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11話 眠り姫と王子のキス

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 ばたばたと廊下を走り去る足音を聞いていたイリアとリディオはちらりと視線を合わせた。

「ふ、く……くく、あっははははは!」
(あ、ちょっと何を笑っているんですか? もう!)
「いや、あはは……君はすごいなと思って……ははは」
(笑い事じゃないですよ)

 笑い転げるリディオの笑顔に少しドキドキしながらもイリアはぐちゃぐちゃになった部屋を見回してげんなりとした。まさか自分がこんなマネをすることになるなんて……。

(……でも、少しだけすっきりしました)
「そうだろうな」
(え?)
「君はストレスを溜めすぎだったからな」

 落ち着いた様子のリディオにイリアは首を傾げた。

「もっと思いっきり暴れて王子に仕返ししてやってもよかったのに。君は優しいな」
(そ、それはさすがに……)

 部屋中の物を落としたり投げたりはしたが結局ほとんどカルロに当てることはなかった。目的は脅して部屋から追い出すことだったのだしそれでいいと思ったのだ。

「君が精神体でも物に触れられるようになってて良かったよ。下手をしたら眠ったまま婚約破棄が無かったことになる可能性もあったからな」
(リディオ先生、もしかしてそのために私が物に触れられるように練習させてたんですか?)
「イチかバチかだったんだがな。身体に戻れなくても君の意思確認ができる状況にならないかと思ってさ。まあ、まさか暴れることになるとは思わなかったが」

 リディオの言葉にイリアは恥じ入った。仮にも貴族令嬢が暴れるだなんて、と。
 けれどカルロがリディオに向かって医者ごときが、と口にしたときに思わずカッとなってしまったのだ。自分はともかくリディオのことを悪く言われたくなかった。もちろん、そんなことはリディオには言わないけれど。

(ああするしかなかったですから……)
「そうだな、君の唇が奪われなくてほっとしたよ」

 はっとイリアは顔を上げる。一緒に荒れた部屋を眺めていたリディオの横顔を見つめてそっとその腕に触れた。

(……助けに来てくれてありがとうございました)
「俺は何もしてないよ」
(でもリディオ先生が来てくれなかったらどうなっていたかわかりませんでした。すごく嬉しかったです)

 そのときバタバタと扉の外から慌ただしい足音が聞こえて執事長が入っていた。

「リディオ先生! どうかなされましたか。カルロ殿下が血相を変えてお帰りに……。この部屋は一体!?」
「殿下はお疲れなのかもしれませんね。少し精神的に不安定なのでしょう。イリア嬢に怪我はありませんからご安心ください」

 荒れた部屋に驚く執事長にリディオが澄ました顔でそう告げた。

「イリア嬢がお目覚めにならないことで焦っておいでなのでしょう」
「そうですか……確かにいつもと様子が違っていました」

 どうやら部屋が荒れたのもカルロのせいにしてしまうつもりらしい。これに関しては完全に濡れ衣だが、今までのことを思えばこれくらいの罪は押し付けてしまってもいいかもしれないと珍しくイリアはそんなことを思った。



 荒れた部屋はメイド達により手早く片付けられた。
 カルロが押しかけて来たせいですっかりいつもより診察時間が遅れてしまった。枕元のランプの灯りを頼りにリディオがベッドの脇で診察している。イリアはその様子を後ろから眺めていた。

(……ふと昔のことを思い出したんですけど、母がよく『母の一族は代々妖精達に祝福されている』と言っていたんです。母方の祖父は王国教会の牧師をしていたそうです)
「なるほどな、それで君は他人より妖精達に愛されているんだな」
(私はまったく気がつきませんでした)
「そうか? 俺にはすぐわかったぞ」
(え?)

 リディオの言葉にイリアは首を傾げた。振り向いたリディオがニヤリと笑う。

「これでも妖精達の力を借りて医者をやっているからな。君の纏う澄んだ空気を感じればわかる奴にはわかることだよ」
(そうだったんですか……。でもまさか眠り病になるなんて)
「強制的にでも君を休ませないといけないと妖精達も思ったのかもな」

 確かにイリアは婚約破棄されたあの時、心身ともに疲弊していた。ずっと眠り続けたいと思ったほどだ。妖精達はそんなイリアを心配し願いを叶えてくれたのだろう。
 そしてイリアを傷つけたカルロや周囲に怒り城の緑を枯らし始めてしまった。
 問題はこちらだ。このまま影響が街や国中に広がってしまえば大変なことになる。イリアが目覚めればカルロがまたイリアを婚約者にしようとしてくるかもしれない。

(けど)

 カルロにキスをされそうになった時、イリアははっきりとそれが嫌だと思った。生まれてからずっと彼の妃になるために努力してきたというのに。きっと目が覚めても、もう無理だろうなと感じる。

(もう、私は彼の婚約者には戻れない。いいえ、戻りたくないんだわ)
「何か言ったか?」
(いいえ、それよりリディオ先生)

 イリアは首を横に振った。
 リディオが駆けつけてくれた時、イリアは心からほっとしていた。彼には伝えなければいけないことがある。ちゃんと、自分の言葉で。 

(私、そろそろストレス解消できたんじゃないかって思うんです。だから、もう身体に戻れるんじゃないかって)

 それにいい加減目覚めないとリディオが辞めさせられてしまう。彼にそんな不名誉なことにはなってほしくなかった。

(……私の我儘に付き合わせてしまってごめんなさい。もう、十分に休むことができました)
「そうか」

 ゆっくりとリディオがイリアへと向き直る。

(目が覚めたら今までしてこなかった分、やりたいことをたくさんやろうと思います。勉強も遊びも)
「ああ、それがいい」
(もちろんリディオ先生にも付き合ってもらいますよ)
「忘れてなかったか」
(当然です。楽しみにしてるんですから!)

 少しだけ口をとがらせて、それからイリアは笑顔になった。
 いつかリディオと話したようにお洒落をして街に出て、流行りのカフェに行くのだ。勉強だって妃教育ではなく自分がやりたいと思っていた医療の道へ行こう。

(だから、リディオ先生。私の目を覚まさせてください)
「イリア」
(リディオ先生、私はあなたが好きです。あなたと出会えて幸せでした。だから)

 イリアはリディオの胸に飛び込んだ。
 イリアは公爵家の令嬢で、リディオは医者とはいえ男爵家の息子だ。結ばれることは難しいだろう。だからこそ、初めてのキスはリディオがいいと思った。
 そっとリディオの手がイリアの背中に触れるように回される。
 はあ、とリディオが深く息を吐いた。

「まったく君は……」
(我儘を言ってごめんなさい)
「本当に俺でいいんだな? 後悔しても知らないぞ」
(ええ、もちろんです)

 まっすぐに真剣な紫の瞳に見つめられてしっかりと頷いた。この先何があってもリディオとのキスがあれば生きていける気がしたのだ。
 リディオから離れたイリアはベッドの上に座った。

(じゃあ、お願いします)

「なんだかそうやってあらためて言われると照れるな……。本当にするぞ?」
(ええ、眠り姫には王子様のキスが必要なんでしょう?)

 少し照れた様子のリディオにイリアもちょっと照れくさくなりながら答えてベッドに倒れ込んだ。さすがに緊張するので目は閉じておく。
 リディオがそっと近づく気配がした。

「……俺は君の思い出になるためのキスなんてしないからな」
(……え?)

 間近で聞こえた少しだけ不貞腐れた声。一体どういう意味だろう。イリアが問う前にリディオが告げた。

「イリア、好きだ」

 囁かれた甘い声と同時に唇に感じた柔らかな感触でイリアは目を開けた。
 じっと間近に紫の瞳がこちらを見ていた。
 何度か瞳を瞬いてそれからゆっくりと腕を上げる。驚くほど重いその手をリディオがしっかりと握ってくれた。

「リディオ先生、おはようございます」
「……ああ、おはよう。寝坊助の眠り姫」

 はっきりと自分の声が部屋に響いて、くしゃりと笑ったリディオはイリアにもう一度キスをした。驚いたイリアが大きな瞳を何度も瞬く。

「えっと、あの」
「後悔するなよって言っただろう? 俺は好きになった相手を手放すなんて絶対しないからな」

 少し顔を赤くしたリディオは照れ隠しなのか少し怒ったような声で言う。
 イリアはリディオとのキスを思い出にして身分の差から結ばれることをあきらめようとしていた。けれどリディオは違うようだ。
 そっとリディオが起き上ったイリアの額にこつんと自分の額を合わせた。

「君の言いたいことはわかる。だけど、最初からあきらめるなんておかしいだろう? だって君はこれから自由に生きるんだ」
「自由に……」

 そうだ、とイリアは思い出す。
 カルロを部屋から追い出した時、イリアは確かに『これからは自由に生きる』と言ったのだ。それはイリアの確かな望みだった。無意識に言葉が自然と零れ落ちる。

「私……私は、リディオ先生と一緒にいたいです」
「ああ、俺もだ。イリア、俺と一緒に生きてくれ」
「……はい!」

 ぽろぽろとイリアの瞳から涙がこぼれる。嬉しくて涙があふれたのだ。
 これからはどんなことがあってもあきらめない。大好きなリディオが一緒にいてくれるのならきっと大丈夫だ。
 イリアとリディオは笑い合ってもう一度キスをした。
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