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第六章 二節目 五合目〜八合目

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 ふたりはまだ、山路を登り続けている。頂上へは遠く、これまでどの村一番も成し得なかったと言う話にも、信憑性が出てきはじめたところだ。長い道は、少しずつふたりの体力を蝕んでいく。その中で、キトリもマイトも、より一層大地を感じ、歩き、踏み締め続けた。

「五合目だ」
「もう半分も登ったの?」
「そう言うわけではないが……半分登ったと考えていいだろ」

 好奇心を失わないキトリに対して、少しだけ気怠げになってきたマイト。まるで恋人の倦怠期のようだが、どれもこれもすべて、山を登るから気怠げになっているだけである。筋肉の痛みがなくなる時間も長くなってきて、なかなか治らなくなっている。ふたりはこうして、少しずつ小休憩を挟みながら、どうにかこうにか登ってきた。休憩の目安は、キトリが握っている。

「そうそう、このあたりには……俺とナヤリフスが過ごしていた家、あの小屋があるんだ。まさか、山の頂上の少女の神話よりも先に建てられていた、なんてな……」
「えっと、そしたら軽く五百年築は……」
「記録が正しければ、二十万年は経っているはずだ。それなのにあの家は、まるで昨日建てられたみたいな体で立っている」

 キトリのずいぶん遠くなった記憶の中では。火山討伐の依頼を、村長から正式に引き受ける前の、巫女が言うには。
「あの山に登った女の子がいて。戻ってこなかったんだけど……ちょうど一週間前に登山して、戻ってきた人たちが言うに、『まだ生きている』『泣き叫んでいた』『殺して、と言っていた』らしいよ? 女の子、もう何百年前の、下手したら何千年も前の女の子だろうなあ…… 楽器も祝詞もたしなめずにあの山の頂上で独りきり。可哀想だと思うよね? ね?」
 人間の寿命が四十年程度である現状、この時のキトリはまだ、神話の少女の苦悩を数値でしか知らず、それもまだ軽いだろうと、たかを括っていた。しかし今、マイトの語った数値には、驚くほかなかった。文明が興亡するような期間、誰も少女を助けに行かなかった、もしくは行けなかったと。キトリのような非力な少女でも、同伴者はいてもどうにか山の半分まで登り詰められたのに、これまで誰も少女を救えなかったからには、何かしらの理由があるのだろう。
 マイトにとっては苦い思い出の残る、山の小屋の周辺から離れる。すると、マイトの態度が変わってきた。みょうに気怠げだった理由も、これで説明がついた。天上華のにおいが、やたらと鼻につく高原だった。遠く離れて六合目まで登ってきても、いまだに未練がましく、においはついてきていた。そう感じているのは、キトリだけかもしれない。まるで、誘うように、かぐわしいにおいが漂っていると、キトリには感じ取れたから。

 ふたりの体力はなかなか長続きしていた。だから、六合目もあっという間に抜けてしまった。そして、ここからが登山の危険な部分……森林限界以上を目指すとき、守るべき概念がこれまでの倍以上になる。足場、食料、水分、体温、退路……呼吸。九合目まで行けば後は体力と気力勝負ではあるが、八合目までは危険な動物も存在する。これまで遭遇しなかった理由は『運が良かった』ただそれだけである。そんな七合目以上をできるだけ簡単に切り抜けるために、マイトはある策を思いついた。

「キトリ、ここからは縄の出番だ。俺に巻きつけてくれ」
「えっ?」
「これまで順調に登れたが、ここからは岩肌が出始めているし、正直足だけじゃ何日も使ってしまうだろう。疲れるだろうし……俺が岩を登って、安全な場所であるか確認したら、縄を下ろして、お前に登ってもらう。できるか?」

 マイトからのいきなりの提案に、キトリは少しだけどぎまぎした。確かにマイトの言う通りで、ここからは足を頼りにして登山するよりも、腕を頼りにして登った方が効率が良いだろう。キトリは決心し、慣れない手つきでマイトの腰に縄を巻きつける。異性の肉体に慣れていない少女特有の、まどろっこしい手さばき。少しくすぐったかったからか、マイトは少し脱力していた。

 持ってきたすべての縄が、マイトの腰にある。力を取り戻し、いつもの調子に戻ったマイトは、すぐに岩を登り始めた。彼のしっかりとした手のひらは、わずかな岩肌をも掴み、着実に登り詰めている。それに続き、負けじと鍛えられた腕が、筋肉を震わせて主の肉体を引っ張り上げる。キトリが息を五回吸い、四回吐いたところで、マイトは登り終えていた。彼は登り終えてから、どこか安全な平地を探し始めた。キトリも登らせる以上、ある程度の広さがないと最悪、共々転落死するからだ。
 しばらくして、マイトが縄を下ろし始めた。キトリの接地面につくかつかないかと言う、絶妙な長さの縄は、キトリの面前に現れていた。これまでの彼女であれば、触る前に『もう登って大丈夫?』だとか、『いいんですか?』と訊ねるところだが、今のキトリは違う。マイトと言葉を交わしたから。村の中では一番、キトリがマイトの人柄を知っているから。だから、特に何も言わずに、キトリは信頼しきった気持ちで、慣れない腕を上下させ、縄をゆっくりと登る。

「俺はこの通り大丈夫だけど、キトリはキトリでゆっくり上がってくれればいい。前抱えた時も思ったけど、キトリは軽いから……ぶら下がられているにしても、意外と軽い」
「理由そこなの?」
「あれ……? こう言えば女性は喜ぶって、よく聞かされてたから……」

 少しでもキトリの気休めになればいい、と軽い言葉をかけたマイトだが、それがかえってよくなかったらしく、キトリの悩みを増幅させてしまった。この件については、マイトから相応の謝罪を受けたし、キトリも少食を治す決心をしたため、解決したとは書いておこう。
 風にあおられながらも、キトリは無事縄を登り終えた。慣れない運動に息を切らして、キトリは近辺の花畑に尻を乗せる。マイトは先ほどまで使っていた縄を、もう一度使えるようにするために、自身の腰へ巻き付けている。両者に会話はなかった。

 ひとしきりの沈黙の後、キトリの体力が回復したと同時に、またマイトは岩を探して、登ろうとし始めた。キトリはマイトの後ろを進んでいる。いざ自分が登るときに、遠くにいるせいで声が聞こえなかったり、すぐに登れなくなるからだ。
 マイトは岩に触れ、何かに気づいた。

「キトリ! 俺が『登っていい』と言うまで登るな! 岩の上に、闇夜獣がいる……!」
「どうしてこんな時間に……? どう考えても、今は彼らが動くような時間じゃないのに?」
「噴火が近いからじゃないか? ともかく、キトリはもう少し下がってくれ。奴を引き摺り下ろすから」

 キトリは素直に、マイトの側から離れ、近くの岩にすがるようにして息を潜めた。その様子を聞いたマイトは、心の中で『いい子だ』と賛辞を述べ、戦闘準備に入る。とは言っても、マイトが取り出した武器は……あの大剣。対ナヤリフス用の、例の大剣である。
 マイトが剣を構え、来るであろう獣を突き刺す算段をしている。闇夜獣を誘き寄せる手段はいくつもある。弱そうな生き物を囮として使う、干し肉のにおいで釣る、はたまた餌の鳴き声や、女性の泣き声で釣って、殺すもしくは退かせるか。マイトとしては、予行訓練もしたいところであるし、キトリを安全に登らせるべく、危険性はあらかじめ排除しておきたい。だから、彼は戦う。守るべき何かがある人間は、強くなる。

 マイトは干し肉を取り出し、自分の口に咥えた。唾液と反応して、肉食主義の生物が好みそうな匂いを出していた。一瞬、気がぐらつきそうになるマイトだが、すんでのところで抑え、干し肉を遥か彼方へ投げ、ついでに煽った。闇夜獣は岩の上から威嚇していた。

「来るなら来い、この毛まみれが! お前なんて後世で、いいとこの人間達に毛皮として利用されるんだぞ!」

 干し肉のにおいにつられて、闇夜獣は飛び降りて、マイトと同じ高度に立つ。獣が飛び降りる瞬間に、マイトは大剣を手に取り、『いつでも斬れる』という風格をかもし出した。その気配を知ってか、闇夜獣は振り向き、マイト……ではなく、マイトの後ろにいるキトリを狙おうとしている。キトリはより一層、息を潜めて、小さくちいさく息を吸う。心臓が早鐘を鳴らし、本能的に危険であると叫んでいる。そんな中、闇夜獣は少しばかり転びながら、石を蹴落としながらも蛇行し、キトリを襲おうとした。

「させるか!」

 大剣の間合いに闇夜獣が入るとき、マイトは大剣を振り下ろしていた。それは運良く闇夜獣の脇腹に命中し、当たったそこは血を放出し始めた。ついでに、少しばかりの臓器もこぼす。その痛みに若干闇夜獣がすくむが、いまだにキトリを狙って歩いている。大剣の振り下ろしでは間に合わない、と考えたマイトは、大剣を槍のように持って、闇夜獣へ突進した。
 その行動の結果は、血液が表していた。無論、キトリやマイトではなく、闇夜獣の血液である。山に無謀にも、入ってきた人間を仕留める闇夜獣は。今や、わずかに動く筋肉を震わせ、無理矢理にでも歴史の中へ、自分が生きていた証拠を埋め込もうと足掻いていた。しかし、もはや虫の息。ちょっとした遺言を刻む気力もとうに失せ、気血はすべて、マイトの大剣の中へ吸い出された。
 それでもマイトは、大剣の柄をぐるぐる回して、闇夜獣の亡骸を執拗に痛めつけている……キトリは闇夜獣を『かわいそうだなあ』と思って、そっとマイトに口出しした。

「ねえ、もう痛めつける必要はないでしょ……? その子、もう死んでるのに……」
「生まれてからしばらく、母親の乳で育つ生物がいるだろう? ちょうど、人間や闇夜獣がそれに値するんだが……そういう生物はたいてい、腹の中に血液を溜めて、子どもに与える寝具にしている。人間だと外に放り出されるからわかりやすいんだが、こういう四足歩行の生物は、溜まっているかどうか分かりづらいんだ」
「それが『せいり』なの?」

 マイトの解説に、キトリが問いかけたところ、マイトは閉口した。まるで『言わなくてもわかるだろ』と言わんばかりに。キトリは彼の様子と、かつてナヤリフスに血を取られるほんの少し前に、言われた内容を重ね合わせた。
 マイトは『生理のある生物の血を吸い取り、剣に貯める』と言う。
 ナヤリフスは『血が出ていなければ、彼らはキトリを受け入れるだろう』と言っていた。また、ナヤリフスはこれまで何度も、キトリに対して『生理は来ていないのか』を執拗に聞いてきた。ナヤリフス側だけの証言を元にすると、『山に生理中の女性が入り込むと嫌』と言う話になってくるし、もしくは『生理が来ないほど栄養が不足している女性が入り込むのも嫌』ともなる。つまり、そういう身が重い時期、身が重くなる余裕のない人間に入られると嫌、と言う話である。キトリは少しだけ、マイトから神話の真相について又聞きしていた。頂上にいる少女の生理に合わせて火山が噴火を起こしている、と言う内容だった。
 山の神は一般的に、生理中の女性を嫌がる。理由としてはナヤリフスの証言と同様で、『大事な時期なんだから家でじっとしててね』、である。これはキトリの推測ではあるが……ナヤリフスが山の神である前提で、彼は生理のある女性を使うと噴火されるので嫌なのでは、と。そしてマイト側としては、そんなナヤリフスの嫌がる女性もしくは雌の血液を使って、倒そうとしているのではないか、と。なぜナヤリフスが母親面してマイトに接触し、独り占めしようとしているかについては……キトリはそこで、考えないようにした。そしてこれまでの思考の中から、マイトが最も求めているであろう回答を割り出し、キトリは答えた。

「マイト、もし足りなかったら、私の分、使っていいからね」
「……ありがとう、キトリ。その必要がないように、できるだけ頑張るからな」

 マイトは少しだけ、照れ臭そうにしていた。その理由も、『キトリがついてきてくれれば、血を貯めきれなかったとしても、最終手段として使える』、そのために連れてきたような話である。マイトとしては、キトリを犠牲にしてまで目的を果たしたくないと思っている。それに、今のキトリは誰よりも、マイトを理解し、気遣える人間だ。だから、彼にとっては本当の最終手段である。

 闇夜獣の血抜きが終わり、またマイトは岩を登って、キトリを縄で引き上げる。繰り返せばあっと言う間に、八合目を通り過ぎてしまった。先人が誰も思い付かなかったわけではなく、闇夜獣に殺されてきたのだろう。岩場を避けて登れば、かなりの体力を消耗し、日数もかなりかかる……体力を消費し切った人間は、判断を失う。山を降りる体力だけを残した人間に、正常な判断などできない。だからこそ、頂上の少女はきょうも生きている……判断力をなくした結果、正常な精神を侵され、いるはずのない少女の影を、声を聞いた可能性もあるが。

 ところで高山、それも森林限界以上の高度の山に差し掛かると、これまでの高い木々の波は鳴りを潜め、木の出る枠を花々が埋め尽くす。そこらへんの花々を摘み取って、一時の暖を取れるだろうし、やろうと思えば一時的な住居もこしらえられるだろうが、キトリ達にはその気はない。方法論が無茶だとか、量の不安ではない。神話との関連性から、山の生命に不必要に手を出したくないのだ。
 もしすべて本当であれば、この山の一帯は、ラヴァラサ村は、たった一人の少女の永劫にもなるだろう苦しみに生かされている。
 キトリは呟いた。

「私は、今の山のあり方が、村のあり方が不正解だって言うつもりはない。でも、少数が生きるために大多数を殺める世界も、大多数が生きるために少数が殺される世界も、おかしいと思うの」
「キトリなら、どうするつもりでいる?」

 マイトの問いかけに、キトリは凛とした、迷いのない声で答えた。

「私だったら、この残された時間で。『誰も犠牲にならない、なる必要のない世界』にする。もしくは、その手助けをする。この世界から利益を受け取る誰かが、いなくなったとしても……」

 それは、理想論に最も近い答えだった。
 人間は生きる限り、自身の利益を求める。まるでそれが、生きる価値であるとでも主張するように。キトリの考えは、それを否定し、もしできないのであれば人間を滅ぼすしかない、と言う、かなりの危険思想であった。しかしマイトは、『一緒に登る相手がキトリでよかった』とさえ、考えてしまった━━彼女の考えは、今の彼の考えと同じだったから。
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