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 晴翔が休憩室でコーヒーを片手に一息ついていると、店長の高槻たかつき圭吾けいごがやってきた。年齢は晴翔の一回り上で、整った顔立ちと頼れる雰囲気から、バイトのスタッフだけでなく女性客からの人気も高い。

「お、相変わらずコーヒー片手か。禁煙してもう何年経つんだっけ?」

 圭吾はニヤリと笑いながら、自分の缶コーヒーをテーブルに置いた。

「……もうすぐ五年っすね」

 晴翔はコーヒーを一口飲みながら、肩をすくめる。

「いやー、それでも続いてんだから大したもんだよな。で、禁煙のきっかけって、やっぱり――」
「言うな」

 晴翔が苦々しい顔で遮ると、圭吾は笑い声を上げた。

「へいへい、わかったよ。んで最近、凌さんとはどうなんだ?」
「別に、変わりねぇっすよ」

 晴翔はそっけなく答えたが、コーヒーを飲む仕草がほんの少しぎこちない。

「ほんとかぁ?朝、『エナジードリンク買ってきてくれたかも』とか言ってたけどさ、いい感じなんじゃねぇの」
「……それが何すか」
「何すかって、お前、あれでちょっと浮かれてただろ」
「浮かれてねぇっす!あれは、多分あいつが自分で飲むつもりだっただけっすよ。......俺のだとしても、ただの気遣いだろうし」

 晴翔がそう言い張ると、圭吾は吹き出した。

「気遣いで、わざわざお前の好きなやつ山ほど買うか?しかもお前、自分で切らしてたんだろ?」
「だ、だからって、それ以上でも以下でもねぇだろ」
「ほんっとにそう思ってんのか?」
「当たり前だ。......凌が俺を好きなわけねぇんだから」

 晴翔の声が少しだけ低くなる。

「なんでそう思うんだよ」
「あいつは仕方なく、事故で、俺のヒートに当てられて番になったんだ。結婚しなかったらオメガの俺が壊れちまうから、一応責任取ってるだけ。いまだに俺のヒート中はどっか出てくし」

 ぽつりと零れた晴翔の言葉に、圭吾が眉をひそめる。

「出てくって、凌さんが?」
「そう。俺のヒートが近くなると、わざわざ外泊してくんだよ。……他に付き合ってるやつでもいるんじゃねーの」

 晴翔は投げやりに言葉を続けたが、圭吾はしばらく黙り込んだ。そして鼻で笑うように呟いた。

「ほんとにそう思ってんのか?」
「……」

 晴翔は何も答えられなかった。その沈黙を見た圭吾が、小さく息を吐きながら続ける。

「お前、前に話してただろ?一緒に暮らし始めてすぐに凌さんのこと気になり始めたって」
「……あれは……まあ、そうだけど」

 圭吾の言う通りだった。あんなにかっこいい男と同じ家に住んで、たまに優しくされて、自分のためだけのフェロモンを感じさせられて――好きにならないはずがなかった。一緒に住み始めた直後から、晴翔の心はすっかり凌に陥落していたのだ。

「晴翔お前、凌さんとの子どもがほしいからって禁煙までしてんだろうが。あんなにヤニばっか吸ってたくせによ。そんだけがんばれるなら、凌さんに気になってること聞くとか、アタックするとかすりゃあいいじゃねぇか」

 晴翔は何も言えずに視線を落とす。その沈黙に、圭吾は大きなため息をついた。

「お前さ、いつまでそうやって自分で壁作ってんだよ」
「俺はむしろちょっとでも歩み寄ろうと......!」

 圭吾の言葉にがばりと顔を上げて、晴翔は何かを言い返そうとしたが、うまく言葉が出てこない。

「いいか?凌さんがどうでもいい相手だったら、エナジードリンク買ってきたりなんてしねぇよ。それに、あの人の感じだとさ――」
「......何だよ」
「いや、お前のこと大事にしてんのが滲み出てるってことだよ」

 圭吾はさらりと言い切ると、缶コーヒーを飲み干した。

「で、どうすんだ?俺が代わりに篠原社長に聞いてやろうか?」
「絶対にやめろ!!」

 晴翔が声を上げると、圭吾はまた大声で笑った。

「ま、俺は応援してるからよ。さっさと動けよな」

 休憩室の扉の前で、圭吾は振り返りざまに一言、『エナジードリンク、凌さんが飲んでるか確認しとけよ』と付け加えた。

「飲んでなかったらお前のために買ってきたってことだし、飲んでたら、お前の影響で飲み始めたってことだろ?どっちにしろ嬉しいなァ、晴翔?」
「う、うるせぇ!」

 晴翔が思わず叫ぶと、扉の向こうで圭吾の笑い声が響いた。





 夜のバイク屋はシャッターが下り、外灯だけが静かに店を照らしている。晴翔は工具箱を片付けながら、肩を回して大きく息を吐いた。

「……クソ、思ったより遅くなった」

 その声に応じるように、高槻圭吾がシャッターに鍵をかけて振り返る。

「お前がこんなに集中切らしてんの珍しいな。凌さんのことでも考えてた?」
「……凌には何も言うなよ」

 晴翔は自分のカバンを持つと、不機嫌そうに顔を背けた。

「ハイハイ、わかりましたよ。でも、そんなに気が散るなら休んでもいいんだぞ?凌さんもそう言うんじゃねぇの?」
「どうだかな」

 そのとき、駐車場に黒い車が滑り込んできた。見覚えのある車体に、晴翔は一瞬硬直する。

「……凌?」

 運転席から降りてきたのはやはり凌だった。いつもどおりの落ち着いた表情で、車のキーをポケットにしまいながら晴翔に目を向ける。

「帰りが遅くなるとは聞いていたが、あまりにも遅いからな」

 凌の声は淡々としていたが、晴翔の胸には小さな驚きが生まれていた。

(迎えに来てくれた……?いや、こんなの初めてだし……なんで、わざわざ?)

 戸惑いと嬉しさが入り混じる中、横で圭吾がニヤリと笑みを浮かべた。

「お、すげぇタイミングだな。篠原社長、晴翔のこと気になって心配だったんでしょ」
「や、余計なこと言うなって!」

 晴翔が慌てて振り返ると、圭吾は楽しそうに肩をすくめる。

「いやいや、これだけ大事にされてるんだから、お前もちょっとは感謝しないと」
「ほんとに余計だって!」

 晴翔が手を振り上げて圭吾に突っかかるようにするが、それを見た凌が二人の間に静かに割って入る。

「……そろそろ帰るぞ。高槻さんも、遅くまでお疲れ様です」

 その声には微かに冷たさが混じっていて、圭吾は一瞬驚いたように目を見開いたが、それはすぐに笑みに変わった。

「ありがとうございます。俺はこれで失礼しますんで、晴翔のこと、よろしくお願いしますね」
「言われなくとも」

 凌が静かにそう言うと、篠原社長の独占欲が隠しきれていないのを察して、圭吾は心底愉快そうにニヤついた。これだけあからさまなのに晴翔が気づいていないことが信じられない。

「はは、すっかりお熱ですねぇ。晴翔、お前、幸せ者だな」
「まじでやめろ!もう喋んな!」

 晴翔は慌てて圭吾を制したが、その反応がさらに圭吾を楽しませたようだ。

 圭吾が背中を向けて去っていく間、晴翔はなんとなく気まずくなり視線を泳がせる。

「助手席に乗れ」

 凌の短い指示に従い、晴翔が車に乗り込む。扉を閉めた音が静かな夜に響いた。

 助手席に座りながら、晴翔はそっと息を吐く。凌が迎えに来るなんて初めてのことだ。嬉しくて胸が熱くなる。

(でも、なんでだ?たまたま近くに来てたとか?)

 ちらりと凌を横目で見ながら、晴翔は疑問を胸に抱えたまま、車のエンジン音に身を委ねた。

 一方、駐車場から離れる凌の車を見送りながら、高槻はポケットに手を突っ込んだまま小さく肩をすくめる。

「ったく、どう見ても両想いじゃねぇか。俺、まるで当て馬だな」

 そう苦笑しながらも、「まあ、結果オーライならいいか」と呟いて、そのまま家路についた。





 家に帰ると、凌がテーブルに二つの弁当を広げた。晴翔は驚いたように凌と弁当を交互に見る。

「これは?」
「差し入れで貰った」

 凌はジャケットをハンガーにかけながら、淡々とした声で答えた。

「差し入れって、俺の分まで?」
「余分に渡された。食べないなら冷蔵庫に入れておいてくれ」

 晴翔は少し息を呑んだ。わざわざ自分の分までテーブルに並べてくれたことが、なんとなく嬉しかった。

(なんだよ、俺のこと気にしてくれてんのか......。)

 胸の奥がじわりと温かくなるのを感じながら、晴翔はおそるおそる言葉を探した。

「ありがとな。あの、今日は……その、いろいろと」
「気にするな」

 凌は一瞬晴翔を見たが、すぐに視線を弁当に戻しながら短く答えた。

(それだけかよ……やっぱり俺が勝手に期待してるだけで、凌にとっては、別になんでもないことなんじゃねーか。)

 夕食の間、ほとんど会話はなかった。晴翔が何か話そうとしても、凌は短く返すだけ。いつも通りの静かな食事だった。

 食べ終わると、晴翔は箸をそっと置き、椅子から立ち上がる。

「……俺、部屋行くわ。弁当、ありがと」

 静かな声だったが、そのトーンには明らかな落ち込みが滲んでいた。晴翔は少し俯きながら、音を立てないよう静かに部屋の扉を閉めた。





 凌が迎えにきてくれた日から、二人に何か変化があったかというと、全くなかった。これまで通り、夫夫の仮面を被る日常が続く。

 数日後の朝、晴翔は冷蔵庫を開けた。中には並んだエナジードリンクが手つかずのまま残っている。圭吾に言われた言葉が思い出され、むず痒い気持ちが胸の奥をくすぐった。

(これ、やっぱり俺のためってことだよな……?圭吾の言う通り、気にしてくれてる、のか?)

 晴翔はそれを一本取り出し、テーブルに座る凌の隣へそっと近づいた。

「あの……これ、ありがとな。俺がいっつも飲んでるやつ」

 凌は新聞から顔を上げ、ちらりと晴翔を見た。その目には、何か言いかけて飲み込んだような微かな動きがあった。

「大したことじゃない。たまたま見かけただけだ」

 そのそっけない言葉に、晴翔は一瞬言葉を詰まらせる。「もしかして俺のために?」と聞きたかった言葉は喉元で消え、晴翔はそれ以上何も言えず缶を軽く握りしめた。

 晴翔は小さく息を吐き、エナジードリンクを静かに鞄に入れた。





 その日、晴翔は朝から妙な怠さを感じていた。全身が重く、肌がじんじんと熱を持っているような感覚。

(……やべぇな。これ、明日くらいにヒート来そう。)

 戸棚を開けて、抑制剤を探る。すぐに手に取ったが、かなり量が減っていることに気づき、眉をひそめた。

(足りるか?いや、今まではこれで抑えられてたし、ギリいけるか……。)

 晴翔はため息を吐き、抑制剤を手早く水で流し込む。
 そのとき、リビングで電話をしていた凌が晴翔に向かって声をかけた。

「明日から急遽出張になった。一週間ほど家に帰れない」

 その一言に、晴翔の動きが止まる。

「……出張?」
「海外だ。時間がかかりそうで、まだ延びるかもしれない」

 凌がいつものように淡々と説明する間、晴翔は必死に口角を上げ、無理やり笑みを作った。胸の奥で醜い感情がぐるぐると渦巻いているのを押し隠すように。

(大丈夫だ、いつも通り、なんとかなる。抑制剤を多めに......って、あれだけで足りるか?)

「そっか、大変だな。気をつけて行ってこいよ」
「お前、この匂い......」

 凌が晴翔をじっと見つめた。その瞳には、心配の奥に焦燥と苛立ちが入り混じったような色が浮かんでいる。

「フェロモンがかなり強い。ヒートが近いだろう」
「別に俺は平気だって!元々俺のヒートは軽いし、いつもみたいに一人で大丈夫」

 晴翔は少し声を荒げると、手に持った抑制剤を見せた。

「ちゃんとこれ飲むし、もう慣れてるから。だから、俺のことは気にせず仕事を優先してくれ」

 晴翔の言葉に、凌の眉間に深い皺が寄る。

「お前、俺以外に相手してもらうつもりじゃないだろうな?......高槻とか」

 その一言に、晴翔の胸がざわりと凍りついた。

「……は?」

 何を言われたのか理解するまで、数秒かかった。その間に、凌はさらに続ける。

「普段から仲がいいだろう。高槻はお前を気にかけてるように見えるし、俺がいない間、何かあったら……あいつを頼るのか?もしかしてこれまでもーー」

 晴翔の手がぎゅっと強く抑制剤の袋を握りしめた。

「……お前、何言ってんだよ」
「俺がいなくても、高槻がいれば安心だと思ったんじゃないのか?」
「そんなわけねぇだろ!」

 晴翔の声は震えていた。悲しくて、虚しくて、なんでこんなことを言われなければならないのかわからなくて。涙が滲むのを必死に堪えた。

「もう、ほっとけよ!」

 晴翔は自分の部屋へ駆け込んだ。扉を閉め、ベッドに倒れ込むと、堪えていた涙が次々とこぼれた。

(俺の番はお前だろうが。お前以外に、抱かれたいわけがあるかよ、クソ......!)

 身体は熱を帯びているのに、心の中は冷え切っていた。





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