僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十六章

初訪問後編

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 居間に戻った僕は、おじいさんに請われるままキャッチボールをした。球技が大の苦手だった僕にとって、野球は小学校の体育の授業で一度習ったきりの最も縁遠いメジャースポーツだったが、教え方の大変上手なおじいさんのお陰で「楽しい」とすぐ思えるようになった。体の動かし方が支離滅裂なうちは5メートルの距離で焦らずゆっくり投球フォームを改善し、次いで捕球フォームも改善して両者の間隔を少しずつ広げてゆき、そしてそれが20メートルに達する頃になると、僕は夢中になってキャッチボールをしていたのだ。またそれだけでなく、会話を示す「言葉のキャッチボール」やコミュニケーションを示す「想いのキャッチボール」のように、キャッチボールという語彙が野球を離れて広く浸透している理由も、僕はおじいさんに教えてもらった。相手本位の投球と自分本位の投球を織り交ぜることにより、キャッチボールを楽しんでいる自分が相手に伝わり、相手が楽しんでいることも自分に伝わって、ボールと想いの両方をやり取りしてゆく。ボールの届く位置、ボールの速度、ゴロにフライにライナーなどの様々な場面を組み合わせることで、時には穏やかに時には激しく、そして意表を突くボールでたまにギャグをかましながら、僕はおじいさんとキャッチボールをした。よってそれを終えた時、
「楽しかった~」「汗だくだ~」「眠留君、風呂に入ろう!」「いいですね、お背中流します!」「「ギャハハハハ~~」」
 なんて感じの年齢を超えた友達のような、昔から仲の良かった親戚のような感覚を、僕らは抱いていたのだった。

 午後四時から四時半という夕方に属する時間でもそれが八月十四日の関東地方の場合、体感する暑さは真昼とほぼ変わらない。そんな時間に三十分も屋外でキャッチボールをしたのだから、僕とおじいさんは「ゲリラ豪雨に遭ったの?」的な状態になっていた。汗が衣服からポタポタと、絶え間なく滴り落ちていたのだ。にもかかわらず、キャッチボールの話に夢中なせいでそれに全く気づいていなかった僕とおじいさんは、
「二人ともストップ、裏口に回りなさい!」
 玄関前で仁王立ちするおばあさんに敷居をまたぐことを禁じられてしまった。自分達の現状をようやく知った僕らは恐縮し、家の裏へトボトボ向った。でも、
「おじいちゃん、眠留くん、はいどうぞ」
 裏口で輝夜さんからバスタオルを手渡されるや、二人揃って恐縮顔をニコニコ顔に変えた。そんな僕らに輝夜さんはクスクス笑い、
「服とタオルはここに入れてね」
 と屋外洗濯機の蓋を開け、ドアの向こうに去って行った。そうこの家の裏には、農作業で汚れた服をすぐ洗える屋外洗濯機があったのだ。加えてこの家は、森と畑に囲まれた一軒家。住宅街なら法に触れてもここなら問題ないとばかりに素っ裸になった僕らは、バスタオルで汗と泥を丁寧に拭き、そのバスタオルも洗濯機に入れて裏口をくぐった。
 真水のシャワーを直に浴び、体のほてりを取ってから湯船に浸かる。農作業で疲れた体を癒すためなのだろう、この家の浴槽はとても大きく、おじいさんと二人並んで浸かっても手足を折りたたむ必要がなかった。四肢をのびのび伸ばし、夢見心地でお風呂を楽しんでいると、独り言を呟くようにおじいさんが過去の話をしてくれた。
 野球漬けの少年時代を過ごし甲子園にも出場したおじいさんは、息子と野球をするのが夢だったと言う。それは叶わなかったが、娘の葉月さんがキャッチボールによく付き合ってくれて、おじいさんは嬉しくて堪らなかったらしい。ただそれでも、青春を野球に捧げた元甲子園球児としては、物足りなさを拭うことができなかった。葉月さんはインハイとインカレで個人戦七連覇を成した人だったから体の切れは申し分なくとも、目が捉えた体の切れと左手に伝わる球威のギャップに、男女の筋力の違いをどうしても感じたそうなのだ。しかしそれは誰にも告げず、男の子の孫が生まれてからの楽しみにおじいさんはしていたが、それも叶うことは無かった。よって夢を心の奥深くに封印し、近頃は思い出す事もなくなっていたのに、今日思いがけず長年の夢が叶った。ボールを介して会話でき、投球と捕球を純粋に楽しみ、鋭い動作で鋭いボールを投げ返してくる、若さみなぎる少年。同じ年齢だった半世紀以上昔、当たり前のように毎日聞いていた、スパーンと鳴るグローブ。それと同時にずっしり響く、左人差し指付け根の骨の痛み。全身をしなやかに使い捕球したボールを、全身の筋力を瞬時に絞り出して投げ、それをひたすら繰り返してゆく。そんな無心な時間を、今日は数十年ぶりに過ごすことが出来た。ありがとう眠留君と、おじいさんは話したのである。僕にできたのは湯船のお湯で顔をジャブジャブ洗い、
「お背中流します!」
 元気よくそう言うことだけだった。それでもおじいさんは、
「さすがは男の子、背中を力強く洗ってくれるわい」
 と、感謝の言葉を幾度もかけてくれたのだった。

 入浴後は縁側でおじいさんと将棋を指し、午後五時半から夕ご飯をいただいた。十匹の頭猫は帰宅していたが長老猫は食事の席にいて、せっかくなので数日間滞在させてもらう事になったと話していた。人の手が入っていない山や森は猫の本能をくすぐるらしく、散策しているだけで若返る気がするのだそうだ。狭山湖と多摩湖の水源となる場所は柵を設けられていて、開発禁止かつ立ち入り禁止が百三十年続いている事もあり、原生林と呼んで差し支えない森が湖を取り囲んでいるのは事実と言えよう。だが、
「いっそ引退なさって我が家を隠居宅にされたらいかがですか」
「太母どのの魚料理にメロメロの、儂を誘惑せんでくだされ」
 なんて会話をしつつ恍惚の表情で鰹のタタキを頬張っている様子を見れば、山や森より魚料理から離れがたく思っているのが一目瞭然の、長老猫なのだった。
 もちろん僕と末吉も、おばあさんお手製の美味しい料理にメロメロだった。そんな夕飯の光景におじいさんは上機嫌になり、年に三回のみと決めている晩酌の最後の一回を敢行した。お猪口をクイッと煽るその姿が祖父と重なったので何気なくお酌をしに行くと、逃がすものかと捕まえられ、キャッチボールを散々褒められる事となった。さっきの裸の付き合いでおじいさんの胸の内を明かしてもらっていたからそれは全然かまわなかったのだけど、おじいさんは泣き上戸だったらしく、
「輝夜に釣り合う男がこの世にいるとは思えず心配でならなかったが、眠留なら安心だ」
 とオイオイ泣き出したのは困った。しかも酔っ払いは際限なくエスカレートしてゆくものなので「眠留と言えど若さに任せた行動は許さん!」に始まり、「だから早く結婚しろ」や「とりあえず結納だけでも済ませるか」や「婚約者なら儂も煩いことは言わなくもないぞ」などと宣い始めたため、僕は涙目になってしまった。まあでもその程度は、目に入れても痛くない孫娘には、お茶の子さいさいだったのだろう。
「おじいちゃん。私はまだ、おじいちゃんのそばにいたいな」
 輝夜さんにそう言われたおじいさんは泣くことしかできなくなり、おばあさんと輝夜さんに付き添われて退場する運びとなった。だが去り際、
「眠留、今日はありがとう」
 その一言を伝えるべく酔いを一瞬で吹き飛ばしたおじいさんに、僕は同じ男として、深々と頭を下げたのだった。

 午後七時、僕と末吉は輝夜さんの祖父母宅をお暇した。先程のおじいさんの振る舞いを詫びるおばあさんに、お風呂場で夢についてお聞きしましたから大丈夫ですと答えると、育ち盛りの男の子にご飯をいっぱい食べてもらって私も夢が叶ったと、満面の笑顔で返してもらえた。暇乞いをするのが僕だけだったら、僕は玄関を湿っぽい場にしてしまっただろう。でも、
「おばあさん、来月また来ますにゃ」
 末吉の絶妙なフォローのお陰で、カラッと爽やかな別れの場となった。
「楽しみだわ、首を長くして待っているね」
「眠留くん、末吉君、また明日」
「また明日」
「お休みなさいにゃ~」
「「「お休み~」」」
 こうして僕と末吉は、九時間滞在しただけとは到底思えない素晴らしい想い出がたくさん詰まったこの家を、後にしたのだった。
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