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第八節気 小満
次候――紅花栄(べにばなさかう)
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絵を描くのが好きで、子供の頃から色々なものを描いてきた。けれどただ一つだけ、暁治には苦手なものがある。それは――人を描くことだ。これだけは昔から得意ではなく、絵の品評会などでは見向きもされない。
ひどくデッサンが崩れているわけでも、ひどく見目が悪いわけでもない。どうやら普段でも言われる、生気というものがさらに足りなく見えるらしい。要するに生き生きとした人物が描けないのである。
それなのにある日突然、暁治の元へ知らせが届いた。封筒に入っていた紙には、貴殿の作品が審査員特別賞を授与しました、と書かれている。思いがけない文字を目に留めて、しばしそのまま身動きできなくなった。
あれをなにげない気持ちで品評会へ出したのは、先月のこと。まさか選考を通るだけではなく、賞までもらえることになるなど、予想もしていなかった。
「え? あれが通ったってことは、画廊に飾られるのか?」
ニヤリと唇が緩みそうになって、思わず手の平で口元を押さえる。だがふとあの絵を思い出すと、今度は眉間にしわが寄る。なにげない気持ちでも、品評会へ出したのだから、自分でもその絵がよくできたと思っていたのだ。
とは言うものの描いたものが、いや人が問題だった。その人が自分の目にどんな風に映っているか、それを知られるようで少しばかり恥ずかしい。
「うーん、……ん? あ、桃。来てたのか」
一人で唸っていると、アトリエの扉の蝶番が小さく音を立てたのに気づいた。振り向くと戸口にちんまりと桃が立っていて、視線が合うとふんわりと微笑みを浮かべる。その顔に笑みを返してから、彼女が手になにかを握っているのに気づく。
ペタペタと微かな足音をさせながら近づいてくると、彼女は暁治に細工があしらわれた銀色の小さなものを差し出してきた。
「なんだこれ? 小物入れにしては小さいな」
手の平にちょこんと載る程度のそれは、切れ込みが見えるので蓋が開くのだろう。しかしなにかを入れるにしてはあまりに小さすぎる。持ち上げてひっくり返してみるが、なにが入っているのは定かではない。
「開けていいか?」
じっと見上げてくる顔はこくこくと頷く。その返事を認めて、指先で蓋を開いた。するとそこにあったのは綺麗な紅色の――おそらく口紅だ。
瞳をキラキラさせて見上げてくる、その意味がようやくわかった。小さくてもやはり女の子なのだなと、可愛らしく思えた。とはいえ口紅を付ける習慣などない暁治には、なかなかの難題だ。
「朱嶺は来てないのか? ……やっぱり、いるのか。あいつはなにも言わずにまた」
一度蓋を元に戻し、壁の向こうを指さす桃の手を握ると、暁治は居間へ移動することにした。そこからはテレビの声に被る笑い声が聞こえていた。来たなら来たと声をかければいいのに、いつも勝手にあの男は人の家で寛いでいる。
電気を入れることがなくなったこたつで、床を叩きながら笑い転げる桃の兄を、暁治は足で踏みつけた。
「おい、朱嶺。桃に口紅を塗ってやれよ」
「はるっ、ひどっ! ……口紅? ああ、親父さまのお土産は紅だったんだ。綺麗な色だね。桃ちゃんによく似合いそうだ」
ブツブツ文句を言いながら身体を持ち上げた彼の手に、ぽんと紅入れを置くと、それを見て目を瞬かせた。それでもすぐにほわりと笑い、ちょいちょいと手招きして桃を呼び寄せる。
「桃ちゃんも女の子だもんね。綺麗にしたいよね。これは紅花から作ったやつかな。朱が綺麗に出てる」
慣れた仕草で指先に取った紅を、小さな唇にちょんちょんとつけていく。元よりほんのりピンク色ではあったが、鮮やかな色が色白な肌によく映えて、とても綺麗だった。
手鏡を手渡せば、それを覗いて桃は嬉しそうにはにかむ。そして鏡を持ったままくるくるとその場で躍るように回った。
「土産って、お前の親は出張とかであまりいないのか?」
「出張、……ああ、うん。そんな感じ。各地を回って歩く仕事だよ。あ、はるのお土産はびわね」
「……っておい。もう食ってるじゃないか」
テーブルの上に転がっているビニール袋には、びわがたくさん入っているが、それと同じくらい食べ終わりを示す皮と種が残されている。人の土産を食うとは何事だ、と思いもするけれど、甘い香りに誘われて一個手に取れば、黙々と食べてしまうくらいに美味しかった。
「紅花で思い出したけど、そういや庭の赤ツツジが見事だね」
「ああ、なんか紅い花が咲いてるな。でも紅花って花の名前で、赤いツツジは別物だろう?」
「諸説ではこの時期に言う紅花栄えるの紅花は、赤ツツジとも言われてるらしいよ」
「ああー、なんだっけ。じいちゃんが言ってた。季節の暦、だったっけ?」
朱嶺の向かい側に腰を下ろしてこたつに足を入れると、隣にするりと桃も入り込んでくる。雛鳥のように口を開ける姿は兄そっくりだ。びわをせっせと剥いて食べさせてを繰り返しながら、ふと暁治はカレンダーを見上げた。
昔、祖父が話してくれたことがある。天気や動物、植物の動きに合わせた暦があると。気候――という言葉はそこから来ている、と聞いた覚えがあった。
「そうそう、ツツジの花言葉は恋の喜びって言うんだって」
「……っ」
「はる?」
「なんで、いきなり、花言葉?」
思わず口に放り込んだびわを吹き出しそうになって、暁治は口元を押さえた。けれど主原因の男は不思議そうな顔をして見つめてくる。過剰に反応した自分が馬鹿みたいで、大きなため息とともにおかしな気分をうやむやにした。
「なんかこのあいだ、ゆーゆが……いまの僕の気持ちは赤ツツジがぴったりじゃないか、って言うから」
「な、なに? いま、恋してるのか、お前」
「恋? 誰に?」
「いや、それは俺が聞いてるんだけど」
「そっか。恋、恋、恋かぁ。……楽しいけど、あの頃とはいまってちょっと違うような?」
こちらを見る視線を見つめ返したら、朱嶺は難しい顔をして首を捻る。あの頃、とはいつの頃の話をしているのだろう。そんなことを思って少し胸の内がむずむずとする。この居心地の悪さはなんなのか。
おかしな感情がまた浮上してきて、暁治はふっと視線を落とす。けれど突然向けられた言葉にすぐさま視線を上げた。
「好き」
「えっ?」
「大好き」
「は?」
「……って言うと、昔は恥ずかしいくらいだったんだけど」
「人をもてあそぶな」
「え? なに?」
変にドキドキとしてしまった自分に呆れて暁治はため息をついた。そもそもなぜここでこんなにも反応をしてしまうのか。あれだ――あの日の『好き』の言葉、それに翻弄されているに違いない。
この調子では本人はなんの意識もなく、ただ単にたけのこが好き、くらいの感覚でしか言っていない。そう思うと考えるのもくだらなくて、暁治は黙ってびわに齧り付いた。
「はる」
「なんだよ」
「はるっ」
「だからなんだよ」
「はるの好きは、恥ずかしくないけど、楽しいよ。わくわくしてうずうずする」
「ふぅん」
なにと比べているのだと、文句がついて出そうになったが、それ以上に唇が緩んでしまった。慌てて引き結んだら、眉間にまでしわが寄った。突然しかめっ面のような顔になった暁治に、朱嶺は目を瞬かせる。
「はる? なんで変な顔してるの?」
「なんでもない」
「嘘、なんでもなくないでしょ。はるってば、おかしいっ」
ぷっと吹き出して、笑いが止まらないとばかりに腹を抱えだした、その顔がふいに少し前に感じた気持ちを思い出させた。キャンバスに描いたのはいつもこうして傍にある笑顔。
暁治には眩しいくらいに思えるそれが、他人の目にはどう映るのだろう。そんなことを考えて、胸の奥がまたむずむずとした。
ひどくデッサンが崩れているわけでも、ひどく見目が悪いわけでもない。どうやら普段でも言われる、生気というものがさらに足りなく見えるらしい。要するに生き生きとした人物が描けないのである。
それなのにある日突然、暁治の元へ知らせが届いた。封筒に入っていた紙には、貴殿の作品が審査員特別賞を授与しました、と書かれている。思いがけない文字を目に留めて、しばしそのまま身動きできなくなった。
あれをなにげない気持ちで品評会へ出したのは、先月のこと。まさか選考を通るだけではなく、賞までもらえることになるなど、予想もしていなかった。
「え? あれが通ったってことは、画廊に飾られるのか?」
ニヤリと唇が緩みそうになって、思わず手の平で口元を押さえる。だがふとあの絵を思い出すと、今度は眉間にしわが寄る。なにげない気持ちでも、品評会へ出したのだから、自分でもその絵がよくできたと思っていたのだ。
とは言うものの描いたものが、いや人が問題だった。その人が自分の目にどんな風に映っているか、それを知られるようで少しばかり恥ずかしい。
「うーん、……ん? あ、桃。来てたのか」
一人で唸っていると、アトリエの扉の蝶番が小さく音を立てたのに気づいた。振り向くと戸口にちんまりと桃が立っていて、視線が合うとふんわりと微笑みを浮かべる。その顔に笑みを返してから、彼女が手になにかを握っているのに気づく。
ペタペタと微かな足音をさせながら近づいてくると、彼女は暁治に細工があしらわれた銀色の小さなものを差し出してきた。
「なんだこれ? 小物入れにしては小さいな」
手の平にちょこんと載る程度のそれは、切れ込みが見えるので蓋が開くのだろう。しかしなにかを入れるにしてはあまりに小さすぎる。持ち上げてひっくり返してみるが、なにが入っているのは定かではない。
「開けていいか?」
じっと見上げてくる顔はこくこくと頷く。その返事を認めて、指先で蓋を開いた。するとそこにあったのは綺麗な紅色の――おそらく口紅だ。
瞳をキラキラさせて見上げてくる、その意味がようやくわかった。小さくてもやはり女の子なのだなと、可愛らしく思えた。とはいえ口紅を付ける習慣などない暁治には、なかなかの難題だ。
「朱嶺は来てないのか? ……やっぱり、いるのか。あいつはなにも言わずにまた」
一度蓋を元に戻し、壁の向こうを指さす桃の手を握ると、暁治は居間へ移動することにした。そこからはテレビの声に被る笑い声が聞こえていた。来たなら来たと声をかければいいのに、いつも勝手にあの男は人の家で寛いでいる。
電気を入れることがなくなったこたつで、床を叩きながら笑い転げる桃の兄を、暁治は足で踏みつけた。
「おい、朱嶺。桃に口紅を塗ってやれよ」
「はるっ、ひどっ! ……口紅? ああ、親父さまのお土産は紅だったんだ。綺麗な色だね。桃ちゃんによく似合いそうだ」
ブツブツ文句を言いながら身体を持ち上げた彼の手に、ぽんと紅入れを置くと、それを見て目を瞬かせた。それでもすぐにほわりと笑い、ちょいちょいと手招きして桃を呼び寄せる。
「桃ちゃんも女の子だもんね。綺麗にしたいよね。これは紅花から作ったやつかな。朱が綺麗に出てる」
慣れた仕草で指先に取った紅を、小さな唇にちょんちょんとつけていく。元よりほんのりピンク色ではあったが、鮮やかな色が色白な肌によく映えて、とても綺麗だった。
手鏡を手渡せば、それを覗いて桃は嬉しそうにはにかむ。そして鏡を持ったままくるくるとその場で躍るように回った。
「土産って、お前の親は出張とかであまりいないのか?」
「出張、……ああ、うん。そんな感じ。各地を回って歩く仕事だよ。あ、はるのお土産はびわね」
「……っておい。もう食ってるじゃないか」
テーブルの上に転がっているビニール袋には、びわがたくさん入っているが、それと同じくらい食べ終わりを示す皮と種が残されている。人の土産を食うとは何事だ、と思いもするけれど、甘い香りに誘われて一個手に取れば、黙々と食べてしまうくらいに美味しかった。
「紅花で思い出したけど、そういや庭の赤ツツジが見事だね」
「ああ、なんか紅い花が咲いてるな。でも紅花って花の名前で、赤いツツジは別物だろう?」
「諸説ではこの時期に言う紅花栄えるの紅花は、赤ツツジとも言われてるらしいよ」
「ああー、なんだっけ。じいちゃんが言ってた。季節の暦、だったっけ?」
朱嶺の向かい側に腰を下ろしてこたつに足を入れると、隣にするりと桃も入り込んでくる。雛鳥のように口を開ける姿は兄そっくりだ。びわをせっせと剥いて食べさせてを繰り返しながら、ふと暁治はカレンダーを見上げた。
昔、祖父が話してくれたことがある。天気や動物、植物の動きに合わせた暦があると。気候――という言葉はそこから来ている、と聞いた覚えがあった。
「そうそう、ツツジの花言葉は恋の喜びって言うんだって」
「……っ」
「はる?」
「なんで、いきなり、花言葉?」
思わず口に放り込んだびわを吹き出しそうになって、暁治は口元を押さえた。けれど主原因の男は不思議そうな顔をして見つめてくる。過剰に反応した自分が馬鹿みたいで、大きなため息とともにおかしな気分をうやむやにした。
「なんかこのあいだ、ゆーゆが……いまの僕の気持ちは赤ツツジがぴったりじゃないか、って言うから」
「な、なに? いま、恋してるのか、お前」
「恋? 誰に?」
「いや、それは俺が聞いてるんだけど」
「そっか。恋、恋、恋かぁ。……楽しいけど、あの頃とはいまってちょっと違うような?」
こちらを見る視線を見つめ返したら、朱嶺は難しい顔をして首を捻る。あの頃、とはいつの頃の話をしているのだろう。そんなことを思って少し胸の内がむずむずとする。この居心地の悪さはなんなのか。
おかしな感情がまた浮上してきて、暁治はふっと視線を落とす。けれど突然向けられた言葉にすぐさま視線を上げた。
「好き」
「えっ?」
「大好き」
「は?」
「……って言うと、昔は恥ずかしいくらいだったんだけど」
「人をもてあそぶな」
「え? なに?」
変にドキドキとしてしまった自分に呆れて暁治はため息をついた。そもそもなぜここでこんなにも反応をしてしまうのか。あれだ――あの日の『好き』の言葉、それに翻弄されているに違いない。
この調子では本人はなんの意識もなく、ただ単にたけのこが好き、くらいの感覚でしか言っていない。そう思うと考えるのもくだらなくて、暁治は黙ってびわに齧り付いた。
「はる」
「なんだよ」
「はるっ」
「だからなんだよ」
「はるの好きは、恥ずかしくないけど、楽しいよ。わくわくしてうずうずする」
「ふぅん」
なにと比べているのだと、文句がついて出そうになったが、それ以上に唇が緩んでしまった。慌てて引き結んだら、眉間にまでしわが寄った。突然しかめっ面のような顔になった暁治に、朱嶺は目を瞬かせる。
「はる? なんで変な顔してるの?」
「なんでもない」
「嘘、なんでもなくないでしょ。はるってば、おかしいっ」
ぷっと吹き出して、笑いが止まらないとばかりに腹を抱えだした、その顔がふいに少し前に感じた気持ちを思い出させた。キャンバスに描いたのはいつもこうして傍にある笑顔。
暁治には眩しいくらいに思えるそれが、他人の目にはどう映るのだろう。そんなことを考えて、胸の奥がまたむずむずとした。
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