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第一章 若き虎

第一話 一ノ瀬谷の戦い

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戦場は、良心と悪意の混在する場所だと誰かが言った。だが違った。戦場は……

「地獄だ」

自分自身の呟きで、ハッと意識が醒めた。

眠ってしまっていたのか。どんな状況だ?今は何をしてる?
「おい兼続、お前何ぼーっとしてんだ!すぐに準備しろって!」
葉が落ち始めた深い森林の中、親友の橋本雄一郎の声でやっと今の状況を把握することができた。
そうだ、今は天文15年。3年前から始まった黒田秀忠との戦争も佳境に差し掛かり、ついに黒田の本拠地である黒滝城の手前、一ノ瀬谷まで黒田本軍を追い詰めたところだ。

そして、そんな中兼続たちに「あの方」から下された指令は……

「黒部の森で待機、一刻経ったら谷を降りて敵本陣を急襲しろ!?」 

作戦を伝えた時の部下たちによる全力の狼狽が思い出される。当然の反応だろう。
なぜなら、その場所は。
「黒部の森って言えば、今輝虎様の本陣がある場所よりも後ろ側じゃねえか!」
「殿は地図を読み間違えているのではないのか…?」
「……輝虎様の思惑は、輝虎様ご本人にしか分からない。今回も、きっと何か大きな戦略を練っておられるのだろう」
「いや、お前そうは言ってもな…」
つい一年前に元服を迎えたばかりの15歳ではあるものの、その天賦の軍才を見出され、直江家当主として最年少で戦地に送られた直江兼続と彼の率いる直江親衛隊は、越後軍の中でも無類の精強さを誇る強部隊だ。だがそれ故に、こんな場所に配置されていることが無駄に思えてしょうがないというのは部下たちの本音だろう。
「お前たち、今まで輝虎様から下された命の中で、実行するまでその意図が読み取れたものがあったか?」
「…それは、まあ数える程度には…」
「逆に言えば、それしかあの方の思考を理解することはできなかったということだ。では聞くが、あの方の作戦が失敗したことがあったか」
全員が口をつぐむ。無いものは言えないからだ。
「つまりはそういうこと。俺たちにできることは、輝虎様を信じて戦うことだけだ」
コクリ、とその言葉を聞いた全員が覚悟を決めたように頷いた。
木々の隙間から見える太陽が、この森に入った時から西にかなり傾いている。
そろそろだ。
「後方に伝えろ。これより奇襲作戦を開始する」

「輝虎様、前列の敵の勢いが激しくなってきました!押し返されます!」
自分の中ではもう詰んでいる戦でも、部下たちにとってはまだ生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。
少し上の空になっていたところを腹心の北畠義道の声で我に返った。
左目の眼帯に手をやる動作は、思考を冴え渡らせるために輝虎が行うルーティンだ。
「…後ろに下がらせろ。というか、前方の部隊全てを少しずつ後退させろ」
「承知しました。……敵に勘づかれないように、ですね」
おそらく今の会話の中で自分の真意を読み取ったであろう義道に、少し驚かされた。さすがは父の代からの有力武将だ。戦術に対して目が肥えている。
「本陣も合わせて後退するぞ!天幕を畳んで馬を出せ!」

この一ノ瀬谷は、左は断崖、右は緩やかな坂ではあるものの登り切った先には深い森が広がっており、攻める側にとっては伏兵の心配をしなければならない。
それなら、こちらが守勢に回ればいいだけの話だ。

「秀忠様!こちらの押し込みが効き始めたのか、越後軍の本陣まで後退を始めたようです。如何なされますか!」
黒田秀忠。その勢いに任せた果敢な攻めによって、数々の戦いに勝利してきた攻めの達人として知られる。しかし輝虎との戦いでは連戦連敗、ここまで追い詰められた彼が、敵の本陣をやっと押し返し始めたとなれば、取る手は一つしかないだろう。
「よおし、このままの勢いで敵を越後まで押し返してやれ!全開だ!全ての力を出して奴らを潰—」
ドドドドッ、とどこからか大量の蹄の音がするのに気が付き、黒田秀忠はそこで言葉を切る。
そして、音がする左方の坂を見た彼は目を疑った。

200騎余りの騎馬隊が、勢いよく駆け降りてくるのだ。黒田本陣との距離は、もういくらもない。

「左から敵の騎馬突撃が来るぞ!本陣守りはすぐに配置につけ!前方の部隊もここに集めろ!」
部下たちが慌てふためく中、とにかく冷静に対処しようと努める秀忠。 
だが、そこに追い討ちをかけるようにして前線から報せが入る。
「ぜ、前列から……輝虎の本陣が、輝虎自ら打って出たようです…!」
その報せに、さしもの秀忠も言葉を失った。
なんということだ。これでは、打つ手が……
「殿……輝虎本陣の勢い止まらず、もうここまで破られるのにそう時間はかかりません!はやく黒滝城まで退避を!」
「左方の騎馬隊も、凄まじい強さです!このままでは…!」 

本陣守りの部隊はすでに、坂から来た敵の騎馬隊と潰しあっている。後ろに下がろうにも、ほとんどの兵をここに残していかなければならない。それでは結局ジリ貧だ。
おそらくこの騎馬突撃も、あらかじめ準備されていたものだ。敵が後ろに下がったのも、この位置まで儂ら本陣を引っ張り出すための罠。

完璧な戦だ。
これを、まだ18かそこらの若者が展開したとは。笑いすら込み上げる。

「やはり、儂の才では及ばなかったか…」

戦は生き物だ。少なくとも、輝虎はそう考えている。生き物と同じ、不変なものは何一つない。

総鉄造りであり、長さは七尺、現代の単位で言えば重量は80キロにもなる、長尾家相伝の家宝『天ノ白鉾』を片手で振り回し、敵を粉砕して進む圧倒的な膂力。
そしてここぞという場面で自ら矢面に立って味方を鼓舞する輝虎の姿は、のちにあの織田信長や武田信玄をして「軍神」と恐れられる天才、上杉謙信の匂いを微かに漂わせていた。
そんな輝虎の前に立つ黒田軍の兵士たちは、なすすべなく打ち砕かれるのみ。もはやその流れは、誰にも止めることができないほどに。
敵を殲滅するまで、止まることはない。

「見えたぞ、敵本陣だ!ほんとに真下に来てる!」
「よし、決して勢いを殺すな!このまま突っ込んで必ず、敵総大将の首をとる!」

凄まじいお方だ。あそこから後ろに下がることで敵を引きつけ、敵の意識が完全に攻勢に回ったころに横陣突撃をしかけて混乱させる。
そして最後はやはり、輝虎が最も得意とするあの形。
正面からの強行突破が来る。
「なあ兼続、輝虎様が率いてるあの騎馬隊って…」

突撃前に目にしたのだろう。殺し合いの最中とは思えないほど高揚した表情を浮かべてこう話すのは、副長の橋本雄一郎である。
同じく高揚している兼続は、上擦った声で言う。

「ああそうだ、ついにあの方の最強私兵団が……白虎隊が動いたんだ!」

「す、すげえ勢いだ……ここからでも見える、ぶつかってる敵兵が吹き飛んでるぞ」
「まああそこは別格だからな…」
と、もう何人斬ったか分からないが、ついに目の前の敵の波が途切れた。

絶好の好機だ。
「おい抜けたぞ!このまま俺たちで、秀忠の首を取るんだ!」
オオッ!と一層部下たちが士気を高めたのを感じる。
いける。このままいけば…!
「おい兼続、見えたぞ!右側のでかい旗のところにいる!」
言われたように右側を見ると、一際大きな旗の下、人が集まっている場所がある。
そこの中心に騎馬している豪勢な鎧の男。その瞬間確信した。
あの男が大将首の!
「詰みだ、秀忠!」
護衛らしき騎馬数人がこちらに向かって斬りかかってくるところを袈裟に斬り伏せ、勢いそのままに目の前の将目掛けて刀を振り上げた。
が、それはブラフだ。瞬時に刀を収めて体勢をグッと低くする。
「若造にやられるほど衰えておらんわ!」
すかさず下から斬撃を繰り出してくる秀忠。しかしいつの間にか刃を鞘にしまっている兼続の姿を見て思考が停止したのか、ピタリと動作を止めている。今まで斬り合いの最中に刀を収める人間など聞いたことがないのだろう。
それはそうだ。この技は、初見の敵を必ず殺すための必殺の技なのだから。
「抜刀術」
兼続がボソッと呟く。越後の国に伝わる剣技であり、今は亡き影虎の編み出した剣技の一つ。

瞬き一つの合間に、生き物のように鞘から飛び出した刀身が秀忠の首を跳ね飛ばした。

「月光」

3年にわたる黒滝反乱は、これにより完全に平定された。

戦国の世に起こった反乱の中でも宗教に関わるものを除けばこれはかなり大規模であり、この反乱を自国の力のみで抑え込んだ輝虎の手腕はやはり二十歳前の若者とは思えないほど突出したものである。

しかしこの時代、天下統一をかけて覇を争っていた将たちのほとんどがこの突き抜けた才能に気付いておらず。
越後の怪物は、こうしてゆっくりとその牙を研いでいくのだった。

これは、「越後の龍」「軍神」とその武名を400年以上語り継がれることになる戦国の大天才、上杉謙信の物語である。
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