風に強い反応が返ってくるとは思いもしませんでした。
「本当?」
「ええ」
「じゃあ、イアリオは…」
「神様のお膝元で繰り出されることだもの、決して理解できない破滅じゃないけれど、私たちに、猶予を与えてくれたということは、その破滅を止められるということではなくて、すべて、準備しろということなの」
「ヨグはそれを占うんだ。ヒマバクが蟻たちに食われると、破壊と再生が同時に起きるって。神様も意図しないことが。でも、去年は食べられなかった」
「まだその時は来ないわ。でも、近い将来、きっと訪れるの」
「イアリオは…」
「大事な使命を帯びているの」
少年はわかったと言いました。少年は大人びた表情をしました。すっと頬骨が立ち、首筋がするりと引き締まりました。
「我々は大事な客人を迎えたということが、これでわかった。敬意を表します。我々は森と共に生きる。でも、あなたの心は、遥か高い天井を臨んでいる。いつまでもよき隣人でありたい!だから、僕はあなたを送ります」
イアリオは、背筋をぴんと張って、この申し入れを受けました。
「旅の道中、あなたたちの村に入れて良かったわ。そしてヨグにも、感謝してあまりある感謝を。マズグズ、また会いましょうね?神様は、きっと、その邂逅を用意してくれると思うから」
マズグズは、力強く頷きました。
彼の怒りはほとぼりが冷めました。なぜなら、オルドピスこそ、小事となったからです。連中が火を土から出したのも、彼は忘れてしまいました。忘れてもいいことだったのです。火は、彼らの生活する森にとって危険極まるものでしたが、実際、彼らの森は縮小しつつありました。火や伐採による縮小ではなく、自然現象としての進行でした。いつか森から暮らしの場を移す未来が我らの行く手にあることを、とは、来るべきその日を予感した森人の遠い祖先が残した言葉でした。それでも彼らは森のあった一帯から住処を移すことは考えていませんが、徐々に乾燥しつつある森林の周囲の環境は、否が応にも段々と覚悟が求められていました。彼らは森を、神意の表れとしています。でも、その森自体の破壊を誰が起こしているかといえば、やはりそれも神でした。彼らを指して、自然主義だと言いました。彼らは別に森に棲んでいるからそうなのではありません。それは彼らの意志で、生き方に他なりません。
火は彼らを亡ぼす可能性があります。けれど、真に彼らがいなくなることではなかったのです。火は一面的な怒りを煽ります。ですが、消え去るものでもあるのです。火の始末に気をつけろ、ということではありません。火の扱いは、その人間の思想を表していたのです。揺らめく炎は、イアリオの言った通り、パンを焼く手段にもなるのです。土の表で、そこでなければ焼けない、実験というパンを。オルドピスの炎はさっきまで、採取した木の実と石灰とを混ぜ合わせて、新しい薬作りに挑戦していました。ルリコウチョウは餌食となり、その栄養素は若芽の薬になりました。薬は、人間の体の機能を元に戻します。それを手に入れるための交換条件は、時代時代によっても違うのです。それが当たり前で、理解し得ないことではありません。
オルドピスの森の民に対する態度は、柔軟なものでした。彼らの支配など目的ではないのです。ただ硬化していたのは向こうの人々でした。森の民は、新しい知識など欲していなかったからです。火は、土の中から出してはいけませんでした。まるで、それはイアリオの故郷が、黄金とそれにまつわる人の欲望を、からきし地面の下から出さなかった様に。
土の上に、炎を出したことは忘れてしまってもいいのでした。
マズグズは、許すなどという観念があったわけではなくて、案の定、空に飛び散る雲のように、ただ忘れただけなのでした。水に流したのではなく、雲にして。それはいいことでした。彼は委ねていたのです。身を、その目の当たりにする変化に。
「僕たちは、どんなことが起きても、イアリオやイアリオのふるさとの無事を願ってる。きっと、ヒマバクのヨグも、そんなはずさ!」
彼女はマズグズに笑いかけて、オルドピス人のキャンプに戻りました。
鈍色黒く、雲が空に横たわりました。マズグズは彼女の出立を見送る前に、もう森へ戻っていました。兵士長は、キャンプから彼女を近くの兵の駐屯地へ迎えると言いました。
「少なくともここよりは休める場所です。そこから、馬であなたをコパ・デ・コパまで送り届けようと思います」
「コパ・デ・コパ?」
「ええ。大陸のほぼ中央にある、交易都市です」
「ところで、あなたは…私の町を、トラエル?とか言いましたが、そのように呼ばれていたのですか」
「ああ、あなたはふるさとを、名を付けていらっしゃらなかったのですか?」
イアリオは沈黙しました。兵隊たちは三人付き、彼女の前後を囲みながらいよいよ木もまばらになった森の中をずんずん歩いていきました。その歩みは、彼女に歩調を合わせた調子ではなく、むしろ、何かに追い立てられるようにせわしい歩みでした。しかしイアリオは苦にしませんでした。森の中は、もう彼女の方が歩き慣れている感じで、男共の勝手知ったる道の歩き方よりも、いささか速いくらいなのでした。勿論、男性に後れを取らない運動神経の彼女ですから、驚くことではありません。誰が一人であの険しい山脈の道無き道を乗り越えて行こうとするものでしょうか。男性たちは彼女に遠慮しながら、足取りを進めて行くことも十分考えましたが、決して追い立てられるようにせわしくない彼女の歩みの方がずっと速いので、彼らが追い立てられたのでした。
森を出てすぐの所に、彼らの建てた二十棟ほどの平屋根の木板の小屋が並んでいるのが見えました。そこを取り囲む胸の高さまである壁は、野ざらし石が上手に綺麗に積み上げられていて、清潔感がありました。厩舎とトイレとが小屋とは別に併設されていて、食堂は幔幕が張られていました。その晩はここに宿泊しました。イアリオは兵士たちの振舞いでしし肉と魚と、香菜のスープをいただきました。ぶつ切り肉と、厚手の葉肉のスープは、歯ごたえがありました。おいしかったのですが、男手の料理らしく、味わうより腹を満たす食事でした。イアリオは十分に腹を満たし、ついたてで仕切られた間取りの寝室に案内されて、そこで眠りました。朝起きると、兵士たちが互いに呼び合い、野戦の訓練をしていました。彼らの声で、イアリオは目を覚ましたのです。彼らの武器は、主に槍と剣と弓でしたが、途方もなく大きな鉄鉈を数人で持ち、回転しながら敵にアタックしていくような珍しい攻撃も練習していました。軍馬がいななき、前脚を蹴り上げて、ジャンプする訓練もしていました。「そらっそらっ!」その乗り手と馬の呼吸はいまいち合っていないようで、苦しげに大量の息を吐き出す黒毛の馬が、何かを訴える目を彼女に向けました。彼女はその目の意図を汲み取りました。
(うまくいかないのだよ、か。どっちがうまくいかないのかしら。馬の方?人間の方?それとも今の時間が原因かな?)
ヒヒーンと一声高くいなないて、黒馬は乗り手と共に、野原を一直線に突っ切りました。どうやら、人間も軍馬もこのままじゃ埒が明かないとみるや、思いっ切り原っぱを駆け巡って、鬱憤を晴らそうとしたようでした。ですが、帰ってくると、なぜか彼らは喧嘩をしました。乗り手はまだ若く、十八歳ぐらいに見えました。
「速過ぎるんだよ、お前は。危うく振り落とされるところだったじゃないか!」
(だったら別の馬にでも乗ればいいんだよ。俺はここにいる馬の中じゃ一番速いんだ。選んだのはお前なんだから、もちっと俺の速さに慣れてくれよ)
イアリオはその馬の気持ちからしたらこんな感じだろうと見えました。彼女は、兵士から馬で次の町まで送り届けられると聞いていましたが、自分が馬に乗って行くつもりでしたから、厩舎に入り、どの馬が自分に割り当てられるのだろうと見ているところでした。そこに、彼らが入ってきて、黒毛の馬と再びばったり目を合わせたのです。
彼女の申し出に、兵士たちはびっくりしました。
「まさかお乗りになられるとは。では私たちがあなたを前に抱えてなくとも大丈夫ですね?」
「その方が危ないでしょう?違いますか?」
彼女に乗る馬を選ばせてくれるということで、イアリオはあの黒毛馬を選択しました。彼が走っているところを見たから大丈夫だと言って彼女は周りを説き伏せました。
「なんとなく、お前の心はわかる気がするわ。だから、大丈夫ね」
嬉しそうに鳴いたのは引き締まった馬体のその黒馬でした。
森の周囲は乾燥したサバンナでした。延々と続く原っぱはどこまでも茶色で、大声を出せば地平線まで届きそうでした。しかし、残念なのは昨日から変わらない天気でした。どんよりと曇って、大空の真下を気持ち良く駆け抜けることは願えませんでした。ですが、早馬に乗った感触は飛ぶように地面を駆けて、こんなに速いものに乗ったことがないイアリオは、思わず歓声を上げてしまうくらいに喜びました。追いつこうと、他の兵士たちは大変です。彼らは鎧を着ていますから、その分ハンデがありました。バハッバハッと息を吐く彼らの馬たちは、羨ましげに前方の黒毛馬を眺めました。イアリオは速度を落として、彼らを待ちました。一人で行っては、彼らの町まで到着できません。待つことは正しいのです。彼女は自分のやるべきことをしっかりと認識していました。もしかしたら、今はまったく自由の子女であったかもしれません。あの町の秘密を明かさなければ、彼女はどんな人間にもなれたでしょう。兵士たちを引き離して、誰も知らない、でもこれから、生活を形作っていけるような、見知らぬ土地へ行ってしまっても、良かったかもしれません。故郷は遠くへ遠ざけられました。イアリオは首を振りました。彼女は彼女でした。どこかの物語のように、生活の自由を手にした淑女の理由などいりません。ふるさとの境界を越えた奔放な魂はあっけに取られるくらいな想像と空想を可能にしましたが、でも、待つべきものがあそこにはありました。
何が待っているのでしょうか。そこに突き進むための、色々な準備を彼女はまだまだ始めたばかりでした。暗い曇り空は前途を示しましたが、途方もない広さの大地は彼女にできる限りのことを期待しました。自由は、実は束縛されているものです。無限が、待ち望んでいるのではなく、選択が、前に横たわっているのです。途方もなく厳しい選択が。
彼女の手は血塗られていません。でも、そうした過去があった事実を、彼女なりに、選んでいくのです。記憶は選択されて出現します。動かし難い過去と感じるのは、選択がなせる技です。それを無視することだってできるのですから。あの町に住んでいる人々ですら、様々に昔を感じながら生きています。シャム爺のように、思い悩む人もいれば、足を怪我したロムンカ=ヤーガットのように、闊達に生活する人間もいます。過去や現在はすべての人間にとって等価でしょうか。いいえそうではありません。価値は、その人自身が決めます。どのように、どんな風に、世界を見ているか?という問いに、受け入れるしか、答えはなさそうです。
いずれ、川が見えてきました。雲間に光が射しました。イアリオの黒馬は、一声いななき、彼女に、前方奥に建物の集合が見えてきたことを知らせました。
「あそこがコパ・デ・コパです」
銀色の胸当ての兵士長が言いました。雲間から抜け出した光は、やや翳って、赤色を帯びていました。もうすぐ夕暮れが訪れる頃でした。
コパ・デ・コパは、「真ん中の真ん中」という意味の言葉です。文字通り、大陸のほぼ真ん中にあって、交通の要衝地であり、オルドピスが彼らの領土の北側に向かって軍を送るべく大きな駐屯地がありました。町の西側は、川沿いの肥沃な土地にのぞむ畑がびっしりと続いており、旅人を迎える街道は、その両側に肘丈ほどの石が並べられてあり、田畑の上を縫っていました。他にもいくつか道が舗装されて、軍隊が通るべき軍用道路も方々に走っていました。イアリオたちは川のそばを走りました。川は大きくうねって、豊かな水を湛えており、しんしんと東に向かって流れていました。木立が散らばって、鳥が一本の木にたくさん居座っていました。空気は乾燥しているものの、水の匂いが混じり始め、土も、耕されている分湿っており、ここがどれだけ人間の住むのに適した場所かを表しています。イアリオはまるで故郷に帰ってきたかのような印象でした。彼女の大地と同じ匂いがしたのです。彼女のトラエルの町の北側に伸びる、農地も水の多い豊穣な土を持っていたのです。
近づいてくる城壁は町の西の門でした。ここは堅牢な砦でもあるので、農家の藁葺きの質素な家々の向こうに、彼らを守る、無骨な建造物が姿を現しました。町は、北側を小高い丘に守られていましたが、その丘は、川に面した南側をくり抜くように大きく削られており、ほとんど絶壁となっていて、西向きに張り出した城壁の続きとなっていました。道の周りの畑は、熟れた瓜が顔を見せ、農家の家々から漂ってくる香ばしい匂いが、あちこちから鼻腔を突付きました。料理上手な主婦たちが、家から遠い場所まで届くようにお腹を空かせる効果覿面の香りを寄越して、いつまでも遊んでいる子供たちを呼んでいたのです。暮れなずむ田畑にあって、何ともほっとする空気が流れていました。
川は、城門の下を直接通っていました。城壁は煉瓦を積み上げ、二階建ての建物ほどの高さにして厚みがあり、ぐるっと中町の西と南と東を取り囲んでいました。その上にさらに櫓が乗っていて、近づくと錚々たる佇まいに見えました。互い違いに配置された褐色の煉瓦は美しく、西日に当たってきらきらと光りました。それはまるで黄金色に輝いて西から来たる者を出迎えました。イアリオは、馬たちが通るべき小門に案内されて、城壁の中に造られた馬屋にすでに親しくなった黒毛の君を、優しく撫でて、返しました。彼は片目を瞑り、彼女を送り出しました。まるで、今の旅路はきっとうまくいくはずだとでも言っているかのように。馬は、主人の幸運を祈り、颯爽とそのピンチに訪れる、そして主人を安全な場所に連れ出す、また、共に雄々しく戦い勝利をもたらす、などというお話は数限りなくありますが、動物との信頼は、実感すればそのお話も、現実にありうるものだとわかります。彼女と彼は、それほどの強い結びつきをこの短時間で築き上げたわけではありませんが、ともに、友達としての信頼を獲得したようでした。
さて、城壁の内側の川の両側には幅を取った道があり、その周囲にはたくさんの家屋が立ち並んでいました。看板やら色の付いた軒先やらが目立ち、様々な店がずっと続いていました。城門から入って、旅人をまず迎えたのは、こうした、交通の要衝ならではの光景でした。ここは交易都市というだけあって、様々な物産が、軒下に所狭しと並べられているだけでなく、道路にも、地べたに大風呂敷を広げた旅の商人が、威勢のいい声で商売に精を出していました。喧しい声音が飛び交い、彼女は、門から入った瞬間にくらりとしました。威勢のいいのは結構ですが、何しろ初めての外国の町で、これだけ商売っ気に溢れる町並みも見たことがなかったので、人々の、厚かましいほどの呼び込みに、気を抑圧されてしまったのです。彼女は、人々の服装にもそうした雰囲気を感じました。彼女の町では目立たない色の服を着ていましたから、こんなに、色とりどりの衣装を目にしてはくらくらするのも当たり前でした。赤に黄色にブルーまで、およそ衣服に合ってないような強烈な色彩が、人々の胸と腰とに散らばっていました。彼らは森の端で出会ったオルドピスの研究者たちのように、四角くきっぱりと断ち切った袖周りと裾周りの上衣に、丈の短い二股の穿き物を穿いていました。マズグズたち森の民ほどではないにしても、イアリオのふるさとからしたら、襦袢を着ていない分十分に露出のある出で立ちでした。その小さめの衣装に、あまり余白なく原色が溢れていたのです。あの森にも原色は多方に健在でしたが、それを思い出させるような、半ばぞっとするほどの、色合いなのでした。
彼らはまた、靴を履いていました。靴は、わらじに近くて、むき出しの素足に紐を巻きつけていました。それもまた原色に取られて、彼女の町の人々よりも褐色に焼けた肌の脚に、ミスマッチを超えた奇妙なマッチングを見せていました。イアリオは自分の地味目な衣装が目立たなくてほっとしました。ですが、見るからに地元の人間でもなく、商品を求めてはるばる来た感じの旅人でもない彼女を、軒下の人々は一目は見るものの、すぐにぷいと他の方を向いてしまいました。これには彼女はちょっと感心しませんでした。人々は、自分にとって関係ある相手しか、相手にしないとでもいった様子でした。
イアリオは兵士長に連れられて町を歩いていきました。彼の上官が待っているというのです。方々がけたたましいので、彼女は彼に一言も質問ができませんでした。おとなしくついていくと、前方に、商人たちの人だかりができていました。「泥棒だ!泥棒だ!」と、人々は言っています。その中に、人ごみにも紛れずひときわ高く兜の先が剣のように突き出した、甲冑の戦士がいました。イアリオはこの戦士の雰囲気にどきりとしました。彼女を連れてきた兵士長もたくましい体つきでしたが、この戦士はもっと、歴戦の勇士の風格が表れていたのです。
しばらくして、人だかりが解散しました。どうやら事件は収まったようで、容疑者と見られる男は、地面に這いつくばりひたすら許しを請うていました。彼は、この町の人間と思しき服装をしていましたが、顔つきは、この辺りにいない外国人のようでした。目は吊り上がり、頬はこけて、いかにも不摂生な食事をしてきたように見えます。
「見た目で疑われるとは運のないことだが、本当にしてしまったのであれば揺るぎない罪がお前を襲うことになる」
兜に顔をすっぽりと覆われた風格ある戦士が言いました。男は身を竦ませました。
「オルドピスはお前の村を豊かにしたはずだ。開拓は滞りなく進み、皆暮らしは豊かになったと聞いている。もしまだ帰られるつてがあるなら、帰りなさい。不運にも我々の侵略で、借り出されたいくさで傷ついたとしても、これは傲慢かもしれないが、悉く敗戦した国民に知恵という贈り物をしているのだから。ただし、そうでなくば処刑がお前を待っている」
戦士の言葉に男はぎらっとした疑り深い視線を向けました。その眼差しは単に盗賊に堕した不運な元戦士の瞳の色ではないようでした。
「どちらがいいかといえば、」
彼は、かすりつけた声でしゃべりました。
「限りない破壊だった。誇りは生きる目的にすべてを費やすことができた。あんたは確かに二者択一の選択肢を俺に与えてくれた。生きる望みはあるのだ。それには、感謝しなければならないだろうな。だが、だが…!これほどの屈辱があるだろうか?」
「この者を城門の外に連れて行け。もし、また入ることがあればその時は遠慮なく刑に処せよ。この者の人相を各地に伝えろ。再び罪を犯せばただちに重罪に処するように」
一人の兵士が伝令に走りました。もう一人の兵士は、男を連れて、その場を立ち去りました。彼らの上官は指示を済ませると、付近にいた商人や、農作物を売りに来た農家の人間に、今年の売り上げの調子や、作付けの様子などを聞いて回りました。
「売り上げが伸びたのは結構ですが、如何せん、この辺りの作物は出来が不出来だというのです」
「なぜだ」
「天候の不具合です。ですから、我々商人は良くても、農家の方々はどうでしょうね」
「まったくです。他の産地から来るものに負けているのですから。何でも金額に変えられてしまう世の中です。私たちのものは、私たちが食う限りのものです。それで十分ではあるのですが」
「目の前を通る金銀宝石を買えるだけのお金は持てずにいるのです。我々との不平等を若干感じているらしいのですが、それは我々としても困ります。何しろ、コパ・デ・コパと隣町、その隣町の間しか、商売は許されていないんですからね」
「ふむ」
この国では、商売や職業は非常に制限されていました。自由な選択というものはなく、基本的にどれも世襲制であり、耕し作物を育てられる農地や商売に行ける領界は個々人によって定められていました。学問の国は、ルール作りに則り、人々の生活を制限しながら、その名どおりの秩序だった平和な国づくりをずっと目指していたのです。(オルドピスは彼らの呼び方でもこの音のとおりですが、「order」「peace」それぞれの言葉の意味を含んでいました。)
「了解した。何事か考えよう。しかし何事も、最低限の良さというものがある。商人と農家とでは、勿論私たち兵隊とも、暮らしの違いはあって当然だ。だがそれぞれに誇りがあるのだ。先ほどの盗賊の言ではないがな。お互いにそれを諒解し合い、尊重しなければならない」
「解っています」
商人と農民は同時にそう言いました。上官は頷き、彼らを解放しました。その戦士の横顔を、その時イアリオは初めて見ることができました。ずっと彼の背後から、様子を窺っていたのです。彼女を連れた兵士長は、明らかに彼に用事がありましたが、今の仕事の邪魔をしてはならないと、ずっと遠慮していたのです。
「トスクレア殿、こちらです!」
上官が彼女を振り向きました。イアリオは驚きました。その兜の下に彼女の見たことのないあまりに整った美貌が現れたのです。それは感激してしまうほどの美しさで、兜からは黄金色の長髪が左右にはみ出、その間に気高く、雄々しい、厳めしさがありながらも柔和さも湛えた顔がありました。すっと長い鷲鼻は彼女の故郷にもない鼻立ちですが、ややこけた頬や鋭い目と絶妙に調和していますし、髭痕は、品の良さを強調していました。彼女より十、あるいは二十は年上でしょうか、深い色の目と瞳は、いくつもの真実をそこに映してきただろう疲労と確信とが、混ざって、彼自身の誇りに還元されていました。まるで王子様のような顔立ちでした。その引き締まった体躯と立派な装束とを合わせ見れば、そのように言っても、彼の身分を知らぬ者なら誰も疑わないでしょう。
「このご婦人が、イアリオ殿です。かの町から、いらっしゃいました」
「ようこそ、わが国へ」
トスクレアはそう言って手を差し出しました。銀色の篭手から伸びたその手は、厚く、ぬくもりに満ちた大きな手でした。イアリオはこの手に触れようかどうかと混乱しました。いいえ、自分は使者であると嘘をついた、彼らを騙した気分が、そう躊躇させたのではなくて、相手のこの壮麗すぎた艶美さに、彼女は恐れを持ったのでした。おずおずと出したその手に、彼が触れると、まるで自分の体に稲妻が突き抜けたかのようでした。でも、彼は碧眼の色を変えずに、彼女に町を案内しがてら、気を遣って、はるばる来た旅人に歓迎の意を表しながら、彼女の緊張をほぐそうと努めました。
「お疲れでしょう。早速宿舎にお連れしなければなりませんが、二つ選択肢があるのです。町なかの宿も、あなたがゆっくり休息できてかつ身の安全を保証できる所がありますが、我々の砦にも、同じくらいくつろげる絶対堅固な居場所をご用意できます。どちらにしましょうか」
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突然、トスクレアは大声で笑い出しました。そうしてさらに、ご婦人の硬さを和らげようとしたのです。しかし彼女はぼうっとして彼の笑顔を見ていました。こんな風に笑うんだと、まるで性を意識し始めた少女のような発見をしたのでした。
「では、我々の砦に来てもらいましょうか。男ばかりの住まいなので、淋しい思いを多少させてしまうかもしれませんが」
「いいえ」
「ではこちらへ。ああ、ご安心ください。この町へ遊びにいらっしゃる姫君と同じ部屋を用意して差し上げますので、女性として不自由はないはずですから」
かの国は学問の国で、その代表者も学識ある人間が為ることになっていますが、王族はその適切な職種として認識される地位に健在していました。王族は外交に重んじられました。ですから、他の国の王侯と、そう大して変わらない扱いを受けていました。しかし、どこぞの国の貴賓でもない普通の町女が、こんな接待を受けても構わないものでしょうか。イアリオはすっかり身を低くして彼に従いました。彼女ははたして自分の身が持つか心配になりました。物語の中にしかない、騎士の国にこうして出てきたことは後悔しなくても、これまた物語の中でしか語られないような、突然の貴い扱いに現実の体が慣れることはありません。それほど、頭の中でいかにストーリーに入り込んでいても。
事実は小説より奇なりとすれば、おそらくずっとそうなのでしょう。それでも、どの現実も、目立たない刃を剥き出しにすれば、すべからく、奇妙だとは言えます。おそらく、誰もが気付いていないだけで。イアリオは考えなければならないことがいっぱい出てきました。どうして彼女は、町からの特使だという嘘をつき、のうのうとここまで来たかといえば、クロウルダに会いに行き、彼女の町で起きている出来事を知るためでした。ですが、嘘がこのような体裁を生むことになってしまいました。彼女は、素晴らしい部屋に案内されて、そこに施された数々の意匠に目を凝らしました。ふかふかの絨毯には金ぴかの獅子の刺繍が施されていて、ベッドの柱には龍が彫られ、真鍮のコップはウサギを模していました。調度品がこがね色の棚の上に一列に並んでいました。それらもいかにも一級品でしたが、皆動物の何かを象っているようでした。
「すみません」
トスクレアが謝りました。
「ここの部屋を造った姫様は、動物好きでして。そのような意匠が多いのはどうかご勘弁を。しかし彼女は、ここから南に見える窓の外の風景をいたくお気に入りでした。午前中は兵士たちの合戦練習の風景をお目に入れられますが、それがもし気に入らなければ、窓から離れて真下を視界に入れないで下さい。滔々と流れる大河と、美麗な花畑を御覧になられます」
「私、本当にこの部屋で一晩を明かしてもいいのでしょうか?」
彼女は恐る恐る尋ねました。
「勿論!失礼にならなければ、ここは多くの貴賓を迎え入れる最上の部屋でもあるのです。我慢ならなければ、もう一つ、別のお部屋も御覧になられますか?そこは少しだけ古めかしいのですが、先代のお后がお造りになった凝った寝室です。決して華美ではない、落ち着いた雰囲気の静寂の間でありますが」
「いいえ、そんな。私…」
彼女にとってはここで落ち着いて物事をうまく考えられるか、ちゃんと眠れるかどうかが気がかりでした。まったく身分に似合わない豪勢な寝室をあてがわれて、本当に、身の縮む思いがしたのです。
しかし、彼女はすぐにその場にも慣れてしまいました。見知らぬ土地へ冒険に行くと感性が鋭くなり感じやすくもなるのでしたが、同時に図太くもなるものです。いいえ、あの地下街やその下の洞窟、切り立つ山や異常なほど生命が漲る森などを経てきた神経には、それほどただ豪奢な空間など慣れるに苦労はしなかったのでした。彼女は客人用の長椅子に座り、ほっとするまでそこにいました。トスクレアがいなくなり、間もなく長袖長裾のメイドが登場しましたが、少し時間を空けてもう一度来て下さいと、イアリオは頼みました。一人になる時間ができたことは望外の喜びでした。やっと色々と思考する機会が訪れたのです。
彼女はどこまで嘘をつき続けるべきか、悩みました。おそらくどこかで、兵隊たちの護衛を振り切り、単独でクロウルダを探さねばならない時が来ます。彼女は使者ではないのですから。もし、それが暴露されたら、彼女は勿論ただでは済まなくなるのです。強制的に送り返されるか、あるいはこの国で最も下層の位の端した女としてこき使われるか、それも運のいい方で、何らかの刑罰は当然だろうと思われました。行き当たりばったりの計画など立てるものではありません。彼女は勇気で彼らを騙したと思っていますが、これほど無謀な勇気もないのです。図太さは無神経でした。無計画さはいい加減でした。
しかし、彼女は無神経さと感じやすさの両極を行ったり来たりしました。眠れぬ夜を過ごしたものの、体に疲れが残るほど眠れなかったのでもありませんでした。その晩彼女が見た浅い夢の中で、鈴の音を聞きました。行進する軍隊が、彼女を連れて、オルドピスの首都へ向かっているのです。トスクレアは彼女に兵士たちを付き添わせ首都まで連れて行くことを約束していました。そこで、彼らの指導者に会うことになったのです。イアリオは恐ろしさに身を震わせました。故郷の町の北の山脈を越えていこうとするよりも、あの地下都市の亡霊たちに出会うことよりも、その約束に差し迫った恐怖を感じました。夢の中、これまでの夢幻の如き冒険の数々は、思い出の中に散り散りになり、そこで培ったはずの勇気と度胸は、微塵に壊れてしまいそうでした。彼女ははっと目を覚ましました。
昨夜思いついた計画では、彼女は首都の手前でその行方をくらまし、首都付近でクロウルダの消息を尋ねようと考えていました。ですが、それでは追っ手がかかった時に、すぐに捕まってしまうでしょうから、もっと早い段階で、彼らの手を振り切る必要がありました。時間をかけて、じっくりと、クロウルダ探しは行っていった方が良いと思われたのです。森の端で下した決断は、かえって足取りを悪くすることにようやく彼女は気が付いたのでした。きっとまだうかれていたのでしょう、初めての外側の世界に!
けれどここも人間の社会なのです。彼女の想像の中で広がっていた外世界は、実際に来てみるといかにも彼女の覚えたことのなかった様々な感覚を刺激したようでしたが、そこにも人が住み、町と同じ理屈が通りました。ですが、彼女の町とはまた違った慎重さが求められました。彼女は自分をちっぽけな存在に感じました。だから、その本意を遂げるためには、自分を隠しながら行けば自ずと道は開かれるのではないか、という期待を自分にかけられました。それがまた正しい判断かどうかは別にして。しかし大胆さは、牛のような足並みの下に、無鉄砲さは、秘密の影に隠れていなくてはなりません。彼女の町は、黄金を隠しているのです。その存在自体が、かの町に危険を呼び込むのです。
クロウルダと会うために何をしなければいけないか。彼女の行為の理由はそこに集約されるべきでした。当てずっぽうな旅は本当は危険ばかりがありました。そこへ、やって来るのはただ焦りと不安と落とし穴なのです。彼女はこの国で貴賓として扱われることになりました。今は、その身分に乗じて大人しくしており、この要塞都市を出てからが、勝負でした。ところで…オルドピスは、自国の都市には必ずその中心に図書館を置いて、知識の享受を第一にして、国家運営を行っている国でした。しかし、コパ・デ・コパには書物の家はありませんでした。ここは、元々侵略地でしたので、交通の要衝地としての機能を重視していたのです。これは、かの国の実験でした。元々、この辺りの民族は交易民で、商人の多いお国柄なのですが、先の会話にもあったように商人ではない人々は彼らをやっかむ傾向があったのです。特に、農民や漁民などは商う人に根深い怒りを抱いていました。この町を侵略して、これを良しとしなかったオルドピスは、まず、商売に規制を設けて不平等感を拭い去ることから始めたのです。国の方針は次第に浸透していって、彼らはほとんど同じ資力を持つことができ始めましたが、そのために、支配側の神経をすり減らすような細やかな統治が要求されていました。この地方にまだ知恵の集合である書物を自由に読む権限を与えなかったのは、彼らの国の名の通り、平和と秩序の安寧が第一とされたからでした。オルドピスはまだこの交易都市あるいはその周辺に、打ち込むべき楔としての限定された知(思想、あるいは感化)は用いるものの、その他の様々な知恵まで与えて(彼らにとってまだ未開である)人々が使いこなすようになっては、自分たちの思うように支配ができないと考えていたのです。
このような、社会の方が尊大である場合は、一見息苦しさが先行しそうでしたが、実はそうでもありませんでした。知の中には安心があるのです。そこにくるまれてしまえば、それ以上のことは何も知らなくても、生きていけるのですから。他人に、自分を預けて、逃亡しても、咎む者はいません。知の実際は、現実には多くの愚者を生み出すシステムでもありましたが、これ以上ここで述べるのはやめましょう。かの国に愚者が多いというのではありませんが、愚にもつかぬ行いがいつのまにか蔓延してしまうのを、止められない、システム上の欠陥が数多く存在しているのでした。
愚は愚でもいいのですが、それを見つけられない文化が広がってしまっているのです。知は恐ろしい怪物にもなってしまうのです。
オルドピスの行く末は別の物語が判じるでしょう。ですが、イアリオが最初に訪れた町には、彼らの未来を暗示する事が色々と表示されていました。理想とは、現実の相棒です。それをなくして、両者はお互いに成立しないところがあります。オルドピスは象徴性の高い国づくりを目指していました。人々はそれに倣い、引き受ける形で、納得のいく生活をしているように思っていました。
彼女の町とは違った音色がこの国には、ありました。両者が混じり合うのだとすれば、その先鋒に、彼女の肉体がありました。両者は今、匂いとして響いていました。まるで森の中で嗅いだことのある匂い、そう、麗しい泉の水のような匂いでした。そこで、彼女は自分を取り戻し、ヒマバクのヨグと、森を横切っていったのでした。
各人は、それぞれのペースで、生きているからこそ、音楽は生まれるのです。砦は、戦いの音楽を奏でますが、今は、一人の女性を出してあげようと、送り出す曲を開きました。行進曲でした。それは夢の模様と同じようでした。彼女は数人の騎士に囲まれた、馬籠の中に入れられたのです。彼女はついに囚われの姫君となりました。ここまでかの町からの使者を丁重にもてなすのには、訳がありました。ですが、非常に怯えたのはイアリオのたゆまぬはずの精神でした。これではまったく逃げられませんから、計画もおじゃんです。どこかで休息を取るために泊まった宿から、ひっそりと逃げ出す他は、彼らを振り切る可能性はありませんでした。彼女は、嘘つきでした。神妙になった心は、出口を求めてさすらうも、許されたのはその籠の中でした。彼女は、刑罰を受けなければならない身分になったのでした。
今は誰にばれなくても。さて、これ以上、彼らを騙さなければなりません。ですが、まったく簡単なことでした。彼女は、自分が使者だと言い張ればいいのだと気付きました。イアリオは、堂々と嘘をつき続けることを選びました。今となってはもう怖がることなんてないのだと、開き直りました。それもそのはず、彼女は命を懸けて、山越えをしたのですから。自分の運命を行き当たりの偶然に懸けてしまっても、彼女は後悔しないはずの性格でした。彼女は、御立派な輿に揺られて、覚悟を決めた眼差しをしました。強い心は、不安を拭って、焦燥は、手の平に抱えて、行ったり来たりを繰り返すものの、彼女は、自分の芯を決めました。
首都へ行きます。
その脳裏に、別れた親しい友人たちを、愛しさに気付いた人間を、描いた時に、美貌の騎士トスクレアが、輿を停めて言いました。コパ・デ・コパから、十二日が経ちました。
「我らの首都、デラスへようこそ」
イアリオは輿の側面の木の小窓を開いて、外を覗きました。それでは足りず、外に出て、地面に足を下ろし、丘から眺められる眼下を窺いました。
「見てください」
三つの中心がありました。それは、毅然として立つ、要塞のごとき大図書館でした。道はそれらから放射状に伸びていました。網の目のように細かな小路は、幾何学模様をかたどり、街並みを整然と整えていました。街の南側には大宮殿と小宮殿があり、そこからもまた道が光の線のようになっていました。
「他国の人々は、この都を『蜘蛛の巣のようだ』と揶揄されることがありますが」
トスクレアが胸を張って下の壮麗な都を指差しました。
「その表現も正しいでしょう。しかし私は、この様子をまるで太陽の光だ、と思っています。しかし、デラスは、その意味なのです。知識とは、人間にもたらされた光ですから。我らが都は、その光線を、ここから全世界に届けているのです」
これが、学術都市・オルドピス首都なりの、傲然たる威容でした。
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