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第二十節気 小雪
初候――虹蔵不見(にじかくれてみえず)
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庭に立ち、遠くを見れば山の尾根が白くなっていた。もう季節は、秋から冬へと移り変わり始めている。頬を撫でる風も、昼だというのにひんやりしていて、陽射しがなければ身震いするほどだ。
先日、実家へ帰った妹から電話が来た。向こうはまだまだ秋だという。こちらは冬支度をしたというのに。冬囲いの済んだ庭の木々を見ながら、暁治は肩をすくめる。
雪囲いとは、寒さや雪から樹木を守る冬支度。雪で背の低い木が押し潰れたり、重さで枝が折れないように、縄で巻いたり、竹で囲いを作ったりする。本来であれば雪囲いは、十二月に入ってから行うらしいのだが、請け負ってくれた石蕗家の庭師は、シーズンはかなり忙しいとのこと。
だがサービス価格でやってもらえたので、感謝しかない。おそらく祖父が毎年お願いしていたのだろう。野ざらしにならなくて良かった。そんなことを言われた。
「暁治! 昼ご飯にゃ」
「ああ」
聞こえた声に後ろを振り返ると、キイチと桃が縁側からこちらを見ている。働き者の二人だ。もう一人の居候と言えば、こたつむりになっていた。猫はこたつで丸くなる、という歌があるけれど。天狗もこたつで丸くなるものなのか。
そういえばこの家に来たばかりの頃も、こたつの住人だった。しかしわからなくもなかった。こたつは魔性だ。電源を入れる前から、こたつ布団をかぶるだけで寝てしまうほどに。
「今日も豪勢だなぁ。桜小路、いつも悪いな」
「いや、世話になっているからな」
宮古家に増えた住人。いや正しくは客人。半年休みができて、この近くに家を借りて住み始めた。しかし一人飯は寂しいとのことで、飯時にはやってくる。
それも手土産付きだ。なので追い返すに追い返せない。今日も天ぷらを土産に持ってきた。ひーふーみーと数を数えれば、一人五種類ほどある。いいところのお坊ちゃんは、どうやら財布が分厚いようだ。
このところは彼のおかげで、いいものばかり食べている。一応気を使っているのだろう。朱嶺に比べたらかなり謙虚だ。飯をたからないし、大人しいし。
最初の頃の朱嶺は、人の家のご飯を当たり前のように食べていた。今日のご飯はなに? なんて平然と聞くのだ。いまは食糧を持ち寄るようになったので、成長は、したか?
首を傾げながら、暁治はこたつに足を入れる。すると先住の雪がにゃーと鳴きながら、顔を出す。彼女は一足先に、桜小路にマグロの刺身をもらっていたのを知っている。
うちの猫飯を食わなくなったらどうするのだ、と思いつつ、人が美味いものを食べているのだから、雪だけ仲間外れはないなと思い直す。
「いただきます」
今日の昼飯は天ぷらと蕎麦。蕎麦はスーパーの乾麺だが、天ぷらが立派なので気にならない。
天ぷらと言えば海老天、と思うところだけれど、代わりに蟹足が二本もあった。身が太くてぷりっぷり。海老もいいが、蟹もいい、などと適当なことを考える。暁治的には美味ければなんでもいいのだ。
「牡蠣の天ぷらなんて初めて食べるな」
フライや生で食べたことはあったが、サクサクの衣とじゅわっと広がる旨味に感動すら覚える。天汁があっさりなので、何個でも食べられそうだった。
珍しい種はもう一つ。爽やかな青じそにホタテが挟まれている。これまた貝の旨味が、以下同文。素朴なレンコンとカボチャはほくほくで、あっという間に平らげてしまった。
最後にズルズルと蕎麦を啜り、ほっと息をつく。鰹出汁の効いたつゆは、崎山さんのところの自家製つゆだった。これはうどんで食べても美味いので、今度作り方を教えてもらう約束になっている。
「はるー! お茶煎れたよ」
両手を合わせてごちそうさま、と頭を下げる頃には、タイミング良く湯飲みが目の前に置かれる。以前はお茶まで暁治が煎れていたが、最近では黙っていても出てくるようになった。
近頃は特に朱嶺が率先して席を立つ。これはわかりやすい牽制だ。なぜだか桜小路が、暁治に気があるのだと勘違いしている。単なる幼馴染みだと言い含めたけれど、まったく信用していない。
「ほうじ茶なんてうちにあったか?」
鼻先に感じた香ばしい匂いに、暁治は首をひねる。いつもお茶といえば緑茶だった。貰いもののお茶が来年まで持つのでは、と思うほどにあるからだ。
「ああ、緑茶の賞味期限がいくつか切れそうだったから、フライパンで煎ったんだよ。サトちゃんが教えてくれた」
「へぇ、美味いな。ん? 湯飲みが一個足りないぞ」
暁治、キイチ、桃、朱嶺――桜小路の分がない。小さな嫌がらせにため息が出る。俺は構わない、と言われても、客人は客人だ。しかし暁治が立とうとすると、口を尖らせた朱嶺が、渋々と言ったように立ち上がる。
「すまない。ありがとう」
そこで申し訳ない顔をする桜小路は、やはり天然だ。他人にカチンとすることは、まずない。嫌がらせのしがいがない相手だ。
それでも朱嶺がめげずに、あれこれと意地悪するのは、どこか暁治が彼に対して、気が引けている部分を感じているから、かもしれない。原因はフったフラれた、ということではないのだが、朱嶺なりに気を使っているようだ。
しかし当の本人は食事が終わり、子猫の雪に夢中だった。そういえば昔から猫が好きだったと思い出す。大きな身体に小さな子猫はアンバランスだが、猫じゃらしを操る姿は実に楽しそうだ。
「宮古」
「ん?」
「あのふわふわの黄色い猫はいないのか?」
「えっ?」
ふいに問いかけられた言葉にぎくりとする。食器を片付けていた、キイチも小さく飛び上がる。黄色いふわふわの猫とは、キイチの元の姿だ。時折朝一番にやってくるので、猫の姿で寝ているキイチを見かけるのだろう。
「二匹いるなら一匹くれないか?」
「半年経って、実家に帰る時どうするんだよ。あっちにも猫がいただろう?」
「うーん、その時は返すよ」
「返すって、うちの子はものじゃありません!」
思わず暁治が大きな声を上げれば、目を丸くして驚く。たまに発揮する、この無神経とも言える部分、変わっていない。決して悪いやつではないことは知っている。ただ正直すぎて、思いやりに欠ける時があるのだ。
その性格を理解していたとしても、なにげない気持ちで発した言葉に、傷つく相手だっている。
「すまない。いまのはお前に失礼だったか?」
「猫に失礼だ」
「そうか、気をつける。お前はすぐに言ってくれるから、ありがたいよ」
「……うん」
まっすぐな桜小路の返事に、暁治は言葉に詰まる。いままで言えたことなど、彼が思っている半分もない。なんでも言えたなら、あの時も遠慮なく言い返していただろう。
つまらない絵だ、そう言われて黙っていられるほど、本来の暁治は気が小さくない。それでも彼にだけは引け目を感じていた。圧倒的な才能の差、その言葉に尽きる。
「たまに癒やされに来ていいか?」
「え? まあ、たまになら」
毎日のように来ているのだから、もうたまにではない気がするけれど。反省しているようなので、そのくらいは譲歩しようと、暁治は頷いて見せた。これは美味い飯と引き換えだ。雪はとことん構ってくれる、桜小路に懐いているようだし。
「はーるー」
「なんだよ」
「僕はいますごく心が寂しい」
「は?」
後ろにおぶさるように、のしかかってくる朱嶺は、暁治の頭にすりすりと頬を寄せる。大げさに妬いて見せないところは、やはり成長したように思えるが、この状況はどうなのだと、首を傾げたくなった。
誰が本命なの? などと妹に興味津々に聞かれた時には、冷や汗が出た。中身が三百を超えた妖だとしても、一般的に見ると、高校生をたぶらかしている教師に見える。
結婚しようね、などと言っていたが、この微妙な構図はいただけない。学校を卒業するまであと一年。あらぬ噂――はすでに広まっているけれど、間違った認識、でもないが、良くない良くないと、暁治は首を振る。
「桃ちゃん、どうしたにゃ」
後片付けを済ませたキイチが、縁側で空を見上げている桃に声をかける。ついでにとばかりに、朱嶺の背中を蹴飛ばしながら。すると彼女は小さな指先を空に向けて、キラキラした瞳で振り返った。
「あ、虹にゃ!」
「え? 冬に虹?」
この季節は虹が見えなくなる頃だと、昔祖父に教わった。不思議に思いながら、暁治は縁側に行き、空を見上げる。薄青色の空には、淡く溶けいってしまいそうな七色の虹があった。
「今年最後の虹かもね」
隣で空を見上げる朱嶺がぽつりと呟く。それはどこかで聞いたようなセリフだ。少し考えて記憶を掘り返すと、初虹、という言葉を思い出した。確か春の頃、こうして空を見上げた時に、石蕗が言っていた。
そして「好きかも」などという、曖昧な言葉を言われたのだった。
先日、実家へ帰った妹から電話が来た。向こうはまだまだ秋だという。こちらは冬支度をしたというのに。冬囲いの済んだ庭の木々を見ながら、暁治は肩をすくめる。
雪囲いとは、寒さや雪から樹木を守る冬支度。雪で背の低い木が押し潰れたり、重さで枝が折れないように、縄で巻いたり、竹で囲いを作ったりする。本来であれば雪囲いは、十二月に入ってから行うらしいのだが、請け負ってくれた石蕗家の庭師は、シーズンはかなり忙しいとのこと。
だがサービス価格でやってもらえたので、感謝しかない。おそらく祖父が毎年お願いしていたのだろう。野ざらしにならなくて良かった。そんなことを言われた。
「暁治! 昼ご飯にゃ」
「ああ」
聞こえた声に後ろを振り返ると、キイチと桃が縁側からこちらを見ている。働き者の二人だ。もう一人の居候と言えば、こたつむりになっていた。猫はこたつで丸くなる、という歌があるけれど。天狗もこたつで丸くなるものなのか。
そういえばこの家に来たばかりの頃も、こたつの住人だった。しかしわからなくもなかった。こたつは魔性だ。電源を入れる前から、こたつ布団をかぶるだけで寝てしまうほどに。
「今日も豪勢だなぁ。桜小路、いつも悪いな」
「いや、世話になっているからな」
宮古家に増えた住人。いや正しくは客人。半年休みができて、この近くに家を借りて住み始めた。しかし一人飯は寂しいとのことで、飯時にはやってくる。
それも手土産付きだ。なので追い返すに追い返せない。今日も天ぷらを土産に持ってきた。ひーふーみーと数を数えれば、一人五種類ほどある。いいところのお坊ちゃんは、どうやら財布が分厚いようだ。
このところは彼のおかげで、いいものばかり食べている。一応気を使っているのだろう。朱嶺に比べたらかなり謙虚だ。飯をたからないし、大人しいし。
最初の頃の朱嶺は、人の家のご飯を当たり前のように食べていた。今日のご飯はなに? なんて平然と聞くのだ。いまは食糧を持ち寄るようになったので、成長は、したか?
首を傾げながら、暁治はこたつに足を入れる。すると先住の雪がにゃーと鳴きながら、顔を出す。彼女は一足先に、桜小路にマグロの刺身をもらっていたのを知っている。
うちの猫飯を食わなくなったらどうするのだ、と思いつつ、人が美味いものを食べているのだから、雪だけ仲間外れはないなと思い直す。
「いただきます」
今日の昼飯は天ぷらと蕎麦。蕎麦はスーパーの乾麺だが、天ぷらが立派なので気にならない。
天ぷらと言えば海老天、と思うところだけれど、代わりに蟹足が二本もあった。身が太くてぷりっぷり。海老もいいが、蟹もいい、などと適当なことを考える。暁治的には美味ければなんでもいいのだ。
「牡蠣の天ぷらなんて初めて食べるな」
フライや生で食べたことはあったが、サクサクの衣とじゅわっと広がる旨味に感動すら覚える。天汁があっさりなので、何個でも食べられそうだった。
珍しい種はもう一つ。爽やかな青じそにホタテが挟まれている。これまた貝の旨味が、以下同文。素朴なレンコンとカボチャはほくほくで、あっという間に平らげてしまった。
最後にズルズルと蕎麦を啜り、ほっと息をつく。鰹出汁の効いたつゆは、崎山さんのところの自家製つゆだった。これはうどんで食べても美味いので、今度作り方を教えてもらう約束になっている。
「はるー! お茶煎れたよ」
両手を合わせてごちそうさま、と頭を下げる頃には、タイミング良く湯飲みが目の前に置かれる。以前はお茶まで暁治が煎れていたが、最近では黙っていても出てくるようになった。
近頃は特に朱嶺が率先して席を立つ。これはわかりやすい牽制だ。なぜだか桜小路が、暁治に気があるのだと勘違いしている。単なる幼馴染みだと言い含めたけれど、まったく信用していない。
「ほうじ茶なんてうちにあったか?」
鼻先に感じた香ばしい匂いに、暁治は首をひねる。いつもお茶といえば緑茶だった。貰いもののお茶が来年まで持つのでは、と思うほどにあるからだ。
「ああ、緑茶の賞味期限がいくつか切れそうだったから、フライパンで煎ったんだよ。サトちゃんが教えてくれた」
「へぇ、美味いな。ん? 湯飲みが一個足りないぞ」
暁治、キイチ、桃、朱嶺――桜小路の分がない。小さな嫌がらせにため息が出る。俺は構わない、と言われても、客人は客人だ。しかし暁治が立とうとすると、口を尖らせた朱嶺が、渋々と言ったように立ち上がる。
「すまない。ありがとう」
そこで申し訳ない顔をする桜小路は、やはり天然だ。他人にカチンとすることは、まずない。嫌がらせのしがいがない相手だ。
それでも朱嶺がめげずに、あれこれと意地悪するのは、どこか暁治が彼に対して、気が引けている部分を感じているから、かもしれない。原因はフったフラれた、ということではないのだが、朱嶺なりに気を使っているようだ。
しかし当の本人は食事が終わり、子猫の雪に夢中だった。そういえば昔から猫が好きだったと思い出す。大きな身体に小さな子猫はアンバランスだが、猫じゃらしを操る姿は実に楽しそうだ。
「宮古」
「ん?」
「あのふわふわの黄色い猫はいないのか?」
「えっ?」
ふいに問いかけられた言葉にぎくりとする。食器を片付けていた、キイチも小さく飛び上がる。黄色いふわふわの猫とは、キイチの元の姿だ。時折朝一番にやってくるので、猫の姿で寝ているキイチを見かけるのだろう。
「二匹いるなら一匹くれないか?」
「半年経って、実家に帰る時どうするんだよ。あっちにも猫がいただろう?」
「うーん、その時は返すよ」
「返すって、うちの子はものじゃありません!」
思わず暁治が大きな声を上げれば、目を丸くして驚く。たまに発揮する、この無神経とも言える部分、変わっていない。決して悪いやつではないことは知っている。ただ正直すぎて、思いやりに欠ける時があるのだ。
その性格を理解していたとしても、なにげない気持ちで発した言葉に、傷つく相手だっている。
「すまない。いまのはお前に失礼だったか?」
「猫に失礼だ」
「そうか、気をつける。お前はすぐに言ってくれるから、ありがたいよ」
「……うん」
まっすぐな桜小路の返事に、暁治は言葉に詰まる。いままで言えたことなど、彼が思っている半分もない。なんでも言えたなら、あの時も遠慮なく言い返していただろう。
つまらない絵だ、そう言われて黙っていられるほど、本来の暁治は気が小さくない。それでも彼にだけは引け目を感じていた。圧倒的な才能の差、その言葉に尽きる。
「たまに癒やされに来ていいか?」
「え? まあ、たまになら」
毎日のように来ているのだから、もうたまにではない気がするけれど。反省しているようなので、そのくらいは譲歩しようと、暁治は頷いて見せた。これは美味い飯と引き換えだ。雪はとことん構ってくれる、桜小路に懐いているようだし。
「はーるー」
「なんだよ」
「僕はいますごく心が寂しい」
「は?」
後ろにおぶさるように、のしかかってくる朱嶺は、暁治の頭にすりすりと頬を寄せる。大げさに妬いて見せないところは、やはり成長したように思えるが、この状況はどうなのだと、首を傾げたくなった。
誰が本命なの? などと妹に興味津々に聞かれた時には、冷や汗が出た。中身が三百を超えた妖だとしても、一般的に見ると、高校生をたぶらかしている教師に見える。
結婚しようね、などと言っていたが、この微妙な構図はいただけない。学校を卒業するまであと一年。あらぬ噂――はすでに広まっているけれど、間違った認識、でもないが、良くない良くないと、暁治は首を振る。
「桃ちゃん、どうしたにゃ」
後片付けを済ませたキイチが、縁側で空を見上げている桃に声をかける。ついでにとばかりに、朱嶺の背中を蹴飛ばしながら。すると彼女は小さな指先を空に向けて、キラキラした瞳で振り返った。
「あ、虹にゃ!」
「え? 冬に虹?」
この季節は虹が見えなくなる頃だと、昔祖父に教わった。不思議に思いながら、暁治は縁側に行き、空を見上げる。薄青色の空には、淡く溶けいってしまいそうな七色の虹があった。
「今年最後の虹かもね」
隣で空を見上げる朱嶺がぽつりと呟く。それはどこかで聞いたようなセリフだ。少し考えて記憶を掘り返すと、初虹、という言葉を思い出した。確か春の頃、こうして空を見上げた時に、石蕗が言っていた。
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