36 / 41
第六章 二節目 五合目〜八合目
しおりを挟む
ふたりはまだ、山路を登り続けている。頂上へは遠く、これまでどの村一番も成し得なかったと言う話にも、信憑性が出てきはじめたところだ。長い道は、少しずつふたりの体力を蝕んでいく。その中で、キトリもマイトも、より一層大地を感じ、歩き、踏み締め続けた。
「五合目だ」
「もう半分も登ったの?」
「そう言うわけではないが……半分登ったと考えていいだろ」
好奇心を失わないキトリに対して、少しだけ気怠げになってきたマイト。まるで恋人の倦怠期のようだが、どれもこれもすべて、山を登るから気怠げになっているだけである。筋肉の痛みがなくなる時間も長くなってきて、なかなか治らなくなっている。ふたりはこうして、少しずつ小休憩を挟みながら、どうにかこうにか登ってきた。休憩の目安は、キトリが握っている。
「そうそう、このあたりには……俺とナヤリフスが過ごしていた家、あの小屋があるんだ。まさか、山の頂上の少女の神話よりも先に建てられていた、なんてな……」
「えっと、そしたら軽く五百年築は……」
「記録が正しければ、二十万年は経っているはずだ。それなのにあの家は、まるで昨日建てられたみたいな体で立っている」
キトリのずいぶん遠くなった記憶の中では。火山討伐の依頼を、村長から正式に引き受ける前の、巫女が言うには。
「あの山に登った女の子がいて。戻ってこなかったんだけど……ちょうど一週間前に登山して、戻ってきた人たちが言うに、『まだ生きている』『泣き叫んでいた』『殺して、と言っていた』らしいよ? 女の子、もう何百年前の、下手したら何千年も前の女の子だろうなあ…… 楽器も祝詞もたしなめずにあの山の頂上で独りきり。可哀想だと思うよね? ね?」
人間の寿命が四十年程度である現状、この時のキトリはまだ、神話の少女の苦悩を数値でしか知らず、それもまだ軽いだろうと、たかを括っていた。しかし今、マイトの語った数値には、驚くほかなかった。文明が興亡するような期間、誰も少女を助けに行かなかった、もしくは行けなかったと。キトリのような非力な少女でも、同伴者はいてもどうにか山の半分まで登り詰められたのに、これまで誰も少女を救えなかったからには、何かしらの理由があるのだろう。
マイトにとっては苦い思い出の残る、山の小屋の周辺から離れる。すると、マイトの態度が変わってきた。みょうに気怠げだった理由も、これで説明がついた。天上華のにおいが、やたらと鼻につく高原だった。遠く離れて六合目まで登ってきても、いまだに未練がましく、においはついてきていた。そう感じているのは、キトリだけかもしれない。まるで、誘うように、かぐわしいにおいが漂っていると、キトリには感じ取れたから。
ふたりの体力はなかなか長続きしていた。だから、六合目もあっという間に抜けてしまった。そして、ここからが登山の危険な部分……森林限界以上を目指すとき、守るべき概念がこれまでの倍以上になる。足場、食料、水分、体温、退路……呼吸。九合目まで行けば後は体力と気力勝負ではあるが、八合目までは危険な動物も存在する。これまで遭遇しなかった理由は『運が良かった』ただそれだけである。そんな七合目以上をできるだけ簡単に切り抜けるために、マイトはある策を思いついた。
「キトリ、ここからは縄の出番だ。俺に巻きつけてくれ」
「えっ?」
「これまで順調に登れたが、ここからは岩肌が出始めているし、正直足だけじゃ何日も使ってしまうだろう。疲れるだろうし……俺が岩を登って、安全な場所であるか確認したら、縄を下ろして、お前に登ってもらう。できるか?」
マイトからのいきなりの提案に、キトリは少しだけどぎまぎした。確かにマイトの言う通りで、ここからは足を頼りにして登山するよりも、腕を頼りにして登った方が効率が良いだろう。キトリは決心し、慣れない手つきでマイトの腰に縄を巻きつける。異性の肉体に慣れていない少女特有の、まどろっこしい手さばき。少しくすぐったかったからか、マイトは少し脱力していた。
持ってきたすべての縄が、マイトの腰にある。力を取り戻し、いつもの調子に戻ったマイトは、すぐに岩を登り始めた。彼のしっかりとした手のひらは、わずかな岩肌をも掴み、着実に登り詰めている。それに続き、負けじと鍛えられた腕が、筋肉を震わせて主の肉体を引っ張り上げる。キトリが息を五回吸い、四回吐いたところで、マイトは登り終えていた。彼は登り終えてから、どこか安全な平地を探し始めた。キトリも登らせる以上、ある程度の広さがないと最悪、共々転落死するからだ。
しばらくして、マイトが縄を下ろし始めた。キトリの接地面につくかつかないかと言う、絶妙な長さの縄は、キトリの面前に現れていた。これまでの彼女であれば、触る前に『もう登って大丈夫?』だとか、『いいんですか?』と訊ねるところだが、今のキトリは違う。マイトと言葉を交わしたから。村の中では一番、キトリがマイトの人柄を知っているから。だから、特に何も言わずに、キトリは信頼しきった気持ちで、慣れない腕を上下させ、縄をゆっくりと登る。
「俺はこの通り大丈夫だけど、キトリはキトリでゆっくり上がってくれればいい。前抱えた時も思ったけど、キトリは軽いから……ぶら下がられているにしても、意外と軽い」
「理由そこなの?」
「あれ……? こう言えば女性は喜ぶって、よく聞かされてたから……」
少しでもキトリの気休めになればいい、と軽い言葉をかけたマイトだが、それがかえってよくなかったらしく、キトリの悩みを増幅させてしまった。この件については、マイトから相応の謝罪を受けたし、キトリも少食を治す決心をしたため、解決したとは書いておこう。
風にあおられながらも、キトリは無事縄を登り終えた。慣れない運動に息を切らして、キトリは近辺の花畑に尻を乗せる。マイトは先ほどまで使っていた縄を、もう一度使えるようにするために、自身の腰へ巻き付けている。両者に会話はなかった。
ひとしきりの沈黙の後、キトリの体力が回復したと同時に、またマイトは岩を探して、登ろうとし始めた。キトリはマイトの後ろを進んでいる。いざ自分が登るときに、遠くにいるせいで声が聞こえなかったり、すぐに登れなくなるからだ。
マイトは岩に触れ、何かに気づいた。
「キトリ! 俺が『登っていい』と言うまで登るな! 岩の上に、闇夜獣がいる……!」
「どうしてこんな時間に……? どう考えても、今は彼らが動くような時間じゃないのに?」
「噴火が近いからじゃないか? ともかく、キトリはもう少し下がってくれ。奴を引き摺り下ろすから」
キトリは素直に、マイトの側から離れ、近くの岩にすがるようにして息を潜めた。その様子を聞いたマイトは、心の中で『いい子だ』と賛辞を述べ、戦闘準備に入る。とは言っても、マイトが取り出した武器は……あの大剣。対ナヤリフス用の、例の大剣である。
マイトが剣を構え、来るであろう獣を突き刺す算段をしている。闇夜獣を誘き寄せる手段はいくつもある。弱そうな生き物を囮として使う、干し肉のにおいで釣る、はたまた餌の鳴き声や、女性の泣き声で釣って、殺すもしくは退かせるか。マイトとしては、予行訓練もしたいところであるし、キトリを安全に登らせるべく、危険性はあらかじめ排除しておきたい。だから、彼は戦う。守るべき何かがある人間は、強くなる。
マイトは干し肉を取り出し、自分の口に咥えた。唾液と反応して、肉食主義の生物が好みそうな匂いを出していた。一瞬、気がぐらつきそうになるマイトだが、すんでのところで抑え、干し肉を遥か彼方へ投げ、ついでに煽った。闇夜獣は岩の上から威嚇していた。
「来るなら来い、この毛まみれが! お前なんて後世で、いいとこの人間達に毛皮として利用されるんだぞ!」
干し肉のにおいにつられて、闇夜獣は飛び降りて、マイトと同じ高度に立つ。獣が飛び降りる瞬間に、マイトは大剣を手に取り、『いつでも斬れる』という風格をかもし出した。その気配を知ってか、闇夜獣は振り向き、マイト……ではなく、マイトの後ろにいるキトリを狙おうとしている。キトリはより一層、息を潜めて、小さくちいさく息を吸う。心臓が早鐘を鳴らし、本能的に危険であると叫んでいる。そんな中、闇夜獣は少しばかり転びながら、石を蹴落としながらも蛇行し、キトリを襲おうとした。
「させるか!」
大剣の間合いに闇夜獣が入るとき、マイトは大剣を振り下ろしていた。それは運良く闇夜獣の脇腹に命中し、当たったそこは血を放出し始めた。ついでに、少しばかりの臓器もこぼす。その痛みに若干闇夜獣がすくむが、いまだにキトリを狙って歩いている。大剣の振り下ろしでは間に合わない、と考えたマイトは、大剣を槍のように持って、闇夜獣へ突進した。
その行動の結果は、血液が表していた。無論、キトリやマイトではなく、闇夜獣の血液である。山に無謀にも、入ってきた人間を仕留める闇夜獣は。今や、わずかに動く筋肉を震わせ、無理矢理にでも歴史の中へ、自分が生きていた証拠を埋め込もうと足掻いていた。しかし、もはや虫の息。ちょっとした遺言を刻む気力もとうに失せ、気血はすべて、マイトの大剣の中へ吸い出された。
それでもマイトは、大剣の柄をぐるぐる回して、闇夜獣の亡骸を執拗に痛めつけている……キトリは闇夜獣を『かわいそうだなあ』と思って、そっとマイトに口出しした。
「ねえ、もう痛めつける必要はないでしょ……? その子、もう死んでるのに……」
「生まれてからしばらく、母親の乳で育つ生物がいるだろう? ちょうど、人間や闇夜獣がそれに値するんだが……そういう生物はたいてい、腹の中に血液を溜めて、子どもに与える寝具にしている。人間だと外に放り出されるからわかりやすいんだが、こういう四足歩行の生物は、溜まっているかどうか分かりづらいんだ」
「それが『せいり』なの?」
マイトの解説に、キトリが問いかけたところ、マイトは閉口した。まるで『言わなくてもわかるだろ』と言わんばかりに。キトリは彼の様子と、かつてナヤリフスに血を取られるほんの少し前に、言われた内容を重ね合わせた。
マイトは『生理のある生物の血を吸い取り、剣に貯める』と言う。
ナヤリフスは『血が出ていなければ、彼らはキトリを受け入れるだろう』と言っていた。また、ナヤリフスはこれまで何度も、キトリに対して『生理は来ていないのか』を執拗に聞いてきた。ナヤリフス側だけの証言を元にすると、『山に生理中の女性が入り込むと嫌』と言う話になってくるし、もしくは『生理が来ないほど栄養が不足している女性が入り込むのも嫌』ともなる。つまり、そういう身が重い時期、身が重くなる余裕のない人間に入られると嫌、と言う話である。キトリは少しだけ、マイトから神話の真相について又聞きしていた。頂上にいる少女の生理に合わせて火山が噴火を起こしている、と言う内容だった。
山の神は一般的に、生理中の女性を嫌がる。理由としてはナヤリフスの証言と同様で、『大事な時期なんだから家でじっとしててね』、である。これはキトリの推測ではあるが……ナヤリフスが山の神である前提で、彼は生理のある女性を使うと噴火されるので嫌なのでは、と。そしてマイト側としては、そんなナヤリフスの嫌がる女性もしくは雌の血液を使って、倒そうとしているのではないか、と。なぜナヤリフスが母親面してマイトに接触し、独り占めしようとしているかについては……キトリはそこで、考えないようにした。そしてこれまでの思考の中から、マイトが最も求めているであろう回答を割り出し、キトリは答えた。
「マイト、もし足りなかったら、私の分、使っていいからね」
「……ありがとう、キトリ。その必要がないように、できるだけ頑張るからな」
マイトは少しだけ、照れ臭そうにしていた。その理由も、『キトリがついてきてくれれば、血を貯めきれなかったとしても、最終手段として使える』、そのために連れてきたような話である。マイトとしては、キトリを犠牲にしてまで目的を果たしたくないと思っている。それに、今のキトリは誰よりも、マイトを理解し、気遣える人間だ。だから、彼にとっては本当の最終手段である。
闇夜獣の血抜きが終わり、またマイトは岩を登って、キトリを縄で引き上げる。繰り返せばあっと言う間に、八合目を通り過ぎてしまった。先人が誰も思い付かなかったわけではなく、闇夜獣に殺されてきたのだろう。岩場を避けて登れば、かなりの体力を消耗し、日数もかなりかかる……体力を消費し切った人間は、判断を失う。山を降りる体力だけを残した人間に、正常な判断などできない。だからこそ、頂上の少女はきょうも生きている……判断力をなくした結果、正常な精神を侵され、いるはずのない少女の影を、声を聞いた可能性もあるが。
ところで高山、それも森林限界以上の高度の山に差し掛かると、これまでの高い木々の波は鳴りを潜め、木の出る枠を花々が埋め尽くす。そこらへんの花々を摘み取って、一時の暖を取れるだろうし、やろうと思えば一時的な住居もこしらえられるだろうが、キトリ達にはその気はない。方法論が無茶だとか、量の不安ではない。神話との関連性から、山の生命に不必要に手を出したくないのだ。
もしすべて本当であれば、この山の一帯は、ラヴァラサ村は、たった一人の少女の永劫にもなるだろう苦しみに生かされている。
キトリは呟いた。
「私は、今の山のあり方が、村のあり方が不正解だって言うつもりはない。でも、少数が生きるために大多数を殺める世界も、大多数が生きるために少数が殺される世界も、おかしいと思うの」
「キトリなら、どうするつもりでいる?」
マイトの問いかけに、キトリは凛とした、迷いのない声で答えた。
「私だったら、この残された時間で。『誰も犠牲にならない、なる必要のない世界』にする。もしくは、その手助けをする。この世界から利益を受け取る誰かが、いなくなったとしても……」
それは、理想論に最も近い答えだった。
人間は生きる限り、自身の利益を求める。まるでそれが、生きる価値であるとでも主張するように。キトリの考えは、それを否定し、もしできないのであれば人間を滅ぼすしかない、と言う、かなりの危険思想であった。しかしマイトは、『一緒に登る相手がキトリでよかった』とさえ、考えてしまった━━彼女の考えは、今の彼の考えと同じだったから。
「五合目だ」
「もう半分も登ったの?」
「そう言うわけではないが……半分登ったと考えていいだろ」
好奇心を失わないキトリに対して、少しだけ気怠げになってきたマイト。まるで恋人の倦怠期のようだが、どれもこれもすべて、山を登るから気怠げになっているだけである。筋肉の痛みがなくなる時間も長くなってきて、なかなか治らなくなっている。ふたりはこうして、少しずつ小休憩を挟みながら、どうにかこうにか登ってきた。休憩の目安は、キトリが握っている。
「そうそう、このあたりには……俺とナヤリフスが過ごしていた家、あの小屋があるんだ。まさか、山の頂上の少女の神話よりも先に建てられていた、なんてな……」
「えっと、そしたら軽く五百年築は……」
「記録が正しければ、二十万年は経っているはずだ。それなのにあの家は、まるで昨日建てられたみたいな体で立っている」
キトリのずいぶん遠くなった記憶の中では。火山討伐の依頼を、村長から正式に引き受ける前の、巫女が言うには。
「あの山に登った女の子がいて。戻ってこなかったんだけど……ちょうど一週間前に登山して、戻ってきた人たちが言うに、『まだ生きている』『泣き叫んでいた』『殺して、と言っていた』らしいよ? 女の子、もう何百年前の、下手したら何千年も前の女の子だろうなあ…… 楽器も祝詞もたしなめずにあの山の頂上で独りきり。可哀想だと思うよね? ね?」
人間の寿命が四十年程度である現状、この時のキトリはまだ、神話の少女の苦悩を数値でしか知らず、それもまだ軽いだろうと、たかを括っていた。しかし今、マイトの語った数値には、驚くほかなかった。文明が興亡するような期間、誰も少女を助けに行かなかった、もしくは行けなかったと。キトリのような非力な少女でも、同伴者はいてもどうにか山の半分まで登り詰められたのに、これまで誰も少女を救えなかったからには、何かしらの理由があるのだろう。
マイトにとっては苦い思い出の残る、山の小屋の周辺から離れる。すると、マイトの態度が変わってきた。みょうに気怠げだった理由も、これで説明がついた。天上華のにおいが、やたらと鼻につく高原だった。遠く離れて六合目まで登ってきても、いまだに未練がましく、においはついてきていた。そう感じているのは、キトリだけかもしれない。まるで、誘うように、かぐわしいにおいが漂っていると、キトリには感じ取れたから。
ふたりの体力はなかなか長続きしていた。だから、六合目もあっという間に抜けてしまった。そして、ここからが登山の危険な部分……森林限界以上を目指すとき、守るべき概念がこれまでの倍以上になる。足場、食料、水分、体温、退路……呼吸。九合目まで行けば後は体力と気力勝負ではあるが、八合目までは危険な動物も存在する。これまで遭遇しなかった理由は『運が良かった』ただそれだけである。そんな七合目以上をできるだけ簡単に切り抜けるために、マイトはある策を思いついた。
「キトリ、ここからは縄の出番だ。俺に巻きつけてくれ」
「えっ?」
「これまで順調に登れたが、ここからは岩肌が出始めているし、正直足だけじゃ何日も使ってしまうだろう。疲れるだろうし……俺が岩を登って、安全な場所であるか確認したら、縄を下ろして、お前に登ってもらう。できるか?」
マイトからのいきなりの提案に、キトリは少しだけどぎまぎした。確かにマイトの言う通りで、ここからは足を頼りにして登山するよりも、腕を頼りにして登った方が効率が良いだろう。キトリは決心し、慣れない手つきでマイトの腰に縄を巻きつける。異性の肉体に慣れていない少女特有の、まどろっこしい手さばき。少しくすぐったかったからか、マイトは少し脱力していた。
持ってきたすべての縄が、マイトの腰にある。力を取り戻し、いつもの調子に戻ったマイトは、すぐに岩を登り始めた。彼のしっかりとした手のひらは、わずかな岩肌をも掴み、着実に登り詰めている。それに続き、負けじと鍛えられた腕が、筋肉を震わせて主の肉体を引っ張り上げる。キトリが息を五回吸い、四回吐いたところで、マイトは登り終えていた。彼は登り終えてから、どこか安全な平地を探し始めた。キトリも登らせる以上、ある程度の広さがないと最悪、共々転落死するからだ。
しばらくして、マイトが縄を下ろし始めた。キトリの接地面につくかつかないかと言う、絶妙な長さの縄は、キトリの面前に現れていた。これまでの彼女であれば、触る前に『もう登って大丈夫?』だとか、『いいんですか?』と訊ねるところだが、今のキトリは違う。マイトと言葉を交わしたから。村の中では一番、キトリがマイトの人柄を知っているから。だから、特に何も言わずに、キトリは信頼しきった気持ちで、慣れない腕を上下させ、縄をゆっくりと登る。
「俺はこの通り大丈夫だけど、キトリはキトリでゆっくり上がってくれればいい。前抱えた時も思ったけど、キトリは軽いから……ぶら下がられているにしても、意外と軽い」
「理由そこなの?」
「あれ……? こう言えば女性は喜ぶって、よく聞かされてたから……」
少しでもキトリの気休めになればいい、と軽い言葉をかけたマイトだが、それがかえってよくなかったらしく、キトリの悩みを増幅させてしまった。この件については、マイトから相応の謝罪を受けたし、キトリも少食を治す決心をしたため、解決したとは書いておこう。
風にあおられながらも、キトリは無事縄を登り終えた。慣れない運動に息を切らして、キトリは近辺の花畑に尻を乗せる。マイトは先ほどまで使っていた縄を、もう一度使えるようにするために、自身の腰へ巻き付けている。両者に会話はなかった。
ひとしきりの沈黙の後、キトリの体力が回復したと同時に、またマイトは岩を探して、登ろうとし始めた。キトリはマイトの後ろを進んでいる。いざ自分が登るときに、遠くにいるせいで声が聞こえなかったり、すぐに登れなくなるからだ。
マイトは岩に触れ、何かに気づいた。
「キトリ! 俺が『登っていい』と言うまで登るな! 岩の上に、闇夜獣がいる……!」
「どうしてこんな時間に……? どう考えても、今は彼らが動くような時間じゃないのに?」
「噴火が近いからじゃないか? ともかく、キトリはもう少し下がってくれ。奴を引き摺り下ろすから」
キトリは素直に、マイトの側から離れ、近くの岩にすがるようにして息を潜めた。その様子を聞いたマイトは、心の中で『いい子だ』と賛辞を述べ、戦闘準備に入る。とは言っても、マイトが取り出した武器は……あの大剣。対ナヤリフス用の、例の大剣である。
マイトが剣を構え、来るであろう獣を突き刺す算段をしている。闇夜獣を誘き寄せる手段はいくつもある。弱そうな生き物を囮として使う、干し肉のにおいで釣る、はたまた餌の鳴き声や、女性の泣き声で釣って、殺すもしくは退かせるか。マイトとしては、予行訓練もしたいところであるし、キトリを安全に登らせるべく、危険性はあらかじめ排除しておきたい。だから、彼は戦う。守るべき何かがある人間は、強くなる。
マイトは干し肉を取り出し、自分の口に咥えた。唾液と反応して、肉食主義の生物が好みそうな匂いを出していた。一瞬、気がぐらつきそうになるマイトだが、すんでのところで抑え、干し肉を遥か彼方へ投げ、ついでに煽った。闇夜獣は岩の上から威嚇していた。
「来るなら来い、この毛まみれが! お前なんて後世で、いいとこの人間達に毛皮として利用されるんだぞ!」
干し肉のにおいにつられて、闇夜獣は飛び降りて、マイトと同じ高度に立つ。獣が飛び降りる瞬間に、マイトは大剣を手に取り、『いつでも斬れる』という風格をかもし出した。その気配を知ってか、闇夜獣は振り向き、マイト……ではなく、マイトの後ろにいるキトリを狙おうとしている。キトリはより一層、息を潜めて、小さくちいさく息を吸う。心臓が早鐘を鳴らし、本能的に危険であると叫んでいる。そんな中、闇夜獣は少しばかり転びながら、石を蹴落としながらも蛇行し、キトリを襲おうとした。
「させるか!」
大剣の間合いに闇夜獣が入るとき、マイトは大剣を振り下ろしていた。それは運良く闇夜獣の脇腹に命中し、当たったそこは血を放出し始めた。ついでに、少しばかりの臓器もこぼす。その痛みに若干闇夜獣がすくむが、いまだにキトリを狙って歩いている。大剣の振り下ろしでは間に合わない、と考えたマイトは、大剣を槍のように持って、闇夜獣へ突進した。
その行動の結果は、血液が表していた。無論、キトリやマイトではなく、闇夜獣の血液である。山に無謀にも、入ってきた人間を仕留める闇夜獣は。今や、わずかに動く筋肉を震わせ、無理矢理にでも歴史の中へ、自分が生きていた証拠を埋め込もうと足掻いていた。しかし、もはや虫の息。ちょっとした遺言を刻む気力もとうに失せ、気血はすべて、マイトの大剣の中へ吸い出された。
それでもマイトは、大剣の柄をぐるぐる回して、闇夜獣の亡骸を執拗に痛めつけている……キトリは闇夜獣を『かわいそうだなあ』と思って、そっとマイトに口出しした。
「ねえ、もう痛めつける必要はないでしょ……? その子、もう死んでるのに……」
「生まれてからしばらく、母親の乳で育つ生物がいるだろう? ちょうど、人間や闇夜獣がそれに値するんだが……そういう生物はたいてい、腹の中に血液を溜めて、子どもに与える寝具にしている。人間だと外に放り出されるからわかりやすいんだが、こういう四足歩行の生物は、溜まっているかどうか分かりづらいんだ」
「それが『せいり』なの?」
マイトの解説に、キトリが問いかけたところ、マイトは閉口した。まるで『言わなくてもわかるだろ』と言わんばかりに。キトリは彼の様子と、かつてナヤリフスに血を取られるほんの少し前に、言われた内容を重ね合わせた。
マイトは『生理のある生物の血を吸い取り、剣に貯める』と言う。
ナヤリフスは『血が出ていなければ、彼らはキトリを受け入れるだろう』と言っていた。また、ナヤリフスはこれまで何度も、キトリに対して『生理は来ていないのか』を執拗に聞いてきた。ナヤリフス側だけの証言を元にすると、『山に生理中の女性が入り込むと嫌』と言う話になってくるし、もしくは『生理が来ないほど栄養が不足している女性が入り込むのも嫌』ともなる。つまり、そういう身が重い時期、身が重くなる余裕のない人間に入られると嫌、と言う話である。キトリは少しだけ、マイトから神話の真相について又聞きしていた。頂上にいる少女の生理に合わせて火山が噴火を起こしている、と言う内容だった。
山の神は一般的に、生理中の女性を嫌がる。理由としてはナヤリフスの証言と同様で、『大事な時期なんだから家でじっとしててね』、である。これはキトリの推測ではあるが……ナヤリフスが山の神である前提で、彼は生理のある女性を使うと噴火されるので嫌なのでは、と。そしてマイト側としては、そんなナヤリフスの嫌がる女性もしくは雌の血液を使って、倒そうとしているのではないか、と。なぜナヤリフスが母親面してマイトに接触し、独り占めしようとしているかについては……キトリはそこで、考えないようにした。そしてこれまでの思考の中から、マイトが最も求めているであろう回答を割り出し、キトリは答えた。
「マイト、もし足りなかったら、私の分、使っていいからね」
「……ありがとう、キトリ。その必要がないように、できるだけ頑張るからな」
マイトは少しだけ、照れ臭そうにしていた。その理由も、『キトリがついてきてくれれば、血を貯めきれなかったとしても、最終手段として使える』、そのために連れてきたような話である。マイトとしては、キトリを犠牲にしてまで目的を果たしたくないと思っている。それに、今のキトリは誰よりも、マイトを理解し、気遣える人間だ。だから、彼にとっては本当の最終手段である。
闇夜獣の血抜きが終わり、またマイトは岩を登って、キトリを縄で引き上げる。繰り返せばあっと言う間に、八合目を通り過ぎてしまった。先人が誰も思い付かなかったわけではなく、闇夜獣に殺されてきたのだろう。岩場を避けて登れば、かなりの体力を消耗し、日数もかなりかかる……体力を消費し切った人間は、判断を失う。山を降りる体力だけを残した人間に、正常な判断などできない。だからこそ、頂上の少女はきょうも生きている……判断力をなくした結果、正常な精神を侵され、いるはずのない少女の影を、声を聞いた可能性もあるが。
ところで高山、それも森林限界以上の高度の山に差し掛かると、これまでの高い木々の波は鳴りを潜め、木の出る枠を花々が埋め尽くす。そこらへんの花々を摘み取って、一時の暖を取れるだろうし、やろうと思えば一時的な住居もこしらえられるだろうが、キトリ達にはその気はない。方法論が無茶だとか、量の不安ではない。神話との関連性から、山の生命に不必要に手を出したくないのだ。
もしすべて本当であれば、この山の一帯は、ラヴァラサ村は、たった一人の少女の永劫にもなるだろう苦しみに生かされている。
キトリは呟いた。
「私は、今の山のあり方が、村のあり方が不正解だって言うつもりはない。でも、少数が生きるために大多数を殺める世界も、大多数が生きるために少数が殺される世界も、おかしいと思うの」
「キトリなら、どうするつもりでいる?」
マイトの問いかけに、キトリは凛とした、迷いのない声で答えた。
「私だったら、この残された時間で。『誰も犠牲にならない、なる必要のない世界』にする。もしくは、その手助けをする。この世界から利益を受け取る誰かが、いなくなったとしても……」
それは、理想論に最も近い答えだった。
人間は生きる限り、自身の利益を求める。まるでそれが、生きる価値であるとでも主張するように。キトリの考えは、それを否定し、もしできないのであれば人間を滅ぼすしかない、と言う、かなりの危険思想であった。しかしマイトは、『一緒に登る相手がキトリでよかった』とさえ、考えてしまった━━彼女の考えは、今の彼の考えと同じだったから。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
あなたは私の嫁になる シュルストラヴィクの娘たち
仁川路朱鳥
ファンタジー
かつて分断されし民は、今となって兄弟となった。しかしてその仲に愛というものはなく、利用と、利用されるばかりの。そうであったからこそに、誰もが旗を翻し、利用される側から脱しようと苦心していた。
遠き日々、近き明日。我語りし、赤き御星の物語---
その土地には生贄の風習があったとされる。実際には、それは捏造されたものであった。
如何に捏造であろうとも、積み重なった命たちは、失われたことに変わりはない。
積み重なった命の積層を、忘れないためにも。
(地球とは別の環境が舞台となっているため、主となる感覚が人間とは多少異なります。そのため「視覚」に関する表現が「聴覚」などに置き換えられていますことをご了承ください。)
この作品は「小説家になろう」で連載しておりました。
デジタル・リボルト~ディストピアからへの英雄譚~
あかつきp dash
ファンタジー
西暦何年ともおぼつかない未来、AIの進化により大半の仕事が代行され、人類は大いなる余暇を手にすることになった。一方で東京から子供たちによって大人たちは追い出される。
それから10年。片岡里奈は、12歳になるとプレイ資格が与えられるARゲーム「東京迷宮」に参加する。しかし、18歳の誕生日と同時にプレイ資格を剥奪されるという制約があった。東京23区がダンジョンに変貌し、子供たちは魔物と戦いながら生きていく。
失意の中にあった里奈はひょんなことから古輪久遠と出会う。それは新たな世界の開花であった。彼女は仲間たちと東方旅団というクランを立ちあげて大きく変貌した東京の街を生き抜くために模索をはじめた。
※あらすじはチャットGPTで作ったものを変更しています。
※更新日について
月~金曜日の朝6:00に更新します。土日の更新はお休みとします。
※いまのところ無期限で連日投稿とします。
※更新日について
月~金曜日の朝6:00に更新します。土日の更新はお休みとします。
※いまのところ無期限で連日投稿とします。
※小説家になろうにても連載中です。
【完結】ガラクタゴミしか召喚出来ないへっぽこ聖女、ゴミを糧にする大精霊達とのんびりスローライフを送る〜追放した王族なんて知らんぷりです!〜
櫛田こころ
ファンタジー
お前なんか、ガラクタ当然だ。
はじめの頃は……依頼者の望み通りのものを召喚出来た、召喚魔法を得意とする聖女・ミラジェーンは……ついに王族から追放を命じられた。
役立たずの聖女の代わりなど、いくらでもいると。
ミラジェーンの召喚魔法では、いつからか依頼の品どころか本当にガラクタもだが『ゴミ』しか召喚出来なくなってしまった。
なので、大人しく城から立ち去る時に……一匹の精霊と出会った。餌を与えようにも、相変わらずゴミしか召喚出来ずに泣いてしまうと……その精霊は、なんとゴミを『食べて』しまった。
美味しい美味しいと絶賛してくれた精霊は……ただの精霊ではなく、精霊王に次ぐ強力な大精霊だとわかり。ミラジェーンを精霊の里に来て欲しいと頼んできたのだ。
追放された聖女の召喚魔法は、実は精霊達には美味しい美味しいご飯だとわかり、のんびり楽しく過ごしていくスローライフストーリーを目指します!!
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?
闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。
しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。
幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。
お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。
しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。
『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』
さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。
〈念の為〉
稚拙→ちせつ
愚父→ぐふ
⚠︎注意⚠︎
不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる