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第十五節気 白露
次候――鶺鴒鳴 (せきれいなく)
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「え、そんなのガーッて行っちゃえばよかったんじゃないですかね」
「……お前なぁ」
放課後、部活動、美術教室。目の前にはさらさらとキャンバスに木炭を走らせている石蕗。いつもなら他にも美術部員がいるのだが、たまたま用が重なったとかで、今日の部活は二人きりだ。
「いえ、だってねぇ。『見つつぞ偲ふ君が姿を』って、見るたびに君のことを思い出しますってことでしょ。『我れ恋ひめやも』って、意味知らなくてもそのまま恋の歌じゃないですか」
「むぅ」
「あんまり先生が鈍いから、直球勝負に出たんですね。おめでとうございます」
祝いの言葉を述べているというのに、石蕗の視線はキャンバスに向かっているし、声も平坦で抑揚がない棒読みだ。あまり、いやまったくめでたい気がしないし、実際めでたくもない。
「いやだってあいつは半居候とはいえ、生徒だぞ」
なぜ自分は、いち生徒に向かってこんな言い訳をしているのだろう。どうにも解せない暁治だ。不思議なことに、彼に「どうかしたんですか?」と尋ねられたら、口が勝手に動いてしまった。
「生徒の前に彼らは妖ですよ。先生よりずっと年上です。しかし万葉集で告白とか、朱嶺にしてはずいぶんと粋ですねぇ」
「なんだ、知ってるのか」
「はい、辻森先生が和歌をお好きでしたから。私もしょっ中聞かされたものです。秋萩は万葉集ではよく出て来る秋の季語ですよ。さしずめ先生の場合は、『白露の置かまく惜しみ秋萩を折りのみ折りて置きや枯らさむ』――秋萩に露がついてしまうのは惜しいといって、折るだけ折って枯らしてしまうのか――先生、ちゃんと責任とらないといけませんよ。放置はだめです」
「放置ってなんだよ。そもそも折った覚えもない」
たしかに一緒に暮らしてはいるが。先日とうとうボストンバックひとつ持ち込んで、名実ともに居候宣言されてしまったが。
マイカップだの、マイ歯ブラシだの、色々増えてきてるのは気づいてはいたのだが、なんだかもう、断るのも今更な気がしてそのままなし崩しになってしまった。
そもそも大人数向けではない一軒家は、居間と仏間と台所とアトリエ、離れが一部屋の簡素な造りだ。離れは暁治の寝室だし、キイチは猫だから適当にあちこちで寝ているようだ。座敷童の桃はそもそも家全体がマイルームだろう。
「はるの部屋で一緒に寝るっ!」
と締め括ろうとした朱嶺の言葉はさすがに一蹴したが、最終的に居間で寝ることになった。持ち込んだ寝袋はさすがに止めさせ、今は客用の布団を使っている。
いや最近は泊まりも増えて、すっかり朱嶺専用だった。どこぞの熊のゆるキャラ枕カバーもつけていて、完全に私物化している。
『既成事実』。というやつだ。
「なぁ、家に入り込んで、いつの間にか家を乗っとる妖怪っていなかったか?」
思わず尋ねてしまっても、仕方ないだろう。
「先日読んだホラー小説がそんな感じでしたね。人に成り代わって仲間を増やす話でした」
「まるでホラー小説みたいだな」
「だからホラー小説ですよ」
確かに。
納得した暁治にため息をついてみせた石蕗は、くるりと彼へ向き直った。
「先生は信じないかもしれませんけどね、私はあれとは結構長い付き合いでして。辻森先生のうちの可愛いはるのことを、よく聞かされてましたよ。いつか帰ってきて、一緒にいてくれるんだって」
「そうなのか」
「はい、だからどんな人なんだろうって、みんな楽しみにしていたんです。辻森先生のお孫さんってだけじゃない。天狗の坊のいい人だって、界隈じゃ有名ですよ、先生」
なんてこった。暁治は頭を抱えた。まさかうちに来客が多かったのって、祖父の孫とかいうだけじゃなく、朱嶺の相手だと思われていたせいだったのか。
「実のところ、あれは色んな意味で有名ですからねぇ」
「色んな意味?」
「えぇ」
頷いたものの、石蕗はそれ以上話を続けるつもりはないらしい。再びキャンバスへと向き直ると、木炭を走らせた。見ると白と黒、薄ねず色をした鳥の絵だ。
「セキレイですよ」
話すのを止めたわけではないらしい。
「我ながら損な性分とは思いますが、お節介ついでに尋ねてもらえれば、ヒントくらいなら教えますよ」
石蕗は、手をキャンバスに走らせたまま、そう口を開く。
「尋ねてと言われても」
なにを聞けばいいのか。
朱嶺のことを思い返してみる。
知らないことは多い。いや、むしろ彼のことをほとんど知らないことに気づいた。
暁治が引っ越ししてきた日に訪ねてきて、そのままうちに出入りするようになってしまった。実は暁治の勤めている高校の生徒だった。実は幼馴染だった。実は妖というやつで、どうやら烏天狗らしい。管理人とかいうやつらしい。先日とうとう同居人になった。おいなりさんと甘いものが好きなようだ。
知っているのはそのくらいだ。いや、そのうち半分以上は本人に確認したことすらない。否定しないところを見ると、事実なのだろうけれど。
「まぁ、べらべらと喋るものでもないと思いますけど、つい最近まで朱嶺がなんの妖かすら知らなかったんですってね。大らかとか、他人のプライバシーを尊重するとか言えば聞こえはいいですが、先生、他人に全然興味ないでしょ? ないというか、なさすぎ」
「うっ」
ずばりと切り込まれ、思わず胸を押さえた。実際返す言葉もない。
別に興味がないわけではないのだ。たまたま聞く機会がなかっただけで。
「たまたまで半年以上その機会がなかったんですか」
ふぅんと、彼の目が細くなるのをみて、押さえていた胸をかきむしる。我ながら言い訳にもならない言い草である。
「先生、本当に大事なものは、後から気づくもの。なのだそうですよ」
「……うん」
押しかけとはいえ、ほとんどの時間一緒にいるのだ。少しくらいは色々聞いてもよかった気がする。
祖父に情緒がどうとか言われたが、もしかしたら自分は昔からそうだったのだろうか。年下の生徒に諭されるのは情けなくもあるが、彼が妖たちからも慕われる理由もわかる。
「言っておきますけど、私はまだ十七歳ですからね。サバも読んでない、普通の人間ですから」
「いや、すまん」
思わず口に出してしまったらしい。ぷんぷんと、頬を膨らませる石蕗に、思わず苦笑する。
「私の知識なんて、本の中だけですよ。セキレイを気取ってみても、恋愛とかもしたことないですし」
「セキレイ?」
「セキレイはイザナギとイザナミの恋愛相談に乗ったこともあるそうです。恋のキューピットというやつですね」
それでセキレイか。と、暁治はキャンバスの鳥を見て唸った。
「それで、先生はセキレイになにをお望みですか」
「そうだなぁ……とりあえずは、一人でやってみる」
「一人で、ですか?」
「うん。自分の問題だしな。俺も一応先生だからな。まぁ、色々気づけないことも教えてくれたし、今のところ十分かな」
「そうですか」
しゅんっと、肩を落とす石蕗の肩に手を置く。大人びて見えるけれど、こういうところは年相応だ。
「いや、お前の気持ちは嬉しいよ。確かに俺はちょっとわかってなかったみたいだし」
「ちょっと?」
「え~っと、色々?」
慌てて言い繕う。まずい。
そもそも石蕗が口を挟まずにおれなくなるほど、自分たちは危なっかしいらしい。これ以上心配をかけないためにも、なんとかするのが年上の矜持だろう。遅すぎる気もするけれど。
「二月からだと八か月、か」
指折り数えてみる。うん、たぶんまだ、大丈夫。
「でもまぁ、もし俺が気づいてないところがあれば、また教えてくれ」
意地を張るのはほどほどに。だ。
「はい。お任せください」
石蕗はこくりと頷いた。
「先生が落ちるに、菊花堂の春の詰め合わせ十箱がかかってますから」
「は?」
暁治が目を丸くした瞬間、背後の扉から悲鳴と共にばたばたと人が倒れてきた。振り向くとみな美術部員だ。今日は用事があると帰って行った面々がいる。
「あ、いえ、俺はちゃんと朱嶺が振られる方に賭けてますからっ!」
そう言って手を振って否定する部員の一人に、用事とやらを察した暁治は、飛びっきりの笑顔を向けた。
「ちょっとそこのところ、詳しく聞こうか」
優しい部員たちの思いやりに、思わず拳を握る暁治だ。なんとなく、先日会った祖父の顔が浮かんで、口の中が少し苦くなった。
「……お前なぁ」
放課後、部活動、美術教室。目の前にはさらさらとキャンバスに木炭を走らせている石蕗。いつもなら他にも美術部員がいるのだが、たまたま用が重なったとかで、今日の部活は二人きりだ。
「いえ、だってねぇ。『見つつぞ偲ふ君が姿を』って、見るたびに君のことを思い出しますってことでしょ。『我れ恋ひめやも』って、意味知らなくてもそのまま恋の歌じゃないですか」
「むぅ」
「あんまり先生が鈍いから、直球勝負に出たんですね。おめでとうございます」
祝いの言葉を述べているというのに、石蕗の視線はキャンバスに向かっているし、声も平坦で抑揚がない棒読みだ。あまり、いやまったくめでたい気がしないし、実際めでたくもない。
「いやだってあいつは半居候とはいえ、生徒だぞ」
なぜ自分は、いち生徒に向かってこんな言い訳をしているのだろう。どうにも解せない暁治だ。不思議なことに、彼に「どうかしたんですか?」と尋ねられたら、口が勝手に動いてしまった。
「生徒の前に彼らは妖ですよ。先生よりずっと年上です。しかし万葉集で告白とか、朱嶺にしてはずいぶんと粋ですねぇ」
「なんだ、知ってるのか」
「はい、辻森先生が和歌をお好きでしたから。私もしょっ中聞かされたものです。秋萩は万葉集ではよく出て来る秋の季語ですよ。さしずめ先生の場合は、『白露の置かまく惜しみ秋萩を折りのみ折りて置きや枯らさむ』――秋萩に露がついてしまうのは惜しいといって、折るだけ折って枯らしてしまうのか――先生、ちゃんと責任とらないといけませんよ。放置はだめです」
「放置ってなんだよ。そもそも折った覚えもない」
たしかに一緒に暮らしてはいるが。先日とうとうボストンバックひとつ持ち込んで、名実ともに居候宣言されてしまったが。
マイカップだの、マイ歯ブラシだの、色々増えてきてるのは気づいてはいたのだが、なんだかもう、断るのも今更な気がしてそのままなし崩しになってしまった。
そもそも大人数向けではない一軒家は、居間と仏間と台所とアトリエ、離れが一部屋の簡素な造りだ。離れは暁治の寝室だし、キイチは猫だから適当にあちこちで寝ているようだ。座敷童の桃はそもそも家全体がマイルームだろう。
「はるの部屋で一緒に寝るっ!」
と締め括ろうとした朱嶺の言葉はさすがに一蹴したが、最終的に居間で寝ることになった。持ち込んだ寝袋はさすがに止めさせ、今は客用の布団を使っている。
いや最近は泊まりも増えて、すっかり朱嶺専用だった。どこぞの熊のゆるキャラ枕カバーもつけていて、完全に私物化している。
『既成事実』。というやつだ。
「なぁ、家に入り込んで、いつの間にか家を乗っとる妖怪っていなかったか?」
思わず尋ねてしまっても、仕方ないだろう。
「先日読んだホラー小説がそんな感じでしたね。人に成り代わって仲間を増やす話でした」
「まるでホラー小説みたいだな」
「だからホラー小説ですよ」
確かに。
納得した暁治にため息をついてみせた石蕗は、くるりと彼へ向き直った。
「先生は信じないかもしれませんけどね、私はあれとは結構長い付き合いでして。辻森先生のうちの可愛いはるのことを、よく聞かされてましたよ。いつか帰ってきて、一緒にいてくれるんだって」
「そうなのか」
「はい、だからどんな人なんだろうって、みんな楽しみにしていたんです。辻森先生のお孫さんってだけじゃない。天狗の坊のいい人だって、界隈じゃ有名ですよ、先生」
なんてこった。暁治は頭を抱えた。まさかうちに来客が多かったのって、祖父の孫とかいうだけじゃなく、朱嶺の相手だと思われていたせいだったのか。
「実のところ、あれは色んな意味で有名ですからねぇ」
「色んな意味?」
「えぇ」
頷いたものの、石蕗はそれ以上話を続けるつもりはないらしい。再びキャンバスへと向き直ると、木炭を走らせた。見ると白と黒、薄ねず色をした鳥の絵だ。
「セキレイですよ」
話すのを止めたわけではないらしい。
「我ながら損な性分とは思いますが、お節介ついでに尋ねてもらえれば、ヒントくらいなら教えますよ」
石蕗は、手をキャンバスに走らせたまま、そう口を開く。
「尋ねてと言われても」
なにを聞けばいいのか。
朱嶺のことを思い返してみる。
知らないことは多い。いや、むしろ彼のことをほとんど知らないことに気づいた。
暁治が引っ越ししてきた日に訪ねてきて、そのままうちに出入りするようになってしまった。実は暁治の勤めている高校の生徒だった。実は幼馴染だった。実は妖というやつで、どうやら烏天狗らしい。管理人とかいうやつらしい。先日とうとう同居人になった。おいなりさんと甘いものが好きなようだ。
知っているのはそのくらいだ。いや、そのうち半分以上は本人に確認したことすらない。否定しないところを見ると、事実なのだろうけれど。
「まぁ、べらべらと喋るものでもないと思いますけど、つい最近まで朱嶺がなんの妖かすら知らなかったんですってね。大らかとか、他人のプライバシーを尊重するとか言えば聞こえはいいですが、先生、他人に全然興味ないでしょ? ないというか、なさすぎ」
「うっ」
ずばりと切り込まれ、思わず胸を押さえた。実際返す言葉もない。
別に興味がないわけではないのだ。たまたま聞く機会がなかっただけで。
「たまたまで半年以上その機会がなかったんですか」
ふぅんと、彼の目が細くなるのをみて、押さえていた胸をかきむしる。我ながら言い訳にもならない言い草である。
「先生、本当に大事なものは、後から気づくもの。なのだそうですよ」
「……うん」
押しかけとはいえ、ほとんどの時間一緒にいるのだ。少しくらいは色々聞いてもよかった気がする。
祖父に情緒がどうとか言われたが、もしかしたら自分は昔からそうだったのだろうか。年下の生徒に諭されるのは情けなくもあるが、彼が妖たちからも慕われる理由もわかる。
「言っておきますけど、私はまだ十七歳ですからね。サバも読んでない、普通の人間ですから」
「いや、すまん」
思わず口に出してしまったらしい。ぷんぷんと、頬を膨らませる石蕗に、思わず苦笑する。
「私の知識なんて、本の中だけですよ。セキレイを気取ってみても、恋愛とかもしたことないですし」
「セキレイ?」
「セキレイはイザナギとイザナミの恋愛相談に乗ったこともあるそうです。恋のキューピットというやつですね」
それでセキレイか。と、暁治はキャンバスの鳥を見て唸った。
「それで、先生はセキレイになにをお望みですか」
「そうだなぁ……とりあえずは、一人でやってみる」
「一人で、ですか?」
「うん。自分の問題だしな。俺も一応先生だからな。まぁ、色々気づけないことも教えてくれたし、今のところ十分かな」
「そうですか」
しゅんっと、肩を落とす石蕗の肩に手を置く。大人びて見えるけれど、こういうところは年相応だ。
「いや、お前の気持ちは嬉しいよ。確かに俺はちょっとわかってなかったみたいだし」
「ちょっと?」
「え~っと、色々?」
慌てて言い繕う。まずい。
そもそも石蕗が口を挟まずにおれなくなるほど、自分たちは危なっかしいらしい。これ以上心配をかけないためにも、なんとかするのが年上の矜持だろう。遅すぎる気もするけれど。
「二月からだと八か月、か」
指折り数えてみる。うん、たぶんまだ、大丈夫。
「でもまぁ、もし俺が気づいてないところがあれば、また教えてくれ」
意地を張るのはほどほどに。だ。
「はい。お任せください」
石蕗はこくりと頷いた。
「先生が落ちるに、菊花堂の春の詰め合わせ十箱がかかってますから」
「は?」
暁治が目を丸くした瞬間、背後の扉から悲鳴と共にばたばたと人が倒れてきた。振り向くとみな美術部員だ。今日は用事があると帰って行った面々がいる。
「あ、いえ、俺はちゃんと朱嶺が振られる方に賭けてますからっ!」
そう言って手を振って否定する部員の一人に、用事とやらを察した暁治は、飛びっきりの笑顔を向けた。
「ちょっとそこのところ、詳しく聞こうか」
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