狗神と白児

青木

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本編

第六話 中へ

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 あれから五日が立った。シロの体の調子は、すっかり万全で、斑の家の使用人として本格的に働くようになった。見慣れないものばかりの設備にも理解が追いつくようになり、台所の使い方も分かってきた。ただし、やはり火の元ということもあり、一人で立つには今も不安だ。長く料理をする際は、大福が火を扱い、シロは食材を切るといった分担で成り立たせることになった。とりあえず、シロ一人で湯を沸かすことは出来た。勝手口の近くでは大福が洗濯物をしているので、もしもの際は助けを求められるから安心だった。
 旦那様に茶の一杯でもお渡ししてこい、という大福の指示で、こしらえてみた。棚に置かれている茶筒はいくつかあり、そのうちの七宝柄の茶筒が食卓でよく使われている。茶葉の香りは、どことなく甘く、けれど飲んでみると、塩気を流すようなさっぱりとした味わいが特長で、村にいた頃のシロは飲んだことのない、淡溶茶あわときちゃと呼ばれるものだった。
 淡溶茶を盆に乗せて和室へと進むと、すぐに見つけた。晴れた空の遠くを、腕組みしながら眺めているらしい長着姿の背中は高く、頭部には犬の生首を被るような外見。斑は、紺色の羽織をまとう形でほとんど過ごしている。
「あの、お茶を……」
 斑の視線はシロのつむじに向けられる。「ありがとう」
 シロは、そっと下がるつもりだったが、静かに引き留める言葉が続いた。
「その服、着心地が悪いか」
「え、あ、いえ、大丈夫です」
 相変わらずシロは、目覚めた時から着せられていた浴衣姿だ。シロが持参していないのは勿論、主の斑も、まめに掃除をする大福も、この家のどこにまともな女物の衣類があるのか、分からなかった。浴衣すら、どうにか引っ張り出してきた一枚だったとのことだった。大きな蔵や押し入れ、物置と化している空き部屋はあるが、命を救われた新入りの使用人が漁っていいものか分からず、遠慮するしかないシロの普段着はこれだった。
 ただ、裁縫道具を大福から借りれたので、丈を調整すると、しっくりくるようになった。とはいえ、シロにとって浴衣は寝間着に近い着物なので、その寝間着で一日中過ごすというのは、中々恥ずかしい。常世の価値観なのか、斑と大福の価値観なのか、二人はそれを全く気にしていない。それとも、自分が知らないだけで、現世でも普通の姿なのだろうか……そんなことをシロは思った。
 斑は再び空を見た。
「少し考えがあるから、待っていてくれ」
「あ、はい、失礼します」
 優しく追い払われた気がする。ここのところ、斑は考え事に耽っているらしかった。

 勝手口を出て井戸の側に行くと、じゃぷじゃぷと水音を立てて洗濯に励む甚平姿の大福がいた。
「大福さん、私はこっちの枕当てとかを洗うね」
「おう」
 水が張ったたらいに洗濯板を浸け、薄い布を丁寧に擦り始める。火には不慣れなシロでも、流石に幼い頃から仕込まれた洗濯には慣れている。
 召し物を担う大福は自分の甚平を洗い終え、水気を落とすと、桶に投げた。
「旦那様、今日も縁側にいらっしゃったンか」
「うん」
「何だか不思議だ。腰をかけて休んでいらっしゃることはよくあるけど、あんな風にずっと立って、ぼんやり空を眺めるなんて、珍しいンだよなぁ」
「そうなんだ」
 シロは斑を知らない。知らない上に、理解も出来ない。多分善意の持ち主であることは分かるけれど、平淡な態度と奇妙な風貌から、どうしても手放しで慕うことは難しい。少なくとも、大福のように忠誠心を捧げようとは思えなかった。
 大福は、焦茶の帯を洗いながら、ちょっとおどけたように言い出した。
「甘露の雨でも気にしてらしたりするンかなぁ」
「かんろ?」
「知らねーの? あ、現世じゃ降らないンか。めっちゃくちゃ美味くて貴重な雨水。甘露の取り合いで喧嘩しちまうこともあるンだってさ。雨女と雨男の婚儀の大盤振る舞いだとか言われてるけど、オイラ飲んだことも見たことも無いから詳しくは知らん。でも、旦那様はもしかしたら知ってるかもな。長生きしていらっしゃるから」
 斑について語る時、いつも大福は楽しそうで、誇らしそうだ。
「ねえ、大福さんは、あの人に仕えて長いの? どうして付き従うの?」
「……」
「……ごめんなさい。嫌味みたいに言って。ただ、気になっただけで……」
「オイラ、身内を全員殺されたンだ。鎌鼬って妖怪に」
 唐突な告白にシロは固まった。
 大福は、子供らしい見た目にそぐわぬ物憂げな笑みを浮かべる。
「今よりもっとガキの頃、オイラが住んでた里に、いきなり鎌鼬共が現れた。あいつらの尻尾は刃みたいな凶器だ。その凶器で、みんなを斬り殺していった。おっとうも、おっかあも、姉ちゃんも、兄ちゃんも。親戚も殺された。友達も殺された。よく遊んでくれた隣の家のおっちゃんも。よく干し芋くれた向かいの家のおばちゃんも。すぐ難癖つけてきやがった嫌いな奴も。みんな殺された」
 一つ息を吐き、それからも続ける。
「だけど、オイラだけ助かった。おっかあが逃がしてくれた。生まれたばっかりで、まだ人に化けることも出来ない妹を抱っこしたまま、オイラを崖から突き落とした。だから、おっかあの死体すら見てない。でも斬り殺されたのは分かってる。音で分かる。鎌鼬の鎌で裂かれると、ギンギン響いて鼓膜まで痛くなるンだ。妹は……」
 大福は、それ以上言わなかった。母と同じく死体を見ていないのか、あるいは、斬り殺されるよりも酷い死に様を見てしまったのか……。
「死に物狂いで逃げて、もう動けなくて、倒れてたンだ。そしたら、旦那様が現れた。助けてってお願いしたら、助けてくれた。見ず知らずの、へっぽこ妖怪を。しばらくして、怪我が治って、本当は他のすねこすりの里を探すつもりだったけど、旦那様は命の恩人だし、神様みたいだから、お世話させて下さいって無理に頼んで、今もいさせてもらってる。……オイラの身の上はこんなとこかな」
 大福は、隣のたらいから、水音がすっかり止まっていることに気付いた。見ると、シロの顔色は曇天模様だ。
「おい、しんみりすんな!」
「……気安く訊いて、ごめんなさい」
「オイラはもういいンだ。鎌鼬が憎くて堪らねーのは一生変わらンけど、きっと妹達は死者ノ國で休み終えて、生まれ変わってる。それに旦那様と出会えた。それでいいンだよ。ほれ、お前もちゃんと洗え」
 顎でしゃくってやると、シロは薄暗い表情のまま、それでも素直に洗濯を再開した。
 大福は、唱えるように呟く。
「旦那様は優しいお方だ」
 そして心の中で溜め息を吐く。
(だから、いい加減、お前も慣れろよ)
 斑に茶を渡してこいと言ってやった時の、戸惑った表情。横髪の毛先をちょっといじってから、不安げに頷いた仕草。先は長いだろうけれど、見守るしかない――年長の使用人は密かに頷き、帯を裏向けて擦り始めた。

 洗濯物を洗って、干して、畳んで……妖の世界でも人と変わらない日常を過ごし、すっかり夜が更けた。
 シロは起きていた。一度は寝台に入ったのだが、何となく瞼を閉じる気になれず、花型の笠――蛍光灯と呼ばれるものを使った照明器具を見上げていた。
 ついに、それにも物足りなくなってしまう。寝台から出ると窓辺に歩み寄り、窓掛けを開けて夜の外を眺めることにした。
(旦那様は、優しいお方……)
 大福が聞かせてくれた酷く痛ましい身の上と、斑を慕う言葉を思い返す。常世や妖怪の情けの価値観が人と全く同じであるなら、斑はどこまでも慈悲深き者ということになる。大福が慕うのも当然だ。
 それなのに、いつまで経っても距離感を掴めず、怖気付いているばかりの自分は、命を救われたというのに、何と薄情なことだろう。いつかは伸びる髪を知らぬ間に切られたくらいで、見た目が「人ならざるモノ」であるくらいで、悩み続けてはいけないのだろうか……。
 悩んでいるから、彼のことを、知りたいと思い始めている。
 人の体に犬の頭を持つ、善意の男の奥底を。
(あの人の正体は……何?)
 斑が言っていた。神宿りには心眼という技がある。人に化けている妖を見破る力は特別なのだと。事実、少年の姿をしている大福の奥に、初対面で、すねこすりという妖の形を視た。
 何気無い思いつきに過ぎなかった。〈本性〉を探るつもりなど無かった。ただ目を閉じ、頭の中で、目の前にはいない黒犬の男の背中を思い描いた。
 眉間に、紺色の蛍火が浮かんだ。
 ――視るな。
 一瞬だった。声が聞こえた。いや、「想い」が圧しかかった。
 まるで、水の中に落ちて、耳に水が詰まり、音という音が遠ざかり、閉塞感で満ちた時のような感覚。拒絶された、という感覚だけが鮮明で、恐らく再び試したところで「そこ」をこじ開けられることは出来ないだろうと直感が働く。
 シロは肩を震わせた。何をしたのか、してしまったのか、分からない。
「……怖い」
 疑念は恐怖となり、悩みを強固にさせる。
 幼い頃からおかしな出来事に見舞われた。何かに髪を引っ張られたと訴える度、両親は幼児の戯言と切り捨てずに守ってくれた。父は無骨な手で頭を撫でてくれたし、母は子守唄を歌ってくれた。おかげで怖くなくなり、安心して眠れたのだ。
 夜の森を眺める今、恐れを消してくれるものは無い。もしもあるとすれば、あの挿し櫛だろうに。
 シロは目を伏せて呟く。
「蛇の川……。波蛇の、根城……」
 川に呑まれ、見つからないとしても、母の形見を探したい。行きたい。あの場所へ。
 ――そう望んだ瞬間、異変が起こった。
 窓が緩やかに、勝手に開き始める。ささやかな夜風が隙間から入り、頬を撫でる。驚いたシロは、自然とそちらへと目を向けた。
 両開きの窓の向こうには光の歪みが生まれ、夜を掻き消し、道が続いていた。
 シロは固まった。先程まで見ていた深い夜色に包まれた森が無い。あるのは果てしない道。
 恐れから身を守りたいと思ったくせに、自ら恐れを生み出してしまった。足が震える。寝台に潜り込むべきか、部屋を飛び出すべきか。
 すると、シロの心と連動するように、徐々に道がしぼんでいく。このまま見ているだけではいけない気がした。自分が望んだから、これは開かれたのではないか。自分の為に作られたのではないか。都合良く解釈して言い聞かせるうちに、足の震えが収まっていく。
 入ってはならない先の、重い門に触れた気分になりながらも、開ける。
 シロは、縋る一心で窓の「中」へと飛び込んだ。
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