僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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五章

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 見学は午前十時半から、山頂の道場でなされることが決まった。拝殿へ挨拶を終えた輝夜さんと昴が、こうしちゃおられんと道場へ駆けてゆく。その輝夜さんの背中に、僕が背負わせてしまった雑念は、もうない。全身で安堵の息をつき、毎朝恒例の一人礼拝を僕はこっそり行った。 
 境内の箒掛けを済ませ、母屋の掃除に移る。それも終わらせ、美鈴と一緒に朝ごはんを食べる。その際、神社の仕事で手伝えるものがあるか訊いてみるも、「なんにも無いよ」とあっけらかんと返された。仕方ないので台所を片付けてから祖父母に同じ質問をしたのだけど、「なにも無いのう」「なにも無いわねえ」なんて、またもやノンビリ返されてしまった。のれんに腕押しの見本の如きそのあっけなさに、やっと気づいた。おそらく、としか言いよう無いがおそらく僕は、猫将軍眠留という存在のすべてをけ二人の見学をせねばならぬため、その準備時間を与えられているのだ。先ほどの二人にも勝る「こうしちゃおられん」に駆り立てられ、自室を徹底的に掃除し、湯に浸かり心身を清め、拝殿の小部屋で桔梗との訓練のおさらいをした。そして時間を見計らい、新品の白い下着と、同じく新品の胴着と袴を身に付け、山頂の道場を一人目指す。
 午前十時二十五分。
 僕は道場の扉をくぐった。

 一礼し、扉のすぐ近くに正座。
 改めて、道場内部を見渡した。
 この道場に、板を敷き詰めた天井はない。梁がむき出しになっていて、屋根のある場所まで高い天井が続いている。そのお蔭で圧迫感のまるでない、広々とした解放感がここにはいつも漂っていた。
 天井を支える壁は漆喰。この分厚い漆喰の壁は夏の暑さを遮断し、室内を涼しく保っている。また白い壁は光をよく反射し、僅かな照明だけで充分な明るさを確保していた。
 道場の床は、一辺18メートルの正方形。正確にはもう少し広く、この道場が建てられた大正時代の尺貫法で、ちょうど十間四方なのだと言う。
 床材は、道場には珍しい白の無垢板。色が白いので弱々しい印象を受けるが、爆渦軸閃ばくかじくせんを発動しても床を踏み抜くことが無いよう、三枚の板を重ね合わせ10センチ近い厚みを持たせていると祖父は話していた。
 その床の中ほどに、昴と輝夜さんが6メートルほどの間隔を置き、横並びに正座していた。並び順は右が昴で、左が輝夜さん。約四週間前の夏休み初日、翔薙刀術の稽古中はこの席次になるよう、二人は水晶に命じられていたのだ。
 昴と輝夜さんは木製の薙刀を膝元に置き、瞑想している。
 僕も心を無にし、瞑想を始めた。

「これより、猫将軍眠留の見取り稽古を始める」
 いつの間にか現れていた水晶が、見学開始を朗々と宣言した。僕はゆっくり瞼を開く。昴と輝夜さんもゆっくり薙刀を手に取り、同じくゆっくり立ち上がった。
 立ち上がった二人は、一回の足の上げ下げに四秒はかかる足踏みを、しばし行っていた。僕らは一時間程度の正座なら板張りの上でも難なくこなすが、それでも万全の状態で稽古に臨むべく、ああして足に血液を送り込んでいるのだろう。僕は心を静め、準備運動が終わるのを待った。
 足踏みが終わり、二人は薙刀を中段に構えた。すると不意に、少しずつ少しずつ、窓から差す日の光が弱められていった。太陽が雲に隠れたのではなく、どの窓も開け放たれたままだから、これは水晶の神通力のなせる技。水晶の神通力は音にも及んでいるらしく、ほどなく道場は光と音の存在しない、闇と無音の世界となった。水晶が厳格な口調で心に語りかけてきた。
「本来は翔人といえど、弟子でない者に見取り稽古はあたわず。されど汝は自力でこれに辿り着きし故、一度だけそれを許すものとする。直弟子らがこれより鍛えしは、物質肉体にあらず。物質肉体の上位者である諸上位体こそを、鍛えしものなり。汝、翔化視力へ切り替えるべし」
 僕はやろうと思えば肉眼でも赤外線や紫外線を捉えられるが、水晶がこれから見せようとしているモノは、それをも凌駕する何かなのだろう。僕は命じられたとおり翔化視力に切り替え二人を見つめた。それはとても美しく、そしてそれ以上に、神秘的な光景だった。
 まず見えたのは、体中に張り巡らされた神経だった。白銀はくぎんの松果体から流れ出た青白い光が、神経を伝い体中に運ばれていた。その神経から僅かに溢れ出た光が、感覚体となって二人を包んでいた。知識としては知っていたが感覚体の原理をこれほどはっきり見たのは、これが初めてだった。
 次に見えたのは、体を駆け巡る光の風だった。松果体から吹きいずる光の風が、心臓の鼓動とは異なるリズムで体内を駆け巡っていた。
 そして最後に見たのが、光と風によって形成されつつある無数の細胞だった。それは通常の速度を遥かに超えて、二人を新しい二人に創り替えていた。
 とその時、二人が動き始めた。翔薙刀術の稽古がついに始まったのだ。僕は固唾をのみ二人を見つめた。だがその直後、目に飛び込んできた予想外の光景に、僕は言葉を失った。なぜならそれはただ一つの要素を除き、薙刀部員が屋外練習場で行っている、普通の基本打突でしかなかったからだ。
「ほうほう、これぞ驚愕といった感じじゃの」
 水晶がいつもの口調で心に語りかけてくるも、僕は無言で首を縦に振ることしかできなかった。そう、僕はあることに驚愕していた。なぜなら輝夜さんと昴は、僕の編み出した超絶ゆっくり動作で、基本打突を行っていたからである。
せんから述べておる、汝は自力でこれに辿り着いたが、このゆっくり稽古じゃ。敗北が死に直結する実戦において、相手より素早く動くことは、生死を分かつ最重要要素じゃ。然るに、素早さを得るための素早い稽古は、必須と言えるじゃろう。だがそれは、一長一短での。素早い稽古は物質肉体の鍛錬に向いておっても、肉体の上位者たる上位体の鍛錬には向いておらん。上位体には、ゆっくりした動作こそが馴染む。眠留が三年前、思うままに動かぬ体を、思うままに動く体へ瞬く間に創り替えた仕組みも同じ。眠留は翔刀術のゆっくり稽古で、己の上位体を、まさに創り直したのじゃよ。眠留、独力でよくぞこれに届いた。天晴れじゃったぞ」
 僕は黙って頷き、心に像を結んだ。「水晶には後で、最高の感謝を述べます。何回でも何十回でも頭を下げます。だから今は、目の前の光景に集中することを、どうか許してください」 言葉によってではなく、そうしている自分を心に思い描くことで、僕は水晶に自分の想いを伝えた。まったく同じ方法で、まこと天晴れな小冠者こかじゃじゃという想いが水晶から伝わってきた。僕は再度頷き、そして食い入るように昴と輝夜さんを見つめた。なぜなら、僕は初めて理解したからだ。体を動かすことの根本的な仕組みと、そしてそれが、体にもたらす効果を。
 初めに、体を動かす意思が脳に生まれる。それは電気信号の光となり、神経を伝い体の各部へ運ばれ、そして末端神経からほとばしったその光が、筋肉を収縮させ体を動かしていく。ここまでは感覚的に理解できる、普通のことだろう。だが、体を動かすという事はこれで終わりではなかった。これによってもたらされる効果が、その先に二つあったのである。
 効果の一つ目は、末端神経が増えてゆく事だった。神経を伝いやって来た光が末端神経からほとばしると、そのほとばしりに沿い新たな神経が形作られていた。平たく言うと末端神経は、筋肉を動かすことで増やせた。そして増えてゆくからこそ、以前は不可能だった細やかで正確な動きが可能となるのだ。しかし、これで終わりではなった。なぜならその次に、二つ目が控えていたからである。
 効果の二つ目は、脳の神経も増えていく事だった。筋肉を動かす神経が増えると、筋肉から送られてくる電気信号も増える。自分の手足が以前より細やかに動いている様子を、増加した神経がより繊細に感じ取るため、末端神経から脳へ送られる電気信号の量も増えるのだ。すると、それを処理する脳の神経も増えてゆく。末端神経からやって来る光の量が増加し、それが以前より強い光となって脳内にほとばしると、その光に導かれ新たなシナプスが形成されていく。効果の二つ目である脳神経の増加と、それによる脳溝のうこうの深化は、こうして成されていたのだ。
 その様子をこの目で直に観察し、僕は知った。体を素早く動かす際は単純な電気信号を瞬時に送信し、体をゆっくり動かす際は複雑な電気信号を長時間送信し続けるのだと僕は知った。然るに僕は理解した。複雑な電気信号を長時間送信し続けるゆっくり動作の方が、神経の増加率と増加速度は、大きいのだと。
「うむ、正解じゃ。神経は物質器官であると同時に、上位体の意思を肉体へ伝えるための器官でもある。ゆえに神経は、上位体を成長させる稽古との相性が極めて良い。三年前、眠留の運動能力が急速に改善されたのは、このゆっくり稽古によって、両端の神経が増えたからなのじゃよ」
「両端というのは、筋肉側の末端神経と、脳側のシナプスで、良いですか」
「うむ、それで良い。これまで研究してきた知識が、役立ったようじゃの」
「ありがとうございます。言葉では言い表せないほど、水晶には感謝しています」
 僕は心の中で正座し、水晶に深々と腰を折った。するといつも以上の、好々爺丸出しの大笑いが心に響き渡った。
「ふおうっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。殊勝な心掛けじゃが、ちいとばかり気が早いの。眠留、次は翔化聴力に切り替えてごらん」
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