僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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八章

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「女の子は花に似ているという気づきを土台に、俺は心を無にした。花の気配が、くっきり定まったように感じた。すると同じ種類の花でも、それぞれが異なる気配をまとっていることに気づいた。俺は視覚を越える感覚で、花々を感じられたんだね」
 それが嬉しかった真山はお花畑に体を横たえ、時間を忘れて周囲の気配を感じていた。すると、遠くの山からこちらに近づいて来る、動物の気配がした。猪や熊と獣道ですれ違うなど慣れっこになっていた真山でも、その気配に戦慄を覚えたそうだ。真山は記憶を蘇らせるように、顔を上に向けた。それはまるで、高い山を仰ぎ見ているようだった。
「その生き物は、気配がとにかく巨大だった。本当の体はもっと巨大だが、その体ではこの世界で活動不可能なため、この世界用の小さな体にああして無理やり入っている。俺はそう、直感したよ」
 京馬のご両親が中央アジアの大平原で出会った白馬が、ふと脳裏をよぎった。白馬がヒヒ~ンと、肯定のいななきをした気がした。
 巨大であっても邪悪ではないその気配を迎え入れるべく、真山は立ち上がった。100メートル四方の野原はおろか、野原のある山よりも大きなその気配が近づくにつれ、草木や岩が喜びに震え始めた。ほどなく真山はその訳を知った。気配の境界が近づいてきて通過するなり、真山の心が温められたのである。
「風呂に入ると体がポカポカして、それに引っ張られて心も元気になる。お風呂のお湯は物質だから、同じ物質の体に先ず作用して、それが心に影響を及ぼすという順番になるんだね。でもその気配は、逆の順番で俺に作用した。まず心がポカポカになり、つられて体も元気になる。言葉で説明すると、こんな感じかな」
「湖校歴代一位の風呂好きとして名高い真山と幾度も一緒に入浴した僕は、湯船に浸る真山の様子から何となく想像できる。さぞかしポッカポカのニッコニコに、なったんだろうね」
「いやあ、あはは~~」
 頭を掻き掻き、真山はニッコニコの笑顔を振りまいた。それに釣られて温められた僕の心が、はっきり感じた。その時の体験が決して消えない温かさとなって、真山の心の中に今も残っているのだと。
「野原の草や木と一緒になってポカポカしていると、岩を跳ねる蹄の音が聞こえてきた。その音だけで、蹄がどれほど大きく脚がどれほど強いのか俺には判った。判っていても、それが岩の上に姿を現したとき、息を呑まずにはいられなかった。それはあり得ないほど巨大な、牡鹿だったよ」
「ウオオオ―――!!!」
 雄叫びが全身からほとばしった。低身長に悩む人生を送ってきたからか、僕は大きな生物が好きでたまらない。小学生のころ、そんな僕の誕生日プレゼントとして、上野動物園に北斗と昴と美鈴の四人で出かけたことがある。しかし象やキリンを飽きもせず眺めていた僕のせいで、四人そろって動物園を訪れたのは、それが最初で最後になってしまった。建前上は僕が心ゆくまで楽しめるよう遠慮している事になっていても、とてもじゃないが付き合い切れないというのが皆の本音だ。僕としては、カバやサイの素晴らしさをなぜ理解できないのかというのが本音だけど、好みを強要する訳にもいかず、僕はいつも一人で巨大動物たちに会いに行っていたのである。
 そう話した僕へ、それなら話は速い、と真山は頬を紅潮させた。
「その鹿の胴体はサイの胴体ほどもあり、しかもその胴体に触るには、つま先立ちで手を掲げなければならなかった。これで想像できるかい」
 僕は息を呑み、理解した。その鹿を見た真山がどれほど驚き、そしてどれほど、その鹿が大きかったのかを。
 純粋な大きさ以外にも、動物を大きいと感じる要素は三つある。一つは、胴体の位置。仮に、象の上下が逆転した動物がいたとする。背中で地面をい、足の裏が最も高い場所にある動物だ。その動物と象はサイズや体重は同じでも、二匹を並べると、象の方を大きいと感じる。見上げるほど高い位置に巨大な胴体がある方を、「でっかいなあ」と人は思うのだ。 
 大きく感じるもう一つは、寸法を拡大する事。例えば道端に体長5ミリの蟻がいても、よほどの蟻嫌いでない限り、「アリがいるなあ」程度しか人は思わない。だが、体長30センチの蟻が歩いていたらどうだろうか。驚きを通りこし、恐怖を覚えるほどの巨大アリと感じるのではないだろうか。これは逆にも当てはまり、体長1メートルのクジラを水族館で見かけたら、「なんて小さいクジラなの!」と人は驚く。このように、この動物はこれくらいのサイズという認識からはみ出ると、人はそれを大きいと感じたり小さいと感じたりするのだ。
 最後の一つは、太さ。これは植物にも当てはまる、生物全般のことと言えよう。高さの同じ木が二本並んでいても、「幹の太い方がデカイ」と人は感じるものなのである。
 以上の三要素を、真山の出会った牡鹿はすべて満たしていた。鹿は、四足動物の中でも長い脚を持っている。その長い脚の上にサイと同じ大きさの胴体が乗っていて、しかもそこから首が悠々と伸び、そして頭部の先端から、鹿特有の枝分かれするつのが雄々しく広がっている。脳裏に出現したその鹿の角は、地上6メートルもの高さに達していた。息を呑んだまま何も言えずにいた僕の耳朶を、真山の声が優しく震わせた。
「見上げるほど大きな体をしていても流石は鹿で、飛ぶように岩を降り、牡鹿は俺の目の前にやって来た。身長の二倍以上の高さから見下ろされても、俺はちっとも怖くなかった。というか、何だかとても懐かしくてさ。無意識に両手を掲げて背伸びしたら、牡鹿は頭を下げてくれた。両手で抱えるのが精一杯のその頭を、俺はしばらく抱きしめていたよ」
 冬の屋外にいるはずなのに、真山は湯船に浸かっているかのような笑みを浮かべた。気づくと僕の心も、ポカポカになっていた。
「抱きしめたその頭から、牡鹿の想いが直接心に響いた。俺は促されるまま空を見上げた。夕暮れの兆しの漂う空が広がっていた。心に再び想いが響いた。『また来なさい、送っていこう』 送られるってことは別れを意味するのに、俺は嬉しくてはち切れそうだった。その背に乗り山をゆく映像を、牡鹿が心に映してくれたんだよ」
 その映像を受け取るなり、真山は目当ての岩に走りそれを登った。その岩は牡鹿の背中の高さで横に突き出る形をしていて、真山は難なくその背中に腰を据えることができたそうだ。
「俺を背に乗せ牡鹿が翔ぶ。でも、しなる体躯とバランスの良さのお蔭で、牡鹿が岩を乗り越えるとき俺ははしゃいじゃってさ。安全だと分かっている遊園地の絶叫マシーンに、乗っている気分だったよ」
 約四か月前の、夏休みの記憶が蘇った。サッカー部に僕を誘ってくれたあの日、真山は僕を呼び止め「猫将軍のような人間は初めてだよ」と言った。それ以外にも過分に褒められた気がしたがそれは無視し、「猫将軍のような人間は初めて」という部分だけを記憶からすくい上げた。これは大切な情報として保管せねばならないと、なぜか強く思ったのである。
「牡鹿の背中から見る眺めは格別だった。見慣れた風景でも目線が高くなるだけで面白く感じるのに、牡鹿は俺の知らない場所ばかりを歩いた。大人の背丈より高い草が湿地に密生している、草池と俺が名付けた場所を泳ぐように進んだ、その先の森。獣道すら通じていない、いや獣たちが意図的に道を作らなかった領域の奥には、不思議な森が広がっていた。動物、植物、土、空気、それらの意識が一体となって、一つの意識を形成している森。かつて人もその一員だったが、星座の形が変わるほどの歳月をそこから離れて過ごしてしまった、原初の場所。そんな森が、そこには広がっていたんだ。俺が牡鹿を懐かしいと感じたのは、多分それなんだろうね」
 真山によると、牡鹿が訪れたのはその森の前庭のような場所でしかなく、その奥に本格的な庭があり、そして更に進むと、招かれなければ決して入れない宮殿のような空間が広がっているのだそうだ。そこを訪れたか否かを明かさずそっと瞑目する真山の邪魔をせぬよう、僕も目を閉じる。すると翔体に、風を感じた。
 真山という窓を介してそよぐ、その森の風を。
「不思議な森を抜けても、牡鹿は獣道を使わなかった。開けた場所も巧みに避けて牡鹿は歩いた。道に蹄の跡を残さず姿もさらさないのだから、この鹿の噂を耳にしなくて当然だなって、俺は思ったよ」
 それ以外にも、牡鹿はしばしば立ち止まり、遠方をじっと見つめていたと言う。山に詳しい真山には、その視線の先に人の利用する小径があり、そしてそこから見えないギリギリの場所に牡鹿が立ち止まっているのが解ったそうだ。「その鹿にとって山は、西遊記に出て来る、お釈迦様の掌のようなものなのかな」 そう呟いた僕を「譬えが巧いね」と、真山は褒めてくれた。
「牡鹿が山をゆくにつれ夕暮れは濃くなり、森に一足早い夜が訪れた。俺達を照らすのは、うっそうと茂る木々の隙間から覗く、明るさを微かに留めた空だけだった。だがじきにそれも消え、俺達は完全な闇に包まれた。なのに牡鹿の足取りはまったく変わらなかったから、眠留の譬えたとおり、お釈迦様の掌のようなものなんだろうね」
 山を愛し山に親しんできた真山でも、それほど暗い森を移動するのは初めてだった。瞼を閉じているのか開けているのか判断付かないその闇に、ふと思った。これはむしろ、得難い状況なのではないかと。
「何かの気配を探る時、人は無意識に目を閉じるよね。なら、目を開いていても閉じているのと変わらない今は、目を開けたままモノの気配を感じ取る、得難い機会なのではないか。そう思った俺は、それをしてみた。すると、牡鹿がクスリと笑ってさ。我も手伝おうって、言ってくれたんだ」
「ウオオオ―――!!!」
 僕は拳を握り雄叫びを上げた。けどその直後、
「あれ?」
 僕は首を傾げた。そう言えばさっきも同じように雄叫びを上げたけど、あれから意外と時間が経っている気がする。それについて僕はなぜ、焦りのようなものを感じるのだろう。
「眠留、ベタな質問だけど、ここはどこで、今は何の時間だい?」
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