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第一章 出会いと愛情

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 三年前。エルダの母、エミリアは、突然この世を去った。父親は、エルダが生まれる前に亡くなっており、エミリアは女で一つでエルダを育てていた。毎日、働いて、働いて、それが良くなかったのだろうと、医者は言った。周りの人間は、母親を失った年頃の娘に情けの言葉をかけたが、手を貸してくれることなどはなかった。栄えている国とはいえ、皆、自分の生活で程いっぱいなのだ。
 一人で生きていくしかない。
 悲しむ時間も早々にしなければならない。だが、心が動いてくれなかった。どんなに歯を食いしばって、奮い立たせようとも、無理だった。
このまま、どこかに消えてしまいそうだった。
 一人は怖い。
 一人は辛い。
 一人は寂しい。
 枯れてしまうほど泣いて、涙なんてもう出ないほどに心が止まってしまった。
 そんな時、エルダは店長に出会ったのだ。

 荷物をまとめ終え、広くなった部屋を見渡す。
 (今日でここともお別れか……)
 長かったような、短かったような全ての時間を、つい昨日のことのように感じる。
 三年間お世話になった部屋に、頭を下げると部屋を後にした。
 空は雲ひとつない青天。手すりを掴みながら階段を下りていると、ふと足を止めた。十メートルにも満たない高さから、生まれ育った街を見下ろしてみる。いつもと何も変わらないここから見える町の景色を、目に焼き付けたくなったのだ。
 そうして、一度、大きく息を吸い込むと、階段を下りた。
「ああ、エルダ」
 ベルが鳴ったと同時に店長が振り向く。荷物を持ったエルダを見て、誇らしげに微笑んだかと思うと、寂しげに目を細めた。
「行くんだね」
「……はい」
「まさか、アルバート様だったなんてね。今でも驚きだよ」
「私も今だに信じられません。アルくん……じゃなくて、アルバート様が王子様だったなんて。それに、私に王宮に来てほしいだなんて」
 数日前、再び店を訪れたアルバートは、エルダに、専属のフローリストとして、王宮で働いてくれないかと言った。しかも、王宮に住み込みで、その上、お給料も今の比にならないくらいの額がもらえた。
 想像の中で描くことしか出来なかった憧れの場所で、大好きな花の仕事を出来ることは嬉しかったが、自分のような庶民が、王宮の中で上手くやっていけるのかと不安もある。何より、一番は、恩人である店長を裏切るようなことはしたくなかった。
 返事は急がない。だから、ゆっくり考えてほしいとアルバートは言った。
「でも、店長が私の背中を押してくれたんです」
 行ってくるといい。そう、店長はエルダに言った。
 目頭が熱くなる。涙を浮かべるエルダに、店長は優しく微笑んだ。
「何も永遠の別れじゃないんだ。ただ少し、会えなくなるだけ」
 エルダを慰めるように、柔らかで、安心出来る声で言う店長。
「君がいなくなってしまうのは、寂しいよ。でもね、きっとこれは良い事だと思うんだ。僕は君の巣立ちを祝福するよ」
「店長……」
「大丈夫。僕はずっとここにいるから、迷ったり悩んだりしたら、またいつでもここに帰っておいで」
(あの時、一人になってしまった私に、一人では抱えきれないほどの傷を負ってしまった私に、手を差し伸べてくれた店長がいたから、私はここにいる)
「店長。本当に、ありがとうございます」
 どれだけ感謝を伝えても、きっと伝えきれないから。だからせめて、王宮で立派に働いてみせる。それが、一番の恩返しだ。
 店長は時計を見ると、「もう時間」だと言い、エルダを急かす。
 そういえば、さっきから外が騒がしい。
 王宮へは、アルバートの従者が馬車で迎えに来てくれることになっている。もしかしてと思い、店長と外へ出ると、店の前には絵本でしか見たことのないような白馬の馬に引かれた馬車があった。
 こんなのは、童話に登場する王子やプリンセスが乗るものなのに、まさか自分が乗る日が来るなんてと思う。
 真っ白な服に身を包んだ、銀髪の品のある若い男性に綺麗なお辞儀をされる。
「お待ちしておりました。お荷物は私が、どうぞこちらに」
 そう言い、ニコリともせずに、エルダを馬車に招き入れようとする。周りの視線を感じながらも、銀髪の従者にに荷物を預け、エスコートされるように、エルダは馬車に乗り込んだ。
 腰を下ろすと、今まで感じたことのない上質な触れ心地がした。ドアが閉まると、窓から笑顔でエルダに手を振る店長が見えた。銀髪の従者が斜め向かい側に座り、天井を二回ノックするように叩くと、馬車は動き出した。
 店長はどんどん遠ざかっていく。
(お礼は、もう言った。言ったけど……)
「どうかされましたか?」
「っ……」
 銀髪の従者の声に応えることなく、エルダは立ち上がった。
 窓を開け、顔を出して叫んだ。
「店長ーー……!!」
「危ないのでお座りになって下さい」
 背中に添えられた手を無視して、エルダは言葉を続けた。
「大好きです! 私、また必ず、帰って来ますから、だから……どうかお元気でいて下さい……!!」
 店長は少し照れたように人差し指で頬を掻くと、大きく笑った。
 朝日は、エルダを祝福するかのように、神々しかった。

 怒っているのだろうか。
 馬車が走り始めて、それなりに時間が経ったが、銀髪の従者は何も話さない。表情も、迎えられた時と同じ、無表情のままだ。
 さっきまでは、店長と離れる寂しさから感じていなかったが、急に波のように緊張が押し寄せてきた。
 馬車から身を乗り出したくらいと、エルダは思うが、王宮従者の人からしたら、そんなことくらいではないのだろうか。庶民とも、年頃のレディーがはしたない真似をした。これから王宮に仕える身ならもっと品良くいて下さいと無言の圧が言っているようだった。
 目が合い、ハッとする。
 見すぎてしまった。
 少し長い髪から覗く、深海のように濃い、ブルー色の瞳がエルダを捉える。
 銀髪の従者は、エルダに向き合うように体の角度を変えた。
「申し遅れました。私くし、王宮秘書官をしております。クラウトと申します」
 クラウトは胸の辺りに手を添え、律儀に頭を下げた。
(王宮秘書官って、ものすごい偉いんじゃ……)
「私は、エルダと申しましゅっ」
 緊張と焦りから思い切り噛んだ。
 笑ってくれたらよかったものの、クラウトは少しも表情を変えない。
 さらに緊張が強まる。こんなの息が詰まりそうだ。
 お城まではあとどのくらいだろうと、窓から外を覗くと、やっと王宮の門を通ったところだった。だが、門から王宮までは、まだ随分と距離がある。さすがは王宮。スケールが想像を遥か簡単に超えてくる。
 早く着いてほしいと願いながら、窓の外の景色を眺めていると、鼻でクスッと笑われた気がした。驚いて、クラウトの方を見るも、その表情は変わらず、ただ前を見据えていた。
 聞き違いだろうかと、エルダは、視線を外に戻すと、クラウトが口を開いた。
「エルダさんとお呼びしても?」
「も、もちろんです。……えっと、私はなんとお呼びすれば」
「普通にクラウトでいいですよ」
(名前呼びなんて、出来るわけがないし、そんな風に呼ばせてくれるような人じゃないのは、私でも分かる!)
「で、で、では……! クラウトさんで!」
 少しからかわれているのだろうか。彼なりに罰を与えているのだろうか。
「はい、分かりました」
 そう言ったクラウトの口の端が、ほんの少しだけ上がったように見えたのは、気のせいだろうか。
 そんな風にして、掴み所のないクラウトに翻弄されているうちに、馬車は止まった。
(お、大きい……それに、すごい光ってる)
 憧れ続けた王宮を目の前に圧倒され、開いた口が塞がらなかった。
「こちらです」
「あっ……は、はいっ……!」
 クラウトの背中を追うように、王宮に入ろうとした時だった__。
 爽やかで、温かな風が、頬を優しく撫でた。
 内秘めくような心地良い音に感化され、後ろを向くと、色鮮やかな、美しい庭園が広がっていた。
(わあ……!)
 中心には、噴水もあり、空に向かって七色の虹ができていた。その壮大な自然の豊かさに、エルダは瞳をビー玉のように輝かせた。
 風が頬をすり寄せるように張り付く。まるで、誰かに頬を寄せられているかのような感覚だ。
「……」
 自分を呼ぶクラウトの声に、エルダは庭園に背を向け、後に続いた。両サイドには、武装した騎士達が、後ろで腕を組み、背筋を伸ばして立っていた。 
 王宮内の天井は、空についてしまうのかと思わせるくらい高く、窓のない開放的なエントランス空間は、豊かな土地を耕す、レディート国の象徴そのものだった。
 真っ白な螺旋階段を上がり、二階に上がろうとしていた時だった。
「エルダ!」
 顔を上げると、アルバートが階段の手すりから身を乗り出し、こちらに大きく手を振っていた。
「アルくん!」
 思わずそう呼んでしまうと、クラウトの鋭い視線を感じ、慌てて言い直す。
「じゃ、じゃなくて、アルバート様……!」
(もうアルくんではなく、アルバート様なんだから気をつけないと)
 階段を上がると、礼儀正しく、両手でスカートの裾を持ち上げて、アルバートにお辞儀をする。アルバートはニコッと、笑ってくれた。少しだけほっとする。
「アルバート様、今は公務中のはずでは?」
 すかさずといった様子で、クラウトが問う。
「うん、そうだけど、そろそろエルダが来る頃かと思って、休憩がてら来ちゃった!」
 悪びれた様子もない、純粋に笑うアルバート。
(すごく嬉しいことだけど、それは流石にまずのでは……)
 エルダが内心焦っていると、隣のクラウトが深いため息をつき、その様子にやっぱりと思う。
「あなたは次代の王なのですよ。もっと自覚と責任を……って……!」
 そんなクラウト話を遮るように、アルバートはエルダの腕を掴み歩き出す。
「こっち! エルダに見せたいものがあるの!」
「え、ちょ、待ってください……!」
 引かれるがまま、エルダはアルバートによって、廊下を進む。後ろからは、またもクラウトの深いため息が聞こえてきた。顔だけ後ろに向けると、眉間に皺を寄せたクラウトが、エルダ達を見ていた。
「あのままでよろしいのですか?」
「いいの。クーは少し厳しすぎるんだよ。どうせエルダにも厳しめな態度とってたんでしょ?」
 確かに、クラウトの無言の圧で、初めての馬車と王宮までの道のりを楽しめたかと言われると、微妙になるが。
「でも、公務中なのでは?」
「それもいーの!」
 腕を離されたかと思うと、手を握られる。あの日と逆に、手を引かれて早歩きで歩かせられる。
(来て早々、みなさんに何のご挨拶もなく、王宮を彷徨いてしまって、いいのかな。アルバート様にも、色々と聞きたいことがあるし)
 廊下を進むアルバートの足が止まり、エルダも足を止める。
「目を瞑って」と言われ、エルダは言われた通りに目を瞑る。そして、両手を引かれ歩き始める。
(一体、この先に何があるんだろう)
 歩き続けると、だんだんと、心を綻ばせるような香りが漂ってきた。
(甘い……繊細な……ううん。高貴な。色んな香りが鼻の奥をくすぶる)
 角を曲がって少ししたところで、アルバートは再び足を止めた。
「いいよ」
 そう言われ、ゆっくりと目を開くと、目の前に広がった世界に、息を呑んだ。
「……すごい……」
 ガラス張りになった一室には、爽快な空のような、小さな水色の花や、赤、黄色、ピンク、オレンジと、丸く膨らんだ花が思いやり溢れる、優しげな姿で咲いていた。奥には、太く大きい樹木に、紫色の甘い香りがする花が、樹木に頼るように身を預けていた。
 他にも、レディートの四季を感じさせる花々が数多く咲いていた。
 可憐な花の姿に、エルダは心を奪われた。
 降り注ぐようにして、入り込む、細かな光につられ上を見ると、ステンドガラスで出来天井があった。外からの光を受けて、ステンドガラスは、繊細な光を放っている。高技術を用いた職人がこだわりを持ち、作っているステンドガラスだからこそ、この神秘な光を生み出しているのだろう。
 ステンドガラスに光が花たちを照らし、静かに、温かな空間を作り出していた。
「これは、室内庭園というものでしょうか?」
「そう、気に入ってくれた?」
「……とっても……」
 言葉にすることが出来ないというのは、こういうことを言うのだろう。
 エルダは、ゆっくりと足を進めた。
(まるで、夢の世界のよう。こんな世界なら醒めてほしくない)
 花屋にいる時も、色んな花に囲まれてきたから、大体の花は見てきている。ここにある花たちも、決して見たことがない花というわけではない。それも、レディート国は国自体が、この自然を遺産のように大切にしているらだ。だから、豊富な種類と確かな品質なある丈夫な花が育っている。
「エルダにお願いがあるって言ったでしょ」
「はい。それは一体、何なのか、ずっとお聞きしたかったのです」
「あそこ、見える?」
 アルバート指差したのは、庭園の真ん中に位置する、四本の柱と藤色のガラスの屋根を四方にふきおろした、壁のない東屋だった。
 それはまるで、誰かの隠れ家のように、ひっそりとそこに佇んでいた。それは一見してみると、美しい姿をしているがどことなく、
「……寂しい」
「えっ」
「あっ……」
 思わず出てしまった言葉に、急いで口を塞ぐ。
(私ってば、出過ぎた発言を)
 謝ろうとしたが、アルバートに言葉を遮られる。
「うん、そう。寂しいの……だからね、エルダに、あの東屋のテーブルに置く花を生けてほしんだ」
「私がですか?」
「エルダにしか、出来ないと思うんだ」
 アルバートはそう言ったきり、また何かを考え込むように、じっと建物を見ていた。
(あの時と一緒……切な真剣な表情)
 どう言う意味なのか、聞きたい気持ちをぐっと堪え、エルダはその横顔を見つめた。
 そのあとは、アルバートに付いて王宮内を見て回り、業務内容の説明を受け、外の庭園を管理する庭師のセインさんと挨拶を交わした。
 エルダの業務内容は、簡単に言うと、基本的には、舞踏会や定期的に開催されるという夜会や、ガーデンパーティーなどで飾る花を生けることと、あの室内庭園で咲く花たちの管理してほしいとのこと。あとは、手が足りなくなった時に、セインの手伝いをする。
 勤めていた花屋では、お客さん相手に花を売る仕事をしていたが、ここでは、階級の高い貴族、それに、王族を相手に見せることが主な仕事になる。それは今まで以上に厳しい業務になる。気を引き締めなければいけない。
 そうして、最後に自分の部屋に案内された。
 可愛らしい、薄いピンク色で可愛らしく統一され、窓辺からは、あの庭園が見えた。こんな部屋、一使用人である自分には、豪華すぎる気がした。
「本当に、ここを使ってよろしいのですか? 私ごときにそこまでしていただかなくとも」
「なに言ってるの! エルダをここに来させたんだから、これくらい来てくれたプレゼントだと思って受け取ってよ」
(ここで働かせてもらうだけで、私にとって贅沢なことなのに、これ以上貰ってしまうなんて、本当に贅沢すぎる)
「そう言われましても」
「いいから使って! じゃないと、僕がしたこと無意味になっちゃうよ?」
「そう言われると、何も言えませんよ」
「ふふっ、じゃあ、使ってね」
 荷物はすでに、クラウトによって、運び込まれていた。
(あとでお礼を言わないと)
「じゃあ、僕は公務があるから、これで」
「アルバート様……!」
 背を向け、扉に向かって歩き出すアルバートを呼び止める。
「今日は、本当にありがとうございました。私、明日から頑張りますね!」
 エルダがそう言うと、アルバートは嬉しそうに笑った。リースが完成したあの日と同じ笑顔だ。
「うん。お願いします。それと、一つお願いなんだけど」
「何でしょうか?」
「僕のことは今まで通り、アルくんって呼んでくれない?」
「ですが……」
(アルバート様は、王子様。それに、クラウトさんのあの鋭い視線が怖い……)
「エルダくらいは、僕と気軽に接してほしいんだ」
(あっ……そうだ)
 ここに来る途中、王宮勤めの人達とすれ違ったが、みなアルバートがの姿を見ると、深々と頭を下げ、彼が自分の前を通り過ぎるまで、頭を上げなかった。王の息子であり、次代の王であるアルバートに対しては当然の接し方。だが、アルバート本人は、それを望んでいるわけではないのかもしれない。
「分かりました」
 エルダの返答に、アルバートの頬は一気に上がった。
「ありがとう!」
「ですが、クラウトさんや、他の王宮の皆さんの前では、様付けでお願いしますね」
(流石に無理があるから)
 アルバートが部屋を出て行って、一人きりになり、荷物の整理を始める。 トランクから洋服を取り出し、タンスに入れいく。ベッドの脇のサイドテーブルには、母親であるエミリアと、十五歳のバースデイに撮った写真を置く。
 朝夜と、この写真に挨拶をするのがエルダの日課なのだ。
「お母さん。今日、王宮に来たよ」
(私が王宮に来る日が来るなんて、予想してなかっただろうに) 
 写真の母は、生前の姿のように大口を開けて笑っていた。
(お母さんの笑顔は世界一だから、見ると元気になれる)
 人の笑い声が聞こえて、窓辺に行くと、すぐ下で、数人の騎士達が和気藹々と談笑をしていた。壁にかけられた時計の針は、十二時を示していった。きっとお昼休憩なのだろう。
(おつかれさまです)
 っと、心の中で労いの言葉をかけ、窓から離れようとした時だった。
 突然、騎士達の空気がガラリと変わったのだ。
 玄関の方に向かって敬礼をしている。そこに誰かいるのだろうか。エルダの位置からは、騎士達の視線の先は見えなかったが、何かに怯えるように背筋を伸ばし、誰一人、微動だにしていなかった。その異様なまでの雰囲気の変わりように、普通ならば少しは恐怖心というものを感じるはずなのに、エルダは、なぜかそこに惹きつけらた。
 窓に顔を寄せ、なんとか見えないかと思ったが、やはり見ることは出来なかった。
 一体、そこに何があるのだろうか。
 騎士達は一礼すると、足早にいなくなってしまった。
(……なんだったんだろ)
 結局、何があったのか分からなかった。
 小さくため息を吐くと、諦めて荷物の整理に戻ることにした。

♧♧♧

 次の日、エルダはクラウトに呼び出されていた。
 一体、何を言われるのだろうか。いくつか思いあたらないこともないが。
 長いと思っていた廊下を歩いていたはずが、すぐにクラウトのいる秘書室が見えてしまった。呼吸をし、気持ちを落ち着かせると、秘書室のドアをノックする。すぐに「はい」っと、風鈴のような凛とした声が聞こえた。
「失礼します」
 ドアノブを回し中に入ると、椅子に腰下ろし、手元の書類のようなものに、視線を落とすクラウトがいた。部屋の中にある本棚はびっしりと埋め尽くされ、整理整頓がきちんとされた室内は、クラウトの人格をよく表していた。
 パッと見た感じだが、どれも異国の本ばかりだった。王宮秘書官となれば、当たり前に多言語も取得しているのだろうか。
 エルダを一瞥したクラウトは、ソファーに腰掛けるように促した。
 高級なソファーに腰を下ろすっと、ゆっくりと体が沈んでいく。
(聞かなくても分かる。このソファーはゼロの桁が多い)
 美しい朝日が窓から入り込み、クラウトの銀色の髪を照らす。星屑のように美しい光景に思わず見惚れてしまいそうになっていると、クラウトが椅子から腰を上げた。
「朝からお呼びしてしまい、申し訳ありません」
 そう言いながら、クラウトはエルダの正面に腰を下ろす。
「いえ」
 深海の瞳が、貫くように自分の瞳に向けられ、背筋が伸びた気がした。
「お呼びしたのは、他でもないあなたの仕事についてです」
「仕事ですか?」
「ええ、アルバート様から業務内容についてはお聞きしたと思います」
「はい。役割はきちんと理解しています。アルバート様から頂いたお仕事、責任を持ってやり遂げます」
「そうでなくては困ります」
 分かってはいたが、厳しい言葉だ。
「私がお伝えしたいのは、雇用主についてです」
 クラウトは一枚の紙をテーブルの上に置いた。それは昨日、王宮で働くためにエルダがサインした契約書だった。
 アルバートが持っているはずだったが、どうやら、クラウトの手に渡ってしまったようだ。
「契約上、あなたの雇用主はアルバート様ということになっています。ですが、アルバート様は公務と勉学に加え、剣術の訓練にと、非常にお忙しい方です。故に、あなたの面倒など見る暇はありません」
(言い方に少し棘を感じるけど、悪気はないよね……?)
「つまり、私があなたの雇用主となります」
「えっ、クラウトさんがですか……?」
「ええ。何か不満でも?」
「不満というか……」
(不安、だよ……)
 クラウトの深いため息が、部屋の中に重く広がる。
「まったく、あの方も勝手です。急に新しい使用人を雇うだの、部屋を用意しろだの。一体、あなたに何を期待しているのか」
 理解しかねると、クラウトは首を横に振った。
(確かに、どうして私だったのか、それは気にならなくもない。自分よりも才能があるものはいくらでもいるから)
 アルバーは王子だ。その持ち寄る力を使えば、一流のフローリストを探せたはず。
(数ある人の中で、私を選んでくれたのは、一体……)
「とにかく、こちらの書類にサインをお願いします。していただければ、正式に私があなたの雇主となります」
 そう言われ、新しい契約書とペンがテーブルに置かれる。手に取ると、その紙がとても重く思えた。
「あの、一つお聞きしてもよろしいですか?」
「なんでしょう」
「これにサインすることで、アルバート様とお会いできなくなるということはありませんか?」
「……は?」
 クラウトは驚くように目を見開くと、怪訝そうな顔をした。
「もしそうだとしても、あなたになんのデメリットがあるというのですか?」
 胸の奥がチクリと痛んだ。
「……嫌だから。アルバート様に会えなくなるのは、嫌だからですよ」
(まだ、アルくんのことを何も知らない。知っていることがあるとすれば、笑った顔が可愛くて、無邪気で、そして、助けたい誰かがいる。どういうわけか、私はアルくんを、その方を救わなければならない気がする)
「だからもしも、この契約書にサインして、アルバート様にお会いできないであれば、私は、サインしません」
 意志の強さを表すエルダの瞳を、クラウトは見定めるようにじっと見ていた。
 一体こいつは何を言っているのか。そう思っているようにも捉えられた。
 エルダはクラウトから目を逸らさなかった。自分の本気を、クラウトに知ってもらう必要があった。
 沈黙を破ったのは、クラウトの深いため息だった。
「見かけによらず、頑固な方なのですね」
 そう言うと、クラウトは腰を上げ、エルダが持っていた契約書を取り上げた。
「えっ……!」
 契約書を破り捨てるクラウト。
「あなたの言う通り、この契約書にサインしたことで、アルバート様との接点をなくそうと思いました」
「……なぜですか?」
「なぜでしょうね」
 背もたれに背を預け、深く腰を掛け直すクラウト。
「そうしなければ、この静寂が壊れてしまいそうな気がするのです」
(静寂……? 私がここに来たことで、何かが起こるとでも言っているみたい)
 クラウトの言っていることは、エルダには分からなかった。だが、そう言っている瞳が、何か考え込むようなアルバートの瞳と重なっているように見えた。
「さ、話は終わりです。仕事に取り掛かって下さい」
 パンパンッと手を叩かれ、部屋を出ることを促される。
 何かもやもやした気持ちは残るが、とりあえず一件落着。ということなのだろうか。
秘書室を後にしてから、エルダは外の庭園を訪れ、セインと共に、室内庭園のテーブルに飾る、生花の花材を選んでいた。
 セインは、王宮でただ一人の庭師で、十代の頃から王宮に勤めているという。一人でなんて、この膨大な庭を扱うのは非常に難易なことだ。
「大変ですよね」と、エルダが言うと、セインは「花好きの人嫌いなお方がいるもので」と、セおかしそうに笑って言っていた。
 セインのどことなく醸し出す雰囲気が、店長に似ていて、エルダはすぐにセインと打ち解けられた。
 庭園は観葉植物やハーブなども数多く存在するが、外の庭園も室内庭園に負けじと、麗らかな花たちが咲き誇っていた。その中で、一際、洗礼された香りを纏い、気品溢れる輝きを放っていた花、それが薔薇だった。
「この薔薇園は、アルバート様のお祖父様にあたる、先代の国王陛下がお作りになたんだよ」
 バラ園は、外の庭園の中心に位置する場所にあり、庭園のどの場所に行くのでも必ず、この薔薇園を通る作りになっている。

『__薔薇は、愛を象徴する花なんだよ』

 優しく、自分の頭を撫でる母の手の感触が薔薇の香りに誘われ、蘇った。エルダはその手を追うようにして、自分の頭のを撫でた。
「エルダちゃんも、恋、たくさんしなよ」セインはそう言うと、バラの花をエルダに手渡した。
 午後からは選んだ花を生けるため、室内庭園へ。
 東屋のテーブルの上に花材、その隣にスケッチブックを置く。
 昨日の夜、どんな花を生けようか、スケッチブックにいくつかの候補を描き出したのだ。昨日は、庭園にある花の種類を把握していなかったため、あの部屋の雰囲気と自分の好みでスケッチを描き進めていたが、今日、セインに庭園を案内してもらって、イメージがさらに膨れ上がった。
 花を一本持つと、目を閉じる。
 温度。
 匂い。
 音。
 と感覚を研ぎ澄ませる。
 そうして一筋の光がエルダの手に宿る。
 風が背中を押すように、ふうっと吹き抜ける。
「……よし、出来る」
 花を持ったエルダに迷いはなかった。
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