白鬼

藤田 秋

文字の大きさ
上 下
216 / 285
第十八章 勿忘草

18-20 禁忌

しおりを挟む
 鬼は着物の袖を引き、自分の腕を出した。
 月の光に照らされて、白さがより際立っているが、同時にこびり付いた血も浮かび上がっていた。

 空いた方の手の指を腕に沿わせ、流れるような動作で一本の線を引く。肌は鋭い爪に裂かれ、赤い線を滲ませた。
 自分の腕に傷を作った……?

「……っ!!」
 かずまが声にならない叫びを上げた後、暖かい血が僕の顔に降りかかる。
 鬼の動きが捉えられなかった。

 一秒も経っていない。その間に、かずまが宙にぶら下がっていた。
 胸には深々と鬼の腕が刺さっており、背中まで貫通している。

 状況を把握するまで、時間が掛かった。
 串刺しにされた弟は、だらりと腕を下げ、ピクリとも動かない。血がぼたぼたと滴り、僕はそれを浴びている。

 鬼は愉快そうに笑い、かずまを投げ捨てた。

 かずまは人形のように何も反応せず、地面にごろごろと転がって。大きな血だまりがそこに出来た。

 脚に力が入らない。歩くのは諦めて、這いながらかずまに近づいた。

 肩を揺らす。頭がぐらぐらと揺れるだけで、何も答えない。
 見開かれた目は焦点が合ってなくて、光が宿っていなかった。

「かずま……かずま、どうしたの? 返事、して……ねえ……」
 無視された。機嫌が悪いのかな。ごめんね。謝るから……起きてよ……。

「勇敢な片割れに敬意を表して、お前には手を出さないでおくよ」
 鬼は首をコキコキと鳴らし、退屈そうに欠伸をした。

「どうして……どうしてかずまを!」
「睨まないでくれよ。別に、殺すつもりでやったわけじゃあない」
 僕が精一杯の怒鳴ると、鬼は軽く笑って手を振った。

 串刺しだなんて、どう見ても殺すつもりじゃなきゃ出来ない。ふざけるな。

 そう抗議しようとしたが、鬼は自分の唇の前に人差し指を立てた。
 その仕草だけで、言葉は喉の奥に引っ込んでしまう。

「あたしだって、そいつには死んでほしくはないさ。ただ、元々死にかけだったからねぇ……戻って来ないかもしれない」
「……!」

 殺すつもりはない? 死んでほしくない? でも、戻って来ないかもしれない?
 こいつは人の命を何とも思っちゃいない。

「だが、お前さんは奇しくもそいつと魂の絆で繋がれている。もしかしたら、取り戻すことも出来るかもしれんな」
「……え?」
 こいつは何を言っているの? さっきから話が掴めない。

「つまり、そいつの命はお前さん次第ってことさ。残り時間は短いがね」
 鬼はくるりと僕たちに背を向ける。
 夜風に靡く長い白髪は、悔しいけど美しかった。

 暗闇の中に佇む白い鬼は妖しく笑い、溶けるように消えていった。

 ぽつんと僕たちだけが取り残された。あいつは、跡形も無く消えてしまった。
 そこには元々何もなかったんだと錯覚してしまうくらいに。

 夜風が吹いた。ザァザァと木々の枝が揺れ、月は雲に覆われた。
 途端に音が消え、闇に覆われた境内は静まり返る。

 僕はゆっくりと視線を降ろした。前には弟が倒れていて、指一本動かさない。

「……かずま」
 でも、呼び掛けには応えてくれない。手に触れると、指先から冷たくなってきていた。

「起きて」
 嘘だ。ついさっき、『生きたい』って自分で言っていたじゃないか。今、冷たくなってる場合じゃないでしょ?

「何か言ってよ……」
 かずまの手を両手で覆い、ぎゅっと握る。反応は無い。そして冷たい。元から体温は低かったけれど、こんなに冷たいのは初めてだ。

「ねぇ……」
 口数が少なくて、自分の意思も殆ど表さない。
 そんなかずまが、珍しく……そう、初めて言った我儘。『生きたい』——その言葉がどれだけ嬉しかったか、どれだけ悲しかったか。

 思えば、僕たちは生まれた時から不平等だった。

 僕が元気に外を走り回っているとき、かずまはいつも布団で横になっていた。
 自由な僕のことについて、自分の境遇について、かずまは一言も不満を漏らさなかった。

 こういうものだって、全て受け入れて諦めているように見えた。

 違う。

 かずまは僕に降りかかる筈の不幸を、全て引き受けていたんだ。さっき僕の傷を取っていった時にわかった。

 僕が病気にならないこと、怪我をしても軽く済むこと、その理由は……悪いものが全てかずまに

 僕たちは繋がっていた。考えていることも、抱いている感情も、離れていたってわかる。それだけだと思っていた。

 何でもっと早く気づかなかったんだろう。もしかしたら、かずまを止めることが出来たのかもしれない。

 並んで外の世界に出られたのかもしれない。
 不幸が意図せずに流れて行っていたのだとしても、何か方法があったのかもしれない。

 自分の不幸は自分が引き受けるべきだ。他人に押し付けて良いものじゃない。

 僕が失った不幸。かずまが失った幸福。それは、あるべきところに帰さなきゃいけない。

「かずま」
 もし、奇跡が起こるのならば、僕はそれに縋り付く——。

「今までの幸せを返すから……僕の不幸を返して」
 ドクン。と一回、かずまの胸が鼓動する。
 繋いだ手が蒼く光り、僕たちを包み込んだ。

 地面には僕たちを中心に円形の陣が刻まれ、光を放つ。

「……っ!」
 景色が飛び、全ては白となった。

 ——それが、例え禁忌だとしても。

***

 次の瞬間には、また暗闇の中に居た。
 足元もロクに見えない。ここも肌寒く、土の匂いがする。

「……あ」
 握っていた筈のかずまの手が無い。近くを見回しても、誰もいない。僕一人だ。
 かずまは何処へ行ってしまったんだろう。

 ——ひた……ひた……。

 微かに聞こえる足音と、後方から吹き抜ける風。振り返ると、薄っすらと光が見えた。
 ここはどうやらトンネルのような構造をしてるみたい。

 あっちだ。確証は無いけれど、かといって頼りになる道標もない。ならば、この直感を信じよう。
 僕は光の差す方へ足を進めた。

 ——ひた……ひた……。

 ゆったりとしたペースで聞こえる足音。僕は駆け足で追いかけているのに、なかなか追いつかない。

「待っ」
 足元がよく見えないせいで、時折転びかけてバランスを崩す。でも、なんとか堪え、また走りだした。

 うっすらと人影が見えた。右、左、揺れて揺れて、おぼつかない足取りで進んでいる。
 全身から殆どの力が抜け、歩くためだけに必要最低限の力を割いているように見えた。

 いつ倒れてもおかしくないその足取りは、見ていて不安になる。

「かずま! 待って!」
 アレが誰だかわからない。だけど、かずまだと信じて叫ぶ。
 人影は足を止めず、振り返らない。ただ幽霊のようにぼんやりしているだけだ。

 出口が近くなってきたのか、光ははっきりとしてきた。もうすぐこのトンネルも終わってしまう。

 ここから出る前に連れ戻さなきゃ、手遅れになる気がする。
 ちょっとずつ距離は縮んできてるんだ、まだ、まだ間に合って。早く、早く。

「かずま!」
 再三呼んでも、反応は無い。だけど、ある程度の距離まで近づいたのか、シルエットがはっきりとしてきた。

 やっぱりかずまだ。
 僕と同じ髪色、同じ背丈、僕より細い身体。見間違えるはずがない。

 かずまだと確信したのなら、尚更急がなきゃいけない。僕は疲れかけている身体に鞭を打ち、スピードを上げた。

「かずま!」
 かずまはもう光の終着点の近くまで来ている。
 駄目だ、そこに行っちゃ駄目! もう近いのに、手を伸ばしてもまだ届かない。

 大声を出して名前を呼んでも届かないなら。
 ——かずま!——
 心の中で名前を叫ぶ。意識を集中して、片割れの中に響くように。

 ——僕だよ、珀弥だよ。止まってかずま!——
 足が擦り切れそうになっても、息が苦しくても、僕は弟の名を叫び続ける。

 どうか、届いて。返事をして、かずま……!

 ——ひた……。
 足音が、止まった。ギリギリのところだ。光はすぐ目の前まで迫っていた。

 かずまはその場に立ち尽くし、ボーッとしている。ふらふらとしている姿には生気を感じられない。

 ——かずま! 目を覚まして!——
 あと二十メートル。
 かずまは肩をピクリと動かし、うな垂れた頭を持ち上げた。

 ゆっくりと首を動かし、周りを見渡している。

 ——かずま! 後ろだよ!——
 あと十メートル。
 かずまは身を翻し、こちらに振り向く。ようやく僕に気付いたようで、少し目を見開いた。

「かずま!」
 あと五メートル。僕は手を伸ばす。

「珀弥……」
 かずまも震えながら手を伸ばした。泣きそうになりながらも……笑っていた。

 手と手の距離はあと十センチ。もう届く——!
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

孤独な少年の心を癒した神社のあやかし達

フェア
キャラ文芸
小学校でいじめに遭って不登校になったショウが、中学入学後に両親が交通事故に遭ったことをきっかけに山奥の神社に預けられる。心優しい神主のタカヒロと奇妙奇天烈な妖怪達との交流で少しずつ心の傷を癒やしていく、ハートフルな物語。 *丁寧に描きすぎて、なかなか神社にたどり着いてないです。

神さまのお家 廃神社の神さまと神使になった俺の復興計画

りんくま
キャラ文芸
家に帰ると、自分の部屋が火事で無くなった。身寄りもなく、一人暮らしをしていた木花 佐久夜(このはな さくや) は、大家に突然の退去を言い渡される。 同情した消防士におにぎり二個渡され、当てもなく彷徨っていると、招き猫の面を被った小さな神さまが現れた。 小さな神さまは、廃神社の神様で、名もなく人々に忘れられた存在だった。 衣食住の住だけは保証してくれると言われ、取り敢えず落ちこぼれの神さまの神使となった佐久夜。 受けた御恩?に報いる為、神さまと一緒に、神社復興を目指します。

冥府の花嫁

七夜かなた
キャラ文芸
杷佳(わか)は、鬼子として虐げられていた。それは彼女が赤い髪を持ち、体に痣があるからだ。彼女の母親は室生家当主の娘として生まれたが、二十歳の時に神隠しにあい、一年後発見された時には行方不明の間の記憶を失くし、身籠っていた。それが杷佳だった。そして彼女は杷佳を生んですぐに亡くなった。祖父が生きている間は可愛がられていたが、祖父が亡くなり叔父が当主になったときから、彼女は納屋に押し込められ、使用人扱いされている。 そんな時、彼女に北辰家当主の息子との縁談が持ち上がった。 自分を嫌っている叔父が、良い縁談を持ってくるとは思わなかったが、従うしかなく、破格の結納金で彼女は北辰家に嫁いだ。 しかし婚姻相手の柊椰(とうや)には、ある秘密があった。

鳳凰の舞う後宮

烏龍緑茶
キャラ文芸
後宮で毎年行われる伝統の儀式「鳳凰の舞」。それは、妃たちが舞の技を競い、唯一無二の「鳳凰妃」の称号を勝ち取る華やかな戦い。選ばれた者は帝の寵愛を得るだけでなく、後宮での絶対的な地位を手に入れる。 平民出身ながら舞の才能に恵まれた少女・紗羅は、ある理由から後宮に足を踏み入れる。身分差や陰謀渦巻く中で、自らの力を信じ、厳しい修練に挑む彼女の前に、冷酷な妃たちや想像を超える試練が立ちはだかる。 美と権力が交錯する後宮の中で、紗羅の舞が導く未来とは――?希望と成長、そして愛を描いた、華麗なる成り上がりの物語がいま始まる。

離縁の雨が降りやめば

月ヶ瀬 杏
キャラ文芸
龍の眷属と言われる竜堂家に生まれた葵は、三つのときに美雲神社の一つ目の龍神様の花嫁になった。 これは、龍の眷属である竜堂家が行わなければいけない古くからの習わしで、花嫁が十六で龍神と離縁する。 花嫁が十六歳の誕生日を迎えると、不思議なことに大量の雨が降る。それは龍神が花嫁を現世に戻すために降らせる離縁の雨だと言われていて、雨は三日三晩降り続いたのちに止むのが常だが……。 葵との離縁の雨は降りやまず……。

はじまりはいつもラブオール

フジノシキ
キャラ文芸
ごく平凡な卓球少女だった鈴原柚乃は、ある日カットマンという珍しい守備的な戦術の美しさに魅せられる。 高校で運命的な再会を果たした柚乃は、仲間と共に休部状態だった卓球部を復活させる。 ライバルとの出会いや高校での試合を通じ、柚乃はあの日魅せられた卓球を目指していく。 主人公たちの高校部活動青春ものです。 日常パートは人物たちの掛け合いを中心に、 卓球パートは卓球初心者の方にわかりやすく、経験者の方には戦術などを楽しんでいただけるようにしています。 pixivにも投稿しています。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

処理中です...