可惜夜に浮かれ烏と暁の月

るし

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第二十節気 小雪

次候――朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)

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 もうあと数日で暦は十二月だ。それなのにどうして、こんなところにいるのだろうと、暁治はコートの襟を引き上げる。首をすぼめても、北風と――海風が冷たい。吹き付ける風は身に染みるほどだ。
 この季節に海デート、などと考えるやつの気がしれない。そんなことを思いながら、海辺で楽しそうな後ろ姿にため息をつく。目の前では、トンビコートの裾がひらひらと揺れ、下駄を履いた足がびょんびょん跳ねていた。

「なんで選択肢が海、なんだよ」

 異議申し立てをしようと声をかけたら、実に機嫌の良さそうな顔が振り向いた。瞳が輝いてウキウキした様子が見てとれる。その顔に一瞬ためらいが湧くけれど、寒いものは寒い。
 夏の時期、青かった海は灰色を帯びて、寒々しいことこの上なかった。間違っても、水に入ろうなどという気は起きない。

「もっとほかにあるだろう」

「僕ももっと、ぬくぬくしたところがいいけど。そうすると余計なのがついてくるから。でもほら! 猫は水が嫌いだし、大男は泳げないから海は嫌いだって」

「……そういや、そうだったかな」

 子供の頃、プールの時間を桜小路は泣いて嫌がっていた。冷たい水が苦手なのだとか。顔に水が触れると息が止まる感じがして、嫌だと言っていた気がする。溺れた経験でもあるのだろうか。
 しかしそのおかげで、木枯らしの吹く海をチョイスされたわけだ。少しばかり幼馴染みが恨めしく思えた。それでも二人きりになる機会が、まったくないことを思えば、致し方ないのか。

 少しだけ心を改めて、暁治は砂浜でしゃがみ込む恋人の傍に寄り、手元を覗き込む。するとぱっと顔を持ち上げて、得意気になにかを差し出してきた。
 それはブルーグレーのシーグラスだ。

「はるっぽい」

「俺はくすんだブルーか?」

「若さが足りなくて、どこかおじいちゃんっぽい……いひゃいっ! 嘘うそ! 落ち着いてて大人っぽいっ」

 失礼極まりないことを言う口を、遠慮なく摘まみ上げると、慌てたように訂正された。そして眉をひそめる暁治に、えへっと可愛い子ぶった笑みが返される。無駄に可愛い顔をされて、悔しくなった暁治は、朱嶺の額を何度も叩いた。

「ひどいよ、はるってば。冗談だったのに」

 額を押さえて眉尻を下げる顔に、ふんと顔をそらせば、覗き込むように顔を寄せられる。さらにそらすと、また追いかけてくる。今度はくるりと背を向けたら、背中に抱きつかれた。
 冷えていた身体には、コート越しでもぬくもりを感じる。いつものようにすりすりと、頬を寄せてくる感触がして、黙って暁治はそれを受け入れた。

「海ってなんだか雰囲気が出るよね」

「は? からっ風が吹く中で雰囲気とかない」

「えー! はるってば情緒がないな」

「お前に言われたくない」

「ほら、静かな冬の海を見てるとさ。世界に僕たち、二人っきりって感じがしない?」

「砂吐いていいか。いや、砂糖か」

「もう、はる!」

 予想外なことを言われて、思わずからかうような言葉を返してしまった。いつもほわほわふわふしている男が、急に甘い言葉を吐くものだから、変にドキドキとした。
 背中にくっつかれていると、それが伝わりそうで、暁治は黙って砂浜を前進する。いきなり歩き始めた恋人に、朱嶺は慌てたようについてきた。

「はるは、あの大男のほうがいいの?」

「そんなこと言ってないだろう」

「僕は最近とっても寂しいんだけどなぁ」

 そっと握られた手にまた暁治はドキリとする。子供みたいに体温の高い手。ぎゅっと握りしめられれば、手の平に熱が伝わる。かじかんだ指先に、とろりと絡む熱は心地がいい。
 しかしそれを感じながら、ぼんやり灰色の海を眺めていると、また勘違いした朱嶺が叫び出す。

「はるは僕のこと好きじゃなくなったんだ!」

「え?」

「昔の恋が再燃! とかそういうのー!」

「は?」

「僕はぽいって捨てられるんだ~!」

「うるさいよ、お前」

 確かに人気のない海だけれど、まったく人が来ないとも限らない。人聞きの悪いことを叫ばれて、うっかり誰かの耳に入っては敵わない。だがまだ叫び出しそうな朱嶺の口を塞ぐと、不満げにじとりと目を細められた。
 暢気に思えていた男にも、ストレスのようなものがあったのか。確かに最近のあの家は人口密度が高い。部屋から放り出して、廊下で寝させたことをまだ、恨みに思っているのかもしれない。

「悪かったよ。たまには、その、またどこか」

「じゃあ! 今度は温泉旅行に行こうよ! 僕のことが嫌いじゃなかったら」

「温泉?」

「美味しいご飯食べようよ! 僕のことがまだ好きだったら」

「ええーい! ウジウジするな! 女々しいぞ!」

 要望のあとについてくる言葉が、正直うざったい。ぶんと握られた手を振り解いて、暁治はまた大きなため息をつく。するとしくしくと泣き真似を始める。
 泣いたら弱いと思うなよ、と思いつつも、ぐっと言葉に詰まった。

「その費用は誰の財布から出るんだよ」

「婚前旅行なら、兄者が出してくれるって!」

「……婚前旅行ってなんだ! というか、結局人の財布かよ」

「僕の財布は、はるとの結婚生活のために温めておくね」

 両手を頬に当ててにっこりと笑う顔に、思わず暁治の手が伸びる。鼻先を摘まむと、ふがっと情けない声が出て、ぷっと吹き出してしまった。むぅっと口を尖らせる表情に、ますます笑いが込み上がる。

「はるって時々、鬼のように意地悪」

「時々、お前の顔を見てると腹が立つ」

「ええっ? それひどくない?」

 無駄に整った顔で甘えられると、拒否できないから、とは口が裂けても言えない。よよよっとわざとらしく、砂浜に泣き崩れる朱嶺をつま先で蹴飛ばした。
 別に面食いだったわけではないのに、と心の中で独りごちる。しかしそれでは朱嶺が、可愛くて仕方がないから、なんて答えが出てくる。そんなことはない、決してない――無意識に暁治はぶんぶんと首を振った。

「はぁるぅ! はるは僕のこと嫌いなの?」

 着物の砂を払って立ち上がった朱嶺が、下から上目遣いで見上げてくる。あざとい、そう思いはしても、この顔が暁治は嫌いではない。けれどそれでは顔が好きなのか? という疑問が湧いてくる。
 顔目当て? 見た目重視? 子供の頃から面食いだったのか。それはそれで、自分が残念すぎる気がした。

「はる、なに考えてるの? 変な顔になってるよ」

 つんつんと頬を突かれて、暁治は我に返る。そしてじっと目の前の顔を見つめてから、違うなと思い直した。
 人形のように美しいと思いはしたが、傍にいるだけで温かい、そんなところが好きになった。いや、それも正しくない。好きになった、ではなくて、惹き寄せられたが正しい。

「嫌いじゃない」

「えー! うーん、じゃあ、嫌いの反対は?」

「……す、好き?」

「よくできました!」

 ぱぁっと花が咲いたような笑顔とともに、近づいてきた気配。少しだけ背伸びをした朱嶺の、唇が口先に触れた。柔らかくて温かい。瞳を閉じれば、そのぬくもりはさらに何度も触れる。

「やっぱり、この身長はちょっと足りないなぁ」

「そうか? 俺的には丁度いいけど」

 身長差は十センチほど。先ほどのように朱嶺は背伸びをしなければ届かない。それでも暁治にすると、手が届きやすい高さだ。
 さらさらと風になびく髪を撫でれば、パチパチと瞬きしたあと、彼はほんわりとした笑みを浮かべた。満足そうなその顔に、暁治にも笑みが移る。

「いっぱい撫でていいよ」

「お前の頭は秋色だな」

 鮮やかな色。それはまるで浜辺に散る紅葉みたいな色。春も夏も秋も冬も、キラキラとしていて美しい。光に透けると淡く見えるけれど、夕陽に染まると燃えるような朱に変わる。
 それはくるくると変わる表情ともよく似ていた。

「はるはねぇ」

「俺はさして珍しい色じゃないだろう。黒いだけだし」

「そんなことないよ! ほら、僕のこれと一緒!」

「えっ? わっ、こんなところで広げるなよ!」

 バサッと羽音が響いたかと思えば、大きな漆黒の翼が広がる。それを目に留めると、あたふたと暁治は辺りを見回した。遮るもののない広い空間で、誰かに見られやしないかと心配になった。
 だが当の本人は素知らぬ顔だ。

「烏羽色って言うんだよ。艶やかで綺麗だよ。髪も瞳も」

 ふわっと綻ぶような笑みを浮かべて、背中に腕を回される。そして彼の翼が包み込むように身体を覆い、その温かさを感じて暁治はふっと笑みをこぼした。
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