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第一章 第三節 幻影

第58話 あれ、わたしじゃない……のに……

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 夕方に帰投したレイとヤマトのふたりは、ロボット検査員による生体検査と、アイダ李子医師による簡単な心理検査を受けたのち開放された。それらがひと通り終わると、時間はすでに22時を回っていた。
 レイは熱いシャワーに身を委ねながら、帰投する途中で交わした会話を思いだしていた。
 軍事用パルスレーンを使っての高速移動中、こちらの疲労を考慮してなのか、ことば少なめに各部署の担当が声をかけてきた。ブライト司令官は「無事でよかった。よく健闘した」という内容の教科書通りのねぎらいの言葉、エドやアルたちからは「俺たちが力不足で申しわけなかった」という謝罪のことばがあった。ただ、リンとミライはなぜか、言いにくそうな口調で、母のことを尋ねてきた。レイは訊かれたことだけを答えたが、アスカが突然会話に割り込んできて「あんたのお母さん、見たわよ」と鼻高々に言ってきたので、なんとなく合点がいった。
 あの幻影は自分だけでなく、ほかの人にも見えたのだ、と。
 あれだけ、ずうずうしい母のことだから、それくらいあっても特に驚くこともない。死んだあとまでこちらに迷惑をかけるのは勘弁して欲しかったが、それももう終わった。
 シャワーからでると、更衣スペースのすぐ脇にある鏡の前に立って全身を眺めた。日頃のトレーニングのおかげで筋肉質な部分はあるが、肩から腰までのラインはなめらかで、華奢なままだった。いっこうに胸が膨らむ様子もない。
 レイは首筋をきれいに見せる胸鎖乳突筋の稜線に指を這わせた。デコルテと呼ばれる鎖骨のくぼみを際立たせていて特に嫌いだった。ここは、母がいつも自慢していた部位だ。
 レイは指を3本立てて、空中で揺らした。すぐに正面のガラスと背後の壁から同時に、猛烈なエアーが吹き出し、レイのからだについていた水滴をあっと言う間に吹き飛ばした。
 レイは浴室をでると、すっぱだかのままベッドに倒れ込んだ。あおむけになって、あの亜獣アトンとの最後の戦いを振り返る。その思考を読み取ったのか、メディアの映像が天井に投影されて、アトンとの戦いのシーンのニュースが流れ始めた。
 当然のようにトップニュースで扱われてはいたが、メディアでは今回の戦いではめずらしくひとりの犠牲者も出なかった、ということが、ことさらに強調されて報じられていることがわかった。
 レイはそれを、見るとはなしにそれをぼーっと眺めていると、突然、自分の映像が映し出されたことに気づいた。月基地での訓練を映したものだった。下の方に『資料映像』とある。レイはため息をついた。メディアで自分が取り上げられるときは、きまってこの時の映像が使われる。
 ほかの訓練生とのシミュレーションゲームでの決勝戦で勝利をおさめたときの映像。画面の隅にお互いの数字が表示されているので、レイが相手をゼロ封して勝利したことがわかる映像だ。レイがいかに優秀なパイロットであるかを、煽る演出なのは理解していたが、毎回、これが使用されるのは、どうにも気に入らなかった。
 画面のなかのレイは、拍手喝采を送っている観衆を前に、それに答えるように晴れやかな笑顔で力強く腕を突きあげていた。
 レイは眠りにおちいりながら、その映像にむかって呟いた。
「あれ、わたしじゃない……のに……」

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 彼女が病理学への道を志したのは、亜獣に肉親を奪われたからだった。
 75番目に出現した『ボトマズ』と命名された亜獣は祖父と母の命を奪った。直接的な犠牲ではなく、亜獣が残した残留物による、食や水の汚染による間接的な被害が原因だった。その症状は二十一世紀後半に根絶されたはずの『溶血レンザ球菌』通称、『人食いバクテリア』と呼ばれたものに酷似していた。たちが悪いことに、生体チップで秒単位でのヴァイタル・データの管理があったにもかかわらず、この病原菌はあっという間に劇症化した。パンデミックで一気に世界中に蔓延したこの病気は百万人近くの命を奪った。
 このような悲劇を繰り返したくない、自分とおなじような目にあわせたくない、という思いで、彼女は国連軍の研究機関での職を希望した。
 だから、今回、ブライト司令からの、からだに浸潤しんじゅんする謎の粘着物の検査依頼は、その願いをかなえる興味深いものだった。
 今、自分のまわりで忙しく動きまわっている数体の助手の医療ロボットや、そのロボットと連動して検査を繰り返している多くのAI装置に囲まれて、彼女は充実感を感じていた。ありったけの機器を同時に稼働させたおかげで、彼女の前におびただしい数の検査結果が次々と提出されてきている。自分でも少々やりすぎたか、と思いはしたが、一秒でも早く正確な分析結果が欲しかった。すでに退庁時間をすぎているが、真夜中までひとりで残業する価値があると感じていた。
 ふと、彼女はいくつかの機器からアラート音が鳴っているのに気づいた。隣の『死体安置所』でなにか、機械の不具合があったようだった。ふつうなら事前に故障を予見したAI装置から、修理ロボットのほうに連絡がいくはずだ。
 彼女はふーっとため息を吐くと椅子からたちあがった。面倒ではあったが、すでに数時間も報告書類に目を通していたところなので、むしろちょうどいい息抜きになるかもしれない。
 「死体安置所」に入室すると、ぶるっとからだが震えた。もともと低い温度設定にはなっているが、こんなに冷えることはない。壁一面に遺体を保冷する引き出しがあるだけなのだ。特に室内の温度設定に注意をはらう必要もない。
 彼女は腕をさすりながら、部屋のなかを見渡した。どういうわけか、ひとつの引きだしが開いていて引き出されていた。そこから冷気がずっと出っ放しで、部屋の温度が下がっていたのだ。あわてて駆けより、その引きだしの把手に手をかける。中を覗き込むと、検査中のあの身元不明の浮浪者の老人の遺体だった。
 エア・エンバーミングと呼ばれる、ドライエアの冷気の煙のようなもので全体が覆われていて見えにくかったが、まちがいなく老人の顔がそこにあった。彼女はほっとして引きだしを押し込もうとした。だが、なにか違和感があった。
 遺体のからだをつつむエアを手でふっと薙ぎはらった。
 そこに身体はなかった。
 老人の顔はそこにあったが、首から下が無くなっていた。
「まぁ、大変!」
 彼女はこめかみにひとさし指を押しつけ、テレパスラインを作動させた。死体が盗まれたとしたら、まだ外に犯人がいるかもしれない。彼女はうしろをむいた。
 そこに首のない胴体だけが立っていた。
 うしろにある冷暗庫の引きだしの中から声がした。

「次はおまえの番……」
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