エントランスホール(短編)

KeiSenyo

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エントランスホール(短編)

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 参る。困ったものだ。私のいるところに女の子が紛れ込んでいる。私の足元、木の根の隙間。ここへの扉は、秘密にしていた。誰にも開けられないように、慎重に隠していた。けれど、彼女は見つけて扉を開いてしまった。
 私の懐から何かが滑り落ちた。それは、空間の詰まっていない所を通過して、私の足元に降り立った。可愛らしい妖精の恰好などしているが、ただの一枚の花びら、意思を持たない、お人形のような一粒種だった。私はそれにまじないをかけた。花びらは動き出し、花の妖精になった。
 ここへの扉は、隠されている。私は誰も、来訪を求めていなかった。ところが一人の女の子がやって来てしまった。私は夕方の空のように、頬を染めている――――。

 朝野夕子(あさの・ゆうこ)は、ゲームをしていた。カチャカチャと鳴るボタンの音だけが、狭い部屋に響いている。本来六畳間なのだが積み上げた段ボール箱やガラス戸棚のせいで空間はほとんど三畳分しかない。また、イヤホンを付けているので、夕子の耳にはボタン音すら届かない。
 RPGゲームはいよいよ盛り上がろうとしている。主人公たちの何倍も巨大な敵が、その画面いっぱいに立ちはだかっている。夕子はこのボス敵をどう攻略するか考えた。始めは皆で防御しながら、様子を見ていくか。それとも最初から全力で攻めまくって、戦いの後半から慎重な姿勢でいくか。やはり、敵の弱点を探して、効率の良い攻撃方法を選択していくか。耳に心地いい激しいバトル音楽を聴きながら、彼女は三番目を選んだ。
 …ゲームを終えて、彼女は机に向かった。だがさっきの戦闘の余韻が残って、なかなかペンに手が付かない。それに、夕子は疲れていた。よくわからない疲れだった。家にいても学校にいても、彼女はその疲労に苛まれていた。口癖にも、「私疲れているんだ」と呟いていた。勉強がはかどらず、ノートの端っこに適当な絵など描いたりして、どうにもやる気が出ないとわかると、彼女は階下に下りていってパジャマを用意して風呂に入った。

 どうもよく眠れなかったらしい。夕子はぼんやりとした頭でずっと授業を聞いていた。よくわからない疲れが体中を這い回っていて、そのせいで集中できないのだと彼女は思ったが、単純に集中力がないだけなのかもしれない。成績は良い方ではなく、だからといって勉強を頑張ろうという気も持ったことがないし、日々何をして生きているかも、彼女にはよくわからなかった。学校生活に目標など持ったことがない。それは普通かもしれないが、彼女は自分には分別があると思っていた。とりあえず普通のことは分かる。普通でないことは何なのかよく分かる。
 そして、自分は普通からはずれていないということも、よく分かる。しかし、この疲労感は一体なんだろう?夕子はこのことを誰にも相談できなかった。
 その日の昼休み、彼女はグラウンドの木の下に腰を下ろし、本を読んだ。そこは三本の樫が芝生に並んで、読書好きな女の子たちの恰好の涼み場所になっていた。夕子は建物の中で読むよりも外で読む方が好きなので、よくここを利用していた。
 その放課後、夕子は友達と遊ぶ約束をしていた。一緒に図書館に本を借りに行く予定で、電話で集合場所を合わせることにしていた。家に帰ると、すぐに友達から電話がかかってきた。すると、鼻づまりの声で、友達が「ごめん、風邪こじらせちゃって。きょう行けなくなっちゃった。また、今度ね。」仕方なく、夕子は一人で図書館へ行くことにした。家からは一キロほど離れた所にある、真っ直ぐ突っ立つ木々に囲まれた四角い建物は、友人と来ないと一人では広すぎるきらいがあった。夕子は顔を突っ込むように館内を歩き回り、目的の本を探し出して、そそくさと帰り途を歩いた。そして、歩きながらふと自分に彼氏がいないことが気になった。恋は訪れるもの、と彼女は考える傾向があって、今まで本気で好きになった相手がいなかったこともあるが、コイバナに花を咲かせる同級生たちを見て焦る気持ちがないこともなかった。
 まあ、でも焦るまい。いつかそのうち、やって来るさ。夕子は初めに何の本を読むか考えた。借りてきた本は数冊あった。バックパックに入っているのは歴史物一冊、恋愛物二冊、ファンタジー小説が二冊だ。彼女はほとんど選ぶ本に傾向はなかった。重厚な文学物でも読むことができた。ただ一緒に借りに行く友達次第でノリによって借り本は変わった。やはり、読後の感想は一人だけのものにはしたくないようだ。しかし今回は一人で来たものだから、友達に合わせることはない。夕子はどこかで休んで本を選ぼうと思った。丁度いい公園とベンチを探していると、こんもりした森が奥にある公園を見つけた。友達と来る時は、別の道を通るので、この公園に差し掛かるのは初めてだった。
 夕子はあの森が涼しそうで惹かれた。鞄を背負ってふらふらと森に近づくと、その周りには遊んでいる子供も散歩している大人も誰もいないことに気づいた。じゃあ、本当に一人で物思いに耽るには最高の場所だ。彼女はそんなつもりはなかったが、そのように考えて、楽しく歩いていった。鬱蒼と生い茂る木の葉と覆い被さるように手を広げた枝とを、彼女は眺めた。何だか見たことのない樹木だ。松にも杉にも似ない、ギザギザの肌が蔦を絡ませてぼうっと枝腕を斜めに上げている。その葉は短く、提灯のように膨らんでいて、面白かった。夕子はこの辺りでも良かったが、見るとどこにもベンチがない。その代わり、点字ブロックが続いていて、木の密集したこの森に入り口はあるのかと思った。ブロックはもしかしたら公園の出口にだけつながっているかもしれないが、とりあえず、そこを辿ってみることにした。
 案の定、黄色いブロックが少し先で枝分かれしていて、そこから森に入ることができた。彼女は迷わず進路を折れた。森は、鳥もいないし虫もいない、不思議な感じだったが、体がほかほかとしてくる温度があった。涼しそうだと思ったのにこんなに暖かいなんて!でも、湿気の多い嫌な温かさではなく、むしろ、春よりも穏やかな楽園のような暖感だったのでどこかに座れる場所があれば最高だった。けれど、そのうち夕子は読書にふさわしい場所選びよりも、この森林に興味を持ってきた。ずうっと奥へ入っていくと、柔らかく、短い木の葉が頭上にアーチを作るようになり、こんなに密生していても昼の光は弱められず、足元もはっきりとしていた。点字ブロックがまだ続いている。しかし、それは唐突に終わった。木の葉のアーチも、ぽっかりと口を開けている穴の前で終わった。
 その穴は木のうろで、うろの中にもさらに穴がある。つまり、木の下にも穴が続いている。それが、人工的に造られた穴ならば先にも行けるだろうが、入るには勇気がいった。夕子は不思議だなあと思いながら、自分は元々読書のために来たのだったと思い出して、わざわざこれ以上進む理由もないだろうと思った。それに、もっと行ったとしてどれくらいかかって戻ることになるだろうか。夕子はちょっと穴の中を覗いてみた。中に入るのはやはり楽しそうだった。点字ブロックがあるくらいなのだからきっと行っても危険はないはずだ、もしかしたら、テーマパークぐらいの施設が待ち構えているかもしれない。彼女はもっと身を乗り出してみた。すると、誰かが彼女の背中を触り、夕子は驚いてつるっと手を滑らせてしまった。
 乗り出している体を支えた手をすとーんと穴の方へ投げ出したものだから、彼女の体はそのまま中へ、落ちて、落ちて、落ちていった…。

 どうも背中を強くぶったらしい。夕子は目を瞑りながら落ちていったために、いつのまにか気を失っていた。目覚めて最初に感じたのがその痛みだった。彼女は頭を上げて周りを見回した。鬱蒼とした森は、逆さまになっていた。というのは、根が、天井になった地面から無数に生えており、それでいて周りは明るかったのだ。夕子は、普通であるものとないものの区別が自分にはつくとわかっていた。だから、この場所が期待したテーマパークではなく、きっと暖かい森を進んでいたら、気持ちのいい休み所を見つけていつのまにか眠り込んで、そして見た夢なのだろうと思った。だが、その想像はちょっと無理があった。夢がこんなにはっきりとしているだろうか。テーマパークではないけれど、鳥の啼き声が聞こえるし、川の水の音もどこからか流れてくる。自分の意識も大丈夫だ。
 そういえば、自分は本を読もうとしていたのだった。これが夢だとしたら、ひょっとしたら、今しがた読んでいた本を持ったまま、まるでその中に入っていくように、眠りこけてしまったのかもしれない。そう考えれば、こんなにも鮮やかなありえない世界を見ている理屈が通る。それでも、そうした夢は見たことがなかったから、想像の域は出ていない。何より、この地面が逆さまになった世界は心に迫ってくるリアルさがあった。これが夢…?点字ブロックはどこにもない。あるのはふかふかな地面、良い匂いのする漆黒の土で、苔と丈の短い草が生えている。しかし木は生えていない。木は上から生えている。根っこを伸ばし、逆さになって、上の地面に幹を突き刺して…(というわけではないだろうが、もし普通に幹や枝がさらに上の空間に出張っているなら、あの天井はどれほど薄いのだろうか)ただし、自分が変な穴の中に転げ落ちていって、ここに到着したのは覚えている。それも夢だったのだろうか。
 地面の下にもかかわらず、周囲は明るくて、昼のように暖かい。そして鳥と、虫もいる。小さな羽虫が飛んでいる。また天井の木の根の周りを、お尻をちかちか光らせて蛍が舞っている。あれ、蛍は昼間から光を出すものだっけ?夕子はあまり考えないことにした。やっぱりきっと寝ながら本の中に潜り込んでしまったのだ、そう思うことにした。木の根はどれも真っ直ぐに下に向かって伸びていた。大根やごぼうが上から生えているかのようだった。だが、そんなはずがない。根はもっと方々に伸びているはずだ。本の中でそう書かれていたのだ。彼女は自分なりの夢からの覚め方を知っていた。それは、夢の中でもう一度眠ることだった。でも、すぐにそうしては勿体ない。もうちょっとこの世界を満喫してから、目覚めてもいいだろう。彼女は聞こえてくるせせらぎの方へ向かうことにした。少し行くと、大きな青い壺が、忽然と夕子の前に現れた。彼女は不思議そうにそれを眺めたが、さして興味も湧かず、通り過ぎようとした。すると、ひゅうひゅうと壺の中から風の巻く音がして、彼女は立ち止まり、思わず壺を覗いた。
 わっと風が湧き、彼女の前髪をかすめて何かが飛んだ。驚いて夕子は壺から身を離した。ひらひらと、小さな羽を翻して、妖精が降りてきた。妖精は青い壺の縁に留まると、茫然と立ち尽くした。正面に夕子が立っているのに、それも目に入らない様子だ。
 妖精ははたと何かに気づいた素振りをし、いきなり横になって寝始めた。夕子の背中を小さなさざなみが襲ったが、彼女は目を丸くして妖精を見つめるばかりで、自分がバックパックを背負っていないことにも注目しなかった。
「うーん、すぐには寝られないよう…夢は見ちゃいけないものだったのに、早く目を覚まさないと!」
 妖精は半身を起こした。その時に、夕子と初めて目が合った。
「あっ」
 妖精は可愛らしく驚いて、小さな羽をぱたぱたと煽った。胸に、青く輝くブローチを留めた、新緑色のスカーフを巻いている。そして、スカートが花びらだった。
「人だ。人がいるぞ。しかも、女の子だ。こうしちゃいられない。早く目覚めねば!」
 花の妖精は起き上がって、壺の縁に立って、そのまま前のめりになって中に落ちていこうとしたが、
「ま、待って!」
 夕子に掛けられた一声に、きょとんと振り向いた。
「そ、その、可愛いから。もうちょっとここにいてもよくない?」
 思わずそう言ってしまったが、何かを予感していたのだろうか。彼女はこのおかしな出会いを、手放してはならないものに思えた。
「もし、あなたが夢をみているなら、あたしもきっと同じ夢を見ていると思うの。だから、もう少し、この夢の続きを見てみない?……」
「ええっと」
 妖精は体を夕子へ向けて、難しそうな顔をした。
「そうだよ、僕たちは、夢の中でしか人とは出会えない。だから、急いで戻らなきゃいけないんだよ。あんまり人と会っていると、僕たちはおかしくなっちゃうから」
「おかしくなるの?なんで?」
「夢の方が現実だと思っちゃうから。それは、よくないことなんだ」
「なんだか…よく分かる気がするなあ…」
 夕子はどこかで妖精の言ったことと同じことを言われた気がした。妖精はきょとんと彼女を眺めている。
「でもね」
 と、妖精は壺の縁に腰を下ろして、裸足の両足をぶらぶらとさせた。
「つまんないなあ、とは思うよ。つまんないことだとは」
 夕子は頷いた。
「よっと」
 妖精はお尻を跳ね上げ、空中で一回転すると、ふわりと地面に着地した。
「この壺はね、夢見の壺っていって、中に入ると夢の国に行けるんだ。僕はこの壺の管理者なんだけど、うっかりそばで寝てしまって、中に転げ落ちちゃったみたいだね。やれやれ、職務怠慢で、怒られちゃうなあ。ま、どうせ怒られるなら、ちょっとだけなら一緒にいてもいいよ。ええっと、名前は?」
「あ、夕子。朝野夕子っていうの」
「僕はね、クロン。はは、ま、よろしく」
 クロンはぴんと撥ねた髪の毛の先っぽをぷるぷると震わして、口を大きく開けて笑った。そして、そばにある石ころを両手でよいしょっと投げ上げて見せた。落ちた小石がぱかっと割れて、その中から色んな物が次々出てきた。妖精サイズのお財布に、ポシェットに、ハサミに楊枝にシャンプーハットに…生活必需品のようだが、どれも今必要な物には思えなかった。すると、ふいにクロンはぱっと夕子を見上げた。妖精は耳たぶまで真っ赤に燃やして、慌てて割れた石ころに出てきた物を全部詰めた。ちちんぷいぷい!呪文を唱えて、小石の割れ目をきちんと閉めた。その、割れ目が綺麗に塞がって見えなくなるのと同時だった。頭上から、きらきらと輝く無数のビー玉が落ちて、ばらばらとクロンと夕子の顔に当たった。それなのに、まったく痛くなかった。発泡スチロールより軽くて柔らかい感触が雨のように降りしきり、ビー玉たちは地面で弾けて、シャボン玉のように破裂した。その雨が止むと、木の根の世界はまるっきり様相を変えてしまった。きらきらと、さっきのビー玉があらゆるものを覆い、地面も根も、不思議な光の波をかぶった。
「時々降るんだよね。こういう、夢の中じゃ」
 茫然とする夕子のそばにぱたぱたと飛んできて、クロンが口を尖らせた。
「僕たちは『外側の未来』と言っている夢を、あの青い壺は見せるんだ。つまり、これから起きる出来事なんだよ。この、ビー玉あられはね。ああ、あんまりまともに受け取ってほしくはないんだけど、僕たちがそう言っているだけだから」
 クロンが羽を羽ばたかせて、夕子の前方を飛んでいった。夕子は慌てて、妖精についていった。彼女は、妖精の言ったことは覚えたものの、話半分に聞いていた。多分、この光景は眠るまで読んでいた本に書いてあって、自分はその中に潜り込んでいると思っていたから、起きて見返してみれば全部そこに記されているはずだ、と思い込んでいた。夢とはいえ、こんなに圧倒的な景色を見せられるととても本の中だけの世界とは思えないけれど…ビー玉の世界は青に赤に美しく光り、彼女の目を楽しませた。鳥の啼き声がして、夕子はそちらを見たが、驚いたことに鳥までもがビロードの幕を張っていた。夕子たちは小川のへりまで歩いてきたが、その川の水までが、色鮮やかな砂のビーズだった。それでいて、せせらぎの音は水そのものだった。
 夕子はしゃがんで水をつかんだ。見た目は細かい砂石であるがやはり水の感触だ。指の間をするりと流れた。彼女は地面にも触ってみたが、細やかなビー玉の弾け粒は、土だった。この雨が降るまでは昼の光の明るさがあったが、今はその色も濃く、夜のネオンのようだった。木の根の周りの蛍は、もう目立たない。
「見てみなよ。一粒一粒がね、占い玉のように、何かの出来事を映すんだよ」
 クロンが比較的大きな粒を両手で抱えて、夕子に上げてみせた。虹玉を覗くと、確かにそこに何か映っている。一組の男女だった。彼らは歩いて、どこかの公園のベンチに座って腰を下ろすと、楽しげにおしゃべりを始めた。夕子は別の玉を拾ってみた。指の先もない小さな石に、雨の様子が映され、傘を持った男の子が裸足で走っていた。
 夕子は愕然とした。この周りにある小さな一粒一粒が、何かの出来事を記憶している。クロンが、そんな彼女の様子をみてけたけたと笑った。
「ああ、すごく驚いているね。これは未来の玉なんだ。この夢の中でしか見られない。でもね、未来なんか見たってなんの足しにもならないね!僕がしっかり管理しなくちゃならなかったんだけど、僕の居眠りのせいで、はあ、夕子が来ちゃった。どれほど怒られるか…」
 クロンは怖々と首をすくめた。
「時々ね、ここに人間がやって来るんだ。自分のビー玉探しに、そんなによくない人間がね。間違って拾わないように、僕は壺を逆さまにして、そんな人間を追い出している。決してその人だけの未来があるわけじゃないから」
「別に、あたしはそんなこと何にも知らなかったけど」
「でも、この夢を見ているってことは、多分、そのつもりで来たんだと思うよ?」
「じゃあ、結構あたしは、よくない人間なんだ。ふうん、ま、いいけど」
 そう言いながら、これは本に書いてある通りのことを言ってるんだと彼女は思っていた。
「まあ、僕がこの夢に下りているんだから、壺を逆さまにするやつもいないから、いつまでもいていいんだ。僕が帰るまではね。あ、僕の上役が来ても壺は引っくり返されるな。まあ、それまでは」
「ねえ、このビー玉に、未来が描かれているって本当?」
「本当だよ。よく見なよ。実際、過去には一度も起こったことがないんだから!」
 夕子は本の内容をよく思い出せなかった。さっきクロンが言った、「未来なんか見たってなんの足しにもならない」という言葉が引っかかっていたが、その理由が、ちゃんと本にはあっただろうと考えたのだが。
「じゃあ、とても便利じゃない!これから起こることが分かるんでしょ?大地震が起きたりとか、どこで急な雨が降り出すかどうかとか、自分の将来の結婚相手とか…」
「まあね。その気になれば。でもあんまりよくないよ、未来を知ることは。努力しなくなるからね!妖精も、人間も。それに、ここにあるのはあくまでなの。本当に起きるかどうかは、まだ未確定なのだ!起きるには起きるけど、の未来も一緒に起きなきゃ意味がない。でなきゃ、たとえ起きたとしても、起きたかどうかはっきりしないの」
 夕子はちょっと頭がこんがらかってきた。未来に外側も内側もあると妖精は言っている。何のことか、判然としない。夕子はうなった。妖精はまた唇を尖らせた。何か今言ったことに、不満でもあるかのようだ。夕子はふと自分が窓際で肘鉄をつきながら恋愛小説を読みふけている時を思い出した。小説のようなことが起きるわけがないと思う自分と、どうしてもそんな恋がしてみたいと思う自分と、両方だった。夕子はどこかでさめた自分がいると分かっていた。こんなのありえないことだ、という考えがよく頭をもたげる。何かに一途に努力しても報われないことがあることをよく知っている。ただ、一生懸命に頑張りたくないというわけではない。友達が何かに打ち込んでいるとそれをよく彼女は羨ましげに眺めた。自分も打ち込めるものが欲しいと思った。それを見つけていないだけだ、と考えた。
 夕子は、自分が本当に何の本を読んでいたか、気になった。まるきり中身は覚えてないものの、こんな魅力的な世界が広がっているはずだから。朱色の陽射しが真横から、七色の川面の上を過ぎていった。ぱっと辺りが明るくなって、様々な大きさのビー玉が地面から壁から離れた。青に赤に、黄に白に、黒に紫に藍色の、涙の粒のような無数の玉が、夕子の周りに集まり、今まで聞いたことのないような音を出した。それは、ほとんど川のせせらぎに似ていたが、何だか、嬉しそうな声が混じっていた。音は夕子の胸の奥へ、奥へと沁みていき、郷愁と安らぎの相交わる思い出を呼び起こした。自分の幼い頃、家族と一緒に食卓を囲んで、賑やかな食事の時間、弟が味噌汁をこぼしてさっと母親が布巾で拭き取る様子、テレビを見ながら笑う父親、彼女は母親を手伝って弟の口に御飯を運んであげたりしていた。その、今でもあまり変わることのない風景を、斜陽がきらきらと輝かせた。彼女はにっと笑った。まるで、写真を撮るカメラの前でするかのように。……
 すると、ビー玉の音楽が、夕子のいる場所から頭上に伸びていって、細長く列を作った。きらきらとしながら虹色玉は雲をかたどり、どこかへたなびいていってしまった。元の、木の根の景色が再び広がり、目の前にはさんさんときらめく小川が、耳に優しく囁きながら流れていた。夕子はうつむいた。あのビー玉には、言葉が、本に載っているような文字が宿っていて、今までそれが擦られたり震えたりして音を出していた気がした。クロンはその中にあるのは未来だと言っていたが、夕子には言葉が閉じられていたのだと感じた。
 つまり、自分が、起きるわけがないと思い込んでいる本の中の文章が。努力しても報われないと知っていた知識が。
「さあ、雨はやんだ。きれいに洗い流されちゃったね」
 夕子のそばに、クロンは飛んできて、彼女の肩に降りた。ふと夕子は、この小さな妖精が自分と重なり合った気がした。同じ方向を向いている。くすくすと夕子は笑った。おかしかった。
「一緒に行こうよ。もう少し、この夢の続きを見たいって、さっき夕子は言ったよね!」
 夕子はうなずいた。二人は、小川に沿って上流へ向かった。途中、大きな岩が川岸にあって、そこを、兎の集団が飛び越していった。夕子はその様子がおかしくて笑った。一匹一匹、一々大岩の上でこちらを振り向くのだ。鼻をひくひくさせて、夕子たちの様子を見て、それから、向こう岸へジャンプする。ふふっ彼らの下の大岩は、おじいさんのよう。すごくしかめっ面をしていて、何も楽しくなさそうだけど、少なくとも頭を踏まれて、何も怒っていなかった。削られたひだひだが皺だらけで、威厳のある雰囲気だが、ただ頑固なだけで、きっと優しいおじいさんなんだろう。
 二人はおじいさん岩を通り過ぎて、天井から、鶴がたくさん吊るされた、小さな湖のところまで来た。湖というべきか、池というべきか。鶴は、一羽一羽が折り紙の千羽鶴のように細い紐で通されていて、上の方にいるものは、それこそ折り鶴みたいにおとなしくしていた。下の方は、早く湖の水を飲もうと(あるいは魚を捕ろうと)せわしなく動いている。一番下のものは、水面に首を突っ込んで大きく飛沫を上げて、嬉しげにくちばしにくわえた魚をびちびちとさせた。そして、威風堂々と紐からはずれて天井に昇っていった。どうも鶴たちは一番下になって餌を捕るチャンスは一回きりのようだ。中には口から折角の獲物をとりこぼし、がっかりとしたまま昇っていく鳥もいた。彼らはチャンスをものにしたものもそうでないものも、また紐に吊るされた。夕子はそれがまたおかしくて笑った。鶴たちは、生き物とそうでないものの中間のようで、変な生態だった。おきあがりこぼしが生き物のような動きをするなら、この鶴たちはちょうどその反対だった。
 夕子たちはその湖も通り過ぎて、ずんずん行った。蛙が通せんぼしていて、その上をまたごうとしたら、ぴゅっと水が下から飛んできて、変な部分が濡れてしまった。何をするのと足元を睨むと、蛙は前脚を両方ともバンザイをして、後ろ足だけでぴょこぴょこと退いていった。そして、ごめんなさいしながら、草むらの中に隠れた。ひよこが彼女たちの道案内をした。といっても、二人の進路にひよこが現れ、彼女たちの前を(振り向きながら)よちよち、歩いていったのだが。可愛いおしりをふりふりして、ひよこはまっすぐ、黄色いくちばしの親鳥の待つ茂みへ向かった。夕子たちはその速度に歩調を合わせて、ゆっくりついていった。あまりに元気に(そしてけなげに)おしりをふりふりするものだから、どんなに両手で抱えて走ってしまおうと思ったことか!でも、我慢して親鳥のところまでやって来た。ひよこのお母さんは二人を歓迎する仕草で両方の翼を大きく広げた。
 あっと夕子は声を上げた。黄色のくちばしのニワトリが、昨夜遊んでいたゲームのエンブレムになっていた。そのエンブレムは、主人公の祖国の旗印になっていたものだ。夕子は息を呑んだ。親鳥はしばらく胸を張ったその姿勢を保った。夕子は自分の考えがわからなくなった。もしうたた寝してしまうまで読んでいた本に、同じエンブレムがあったとすれば、間違いなく覚えていただろうから。でも、覚えていない。ああ、でも、ここは夢の中だから、本の中身と昨夜のことが混じってもおかしくはないはずだ。でも…ここは決して、本の中に入り込んだ世界じゃないのかもしれない。親鳥はぐぐっとそり返って、もう限界のところまで背骨を反った。その上に、ひよこがてんてんと乗っかった。胸の上で落ちつかなげにくるくる回っていると、上方からお母さん鳥と同じ格好の鳥がやって来て、なぜかカラスの声で啼いた。お母さん鳥は大慌てで体勢を戻して、カラス声に答えて、普通のニワトリの返事をした。彼女の雛を、翼でお父さん(と思しき鳥)の方へ押し出した。雛はぴよぴよと言いながら、くちばしで夕子たちを指した。カラス声が向きを変えて、夕子たちに、ぺこりと頭を垂れた。それで、ニワトリ親子はどこかに行ってしまった。
「何だか変な世界」
 夕子はくすりとしながらつぶやいた。
「おもしろいけれど、変」
「変かな」
 夕子の肩の上で、クロンが首をひねった。
「当たり前でしょ」
「そうなの?なんで?」
「だってそうだもん。言ったでしょ。青い壺は、『外側の未来』を見せるって。これから起きることを、丁寧になぞっているんだよ」
「ん?さっきの、あのビー玉の雨が、『未来』じゃなかったっけ?」
「それはそれ。これはこれ!ほら、雨水はだんだん浸透していくでしょ。この夢の中に何にだって、さっきのビー玉はしみ込んでいるのだ。だから、この夢の中で起きていることは当たり前…『必然』なんだよ」
「ふうん。あ、そうなの」
 夕子は気のない声で相槌を打った。何だか小難しいことはよく分からない。そのような設定なんだ、といったくらいに思った。
「あー、バカにしてるな?」
「別にィ、そんなことないよ」
「僕の言うこと、信用していないな!」
 ぷんぷんと怒り、クロンは夕子の肩からはずれた。そのまま、小川の向こう岸へ飛んでいってしまった。
「あ、待ってよ!」
「ふんだ。もうこれ以上、人間といるとおかしくなっちゃうもん。僕は帰るよ。監督官が来る前に、起きることができたら、もしかしたら怒られないで済むかもしれないし!」
 妖精はぴゅうっと夕子の目に届かないところまで行ってしまった。夕子は仕方なく、ぶらぶらと歩き出した。もし、クロンがあの青い壺に戻って、夢から覚めたならきっと自分も目覚めるだろうし、何も目標がなかった。しかし…こんなに現実的な夢があるものだろうか、とも考えた。様子や雰囲気は変でも、土の匂いはするし、川の水はさらさらしているし、夢のような感触ではなかった。もしかしたら、本当はこの世界は現実で、ただクロンみたいなロボットがいて(いや、いわゆる仮想現実ってやつかもしれない。立体的な映像とかで)こっちを道案内しているだけでは?いやいや、それこそ本当に空想だ。ここがそんなテーマパークなら、自分以外にたくさん人がいるはずだし。でも、夢ならもっと景色が移ろいやすいものだし、ふわふわした感覚があるはずだし。奇妙な感じだ。どうして、こんなに自分は冷静なんだ?たった一人でどこが入り口でどこが出口かもう分かんなくなった所にいるのに!いいや、多分、いつもより余計になんかはっきりした夢を見ているだけだろう。それが、本を読んだせいだとすれば、なんとなく説明もつくし。本に入り込んだと思えばいいんだ。
 夕子は、急にクロンが言った言葉が気になり出した。やっぱり、この世界が未来なんだって言葉は気になる。…「外側の未来」って何だろう?そうした設定だとしても、もし本に書いてあれば、ちゃんと理由があるはずだ。なにか、意味があるからそんな設定なんだ。彼女は、クロンが立ち去ったあとからそんなに離れていない場所で立ち止まって考えた。
 ぶうんと羽の鳴る音がして、夕子の肩に何かとまった。見ると、さっき帰ったばかりの妖精が、額に玉の汗を光らせながらぜいぜいと息をついている。夕子は驚いていいやら嬉しがっていいやら、とにかく戻ってきた可愛らしい妖精をおとなしく肩にとまらせておいた。何やら悔しげにうなるクロンの様子をみて、落ち着いたと思って、声をかけた。
「どうしたの?」
「え、えっと…壺が、見つからなかった」
「どうして?あ、だったら眠れば。眠っても夢から覚められるんでしょ」
「うう、全速力で飛んでった後で、どうしてすぐ眠れるかな…」
 そりゃそうだ、と夕子はクロンと一緒に肩を落とした。しょうがないので、夕子は川沿いの丈の高い草むらへ入っていき、地べたに腰をついた。
「やっぱり!ここって結構、涼しいよね」
 草むらは座ると彼女の頭をすっぽり覆う高さだった。土は湿ってないし、光が遮られて、丁度良い涼み場になっている。
「どう、眠れそう?」
「うん、ここならね。でもいいよ、別に。なんだか、もうどうでもいいや。僕が怒られたって、夕子が僕のこと信用しなくたって」
 妖精がすっかりつんつんになったので、ここが訊きどころかもしれないと思って、夕子は質問した。
「ねえ、信用するからさ、クロンが言った、外側の未来ってこと、何なのか教えてくれない?」
「興味ないでしょ?」
「そんなことないよ。ただ、今見ている夢が、どうしても夢だから、そんなに深く考える必要はないって考えていたの。いまさら気になっている。だから、さ、ごめんね」
 うーんと妖精はうなって、しばらく考えた。
「夕子は、自分の未来が知りたいって思う?」
「そりゃあ、思うよ。誰と結婚するかとか、その人と出会うのはいつだとか」
「ええっとね、そればかりじゃないんだよ。未来ってのは。もし、その誰かに会うとすれば、その時までどんなことが起きているかな?いっぱい、いろんなことが起きているでしょ。ここにあるのはその全部なんだ!それもみんな、知りたいって思う?」
「うーん…あたしが知りたいのは、そういうのじゃないな」
「でしょ?そうだよね。でも、都合のいいことばかり考える人間は、みんな過程をすっ飛ばして知りたがる。すると、努力しなくなる。だから、僕はこの夢見の壺に入った人間を、追い出すんだ。だって、もしその人が望む未来をここで見つけたら、そういうことになっちゃうからね」
 うんうん、と夕子はうなずいた。
「そういうことだったんだね」
「夕子だってそうでしょ?でも本当にね、ここにあるのは本物の未来。でも、それが現実になるにはもう一つの未来、『内側の未来』が必要なの」
「それは何?」
 からん、と音がした。ぽつりぽつり、またビー玉の雨が降った。でもさっきのようにざあっとではなく、数えても十もない、いくつかが二人の前の草むらに落ちてきた。夕子はその一粒を拾ってみた。玉の中から水色の光が泡のようになって外側に出てきた。泡は、可愛らしい女の子になった。その瞬間、この子は自分の娘かもしれないという、よく分からない感覚になった。全身がその泡に包まれた心地がして、夕子は髪を逆立てた。
「あれ…」
「ふふっ」
 耳のそばで、クロンが笑った。
「夕子、なんだか照れてるね?」
「分かんない…分かんないっ」
 彼女は手にした玉をぽいっと投げようとした。でも、玉から出た光の子供は、こっちを向いて、手を振った。
 夕子は、とても胸が切なくなった。
「どうしよう…あのさ…これも、未来?」
「そうだよ。そう言ったじゃん」
 そんなことがあるだろうか。彼女はどうしようもなくて、夢のうたかたの淡い光を、大事にそっと手の平で隠した。
「どうしよう…」
「…ここで、起きてることは、外側の未来。でも、ほんとはね、その内側でも同じことが起きなくちゃならないんだよ。でね、とても大事なことだけど、信じること!夢だって、「夢」を見るんだよ。ほら、夕子は何を望んでる?夕子の、「夢」は何?元々、この青い壺の世界は、その「夢」を持っている人間が入り込むことができていたの。でも、最近はそうじゃなくなった。「夢」がただの夢になってしまっているの。もう分かった?『内側の未来』って、起きている時間に望む「夢」のこと。それが、なくっちゃ、ここで起きることは本物にならない」
「…ねえ、クロンはどうしてそのことを知っているの?ここは、あたしの見ている夢でしょ?クロンは、あたしが見ている夢のはず…」
「嘘でしょ、嘘でしょ、本当は、僕が夕子なんだもの。夕子の心の代わりを言っているだけだよ、僕は」
 夕子はクロンの言葉に、頭をがつっと叩かれた気がした。でも、そうだった。きっと、妖精の言ったことは本に書いてあった。夢の中に出てきて、花の妖精の恰好で、自分にそっくり同じことを言ってきたのだ。
「だから、あんまりそばにいちゃいけないんだよ。それは、分かるよね?なんで自分の心が僕に化けたと思う?それはね、僕が、夕子から分かれなきゃならなかったからだよ。つまり、何がやりたいか、目標がないからさ。目標がないってことは、そんなに悪いことじゃないよ。飢えてないってことは、満たされているってことだから。夕子は満たされている。だから、目標や目的がはっきりしないんだ」
 妖精は彼女が玉を隠した手の甲の上でひらひらと踊ってみせた。
「それはね、どこか、つまらないことでもあるんだよね?夢の方が、空想の方が、ずっと生き生きしていたりしてさ。足りないものを、見つけられるから。現実の方じゃ見つかんないんだから。ああ、でもそれは、もしかしたらさ、夕子のお父さん、お母さんがさ、いっぱい「夢」を実現しようとしてきたからかもね。夕子たちの前に生まれた人がさ、夕子たちが見たい「夢」の分を残さずに、実現させちゃったからかもね」
 夕子はうなだれた。多分、今クロンが言ったことは、本にもあって、それを自分のことに引きつけてみた時に、彼女が思ったことだった。クロンはからからと笑った。
「夢を喰う、バクって動物がいるけど、あれは夕子たちだね!みんな、大人たちの夢を食べて、生きているんだ」
 そうしたことも、自分が考えたかもしれない。でも、いざ言われると、すごく恐ろしい考えだと思った。夕子は妖精が顔面真っ白なサーカスのピエロのように、怖く感じた。夢はもう夢である意味をなくしてしまった。彼女から分離した妖精は、その言葉通り、おかしくなっていた。夕子もおかしくなりそうだった。
「怖い…」
「そりゃそうだよ。ここは甘いお菓子の国の世界じゃないよ!ああ、もう、僕は夕子と離れられないや。僕は夕子だからね!知ってることは、全部話さなきゃならない。そういったルールなんだ。目が覚めた時を楽しみにしていてごらん。新しい自分になってるか、それとも死んじゃってるか、どっちかだから」
「僕たちは、木の根に棲んでいるんだよ。頭の上からばらばらと、自分たちの運命に見える種を、落とされて。まだまだ、上に登って、地面の上にすら立っていない。まだまだ、夢の世界を現実にしていない。満たされているから、足りないものに気づかない。満足してる?してるなら、どうして感謝しないの。次の目標は、何?」
 もう妖精の声は夕子のと二重になっている。自分の声が反転している。夕子の周りで、土の中から、あの虹色玉が浮かんできた。色とりどりに輝いて、あらゆる「運命」を中にして。いいや、そこにあるのは彼女のだけではなかった。彼女はいったい、これからどれほどの数の人間に出会うのだろう。出会った人間の、無数の未来が、そこには描かれていた。きらめいている。美しく、見たことのある虹のように、空に、昇っていった。
「知ってる?ここは、外側の未来。決して内側の未来じゃないよ。僕たちは知っている。まだまだ、ほんとの意味じゃ生きていないって。
 だから、一緒に行こうよ。ね?」
 それは、夕子の中の、本物の内側の声だった。夕子はむずむずとするものを感じた。これから、いろんな所に出て行って、いろんな活躍をしていく自分が、先行して玉になっている。夕子は「夢」を見たことがなかった。まるで、それを禁止されているかのように、「夢」を追いかけるなんて恥ずかしいと感じた。彼女は十分だった。十二分に、満たされていた。そう思い込んでいた。自分よりお金を持っている人を見ても、自分より美貌のある人を見ても、自分より賢くて人気のある人を見ても、何も羨ましくなかった。…羨むと、苦しくなることを、夕子は知っている。何も今のままで十分だと思えば、苦しくならない。それに、自分より、それらが劣っている人もたくさん、いるのだから。何不自由ない、そんな今だから、何も望むことがない。でも…
 玉の中に映る自分は、それとは違った生き方をしていた。明るく、力強く見えた。前向きで、何も恐れない、勇気があった。ぐぐっと両足に力が入る。そして、全身が飛び跳ねたくてうずうずしている。人間にはこういった渇望があるのかもしれない。「夢」を壊して、新しい「夢」を形作ろうとする望みが。彼女はもう、「夢」の中で生きていたのだ。だから、それが夢だと知らず、十分に満足していた。
 でも、この世界は、木の根の森の夢は、自分が見たくて望んだ夢だ。そう分かった瞬間、夕子はジャンプした。どしんっと衝撃が走った。地面をさざなみが駆け巡り、夢の世界がぴしぴしと音を出した。天井からぶら下がっている木の根がばらばらと皮を落とした。これで確信した。この夢は、自分が見ていた。
「夕子」
 ブローチの付いたスカーフを巻いた、花びらスカートの妖精が、嬉しげに飛ぶ。
「僕は夕子。夕方の夕に、子供の子だ!なんだか眠くなってきちゃったよう。お休み…」
 そう言うと、差し出した夕子の手の平に横たわり、昏々と眠りに落ちていった。すると、妖精の体が透けていって、透明な光になって、ふわりと浮き上がり、夕子が歩いてついていけるスピードで、森の奥目指して飛んでいった。

 光についていくと、景色は素晴らしいものになっていた。皮膜が取れてみずみずしい肌をあらわした根の森は続くものの、その根が大根ごぼうのようにまっすぐつららになっていたのに、方々に枝を(いや、それは根の根だった)張らせて、鳥たちが集まってきた。地面に植物も多くなってきた。アザミやスミレ、タンポポなどが、下生えの上に顔を出し、背の低い潅木が立ち並ぶようになっていった。動物も、たくさん集まってきた。潅木の下をリスがくぐり抜けて、キツネが素早く移動して、シカが葉を食んでいる。夕子は、感動し始めた。こんなに、生き生きとした世界を(夢の中でも、そうでなくても)見たのはなんだか初めてだった。彼女は、急に学校へ行きたくなった。もっと友達と、おしゃべりがしたくなった。
 ぱらぱらと再びビー玉あられが降ってきた。その一粒を拾い上げてみると、今度は教会の鐘が映った。夕子は体の底から、自信が溢れてきた。
「夢なんて、と思わないで。夢こそ希望の源泉さ。ここから自分は生まれてきたんじゃないんだっけ?」
 一気に明かりが昼から夕方に変わった。世界の西側が赤く染まり、東が暗く沈む。夕子は大木の前に立っていた。それは、天井を突き抜けて聳え立ち、彼女の夢を支えていた。夕子はこの木にどこか懐かしさを感じた。木には海のような広さも感じられた。木は物言わない。じっと夕子の前に立っているだけだった。でも、それで、本当に十分だった。
「いい夢、ありがとう」
 彼女はその大木に向かって言った。
「自分のこと、もう少し、よく知らなけりゃいけないね」
 …遠い彼方から、返事がした。多分、クラスメイトや友達が、呼んでいた。ああ、そのために、みんながいるんだもの。彼女は一人ではなかった。
 夕方の光の中に、彼女の夢は融けていった。そして、一つの卵を産んだ。卵から、あの、夕子とクロンをちょっとだけ道案内した、ふりふりお尻が可愛いひよこが生まれた。ひよこは、ちょこんと夢を見る者に向かってお辞儀した。

 真っ暗になり、ひよこが背中を見せて去っていくと、ようやく、目が覚めた。やっぱり、公園のベンチで読みさしの本をひざに乗せたままだった。夕子は本の題名を確かめてみた。本の背には、金色の文字で、
「エントランスホール」
 とあった。夕子はうきうきとして立った。日はすっかり沈み、西空が赤く焼けている。彼女は家路についた。
 歩くうちに、気持ちが乗って、ウサギのように、飛び跳ねた。
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